第八話 潮が反転する刻

 潮が反転する刻は、雨の粒の形が先に変わる。
 山から下りてきた風が社殿の背を撫で、鳥居の脚を抱いて海へ落ちるとき、粒は糸ではなく細かな鱗のかたちを取り、皮膚に触れた途端に崩れて消えた。遠くの波がひと息だけ長く吸い、次に吐き出すとき、いつもより低く濁った音で浜を叩く。島全体の重心が、わずかに、しかし確かにずれた。人の耳はそれを雨脚の強弱の違いとしてしか受け取らない。だが、土は先に知る。根を張った木は黙って幹を固くし、社殿の柱は内側の水気を絞り、鳥居の朱は薄くなったのではなく色を内へ引き取った。潮が引く。島の皮膚が裏返る。その合図を、夜は静かに運んできた。
 沖田静は、その合図を、靴裏の泥の手触りで受け取った。
 先ほどまでは指に絡みつくようだった粘りが、急に軽くなる。重さが取れるのではない。重さの向きが変わる。踏み込んだ足が前へではなく下へ沈み、土がやわらかく杖を返す。潮が反転する刻にだけ起きる、土の礼だ。礼に礼を返すのは、刃の角度であるべきではない。彼は肩の力を抜き、黒い合羽の裾をもういちど膝に巻きつけ、呼吸の拍を半分だけ遅らせた。遅らせた拍に、島の心臓の震えがしずかに重なる。斜面と山道と入江を結ぶ三角の心臓が、いままさに片方の鼓動を落としたのだ。
 敵の伝令線は、切れているはずの場所が、切れていないふりをしていた。
 潮の反転は、人の焦りを浮き彫りにする。浮いた焦りは、筋肉へ先に走って、手のひらを固くし、声を荒げ、足を速くする。速い足は、地図の上では役に立つが、夜の泥の上では沈む。沈んだ足跡が濃くなり、列は自分の前後を疑いはじめる。疑いが増えるほど、刃は軽くなる。軽くなりすぎぬよう、沖田は自分の嗜虐の舌をひとつ折りたたんで、口蓋へ押しあてた。味はない。味のない舌は、理性の刃の鞘になる。
 入江の喉が、ゆっくりと姿を変えるのを、彼は見た。
 水が退くのではない。水の滑らかさが、前ではなく横へ流れる。流れたあとの浅瀬に白い泡が残り、その泡が列状に並んだ先で、砂の皮膚が露わになる。砂州が現れる。現れたということが、夜の端に立つ者から順に、反射のように伝わる。「渡れる」という希望の形で。それは、罠であることが多い。渡り始めた数のうち、どれだけが途中で足を取られ、泥の迷路に沈むか。彼の眼は、砂州ではなく、その両側の泥の濃淡を見ていた。
「ここが、裏返る」
 彼は、誰に言うともなく呟いた。呟きは雨に溶け、音ではなく形だけが残る。形は、彼の掌に移り、掌から刃へ、刃から目へ、目からまた掌へと戻る。身体の内側で、刃はひとつの図形になった。図形は、殺しのためのものではない。崩れ方を読むためのものだ。
 陶方の陣は、火の橋に未練を残したまま、砂州のほうへ流れようとしていた。
「退かず」「持ち堪えよ」と増幅された命令が、いまや反対の意味に読み替えられている。「退け」「堪えるな」。命令は、届く。届いた途端に裏返る。島全体が裏返りつつあるとき、言葉は最も簡単に反転する。反転の勢いに乗った者から足を取られる。沈む前に、彼はひとつの糸を断つことにした。
 要の将は、火と泥と雨の交差する一点にいた。
 豪雨の夜に最も無駄のない声の出し方を知っている男だった。首の座りがよく、合戦の喧騒に耳を取られない。こういう者が陣の秩序を保つ。保たれた秩序は、潮の反転に抗い、結果として余計に深いところまで沈む。沈ませるなら、ここだ。沖田は、白の内側で指を組み替え、刃の重心を半分だけ前へ滑らせた。重心の移動が、彼の骨に合図を入れた。
 雨の幕の向こうで、男は自らの存在が標であることを、まだ疑っていなかった。
