第七話 火の橋、雨の梯子
雨は夜の背骨を一本ずつ撫でていた。
音は細く、数は多く、ひとつひとつが人の呼吸より軽い。山から降りた風が社殿の背を回って入江の口で止まり、湿った冷たさだけを置いていく。鳥居の朱はもうほとんど水へ融け、海はその色を受け取りながらも、何の記録も残さない。島全体が記録を嫌っている。名を呼ばれぬ島の夜は、すべてを均して、濡れた布のように折り畳んでから、誰にも渡さない。
沖田静は、その布の裏側を歩いていた。
白装束の上の黒い合羽は、雨を吸うほど軽くなる。濡れた布が肩に貼りつき、動作の角をひとつずつ落としていく。彼は指先で空気の厚みを測り、薄い場所だけを選んで進んだ。敵陣の息の出入り口は、昼と夜とで違う。夜は、声より先に湿りが出入りする。湿りの裂け目こそ、伝令線の脆いところだ。
最初の伝令は、まだ若かった。
腰に結んだ小さな太刀が雨で鞘口を膨らませ、布の端には泥ではなく灰がこびりついている。さっき火のそばにいたのだ。火は、夜に安心の嘘をつく。安心の嘘を一度でも飲んだ者は、雨の味を忘れる。雨の味を忘れた足は、黒い道の縁に立ったとき、必ず一度、滑る。沖田は滑る音を待った。待つという行為は、刃の一種だ。
音がした。
彼は、刃を出さなかった。出す必要がない。若い伝令の背がわずかに反った瞬間、彼はその肩と土のあいだに掌を差し入れ、勢いを殺してやった。若い背の骨が驚きに鳴る。鳴った骨の位置に、彼は人差し指で軽く触れた。触れられた骨は、その夜のあいだ、生き延びようとする方向に自ら傾く。傾かせたまま、彼は若者の腰紐を引き、伝令筒だけを抜き取った。
若者は、気づかない。
気づかぬまま、別の方向へ走る。方向が少し違えば、伝令は伝令でなくなる。伝令でないものは、夜にうまく溶ける。溶けた跡に、空気の薄さがひとつ生まれ、それが、道になる。
筒の中の紙は、雨の匂いで膨らんでいた。
彼は口で端を噛み、墨の味を舌に乗せ、文字の骨だけを飲み込んだ。「退かず」「持ち堪えよ」「火を回せ」。命令が短いほど、群れは迷う。迷いが増えるほど、刃は軽くなる。軽い刃は、斬らずに済む回数を増やす。増えすぎれば、彼は飽きる。飽きる前に、別の伝令線を切った。
狼煙は、今夜、役に立たない。
風が裂き、雨が揉んで、煙は輪郭を保てない。だからこそ、人は耳へ戻ってくる。耳へ戻ってきた途端、夜は意味を取り戻す。太鼓は湿っていて、鳴らせば混乱する。鳴らさなければ、沈黙が合図の形をとる。沈黙そのものへ、彼は指を置いた。社殿裏の土を爪の根で軽く擦り、すすけた岩に呼吸をひとつ預け、入江の喉で水を一度だけ跳ねさせた。跳ねた水は音を持たないが、伝令線のどこかで、欠落の形だけを残す。欠落が二つ、三つ。足を踏み替えた兵が、ふいに自分の列を疑う。疑いは、刃の味方だ。
火のそばへ戻った斥候が、捕らえた男の髻を掴み、泥に顔を押しつけていた。
周囲にいた味方は、興奮のなかで、それを娯楽に変えようとしている。暗闇は、人を残酷にする。残酷へ寄りかかって、恐怖から退がろうとする。沖田は、彼らを見るでもなく見た。見たというのは、体に覚えさせる、という意味だ。髻を掴む手。刃を振り上げる肩。囃し立てる喉。
彼は歩いた。
歩いて、囃し立てた喉の主を横目に置き、刃を振り上げた腕の肘の内側へ、鞘のまま手首で打ち込んだ。骨が乾いた音を出す前に、もう一方の掌で髻を掴む手首の腱を切った。刃は短く、動きも短い。短いものだけが夜に合う。
悲鳴を上げたのは、捕虜ではなかった。
腕を打たれ、腱を断たれた味方だ。
「何を――」
言葉を最後まで使わせる暇を、彼は与えなかった。飄々とした笑みの端だけを残し、刃を持たぬほうの手で相手の頬を掴み、土へ押しつけた。押しつける加減は、埋葬の手よりわずかに強く、殺しの手よりは、はるかに弱い。
囃し立てていた者たちの声が、雨よりも薄くなる。
沖田は視線を捕虜へ移した。目は合わない。合わす必要がない。刃が仕事をしたのは、捕虜のためではない。夜のためだ。夜が均されるのを手伝うこと。均されなかった場所を、刃で均すこと。残虐に対する残虐は、善悪ではなく、重さの足し引きだ。
終えると、彼は血に濡れた手を雨に差し出した。
雨は丁寧で、彼の指先の血を一本ずつ洗い、掌の皺に入り込んだ赤い線まで薄くしていく。
「海に流れれば、たちまち薄まる」
