『少女の夢は希望を連れて明日へと向かう』~日本初のスポーツ専門中学校創立物語~


 悶々としたまま1週間が過ぎた。その間、『万事休す』という言葉が幾度も頭に浮かんできた。その度に振り払ったが、消え去ることはなかった。わたしは追い詰められていた。
 そんな時、鹿久田から呼び出しがあった。丸岡にも声をかけているという。「用件はその時に話すよ」と言うので聞かなかったが、候補者に関することではないような感じがした。

        *

 あの喫茶店が待ち合わせ場所だった。ドアを開けて中に入ると、丸岡が席についていた。彼も用件は知らないようだった。「なんだろうね」と言いながらコーヒーを飲んでいると、鹿久田が右目を瞑って左手を顔の前に立てながら店に入ってきた。約束の時間を20分過ぎていた。

「遅くなって悪い」

 痛めている靭帯の治療に時間がかかったと言い訳したが、神妙な表情はすぐに普通に戻って、上着のポケットから封筒を取り出した。

「クラシックって興味ある?」

「えっ、クラシック?」

「うん。妹がバイオリンやっててさ、大学の演奏会のチケット買わされちゃったんだよ」

 封筒から取り出したチケットには『都立音楽大学の定期演奏会』と書いてあった。日時は7月7日の夜7時。

「結構レベル高いらしいよ。去年、全国大学音楽祭でグランプリをとっているから」

 でも、その演奏はまだ一度も聴いたことがないと、鹿久田は頭を掻いた。J・POP以外の音楽には興味がないのだという。

「でも、捨てるわけにもいかないし、お前らが嫌じゃなかったら気分転換にどうかなって思って」

 無理にとは言わないけど、というような目でわたしたちを見た。

「どんな曲を演奏するの?」

 しかし、これは愚問だったとすぐに反省した。クラシックに興味のない人が曲名など知っているはずはないのだ。それでも彼は記憶を探るように目を細めて首を傾げて、「妹が言うには、みんなが知っている曲が多いらしいよ。なんて言ってたっけ……、え~っと、え~っと、そうだ、アイネなんとかって言ってたかな」とヒントをくれた。

「アイネ・クライネ・ナハトムジーク?」

「そう、それ。その曲」

 わたしの大好きな曲だったので、モーツァルトが作曲した中でも特に人気のある曲だと教えてあげた。すると、へ~、よく知っているんだな、というような顔でしげしげと見つめられた。それで照れ臭くなったわたしは視線を外して、「わたしは聴きたい。丸岡君はどう?」と彼に振った。丸岡がクラシックに興味があるかどうかはわからなかったが、候補者選びの袋小路(ふくろこうじ)から脱出するためのきっかけになりそうな気がしたので、頷いてくれることを期待したのだ。するとその意図を察してくれたのか、肩をちょっと上げて、断る理由はないというような表情を浮かべてくれた。

「決まりね」

 話を収めた。

        *

秋村(あきむら)色葉(いろは)先生です」

 演奏会終了後、花束を持って楽屋を訪問すると、その場で鹿久田の妹から紹介された。指揮を執っていた女性で、都立音楽大学の教授だった。  

「素晴らしい演奏で感激しました。アンサンブルの素晴らしさに驚きました。でも、ただ調和しているだけでなく、リード楽器はより際立って、本当にメリハリの効いた素晴らしい合奏だなって、聴き惚れてしまいました」

 わたしは自分の感じたままを彼女に伝えたが、彼女はそれを軽く受け流し、いきなり持論のようなものを展開し始めた。

「指揮者の仕事はチームマネジメントなんですよ。チームとして最大の効果を発揮するためにメンバーそれぞれの役割を理解させることが重要なんです。その上で、各自の技術向上を促し、更なる相乗効果に繋げていきます。役割を理解し、技術が向上し、相乗効果が高まると、次は主張です。ソリストとしての表現力を磨くのです」

 急に講義のような話をされたので呆気に取られていると、「先生!」と鹿久田の妹が苦笑いしながら間に入った。

「音楽の話になるといつもこうなんですよ。せっかく演奏を褒めていただいたのに、お礼も言わないで説教するみたいに話すんだから」

 ダメでしょう、というような顔で教授を諭した。すると教授は舌をチラッと出して、ごめんなさいというように顎を引いた。その仕草が可愛かった。可愛くて純粋な女性だなと思った。

 会場を出て3人で駅に向かっている時、演奏も指揮も妹さんのソロも良かったと鹿久田に賛辞を送っていると、「秋村さんって、いいね」と丸岡が口を挟んできた。すると、「うん。チームマネジメントのこと、わかっているよね」と鹿久田が頷いた。

「校長、頼もうか?」

 丸岡がわたしの顔を覗き込んだ。そんなふうな目で彼女を見ていなかったので一瞬声が出なかったが、言われてみればその通りだった。彼女が校長になってくれたら日本一素敵な学校が作れるかもしれなかった。

「うん、いいと思う」

 自分に言い聞かせるように頷くと、一気に光が差し込んできたような気がして足取りが軽くなった。

        *

 アポイントが取れたのは、定期演奏会の1か月後だった。具体的な用件は伝えていなかった。門前払いされる心配があったからだ。

 しかし、満面の笑みを浮かべて迎えてくれた秋村を見て、わたしの不安は霧が晴れるように消えてなくなった。
 でも、拙速(せっそく)を戒めた。夏島に断られている以上、失敗は許されないからだ。定期演奏会の時のことや秋村の指導方針などの話題で盛り上げながら、タイミングを見計らった。

 話がわたしたち3人のことに移った時、今しかないと用件を切り出した。秋村は何も言わずじっと聞いていた。その顔に拒否反応は現れていなかった。手応えを感じた。

 話し終えると、「ありがとう。嬉しいわ。それに、光栄だわ」と静かな声が返ってきた。

「では」

 わたしは前のめりになった。

「でもね」

 秋村の顔から笑みが消えた。

「わたしは適任じゃないわ。スポーツのことはなんにも知らないし、中学生を指導したこともないから。日本初のスポーツ専門中学校を率いるには力不足だと思うの」

「そんなことはありません」

 間髪容れず丸岡が身を乗り出した。

「チームマネジメントは音楽もスポーツも一緒です。なんら変わりありません」

 その突き刺すような目に圧倒されてか、秋村がのけ反るような仕草を見せたが、「ありがとう。そんなに褒めてもらって嬉しいわ。でもね」と押し返そうとした。しかし、最後まで言わせないというように鹿久田が割って入った。

「先生は調和と主張と言われました。これはチームスポーツの不変の真理でもあります。これに勝るものはないのです。それを完全に理解され実践されている先生をおいて他に適任の人はいません」

 赤みを帯びた彼の顔から湯気が出そうだった。秋村は明らかに圧倒されているように見えた。チャンス! 

「先生!」

 わたしは決断を促した。しかし、彼女は困ったなというような表情を浮かべただけで、「気持ちはありがたいけど、もっと他にいい人がいると思うの」と逃げ口上で終わらせようとした。それでもわたしは諦めなかった。

「お願いします。先生しかいないんです」

 しかし、返ってきたのは無言の首振りだけだった。それは、これ以上は止めてね、というシグナルのように思えた。本音を言えばもう一押ししたかったが、ここで無理強いすれば関係を壊すことになりかねない。そうなれば時期をみて再考を促すこともできなくなる。それは避けなければならない。夏島に続いて秋村というカードを失うわけにはいかないのだ。わたしはぐっと我慢して、出かかった言葉を飲み込んだ。