 彼は喉を鍛えている。鍛えた喉は、刃に弱い。刃は声を嫌う。声が刃のために用意した場所は、喉ではなく、喉の周囲だ。鎖骨の下、肋骨の間、呼気の出口と入気の入口の交差点。そこへ刃を持っていくには、真正面を避け、横顔の影を通り、雨の粒になる必要がある。粒は数えるほどある。数えられる粒だけが、刃の味方だ。
 彼は、一拍だけ目を閉じた。
 切らずに済むか。
 潮が反転する刻に、殺しは予想よりもよく効く。よく効くものを持っているとき、切らずに済む選択は稀だ。稀な選択が、今夜はここではない。
 目を開ける。
 刃は眠りをやめ、雨の鱗を一枚だけ剥がし、そこから入り、男の体の中心へ達して、致命に届く前に逸れた。致命をわずかに外した刃の軌跡は、男の気道を半分だけ閉じ、声を奪った。声を奪われて、男は自分が既に死んだような顔をした。人は声の喪失を死と混同する。混同しているあいだに、秩序は崩れる。秩序が崩れた瞬間、彼は刃をほんのすこしだけ深く入れた。深さは致命の一歩手前。そこから、男の肩を、まるで眠りへ導くように押した。
 倒れた体が、泥に音を残す。
 泥の音は消えない。消えない音を、雨は薄める。薄められた音は、鳥居の朱の根元へ集まり、朱はその薄さを引き受けて、色を少しだけ外へ戻した。朱が水へ染みる。染みるというのは、穢れるという意味ではない。島が夜を受け取り、翌朝の光へ橋を架ける予備動作だ。鳥居は、誰にも見えないまま、内側で色を増やしている。そこに、飛沫がひとつ、ふたつ、雨粒より重いものが降りかかった。血潮が、雨に薄められ、さらに薄められて、色の支柱に縫い合わされる。
「……鳥居が、染まる」
 若い斥候が呟き、すぐに口を噤んだ。彼の吐息が白いかどうかを、誰も確かめない。確かめないことが、夜を長持ちさせる。
 要の将の護衛が二歩遅れて駆け寄り、刃を抜いた。
 抜かれた刃が、雨で鈍く光る。光を見た瞬間がいちばん危ない。瞬間の反射で、腹のほうへ力が集まる。集まった力は、降りる前に崩すほうがいい。沖田は刃の背で護衛の刃を受け、その手首の角度と肩の高さを記憶だけに移し、本体はそこから離れた。離れたともいえないほどの微細な距離移動で、護衛の刃は宙に残され、主人を守るべき動線を失う。失った刃は、何も切らずに濡れ、濡れたまま、護衛は泥の破片に躓き、膝から落ちた。
 彼は、護衛の喉に刃を置かなかった。置かず、掌を胸の中央にあて、小さく押し、静かに寝かせた。埋葬の手。残虐の直後に現れるあの動作が、また短く夜を通り過ぎた。
 潮がさらに引く。
 砂州は、最初の細い線から、やがて幅を持ち、島と対岸とを結ぶ蛇の背骨のように伸びる。が、蛇は死んでいる。背骨だけが露わで、体液の代わりに泥が眠っている。駆け出した者から順に、足は足首まで、膝まで、太腿まで沈んだ。沈むほど、人は高く声を上げる。声は助けを呼ぶ形を取りながら、じつは自分の恐怖の輪郭を他人の中へ押しつける。押しつけられた輪郭は、群れ全体の呼吸を乱す。乱れが増えるほど、潮の反転は深まる。島は、いま、勝手に勝っている。勝ちの勾配が急になりすぎるとき、刃は余計な血を吸う。吸わせないために、彼はそこから離れた。
 矢野蓮は、砂州を見た瞬間に、叫んだ。
「ここで死ぬな、海が怒っている」
 怒っている、という言葉が胸の真ん中で硬い響きを持ち、小隊の背骨を伝ってゆく。風が潮の匂いを運び、怒りが海からのものだと、皆が納得する。納得させるための比喩は、命令の代わりに働く。命令よりも早く、足が揃った。
「標に沿え、砂州へ踏み込むな。足の軽い者は右。担架は左の梯子。打ち直した木札は、ここを抜ければ見える」
 声は長くない。長くしない。長い言葉は、雨に濡れた耳の中で分解し、意味の骨まで届かない。短い言葉だけが骨に触れる。触れられた骨はすぐに動く。