飄々とした口調で、誰にともなく言い、深い息を吐いた。吐いた息が白いかどうか、彼は確かめない。白さは冬の記憶に属し、今は雨だ。
同行していた若い斥候が、口の中で何かを堪えていた。吐き気は、恐怖と同じところから来る。恐怖は、骨へ降ろしてやれば役に立つ。吐き気は降ろせない。降ろせないものは、雨に持っていかせるしかない。若者は唇を噛んで、耐えた。耐え方が良かった。良い耐え方は、翌朝の歩幅に残る。
伝令線は切れ、次の列は自分の前後を疑いはじめた。
疑いが生まれると、火は橋になる。
燃えない檜皮へ火矢がしつこく舐めつづけ、その赤い舌が、夜の視界に細長い道の錯覚を作る。人は炎を道と思い、そこへ寄ってくる。寄るには、周囲を捨てる。不用意に捨てられた周囲の空白が、黒い通路の起点になる。沖田は、火の橋の手前の泥へ、わざと一度、足跡を深く刻んだ。深い足跡は、見張りの目を呼ぶ。呼んだ目は、橋へ向き直る。向き直った瞬間に、彼は逆側の雨の梯子を上る。梯子は、斜面に沿って垂れる水の筋。筋の間隔は均一で、そこに体を差し入れると、音が薄くなる。薄い音は、刃より鋭い。
黒い雨の段をひとつ、ふたつ、彼は上がった。
上がりながら、真上の葉の裏に溜まった水を爪で弾き、落ちる拍を乱していく。乱された拍は、巡回の足音と重なり合わなくなる。重ならなくなった瞬間に、巡回は疑う。疑いは、刃の味方だ。彼は、味方を増やしながら、斜面の中腹で足を止めた。生じた空白に、風が小さく溜まる。風は喉の手前で震え、遠くの誰かの声を運びかけて、やめる。やめた声の残骸が、彼の耳の中で砂のようにこすれた。
矢野蓮は、別の場所で、同じ砂を耳の中に感じていた。
退路は標の列でかろうじてかたちを保っている。標の木札は濡れて重く、しかし重いほど地面へ深く噛み、噛んだ分だけ夜に残る。彼は、負傷兵を先に動かした。動かす順番は、いつも恨みを生む。恨みは、あとで雨が洗ってくれる。今は、足の裏の泥を払ってやる手しか、持たない。
「次の曲がりで、替われ」
担ぎ手の肩と肩のあいだへ指を差し入れて、矢野は短く命じた。肩は濡れ、皮膚は冷え、筋は緊張で短くなっている。短い筋ほど、痛みをはっきり持つ。痛みは、判断の敵だ。肩を揉まない。揉めば、そこへ人の気配が残る。残った気配は、刃を呼ぶ。短い命令だけで、肩は替わり、負傷兵の唇が少し色を取り戻す。
「ここで死ぬな」
いつもの言葉を、彼は何度も配った。配るたび、言葉そのものは薄くなる。薄くなった言葉の代わりに、手の動作が濃く残る。濃く残った動作が、別の者の骨に移る。骨で受け渡されたものは、雨に負けない。
火の橋が、彼の隊の視界にも現れた。
燃えない木肌を舐める火は、道の錯覚を与える。錯覚は、恐怖とよく似合う。恐怖は、道を早足で渡らせる。早足は、崩れる。崩れる前に、彼は手を上げた。掌を、火の橋と反対側へ向ける。向けただけで、兵は理解した。理解に時間を要しない集団ほど、夜に強い。
「負傷者を先に――」
言いかけたとき、彼は言葉をやめた。
音が、一枚、剥がれたからだ。
遠くで、鳴らさないはずの太鼓が、雨の向こうでほんの一打、低く、短く、骨の底へ届いた。誰の手でもない手で叩かれたような、音というより震え。
道が空いた。
彼は、言葉にせずに頷いた。頷いた動作が、最年長の兵の目に入り、兵は息を合わせ、担架を斜めに上げ、火の橋から視線を外して、雨の梯子を選んだ。選ばれた梯子は、斜面の水の筋。筋に身を置くと、音が薄い。薄い音は、戦の味方だ。
後方から、追いついてきた敵が、喚声を上げかけて、雨に口を塞がれた。
矢野は、最後尾に残った。
誰かがそこで足止めをせねば、前は無事に動けない。「ここで死ぬのは、俺だ」と、彼は骨に書いた。書いた文字は誰にも見えない。見えないまま、槍を短く持ち替え、刀を半寸だけ抜いて、鞘と柄をひとつの棒のように扱う。棒は、雨の中でよく働く。叩くのではない。斜めに据え、相手の足の踏みしろだけを奪う。踏みしろを失った足は、戦意の半分を失う。半分で済むのだ。半分を残すことが、夜の礼だ。
前では、負傷兵の列が雨の梯子を上がっていく。肩の高さが揃い、担架の角度が安定し、標の向きが正確に読み替えられていく。読み替えられた標の先で、風が少し変わった。海が息を吸う。吸うたび、鳥居の朱の残りが揺れ、揺れの縁をかすめて白い影が一瞬だけ横切る。見間違いかもしれない。見間違いでよい。見間違いの中で、礼の往復が続いている。
