「今日は一緒にお風呂に入ろう」

 いつものように一人ぼっちで帰った夕方、突然、お母さんから言われて、キョトンとしてしまった。

「どうしたの?」

「別に。最近一緒に入っていなかったからね」

 わたしが小学3年生になった時、パートの仕事を始めたお母さんと一緒にお風呂に入ることは無くなった。仕事から帰ってきたお母さんはすぐに夕食の準備をしなければならなかったし、その他にも家事に追われていたからだ。

 2人で湯船に入ると、勢いよくお湯が溢れた。
 お母さんを目の前にすると、なんか、照れ臭かった。久しぶりに見る裸のお母さんをまともに見ることができなかったし、自分の裸を見られるのも恥ずかしかった。

 湯船から出て、わたしの背中を洗いながら、お母さんがちょっと躊躇(ためら)ったような感じで訊いてきた。

「学校は楽しい?」

 どう答えていいか、わからなかった。

「友達はできた?」

 答えなかった。

「お母さんに相談したいことはある?」

 すぐに首を振った。でも、言いたいことがあった。わたしはうつむいて、「わたしの名前、もっと普通の名前だったらよかったのに……」と小さな声で言った。お母さんは一瞬、何か言いかけたような感じだったが、黙ってわたしの背中を流し始めた。

 流し終わると、お母さんの手がわたしの肩に触れた。

「お母さんは貴真心の味方だからね」

 後ろから優しく抱きしめられた。

「どんな時でも、どんなことがあっても、お母さんは貴真心の味方だからね」

 今度はギュッと抱きしめられた。

        *
          
 晩ご飯を食べ終わった時、電話が鳴った。お母さんは洗い物をしていたので、わたしが受話器を取った。単身赴任中のお父さんからだった。家を建てて1年くらい経った時に転勤を言われたため、お母さんと話し合って一人で福岡に行くことになったらしい。

「学校はどうだ?」

「うん」

「虐められてないか」

「うん」

「そうか」

 いつものように会話が途切れた。

「お母さんに代わってくれるか」

 受話器をお母さんに向けて差し出すと、手を拭いたお母さんが受け取った。次はいつ帰るみたいなことを話しているようだった。「じゃあね」と言って受話器を置いたお母さんは、また洗い物を始めた。

 テレビを付けると、ニュースをやっていた。興味がないのでチャンネルを変えると、大食い競争の番組になった。大盛りのカツカレーを凄い速さで食べていた。見ていて気持ち悪くなったので、またチャンネルを変えた。
 クイズ番組になった。国旗当てクイズだった。面白そうなので見ていると、3つの色が横に並んだ国旗が三つあって、「どれがイタリアでしょうか?」と司会の人が言った。

 一つは、左から青、白、赤だった。
 もう一つは、青、黄、赤だった。
 そしてもう一つが、緑、白、赤だった。

 司会者に指差されたアイドルの女の子が迷いながらも答えたが、ハズレだった。次に当てられたアイドルグループの男の子は首を捻ったので、当たるかな? と思いながら見ていると、お母さんの声が聞こえた。

「イタリアは緑、白、赤」

 正解だった。いつの間にか椅子に座っていた。

「貴真心もわかっていたでしょ?」

 頷いた。他の2つもわかった。青、白、赤がフランスで、青、黄、赤がルーマニア。それを言うと、「凄いね、貴真心は」と嬉しそうに白い歯を見せた。

「簡単だもん」

 ちょっと自慢げな声になった。

「そうね」

 すぐに頷いてくれた。

「ところで」

 顔が真面目になった。

「さっきのことだけど」

 友達の話になった。パートの仕事帰りに公園を通りかかるたびに気になっていたのだという。ぽつんと一人でベンチに座って本を読んでいるのを見て、仲間外れになっているのではないかと心配していたという。それでも、親が出て行くと虐めが酷くなると聞いたことがあるから、ただ見ているだけにしていたらしい。でも、今日はいつもと違って怯えるような表情をしたので気になったのだという。体の大きな女の子2人に虐められているのではないかと不安になったと言った。

 わたしは「なんでもない」と言って、テレビの音量を上げた。すると、お母さんは「そう」と言ったきり、何も言わなくなった。テレビが急につまらなくなった。洗面所へ行って、歯磨きをして、自分の部屋に入った。

 椅子に座ると、今日のことが思い出された。寒田と黄茂井が近づいてきて、交互に耳元で「き・ま・こ、き・ま・こ、鬼の子、悪魔の子!」と何度も言ったのだ。周りの子たちは見て見ない振りをしていた。誰も助けてくれないので悲しくなって立ち上がろうとすると、両方の肩を押さえつけられた。そして、また耳元で「き・ま・こ、き・ま・こ、鬼の子、悪魔の子!」と言われた。暴力は振るわれなかったが、心臓がキュッとなった。そのことが蘇ってくると、寒田と黄茂井がいないのに心臓がキュッとなった。不安になって自分の部屋を出た。

 テレビのある部屋へ戻ると、お母さんがこっくりこっくりしていた。毎日の仕事と家事で疲れているのだと思った。それに、わたしのことが心配でよく眠れないのかもしれないと思った。なんか泣きたくなった。でも、泣いたらいけないと思った。

「あらっ」

 お母さんが目を覚まして、目をぱちぱちとした。そして、目と目の間を右手の親指と人差し指で摘まむようにした。それから肩をグルグルと回した。

「叩いてあげる」

 拳を軽く握って、お母さんの肩をトントンと叩いた。硬かった。かなり凝っていると思った。

「ありがとう。もういいわよ」

 肩に置いたわたしの左手を右手で握り、反対の手で右手を握った。そして、両方の手を引っ張られた。すると、お母さんにおんぶするような格好になった。お母さんが上体を前後に揺らすと、わたしの体も一緒に揺れた。その時、ふっと小さな頃のことを思い出した。すると、思ってもいなかったことが口から飛び出した。

「お母さん、一緒に寝てもいい?」