 若い兵が背負う負傷者の手が、彼の肩で滑った。滑った手の甲に血が乾きかけ、その乾きが雨で戻されている。矢野は肩を内へ絞り、体の傾きで担ぎ手の重心を変え、担架の角度を標の方向へ合わせてやった。言葉を使わないほうが、早い。
 海の音が変わる。
 吸って、吐く。その間が長くなり、吐くときの音が、いつもより乾いている。湿った夜に乾いた音が混じるとき、誰もが顔を上げる。顔を上げ、期待と恐怖のあいだで瞼を半分閉じる。閉じた瞼の内側で、ひとりひとりの記憶が反転する――はずだった。矢野は、閉じなかった。閉じない瞼で、群れの背中の高さを見、足下の泥の濃さを見、風の向きを皮膚で受け、標の位置を思い返した。
 護符の紙が、腕の内側へずれ落ちた。
 ひやりとする。
 紙の角が、皮膚のやわらかい場所を撫で、そこだけ別の時間を呼び込む。老女の指の節の硬さ、紙の薄さ、藁の節の位置、結び目の向き。彼は、指先で押さえ直した。押さえるというより、紙の位置に自分を合わせた。合わせると、骨の軋みが消える。消えた隙間に、風が、言葉のような形をして入り込んだ。
 ――ここではない。
 耳ではなく、皮膚で受けた。
 言葉の主は、もう分かっている。振り向けば、隊が崩れる。崩れても、いまは死なないかもしれない。それでも彼は振り向かなかった。振り向かないまま、ただ、わずかに頷いた。頷きは、背の二人へ伝わり、二人はその意味を知らぬまま、歩幅を半刻だけ揃えた。揃った拍が、夜の端に小さな橋を架ける。橋の向こうで、白い影が、雨を背負ったまま、斜めにずれて消えた。
 沖田は、矢野が頷いたのを見た。
 見た、といっても、目に映したわけではない。頷きが周囲の湿りに作る小さな渦を、皮膚で受けただけだ。渦は音を持たない。音を持たない合図だけが、夜に向く。向かうものがひとつ増えただけで、刃は軽くなる。軽くなった刃は、深く入る必要がなくなる。不要な深さを避けることは、嗜虐にはつまらぬ。だが、それでよい。つまらぬ夜だけが、朝へ渡せる。
 砂州の横で、陶方の旗が二本、逆さに揺れていた。
 旗を立て直すために、若い兵が泥の中へ腰まで沈み、そのまま動けなくなる。助けに入った友が、同じ穴へ嵌る。三人目が来るまでが勝負だ。三人目が来た瞬間、その場は泥の口になり、引き込む。矢野は、そこへ向かおうとした若い手を引いて止めた。
「行くな。行けば、四人目になる」
「でも――」
「五なら生きる。五を集める。ロープを持て。板を寄越せ。旗は、倒れていればよい。人を立てろ」
 言葉は短く、意味は鋭い。鋭い意味に、若い手の熱がすこしだけ戻る。熱が戻れば、判断は鈍る可能性がある。鈍る前に、彼は次の命令を落とした。
「担架を置け。十歩で戻る。戻らぬなら、置いていけ」
 残酷な命令は、やさしい声で言うべきではない。彼は、乾いた声で言った。乾いた声は、雨に強い。
 尾根の向こうで、毛利軍の小隊が火を持って出た。
 火といっても、濡れた布に包んだ松脂の湿った匂いが先に来る。匂いは雨に混じって広がり、陶方の背へ回り込み、光る前から恐怖の形に膨らむ。沖田は、その膨らみを見た。膨らみは、刃で切る必要がない。針で穴を開ければよい。穴は、音の薄い場所にしか開かない。彼は斜面の筋を上り、膨らみと木立の間の細い隙に身体を差し入れ、そこへ一拍だけ太鼓の皮を叩いた。鳴らない音が、風に乗る。乗ったものは意味だけになり、「道が空いた」と誰にも聞こえぬまま伝わる。矢野の足の裏は、すでにそれを知っている。
 鳥居の朱は、雨と血と潮とで、いっときだけ妙に鮮やかになった。