沖田は、火の橋の裏側で、別の伝令の影を切り離した。
斬るのではない。
影の根元にある「目的」を断ち切る。伝令が走る理由は、命令ではない。恐怖だ。恐怖は、群れの端から中心へ向かう。中心へ向かう線に、彼は石をふたつ置いた。見えない石。音の薄い石。走る足は、そこに足を取られる。取られた足は、一拍だけ遅れる。その遅れで、矢野の隊の背は救われる。
互いの名を呼び合わず、互いの方法を知らぬまま、二人は地形と火と雨に同じ注文をつけていた。注文が一致すれば、夜は動く。夜が動けば、刃は少しだけ軽くなる。
火のそばで、また捕虜を弄ぶ気配がした。
今度は、さっきよりひどい。
声が笑いに似ている。笑いは、湿った焚き木と同じだ。火にならないで煙だけ出す。煙は、目を痛め、判断を遅らせる。沖田は、ため息の代わりに、薄く笑った。飄々とした笑いは、時に刃に似る。刃は、ひとつの手を選んだ。
振り上げられた棒の根元へ、彼は水を落とした。落ちた水が、滑りとなって力の方向を逸らし、逸れた棒は地面の石に自分で当たって折れた。折れた棒の先を握っていた手が怒りで形を変え、指の力が増す。増えた力は、刃で断たれるのに向いている。
今度は、肘を断たなかった。
手首でもない。
親指の付け根、掌の要を、皮一枚分だけ浅く切った。
痛みが、残る。
残るが、傷は浅い。浅い傷は、忘れない。忘れない者は、次に同じ暴走をしない。善悪ではない。均衡だ。雨の夜にふさわしい重さの分配の仕方だ。
「おやめなさい」
誰にともなく、首を振っただけで、その場は収まった。収まったあとで、彼はまた手を雨に差し出し、血の線を薄めた。薄めながら、海を思い出し、遠い血の匂いを思い出し、自分の嗜虐が短く笑うのを感じて、同じくらい短く、それを喉の奥で殺した。
矢野は、最後尾で、自分の「死ぬ気」が隊の背を軽くするのを、皮膚で感じていた。
死ぬ気は、死ぬためのものではない。自分が死ぬと決めることで、他の者が「死なない」で済む。この計算は単純だ。単純な計算は、戦の場で最も複雑な結果を生む。彼は槍の石突きを冷たい泥に置き、踏み込んできた敵の足の甲に鞘を当て、ずらし、肩で押し、腰を切った。切るのではない。切るふりをして、「切られない」を相手に渡す。渡された者は、命を拾う。その場の勢いをなくし、別の方向へ去る。去る背は、追わない。追えば、こちらが死ぬ。
「ここで死ぬのは、俺だ」
骨に書いた言葉が、筋肉の節に変わり、節が関節を守る。守られた関節で、彼はもう一度、相手の踏みしろを奪った。
負傷兵の列は、雨の梯子を半ばまで上がっている。
標の木札が雨を吸って重く、だが重さのぶんだけ、地に食い、食ったぶんだけ、明け方まで残る。残るものがある限り、人は戻れる。戻る場所がある限り、人は進める。進みながら、矢野は背後の音の変化を耳の奥で拾った。拾ったのは、音ではない。音の欠落。先ほどの太鼓の一打の余韻が、まだ骨に響いている。余韻は、判断より先に身体を動かす。動いた身体は、たしかに正しい方向へ向く。
「急げ」
言葉は短く、しかし足は長くなった。長くなった足は、滑らない。雨が梯子の段を均等に濡らし、濡れた段は、彼らの靴底を受け入れる。
沖田は、伝令の筒を三本、雨の溝に沈めた。
沈めると、墨は滲み、文字は海の図になる。海の図は、読むものに道を与えない。与えない地図は、夜の理に適う。彼は沈めながら、空気の厚みが変わるのを感じた。心臓の皮膚——あの三角の核——が、薄く震え、斜面の向こうで呼吸をひとつ漏らした。漏らした呼吸に、彼は返礼の意味で、太鼓へ短い一打を贈った。太鼓は濡れ、音は失われるはずだが、今夜は失われない。失われないのは、音ではなく、意味だ。
その意味が、雨を介して、背中合わせのどこかへ届く。
捕虜の背が起き上がろうとしたのを、彼は片手で制した。
「動くな」
声に温度はない。温度がない声だけが、雨の中でよく聞こえる。捕虜は、彼の指の形を見て従った。従うという行為は、骨の疲労を遅らせる。遅れが生まれたあいだに、沖田は火の橋の横へ移り、濡れた草を手首で払って、泥の上へ薄い足跡をいくつも重ねた。重なる足跡は、尾根へ向く。向いていながら、誰もそこへ行かない。行かない道が、ここには無数にある。無数の行かない道の間を、彼は通る。通ることが、切ることに等しい夜がある。
矢野の背で、敵の足音がひとつ、二つ、重なり、やがて揃った。
