いつ桜田から呼び出しがあってもいいように準備していたが、1週間経っても2週間経っても電話は鳴らなかった。資金繰りの目途が立ちそうなのだから本格的な計画案はすぐに出来上がると思っていたが、予想外に時間がかかっているようだった。

 その理由が人選に関することだとわかったのは、更に1週間後のことだった。

「校長や教頭を誰にすればいいのか。それと、スポーツ専門中学校に相応しい教師とはどんな人なのか、その教師がどこにいるのか、どうやって集めたらよいのか……」

 教育文化省を訪ねてきた桜田にいつもの元気はなかった。

「前例のないことに挑戦しているのだから、簡単に答えが見つからないのはわかっているのだが」

 教員資格を持っているアスリートが相応しいというのはわかっているが、人脈も伝手も何もないと嘆いた。
 しかし、相談されてもどうしようもなかった。建十字や横河原などの現役アスリートは知っていてもスポーツに造詣(ぞうけい)の深い指導者との繋がりはまったくないのだ。指導者といえば育多や温守の顔が思い浮かぶが、彼らは教育のプロであってスポーツのプロではない。彼らを推薦するわけにはいかない。

「まあ、君に相談したところでどうにかなるものではないとわかっているのだが……」

「申し訳ありません。なんのお役にも立てませんで」

 しかし、頭を下げた時、不意に懐かしい顔が浮かび上がってきた。丸岡だった。彼は都立体育大学を卒業して教員資格を持っている。加えて、一流の卓球選手だ。更に、キャプテン経験が豊富でリーダーシップを備えている。

 彼なら力になってくれるかもしれない。

 そう思うと、一気に目の前が開けたような気がした。

「中学時代の同級生に教員資格を持ったアスリートがいます。彼に相談してみます」

        *

 丸岡に会ったのはその8日後だった。練習がオフの日に時間を割いてくれたのだ。所属する会社の寮の1階にある喫茶コーナーに現れた彼はジャージ姿でサンダルを履いていた。

「休みの時はいつもこの格好だから」

 言い訳のように呟いてから、備え付けのコーヒーメーカーのところに行き、サイズの違う紙コップを2つ持って戻ってきた。

「カプチーノでよかったかな」

 わたしが頷くと、それをテーブルに置き、自分の前には小さなコップを置いた。エスプレッソのようだった。それを飲みながら丸岡の近況を聞いた上で、スポーツ専門中学校に関する進捗状況と課題を伝えた。すると、「実は」と言って、自らの進路について語り始めた。

「卓球選手の選手生命は長くない。トップレベルで活躍できるのは20代半ばくらいまでなんだ。だから、その年代に差し掛かった選手は引退後のことを考え始める。コーチへ転身するか、完全に離れてしまうか」

「丸岡君も?」

「そうなんだ。いつ引退するか、辞め時を考えている」

 10代の選手が世界ランク上位で活躍している日本卓球界の新陳代謝が速いことは知っていた。彼は決断の時を迎えているようだった。

「今のチームでコーチをすることも考えたが、それでは延長線上でしかない。面白くないし、ワクワクしない。だから流れの中に身を任せるのではなく、この転機を好機にしなければいけないと思い始めた。そのためにはもっと大きな目標を持つ必要がある」

 彼の目に強い光が灯ったように見えた。

「俺は建十字や横河原のように世界で活躍する選手にはなれなかった。それでも、大学や実業団のキャプテンとしてチームを優勝に導く経験ができた。その過程で若手がグングン伸びる姿を目の当たりにすることもできた。それはとても嬉しいことだったが、限界も感じた。大学生や社会人になってから鍛えるのでは遅すぎるんだ」

 そこで声に力がこもった。

「もっと早い時期に才能のある子供を発掘できれば、世界で戦える選手を必ず育てることができる!」

「では、」

 わたしが身を乗り出すと、彼は大きく頷いて、「貴真心の話は渡りに船だ。乗らせてもらうよ」と真剣な表情を返してくれた。

「ありがとう。すっごく嬉しい。そこで相談なんだけど、校長に最適な人って誰かいる?」

 すると、間髪容れず一人の男性の名前を口にした。

夏島(なつしま)熱男(あつお)さん。俺の大先輩で、都立体育大学のラグビー部監督。凄い熱血漢なんだ」

 彼は全国大学ラグビー大会で何度も優勝経験を持つ有名な人物で、尊敬できる存在であり、校長に適任だと太鼓判を押した。

 それは確かにその通りだったが、余りにも大物すぎて、それがネックになるのではないかと思った。

「でも、そんな凄い人が新しい中学校の校長になってくれるかしら?」

「わからない。でも、絶対この人がいいと思う」

「口説ける?」

「わからない。でも、この言葉を使えば」

 丸岡が口にしたのは、『未知の領域への挑戦』という言葉だった。

        *

 夏島には意外にあっさりと会えた。もちろん、丸岡が必死に頼み込んでくれたおかげだとはわかっていたが、それでも1週間も経たないうちに会えたのは意外だった。

 大きかった。イメージ以上に大きかった。180センチを超える身長に100キロを超える体重と聞いていたが、目の前にいる夏島は大きな岩の壁と言っても過言ではなかった。

 自己紹介をしたあと、すぐに用件に入ると、わたしが話し終わるまで真剣な表情で聞いてくれた。誠実な人柄のようで、見た目から受ける怖さは急速になくなっていった。

「面白いことを考えてるね」

 それが夏島の第一声だった。監督室のソファに腰かけた夏島はわたしと丸岡にそれぞれ頷きを返した。

「スポーツ専門中学校の初代校長か~」

 満更でもないというように左手で顎を擦った。

「俺の急所を突いてきたな。未知の領域への挑戦とは」

 してやられた、というふうに丸岡に視線を送った。その瞬間、いけるかもしれない、と胸が躍った。それは丸岡も同じようで、期待に満ちた目で夏島を見つめていた。しかし、視線をわたしに戻した夏島の口から漏れたのは、期待外れの言葉だった。

「2年後のラグビーワールドカップが終わったら引退の準備を始めようと思っている。そこで俺が育てた選手の活躍を見届けて、その翌年の大学選手権で優勝して、それを自分の花道とするつもりだ。本当はもう一度社会人チームと戦って、それを破って日本一になるのが夢だったが、日本選手権に大学チームは参加できなくなり、その夢を叶えることはできなくなった。残念だが」

 大学チームが社会人チームを破って優勝したのは1987年の早稲田大学が最後だった。その後は全く歯が立たなくなり、2017-2018年のシーズンから大学チームの出場枠が無くなったという。

「引退したらのんびりするつもりだ。妻にも迷惑をかけたし、償いをしなければならない。だから、妻がかねてから望んでいる地中海クルーズにでも行こうかと思っている。そういうことだから、とても興味ある誘いだが、受けるわけにはいかない」

 決心は硬そうだった。そこをなんとか、と言いたかったが、言えるような雰囲気ではなかった。「お忙しい中、お時間を頂戴してありがとうございました」と頭を下げて、監督室を辞した。

 大学を出てからわたしも丸岡も口を開かなかった。この人しかいないという人物に断られたのだからショックは大きかった。しかも、しっかりとしたプランを聞かされた上に奥さん孝行をするために引退すると言われては二の句が継げなかった。
 駅へ向かう足取りは重かった。
 心はもっと重かった。
 校長が決まらなければ一歩も進まないのだ。
 改札口を抜けた時、「じゃあ」と手を上げた丸岡の顔にも笑みはなかった。

「ありがとう」

 わたしもそれだけ言うのが精一杯だった。