 赤が薄まるとき、人の眼は赤を濃く感じる。濃く感じた赤が、いくつかの記憶の端を焼く。焼かれた端は、のちにほつれやすい。ほつれやすい記憶ほど、よく人を守る。守られる側は、それに気づかない。気づかなくてよい。
 沖田は、鳥居を見ない。見ないのに、鳥居の内側の温度が、いま自分の手の血の温度と等しいことを、どこかで知っていた。等しいものは合図になる。合図に従うと、刃はもっとも美しく鈍る。鈍った刃が、今夜は要る。
「右の斜面へ、十人。左は七。余はここに残る」
 矢野は、数字を配った。数字は、人を安心させる。安心は危険だが、いまは必要だ。必要な安心は、短く使い、すぐに返す。彼は自分の位置を最後尾からひとつ前へ移し、最年長の兵を後ろに置いた。
「ここで死ぬな。海が怒るぞ」
 もう一度だけ言った。この言葉は、祈りではない。計算だ。海が怒っているときに死んだ者の顔は、翌朝、誰も見ない。名を呼ばれぬまま流される。名を呼ばれぬことは、この島では救いにも罰にもなる。彼は、救いのほうへ重さをずらしたかった。
 砂州の上で、誰かが膝を抱え込んで泣いている。
 泣き声が雨に似て、区別がつかない。区別がつかない声ほど、群れの中で長く響く。響く前に、矢野は近づき、膝の裏へ手を差し入れて、立たせた。立たせるという行為は、救いではない。動かすための準備だ。準備をしてから、彼はその者の背を、進む方向ではなく、雨の梯子のほうへ押した。押された背は、梯子の段に足を置く。置けば、音が薄くなる。薄い音は、泣き声を外へ流す。流れた声の代わりに、呼吸が入る。
 沖田は、崩れはじめた陶方の隊列の隙間に、己の影を置いて回った。
 置く、というのは、そこへ自分が存在したという印ではない。そこへ、自分が存在しなかったという印だ。存在しなかった場所は、のちに誰も探らない。探られない道だけが、明け方まで生きる。生きた道に、人の足を通すのは、自分の仕事ではない。だが、通りやすくすることはできる。彼は倒れかけた樹の枝を一筋だけ押さえ、濡れた岩の上に短い布を置き、泥の縁を靴の踵でひとかきして小さな段差を消した。どれも、刃の仕事の一部である。
 矢野の隊が、砂州を避けて、斜面から斜面へと渡り、尾根の陰へ入るころ、潮は本格的に引いた。
 露出した砂は、最初は道のように見え、次に砂粒の総体になり、最後には足跡の羅列になる。羅列の間に、黒い穴がいくつも開く。穴の底に水が残り、穴と穴の間を泥が結ぶ。泥の迷路。迷路の入口を塞ぐために、誰かが命令を叫ぶ。「退け」「進め」「ここを使え」「あそこは危ない」――すべて正しい。正しい声が多すぎるとき、群れは最初に出会った声へ従う。最初の声を、彼は自分の声にしない。しない代わりに、彼は背の呼吸を揃え、標の列を信じさせる。信じさせるのに、証拠はいらない。信じる行為それ自体が証拠だ。
 尾根の風が、湿りの中でひときわ冷たく、護符の紙がふたたび腕を撫でた。
 その時、横手の斜面に、一瞬だけ白いものが動いた。
 矢野は振り向かない。背が動けば、列が動く。列が動けば、穴が口を開く。開いた口は、人を飲む。彼は、足の位置を半歩だけずらし、その半歩で列の重心を変えた。それで足りた。足りたことに、胸の内側で薄い笑いが生まれる。笑いは声にならない。声にならない笑いほど、よく働く。
 沖田は、風の背に「ここではない」をのせた。
 ここではない――死ぬ場所が、ここではないという意味。死ぬべきであれば、彼は斬る。斬らずに言葉を風に預けるのは、稀だ。稀を選ぶには、理由がいる。理由は、名ではなく、動作に宿る。矢野の肩が、先ほどから「借り」を骨に抱えたまま揺れている。揺れは、刃の重さを正確に測る。測り方が正しければ、彼はそれを生かす。生かすという言葉に、彼は愛着がない。ないことが、今夜は救いになっていた。