揃うというのは、勇気が集まった徴だ。集まった勇気を、彼はわずかに散らした。散らし方は、先ほどと同じ——踏みしろを奪う。奪いながら、彼は骨に書いた文を少しだけ書き換えた。
ここで死ぬのは、俺だ。
だが、いまではない。
いまではないという判断を、太鼓の一打が支持している。支持を受けた判断は、群れを速くする。速くなった群れの背に、彼は目を置き、手を置かず、ただ呼吸の数だけを数えた。数がそろう。そろいながら、彼らは火の橋に目をくれず、雨の梯子を上がる。
火の橋の向こうで、白い影が一度だけ斜面を横切った。
矢野の眼は、それを追わない。
追わないという行為は、勇気の逆ではない。礼だ。礼は、戦いの中で最も贅沢なものだ。贅沢を許すのは、雨と、島と、いくつかの偶然。偶然に礼を返す方法は、少ない。少ない中で、彼が選べるのは、背の守り方と、死ぬ場所の選び方だけだ。
「ここで死ぬのは、俺だ」
もう一度、骨に書いた。書いた直後に、耳の奥で、太鼓の一打がふたたび、遠くで生まれた。今度はさらに浅い。浅いのに、深く届く。不思議な一致。言葉ではない合図が、雨の下で交わされている。交わされるたび、夜は傾き、傾いた分だけ、彼らは長生きする。
沖田は、ふいに自分の嗜虐の舌が、雨では濡れないことを思い出した。
思い出した瞬間、舌は鉄の味を探し、その代わりに海の味をぬるく思い浮かべ、つまらぬと笑って、また喉の奥で殺した。殺すという行為は、彼にとって、いつでも刃より難しい。難しいことをやったあとは、必ず埋葬の手が現れる。現れた手で、彼は近くの死者の瞼を閉じた。瞼の上で、雨が滑った。滑った水が、まばたきの代わりをし、死者は、夜の別の層へ落ちていった。
「静殿、あれは——」
若い斥候が口を開けかけ、沖田は首を横に振った。
「見るな」
見ると、判定が入る。判定は、刃を鈍らせる。鈍らせた刃は、暴力に負ける。負ける前に、彼は斥候の肩を軽く押した。押すという動作は、矢野が兵の肩にやっていたのと同じに見える。見えるだけかもしれない。見間違いでよい。見間違いの中で、やり方は伝わる。伝わったものだけが、雨に負けない。
矢野の小隊は、梯子の頂に達し、細い尾根筋へ出た。
尾根の上では風が強い。強い風は、火の橋の錯覚を吹き払う。吹き払われた錯覚の下で、地面の本当の傾斜が現れる。現れた傾斜に、担架の角度を合わせる。合わせるのは、筋の習いで、誰も言葉にしない。言葉にした途端、失敗することがある。言葉の代わりに、彼は護符へ指を当て、紙の角で皮膚を少し痛めた。痛みは、覚醒の友だ。
背後の土に、重い何かが落ちる気配がした。
追ってきた敵兵の誰かが、滑って膝を打ったのだろう。打った膝の痛みが群れに伝染すれば、追撃の目は鈍る。鈍った目は、見間違いを増やす。見間違いの中で、矢野は小さく息を吐いた。吐いた息は、雨に薄められ、骨の中の太鼓の余韻だけが残る。
彼は、最後尾から二番目へ移り、最年長の兵を後ろに置いた。老いた背は、若い背より長持ちする。持ち場を替えるだけで、列全体の持久が変わる。変わるたび、夜の機嫌が少しだけ良くなる。
沖田は、斜面の中腹で体を横へ滑らせ、尾根の陰に沿って進んだ。
火の橋の明滅が、雨に和らげられ、誰かの記憶の中で道のかたちへ固まりつつある。固まった記憶ほど、壊しやすい。壊すために、彼は明滅のリズムをずらした。火に息を吹きかけるのではない。火のそばに溜まった湿りを、手首で切ってやる。湿りは、火の敵だ。敵の敵は、味方に似る。似ているものは、よく働く。
明滅が崩れ、火の橋は橋であることをやめる。やめた瞬間に、人の列の前後は分からなくなる。分からないものの間を、彼は通す。通すことで、誰かの背を救う。背を救うことと、刃を救うことは、今夜は同じ意味だ。
矢野は、尾根の上で一度だけ立ち止まった。
止まり方は短い。短い停止は、全体の速度を上げる。止まらずに行けば、足は伸び続け、やがて切れる。切れる前に短く止まり、呼吸を整え、筋を伸ばし、標の方向を確かめ、次へ移る。移るたび、背の借りの形が胸の中で変わっていく。
借り。
言葉にすれば軽くなる。軽くなってはいけない。彼は、言葉を飲み込んだ。飲み込んだ言葉は血肉になり、血肉は歩幅になる。歩幅に変わった借りは、夜の背骨の隙間へ入り込み、彼を立たせる。
雨はなお降り続き、等しくすべてを濡らしている。
公平さは残酷だ。
だが、残酷の中でこそ、礼が生きる。
