桜田が意識を取り戻したのはベッドの上だった。腕には点滴がつながれており、誰かが手を握っていた。ぼわんとしか見えなかったが本部長のようだった。心配そうに顔を覗き込んでいた。
その横に誰かがいた。医師ではなさそうだった。焦点を合わせられない桜田の目には、それが誰なのか判別できなかった。しかし、顔を寄せてきて声を聞いた途端、誰だかわかった。私立探偵だった。
「まだ諦めることはありません」
「えっ?」
自分の声で意識がしっかりしてくると、探偵の顔がはっきりと見えた。するとそれがわかったのか、鞄から封筒を取り出した彼が更に近寄り、「あなたを誹謗したファックスの写真を見ているうちにあることに気がつきました。それで選挙が終わってからも張り込みを続けました。これがその写真です」と目の前に掲げた。
パソコンショップの看板が写った写真だった。しかし、特になんということもないものに思われた。首を傾げていると、声が本部長に変わった。
「この店はただパソコンやソフトを売っているだけでなく、特殊なサービスを行っているそうだ」
すると、探偵がもう1枚の写真を封筒から取り出した。『合成写真サービス』という文字が写っていた。
「異なる写真を特殊な技術で合成するサービスです。例えば、スカイツリーの上で逆立ちしているような写真を、あたかも本物のように合成することができます」
桜田は自分がスカイツリーのテッペンで逆立ちをしている写真を思い浮かべた。
「と言うことは……」
「そうです、桜田さんの顔写真があれば如何様にでも加工できるのです」
間違いないというふうに私立探偵が頷いた。
驚いた。そんなこと考えてみたこともなかった。しかし、合点がいった。何もかもが繋がったような気がした。
「では、」
その先を続けようとすると、まるで遮るように私立探偵が別の写真を取り出した。パソコンショップに出入りする人の写真だった。でも、そこには枯田も選挙参謀も写っていなかった。見知らぬ男性が写っているだけだった。
「これがどうかしたのですか?」
すると間髪容れず、その姿が異様だと探偵が指摘した。確かに、レイバン型のサングラスとマスクで顔を隠しているのは明らかに普通ではなかった。
「ここをよく見てください」
男性が右手に持った紙袋を指差した。銀座にある老舗高級和菓子店の紙袋だった。
「これが店から出てきた時の写真です」
紙袋は持っていなかった。
「怪しいと思いませんか?」
「確かに怪しいが、これは誰なんだ?」
じりじりとしていたのか、本部長が割り込んできた。
「それはまだ……」
「あとを付けなかったのか?」
「張り込みを続けていましたので……」
「それじゃあ、この男が枯田陣営の人間だと断定できないじゃないか」
本部長に追及された探偵はちょっと首をすくめたが、それ以上反論はせず、気まずいような表情で視線を下に落とした。それを見て本部長が舌打ちをしたが、すぐに、う~ん、と唸って、組んだ両手の親指をくるくる回し始めた。どうしたものかと思い巡らせているようだったが、「ちょっと考えさせてくれ」と言うと、指を止めた。桜田が頷くと、探偵と2人で病室から出ていった。
*
その翌日の午後、本部長が一人でやってきた。手には小さな袋を下げていた。
「体調はどう?」
「おかげさまで明日には退院できそうです」
「そうか、よかった」
そして、チョコレートだと言って袋を差し出した。ベルギーに本社を置く有名な菓子メーカーのものだった。糖分を補給して体力を回復せよとでも言いたいのだろうか? 甘いものが苦手な桜田はちょっとためらったが、せっかくの好意を無にするわけにもいかず、礼を言って受け取った。
「ところで」
ベッドサイドの椅子に座った本部長の表情が変わった。何か重大なことを告げる前触れのように。
「弟にやらせることにする」
「えっ、やらせるって、何をですか?」
「パソコンショップのオーナーを探らせる」
「パソコンショップって、あの……」
「そうだ、本来なら私が乗り込んでいって白状させたいところだがそうはいかない。敵陣に気づかれたら元も子もないからだ。といって探偵にやらせるわけにもいかない。あれだけ長期間張り込みをさせたから面が割れている可能性がある」
そこで、面が割れてなくて信頼がおける人間ということで、弟しかないという結論に達したのだという。その弟は現在、夢開市在住だが最近になってから引っ越してきたため、市内に親しい知り合いはいないという。それに、現在の勤務地は東京23区内で、毎日朝早くに家を出て、帰宅は深夜というのが常なので、普段は地元の人と顔を合わせることもない。しかも、休みの日は一日中家でごろごろしているから、近所の人とも挨拶を交わすこともない。加えて、人間関係の煩わしいことが嫌いなので、町内会の役割を引き受けたり、行事に参加することもない。そんな具合だから、選対本部長として市長選を仕切っている兄の手伝いをすることもなかった。枯田陣営に面が割れていないだけでなく、近所でも彼を知っている人がほとんどいないという稀有な存在だったのだ。ただ、まだ打診はしていないという。
「でも、引き受けてくれるでしょうか」
とても素人ができる仕事とは思えなかった。
「わからない。言ってみないことにはわからない。しかし、やらせるしかない」
「もし断られたら?」
「その時はまた考える」
でも、次善の策があるようには思えなかった。それでも、なんとしてでも弟にやらせるつもりなのだろう、決意は固そうだった。無理強いをしなければいいが、と思ったが、それを口にはしなかった。桜田にも次善の策はないからだ。弟が引き受けてくれることを祈るしかなかった。
「とにかく、任せてくれ。桜田さんは体調を回復することだけ考えて。元気にならないことにはどうしようもないんだから」
そして、椅子から立ち上がり、病室から出ていった。桜田はベッドに横になったまま頭を下げた。