 鳥居の根元で、赤が濃くなった。
 濃さは、血のせいではない。雨が赤を洗いながら、内側の光を露出させるせいだ。内側の光は、戦とは無関係だが、戦の最中にしか見えない。見た者は、しばらく言葉を失う。言葉を失ったまま、命令が通る。命令が通ると、死者が減る。減った死者のぶん、夜は少しだけ余裕を持つ。
 砂州を走った者たちのいくつかは、もう戻れない。
 戻れないという事実は、まだ誰にも認められていない。認められるのは、朝の前だ。それまでに、動ける者を動かし、生きるべき者を生かす。矢野は振り向かずに、背で兵に合図を渡し、担架の角度を調整し、足の軽い者たちへ狭い尾根道の先を開けた。
「隊長、砂州の向こうに味方が――」
 最年長の兵が言いかけ、矢野は短く否(いな)と頷いた。
「向こうは向こうの隊だ。こちらは、こちら」
 割り切りではない。重さの差配だ。重さを間違えると、夜は報復する。報復は、祟りとして記録に残る。記録は雨に弱い。弱いものを、彼は選んだ。弱いから、長く残る。
 沖田は、砂州の端でひざまずいている武者の背へ近づいた。
 男は、膝から下を泥に奪われ、刀の柄にすべての体重を預けている。柄は折れない。折れないが、支えにはならない。支えではないものを支えに選びつづけると、人は静かに死ぬ。死ぬ場所が「ここ」なら、彼は斬る。だが、ここではない。男の背は、今夜、まだ動く余地を持っている。彼は刃ではなく、鞘で男の肩を軽く叩いた。男が顔を上げる。視線は合わない。合わないまま、沖田はその背を斜面の方向へ押した。押した手は、埋葬の手に似て、しかし埋葬ではない。
 嗜虐の舌が、また退屈を訴える。
 彼はそれを笑って、雨に飲ませた。
「海に流れれば、たちまち薄まる」
 小さく言って、手の血を垂らし、指先で雨を掬った。掬った水は冷たく、血の温度を均した。均された温度で、彼はもう一度だけ、遠くの尾根を見た。そこに、白ではない影が動いた――矢野の隊だ。動き方に、礼が含まれている。礼を返すのは、今ではない。今は、刃を鈍らせたまま、島の反転を最後まで見届ける。
 矢野は、尾根を抜けるとき、老女の護符が衣の内でふと軽く鳴るのを感じた。
 鳴るという言葉は正確ではない。紙の角が骨に触れ、骨が「まだだ」と言ったのだ。まだだ――死ぬのは、いまではない。死の場所も、ここではない。言葉はいらない。いらないものが増えるほど、夜は静かに進む。静かに進んだ夜は、朝へ橋を架ける。橋の上で、彼は背に残った湿りの重さをひとつずつ払い落とした。払い落とすたび、借りの形が、少しずつ明瞭になる。
 借りは、軽く扱えない。
 軽く扱えば、刃の向きが狂う。
 狂わせないために、彼は借りを言葉にせず、骨の中で重く持った。持ち方があれば、返し方もまた、いつか自然に現れる。
 潮は完全に引き、砂州は太い背骨となって対岸へ伸びた。
 だが、その背骨の上を、勝者の足取りで渡る者はいない。
 渡ってしまえば、陥没が待っている。陥没の音はどこにも記録されず、ただ、夜の裏側で長く反響するだけだ。「勝ち」を名乗った者ほど、その反響に引きずられる。
 勝者なき勝利。
 この島が選んだ形は、そういうものだ。
 矢野は、その言葉をまだ知らない。知らないまま、彼は兵を束ね、最後尾を守り、風の向きを測り、木札の濡れ具合で道の手触りを推し量り、火の橋を見ずに、雨の梯子を降りた。
 鳥居の朱が、ついに外へ溢れた。
 溢れた赤は、海に広がって、水面に薄い膜を作る。膜は、雨に叩かれて破れ、破れた先でまた別の赤が現れる。血の色と朱の色と潮の色は、この刻だけ、同じ種に属する。属しあうものの間で、人は名を失う。名を失った者だけが、ここでは生き延びる。