礼は、太鼓の一打に似て、短く、深く、名を呼ばない。それでいて、確かに届く。届いた先で、誰かが生き、誰かが死なずに済み、誰かが刃を抜かずに済む。済んだものの総量が、今夜の戦の勝敗より、はるかに大きい。
沖田は、黒い雨の梯子を下り、別の梯子を上り、尾根の裏側で、一瞬だけ立ち止まって耳を澄ました。
太鼓は、もう鳴らない。鳴らす必要がない。
代わりに、土の中で、水が小さく笑った。笑いは、音にならない。音にならない笑いだけが、島の心臓の皮膚を微かに震わせる。震えは、礼の返礼だ。返礼を受け取った気がして、彼は肩をすくめ、飄々と、雨の中へと溶けた。
矢野は、尾根の上で振り返らずに、ただ一度だけ胸に手を当てた。
護符の角が、皮膚へ押しつけられ、痛みが短く灯る。灯りは、火ではなく、雨の中の目印だ。目印がある限り、人は迷わない。迷いは、敵と味方を同じ濡れた土の上に置き、同じ雨の梯子を上らせる。上りきった先で、彼はようやく息を吐いた。吐いた息は、笑いに似た形をしていた。誰にも見せない笑い。自分の骨の内側だけに許した笑いだ。
火の橋は、雨に溶けた。
雨の梯子は、まだ続いている。
その上を、名前を呼ばれぬ者たちが、それぞれの骨に書いた言葉と、雨に溶かした血の匂いと、返すべき借りの形とを抱えたまま、すれ違い、追い抜き、追い抜かれず、同じ方向へ、すこしだけ角度を違えて進んでいく。
角度の違いは、いつか交わるために、夜が用意した余白だ。
余白の上に、太鼓の一打の記憶が、長く、薄く、光っていた。
雨は夜の背骨を一本ずつ撫でていた。
音は細く、数は多く、ひとつひとつが人の呼吸より軽い。山から降りた風が社殿の背を回って入江の口で止まり、湿った冷たさだけを置いていく。鳥居の朱はもうほとんど水へ融け、海はその色を受け取りながらも、何の記録も残さない。島全体が記録を嫌っている。名を呼ばれぬ島の夜は、すべてを均して、濡れた布のように折り畳んでから、誰にも渡さない。
沖田静は、その布の裏側を歩いていた。
白装束の上の黒い合羽は、雨を吸うほど軽くなる。濡れた布が肩に貼りつき、動作の角をひとつずつ落としていく。彼は指先で空気の厚みを測り、薄い場所だけを選んで進んだ。敵陣の息の出入り口は、昼と夜とで違う。夜は、声より先に湿りが出入りする。湿りの裂け目こそ、伝令線の脆いところだ。
最初の伝令は、まだ若かった。
腰に結んだ小さな太刀が雨で鞘口を膨らませ、布の端には泥ではなく灰がこびりついている。さっき火のそばにいたのだ。火は、夜に安心の嘘をつく。安心の嘘を一度でも飲んだ者は、雨の味を忘れる。雨の味を忘れた足は、黒い道の縁に立ったとき、必ず一度、滑る。沖田は滑る音を待った。待つという行為は、刃の一種だ。
音がした。
彼は、刃を出さなかった。出す必要がない。若い伝令の背がわずかに反った瞬間、彼はその肩と土のあいだに掌を差し入れ、勢いを殺してやった。若い背の骨が驚きに鳴る。鳴った骨の位置に、彼は人差し指で軽く触れた。触れられた骨は、その夜のあいだ、生き延びようとする方向に自ら傾く。傾かせたまま、彼は若者の腰紐を引き、伝令筒だけを抜き取った。
若者は、気づかない。
気づかぬまま、別の方向へ走る。方向が少し違えば、伝令は伝令でなくなる。伝令でないものは、夜にうまく溶ける。溶けた跡に、空気の薄さがひとつ生まれ、それが、道になる。
筒の中の紙は、雨の匂いで膨らんでいた。
彼は口で端を噛み、墨の味を舌に乗せ、文字の骨だけを飲み込んだ。「退かず」「持ち堪えよ」「火を回せ」。命令が短いほど、群れは迷う。迷いが増えるほど、刃は軽くなる。軽い刃は、斬らずに済む回数を増やす。増えすぎれば、彼は飽きる。飽きる前に、別の伝令線を切った。
狼煙は、今夜、役に立たない。
風が裂き、雨が揉んで、煙は輪郭を保てない。だからこそ、人は耳へ戻ってくる。耳へ戻ってきた途端、夜は意味を取り戻す。太鼓は湿っていて、鳴らせば混乱する。鳴らさなければ、沈黙が合図の形をとる。沈黙そのものへ、彼は指を置いた。社殿裏の土を爪の根で軽く擦り、すすけた岩に呼吸をひとつ預け、入江の喉で水を一度だけ跳ねさせた。跳ねた水は音を持たないが、伝令線のどこかで、欠落の形だけを残す。欠落が二つ、三つ。足を踏み替えた兵が、ふいに自分の列を疑う。疑いは、刃の味方だ。
火のそばへ戻った斥候が、捕らえた男の髻を掴み、泥に顔を押しつけていた。
