「分身の術が使えないかしら……」

 優美は自分の髪の毛を1本抜いて、フッと息を吹きかけたが、「できるわけないわよね~」と諦めの表情になって、深く息を吐いた。差波木社長の決断によって母味優の全面展開が決まり、準備が整った店舗から順番に開店していくという構想を知った優美は、狐につままれたような気持ちになっていた。
 体は一つしかないのだ。対して店は100店舗。どう考えても不可能な話だった。具体的なことは後日ということだったのでしつこく訊くわけにもいかず、その分モヤモヤとした気持ちが続いていた。

        *

 具体的な計画が告げられたのは、構想を聞いてから2週間後のことだった。

「もちろん、お一人で100店舗を運営できるわけはありません。実際の運営は各店舗で行いますのでご安心ください」

 それを聞いてホッとしたが、話はそれで終わらなかった。

「幸夢さんにお願いしたいことが二つあります。一つは、店名の使用許可です。母味優という店名を使わせていただきたいのです。もちろん、使用料をお支払いします。もう一つは、調理指導です。各店の担当者を順番に迎え入れて、吉祥寺店で指導をしていただきたいのです。加えて、なんとか時間を作っていただき、毎月数店舗を回って、母味優の味が再現できているか確認していただきたいのです。もしできていなければ、その場で指導をしていただきたいのです。当然、これに対しても指導料をお支払いします」

 悪くない話だった。いや、有難い話といっても良かった。問題は、母味優・吉祥寺店を月に数日空けることになることだった。席数20と開店当初の倍になった母味優はシフト制によってなんとか運営できている状態で、余裕というものはまったくなかった。ましてや自分の代わりになる人物はまだ育っていなかった。

 どうしよう……、

 新たな課題に優美は頭を抱えた。

        *

「私に任せなさい」

 その日の夜、優美から話を聞いた守人が胸を張った。

「えっ、私にって、まさか……」

「そう、そのまさか!」

 出張指導で店を不在にする間、自分が代わりを務めると告げた。

 守人は専業主夫になってからメキメキと料理の腕を上げていた。優美が持って帰る〈切り身魚の調理チラシ〉を見て、そのチラシに書かれた調理法に忠実に料理をし、それを繰り返すうちに妻と変わらないおいしさになっていた。そのことは優美も認めてくれていた。

「本気なの?」

「冗談でこんなこと言えるか!」

 守人は真剣な表情で言葉を継いだ。

「将来、調理師の資格を取りたいと思っている」

「調理師? 国家資格の?」

「そうだ。でも、資格を取るだけじゃない。いつかお前と2人で店をしたい」

 余りにも意外だったせいか、優美がポカンと口を開けた。

 実は、守人は時々母味優に足を運んでいた。食べる楽しみもあったが、妻と客のやり取りを見るのが好きだった。そして、優美が出す料理を客が喜んで食べている姿を見るのが嬉しかった。「おいしかったです」「ごちそうさま」「ありがとう」という客の声を聞くと、自分が言われたかのように感動した。それだけでなく、自分もこの喜びの輪の中に入りたいと思うようになった。だから優美が持って帰る〈切り身魚の調理チラシ〉に書かれた調理法を必死で修得した。いつか手伝いができる日を夢見て。

「任せなさい!」

 守人がもう一度胸を張った。すると優美は我に返ったような顔になって口を閉じ、食い入るような視線を向けてきた。

「本気なのね」

 守人は強く頷いた。