 沖田は、鳥居の根本に手を触れ、木の冷たさで現在を確かめた。
「記すな。けれど、忘れるな」
 自分に向けて言い、誰にも渡さず、雨に沈めた。沈めた言葉は、のちに別の場所で拾われるだろう。拾われる場所は、まだ選んでいない。選ばないことが、いまは正しい。
 潮が反転し、夜の均衡が別の位置へ落ち着くまで、ほんのわずかな間があった。
 間は、刃の厚みと同じくらい薄い。薄い間に、二つの影が、刃の間合いと同じ正確さで距離を縮め、なお交わらなかった。交わらないことが、礼だ。礼は、戦の最中にしか保てない種類のものだ。
 矢野は、振り向かないまま、頷いた。
 沖田は、笑わないまま、目を閉じた。
 切らずに済むか――すでに切らないと決めた刃の内側で、彼はもう一度だけその問いをたたみ、嗜虐の舌に「今日は飽くのも芸だ」と短く言い聞かせ、雨を吸った合羽の裾を払った。払った手は、どこかで埋葬の手に続く。続く先で、誰かの瞼が閉じられる。閉じられた瞼は、朝の光へ備える。
 砂州の向こうで、喚声が一度だけ上がり、すぐに雨に千切れた。
 千切れた声の残骸が、空の低いところに滞留し、鳥居の脚を撫で、社殿の檜皮に吸われ、山道の獣の匂いと混ざって、島の奥へ戻っていく。戻るべきものは、戻る。戻らぬものは、海が持っていく。海が怒っているときだけ、持っていき方は丁寧だ。丁寧に持っていかれたものは、のちに祟りにならない。祟りにならない代わりに、風聞になる。「白き影と若武者」の風聞。まだ、名は呼ばれない。呼ばれぬうちは、彼らは生きる。
 矢野は、尾根の陰で一度だけ立ち止まり、護符の存在を確かめ、視線を海へ落とした。
 赤が薄く、白が濃く、黒が溶け、すべてが同じ湿りを持っている。湿りの中で、彼は自分の骨に書かれた文を読み返した。
 ――ここで死ぬな。
 ――ここではない。
 ――借りは返す。
 どれも、声にすれば壊れる。壊れやすいものだけが、夜に向く。向いているものを抱えたまま、彼は標の次の位置へ歩き出した。歩きながら、背で兵の息を聴き、前で風の向きを聴き、足の裏で土の機嫌を聴いた。聴くことが、命令の半分を済ませる。
 沖田は、三角の心臓の一点に、最後の小石を置いた。
 置くといっても、紙の地図ではない。泥の上へ、指の腹で、目に見えない石の形を描いただけだ。描かれた石は、夜明けまでそこにある。誰も踏まない。誰も見ない。その石の上だけ、夜は人にやさしい。やさしい夜は、彼の刃を鈍らせる。鈍った刃は、のちのために取っておくべきものだ。
「終いだ」
 声にせずに言い、彼は鳥居から背を離した。朱が内へ吸い込んだ色は、朝にまた別の色で返ってくる。その色の前で、人は簡単に、勝ち負けの言葉を忘れるだろう。忘れたままのほうが、長く生きられる。長さがあれば、借りもまた、返しようが見つかる。
 潮は引き、雨はなお降り、火は橋であることをやめ、梯子だけが残った。
 梯子は、空へではなく、次の闇へかかっている。
 その梯子を、彼らは別々に、しかし同じ拍で上り始めた。上るたび、夜の重心が、またわずかにずれる。ずれた分だけ、世界は静かになる。静かさの底で、鳥居の赤が、ほんのすこしだけ濃くなった。濃くなった色は、誰にも見えない。見えないまま、島は息をついた。
 そして、まだ交わらない二つの影のあいだの距離は、刃の間合いのとおりに縮み続けた。
 縮みながら、互いの名を呼ばず、互いの死をここではないほうへ押しやり、互いの生を、夜の湿りへ預けた。
 それが、潮が反転する刻に与えられた、唯一の、正しい連携だった。