周囲にいた味方は、興奮のなかで、それを娯楽に変えようとしている。暗闇は、人を残酷にする。残酷へ寄りかかって、恐怖から退がろうとする。沖田は、彼らを見るでもなく見た。見たというのは、体に覚えさせる、という意味だ。髻を掴む手。刃を振り上げる肩。囃し立てる喉。
彼は歩いた。
歩いて、囃し立てた喉の主を横目に置き、刃を振り上げた腕の肘の内側へ、鞘のまま手首で打ち込んだ。骨が乾いた音を出す前に、もう一方の掌で髻を掴む手首の腱を切った。刃は短く、動きも短い。短いものだけが夜に合う。
悲鳴を上げたのは、捕虜ではなかった。
腕を打たれ、腱を断たれた味方だ。
「何を――」
言葉を最後まで使わせる暇を、彼は与えなかった。飄々とした笑みの端だけを残し、刃を持たぬほうの手で相手の頬を掴み、土へ押しつけた。押しつける加減は、埋葬の手よりわずかに強く、殺しの手よりは、はるかに弱い。
囃し立てていた者たちの声が、雨よりも薄くなる。
沖田は視線を捕虜へ移した。目は合わない。合わす必要がない。刃が仕事をしたのは、捕虜のためではない。夜のためだ。夜が均されるのを手伝うこと。均されなかった場所を、刃で均すこと。残虐に対する残虐は、善悪ではなく、重さの足し引きだ。
終えると、彼は血に濡れた手を雨に差し出した。
雨は丁寧で、彼の指先の血を一本ずつ洗い、掌の皺に入り込んだ赤い線まで薄くしていく。
「海に流れれば、たちまち薄まる」
飄々とした口調で、誰にともなく言い、深い息を吐いた。吐いた息が白いかどうか、彼は確かめない。白さは冬の記憶に属し、今は雨だ。
同行していた若い斥候が、口の中で何かを堪えていた。吐き気は、恐怖と同じところから来る。恐怖は、骨へ降ろしてやれば役に立つ。吐き気は降ろせない。降ろせないものは、雨に持っていかせるしかない。若者は唇を噛んで、耐えた。耐え方が良かった。良い耐え方は、翌朝の歩幅に残る。
伝令線は切れ、次の列は自分の前後を疑いはじめた。
疑いが生まれると、火は橋になる。
燃えない檜皮へ火矢がしつこく舐めつづけ、その赤い舌が、夜の視界に細長い道の錯覚を作る。人は炎を道と思い、そこへ寄ってくる。寄るには、周囲を捨てる。不用意に捨てられた周囲の空白が、黒い通路の起点になる。沖田は、火の橋の手前の泥へ、わざと一度、足跡を深く刻んだ。深い足跡は、見張りの目を呼ぶ。呼んだ目は、橋へ向き直る。向き直った瞬間に、彼は逆側の雨の梯子を上る。梯子は、斜面に沿って垂れる水の筋。筋の間隔は均一で、そこに体を差し入れると、音が薄くなる。薄い音は、刃より鋭い。
黒い雨の段をひとつ、ふたつ、彼は上がった。
上がりながら、真上の葉の裏に溜まった水を爪で弾き、落ちる拍を乱していく。乱された拍は、巡回の足音と重なり合わなくなる。重ならなくなった瞬間に、巡回は疑う。疑いは、刃の味方だ。彼は、味方を増やしながら、斜面の中腹で足を止めた。生じた空白に、風が小さく溜まる。風は喉の手前で震え、遠くの誰かの声を運びかけて、やめる。やめた声の残骸が、彼の耳の中で砂のようにこすれた。
矢野蓮は、別の場所で、同じ砂を耳の中に感じていた。
退路は標の列でかろうじてかたちを保っている。標の木札は濡れて重く、しかし重いほど地面へ深く噛み、噛んだ分だけ夜に残る。彼は、負傷兵を先に動かした。動かす順番は、いつも恨みを生む。恨みは、あとで雨が洗ってくれる。今は、足の裏の泥を払ってやる手しか、持たない。
「次の曲がりで、替われ」
担ぎ手の肩と肩のあいだへ指を差し入れて、矢野は短く命じた。肩は濡れ、皮膚は冷え、筋は緊張で短くなっている。短い筋ほど、痛みをはっきり持つ。痛みは、判断の敵だ。肩を揉まない。揉めば、そこへ人の気配が残る。残った気配は、刃を呼ぶ。短い命令だけで、肩は替わり、負傷兵の唇が少し色を取り戻す。
「ここで死ぬな」
いつもの言葉を、彼は何度も配った。配るたび、言葉そのものは薄くなる。薄くなった言葉の代わりに、手の動作が濃く残る。濃く残った動作が、別の者の骨に移る。骨で受け渡されたものは、雨に負けない。
火の橋が、彼の隊の視界にも現れた。
燃えない木肌を舐める火は、道の錯覚を与える。錯覚は、恐怖とよく似合う。恐怖は、道を早足で渡らせる。早足は、崩れる。崩れる前に、彼は手を上げた。掌を、火の橋と反対側へ向ける。向けただけで、兵は理解した。理解に時間を要しない集団ほど、夜に強い。
「負傷者を先に――」
