「ただいま」

「お帰り」

 台所から母の声がした。

「早かったのね。お疲れ様」

 母の穏やかな笑顔にはいつも癒される。

「夕食は何?」

「あなたが好きなものよ。当ててみて」

 悪戯っぽい笑顔が、なんか可愛い。

「わたしの好きなもの……、う~ん……、わかんない」

「諦めが早いのね」

 人差し指で鼻をチョンと突かれたが、「シャワーを浴びてらっしゃい」と背中を軽く押されたので、部屋で着替えて浴室へ行った。

        *

 髪を乾かして、スキンケアをしてから居間に行くと、父が椅子に座って新聞を読んでいた。声をかけずに座ると、ちらっと目を上げて、「お帰り。早かったな」と母と同じことを言った。

「たまには定時で帰ってもいいかなって……」

 社長面談の気疲れで残業する余力がなかったというのが本当のところだったが、そんなことを言っても仕方がないので、差しさわりのないことを口にした。すると父は〈ふ~ん〉というような表情を浮かべたが、それを口にすることはなく、また新聞を読み始めた。仕方がないのでボーっとして座っていると、母が料理を運んできた。

「じゃじゃ~ん」

「わっ、これ」

「あなたの大好物でしょ」

 なめろう、だった。一気に元気になった。

「お母さん、だ~い好き」

 思わず甘えた声が出たが、それには訳があった。母が作るなめろうは、青魚の叩き具合といい、味噌の塩梅(あんばい)といい、本当に絶妙で最高なのだ。漁師宿で出されるものに負けないくらいのおいしさなのだ。だから、いつも舐めるように食べる。

 ニンマリしていると、父が日本酒と切子グラスを持ってきた。いつも晩酌はビールで始まるのだが、今日はなめろうと日本酒をちびちびやって楽しむという趣向なのだろう。飲む前からニコニコしている。

 全員の好物だけあって、すぐに皿からなめろうが消えた。しかし、名残(なごり)を惜しむ間もなく、「じゃじゃじゃじゃ~ん」と母が奏でるファンファーレと共にもう一つの大好物が運ばれてきた。さんが焼き、だった。

「お母さん、愛してる」

「私も愛してる」

 父がふざけるように両手を伸ばした。

「もう~」

 いい加減にしなさいというふうに父の手を振り払ったが、顔は嬉しそうだった。

「熱いうちに召し上がれ」

 ポン酢を垂らして、小さなスプーンで味わうように食べた。

「美久も飲むか?」

 父が立ち上がってグラスを持ってきて、日本酒を注いでくれた。もちろん母にも。

 乾杯!」

 父の発声でグラスを掲げて口に運ぶと、辛口の純米吟醸酒が体の隅々まで染み渡った。すると、どこかに残っていた社長面談時の緊張がゆるゆると解け始め、海野が発した言葉が蘇ってきた。

 できるかもしれない!

 不意に、そう思った。