言いかけたとき、彼は言葉をやめた。
音が、一枚、剥がれたからだ。
遠くで、鳴らさないはずの太鼓が、雨の向こうでほんの一打、低く、短く、骨の底へ届いた。誰の手でもない手で叩かれたような、音というより震え。
道が空いた。
彼は、言葉にせずに頷いた。頷いた動作が、最年長の兵の目に入り、兵は息を合わせ、担架を斜めに上げ、火の橋から視線を外して、雨の梯子を選んだ。選ばれた梯子は、斜面の水の筋。筋に身を置くと、音が薄い。薄い音は、戦の味方だ。
後方から、追いついてきた敵が、喚声を上げかけて、雨に口を塞がれた。
矢野は、最後尾に残った。
誰かがそこで足止めをせねば、前は無事に動けない。「ここで死ぬのは、俺だ」と、彼は骨に書いた。書いた文字は誰にも見えない。見えないまま、槍を短く持ち替え、刀を半寸だけ抜いて、鞘と柄をひとつの棒のように扱う。棒は、雨の中でよく働く。叩くのではない。斜めに据え、相手の足の踏みしろだけを奪う。踏みしろを失った足は、戦意の半分を失う。半分で済むのだ。半分を残すことが、夜の礼だ。
前では、負傷兵の列が雨の梯子を上がっていく。肩の高さが揃い、担架の角度が安定し、標の向きが正確に読み替えられていく。読み替えられた標の先で、風が少し変わった。海が息を吸う。吸うたび、鳥居の朱の残りが揺れ、揺れの縁をかすめて白い影が一瞬だけ横切る。見間違いかもしれない。見間違いでよい。見間違いの中で、礼の往復が続いている。
沖田は、火の橋の裏側で、別の伝令の影を切り離した。
斬るのではない。
影の根元にある「目的」を断ち切る。伝令が走る理由は、命令ではない。恐怖だ。恐怖は、群れの端から中心へ向かう。中心へ向かう線に、彼は石をふたつ置いた。見えない石。音の薄い石。走る足は、そこに足を取られる。取られた足は、一拍だけ遅れる。その遅れで、矢野の隊の背は救われる。
互いの名を呼び合わず、互いの方法を知らぬまま、二人は地形と火と雨に同じ注文をつけていた。注文が一致すれば、夜は動く。夜が動けば、刃は少しだけ軽くなる。
火のそばで、また捕虜を弄ぶ気配がした。
今度は、さっきよりひどい。
声が笑いに似ている。笑いは、湿った焚き木と同じだ。火にならないで煙だけ出す。煙は、目を痛め、判断を遅らせる。沖田は、ため息の代わりに、薄く笑った。飄々とした笑いは、時に刃に似る。刃は、ひとつの手を選んだ。
振り上げられた棒の根元へ、彼は水を落とした。落ちた水が、滑りとなって力の方向を逸らし、逸れた棒は地面の石に自分で当たって折れた。折れた棒の先を握っていた手が怒りで形を変え、指の力が増す。増えた力は、刃で断たれるのに向いている。
今度は、肘を断たなかった。
手首でもない。
親指の付け根、掌の要を、皮一枚分だけ浅く切った。
痛みが、残る。
残るが、傷は浅い。浅い傷は、忘れない。忘れない者は、次に同じ暴走をしない。善悪ではない。均衡だ。雨の夜にふさわしい重さの分配の仕方だ。
「おやめなさい」
誰にともなく、首を振っただけで、その場は収まった。収まったあとで、彼はまた手を雨に差し出し、血の線を薄めた。薄めながら、海を思い出し、遠い血の匂いを思い出し、自分の嗜虐が短く笑うのを感じて、同じくらい短く、それを喉の奥で殺した。
矢野は、最後尾で、自分の「死ぬ気」が隊の背を軽くするのを、皮膚で感じていた。
死ぬ気は、死ぬためのものではない。自分が死ぬと決めることで、他の者が「死なない」で済む。この計算は単純だ。単純な計算は、戦の場で最も複雑な結果を生む。彼は槍の石突きを冷たい泥に置き、踏み込んできた敵の足の甲に鞘を当て、ずらし、肩で押し、腰を切った。切るのではない。切るふりをして、「切られない」を相手に渡す。渡された者は、命を拾う。その場の勢いをなくし、別の方向へ去る。去る背は、追わない。追えば、こちらが死ぬ。
「ここで死ぬのは、俺だ」
骨に書いた言葉が、筋肉の節に変わり、節が関節を守る。守られた関節で、彼はもう一度、相手の踏みしろを奪った。
負傷兵の列は、雨の梯子を半ばまで上がっている。
標の木札が雨を吸って重く、だが重さのぶんだけ、地に食い、食ったぶんだけ、明け方まで残る。残るものがある限り、人は戻れる。戻る場所がある限り、人は進める。進みながら、矢野は背後の音の変化を耳の奥で拾った。拾ったのは、音ではない。音の欠落。先ほどの太鼓の一打の余韻が、まだ骨に響いている。余韻は、判断より先に身体を動かす。動いた身体は、たしかに正しい方向へ向く。
「急げ」
言葉は短く、しかし足は長くなった。長くなった足は、滑らない。雨が梯子の段を均等に濡らし、濡れた段は、彼らの靴底を受け入れる。
沖田は、伝令の筒を三本、雨の溝に沈めた。
沈めると、墨は滲み、文字は海の図になる。海の図は、読むものに道を与えない。与えない地図は、夜の理に適う。彼は沈めながら、空気の厚みが変わるのを感じた。心臓の皮膚——あの三角の核——が、薄く震え、斜面の向こうで呼吸をひとつ漏らした。漏らした呼吸に、彼は返礼の意味で、太鼓へ短い一打を贈った。太鼓は濡れ、音は失われるはずだが、今夜は失われない。失われないのは、音ではなく、意味だ。
その意味が、雨を介して、背中合わせのどこかへ届く。
捕虜の背が起き上がろうとしたのを、彼は片手で制した。
「動くな」
声に温度はない。温度がない声だけが、雨の中でよく聞こえる。捕虜は、彼の指の形を見て従った。従うという行為は、骨の疲労を遅らせる。遅れが生まれたあいだに、沖田は火の橋の横へ移り、濡れた草を手首で払って、泥の上へ薄い足跡をいくつも重ねた。重なる足跡は、尾根へ向く。向いていながら、誰もそこへ行かない。行かない道が、ここには無数にある。無数の行かない道の間を、彼は通る。通ることが、切ることに等しい夜がある。
矢野の背で、敵の足音がひとつ、二つ、重なり、やがて揃った。
揃うというのは、勇気が集まった徴だ。集まった勇気を、彼はわずかに散らした。散らし方は、先ほどと同じ——踏みしろを奪う。奪いながら、彼は骨に書いた文を少しだけ書き換えた。
ここで死ぬのは、俺だ。
だが、いまではない。
いまではないという判断を、太鼓の一打が支持している。支持を受けた判断は、群れを速くする。速くなった群れの背に、彼は目を置き、手を置かず、ただ呼吸の数だけを数えた。数がそろう。そろいながら、彼らは火の橋に目をくれず、雨の梯子を上がる。
火の橋の向こうで、白い影が一度だけ斜面を横切った。
矢野の眼は、それを追わない。
追わないという行為は、勇気の逆ではない。礼だ。礼は、戦いの中で最も贅沢なものだ。贅沢を許すのは、雨と、島と、いくつかの偶然。偶然に礼を返す方法は、少ない。少ない中で、彼が選べるのは、背の守り方と、死ぬ場所の選び方だけだ。
「ここで死ぬのは、俺だ」
もう一度、骨に書いた。書いた直後に、耳の奥で、太鼓の一打がふたたび、遠くで生まれた。今度はさらに浅い。浅いのに、深く届く。不思議な一致。言葉ではない合図が、雨の下で交わされている。交わされるたび、夜は傾き、傾いた分だけ、彼らは長生きする。
沖田は、ふいに自分の嗜虐の舌が、雨では濡れないことを思い出した。
思い出した瞬間、舌は鉄の味を探し、その代わりに海の味をぬるく思い浮かべ、つまらぬと笑って、また喉の奥で殺した。殺すという行為は、彼にとって、いつでも刃より難しい。難しいことをやったあとは、必ず埋葬の手が現れる。現れた手で、彼は近くの死者の瞼を閉じた。瞼の上で、雨が滑った。滑った水が、まばたきの代わりをし、死者は、夜の別の層へ落ちていった。
「静殿、あれは——」
若い斥候が口を開けかけ、沖田は首を横に振った。
「見るな」
見ると、判定が入る。判定は、刃を鈍らせる。鈍らせた刃は、暴力に負ける。負ける前に、彼は斥候の肩を軽く押した。押すという動作は、矢野が兵の肩にやっていたのと同じに見える。見えるだけかもしれない。見間違いでよい。見間違いの中で、やり方は伝わる。伝わったものだけが、雨に負けない。
矢野の小隊は、梯子の頂に達し、細い尾根筋へ出た。
尾根の上では風が強い。強い風は、火の橋の錯覚を吹き払う。吹き払われた錯覚の下で、地面の本当の傾斜が現れる。現れた傾斜に、担架の角度を合わせる。合わせるのは、筋の習いで、誰も言葉にしない。言葉にした途端、失敗することがある。言葉の代わりに、彼は護符へ指を当て、紙の角で皮膚を少し痛めた。痛みは、覚醒の友だ。
背後の土に、重い何かが落ちる気配がした。
追ってきた敵兵の誰かが、滑って膝を打ったのだろう。打った膝の痛みが群れに伝染すれば、追撃の目は鈍る。鈍った目は、見間違いを増やす。見間違いの中で、矢野は小さく息を吐いた。吐いた息は、雨に薄められ、骨の中の太鼓の余韻だけが残る。
彼は、最後尾から二番目へ移り、最年長の兵を後ろに置いた。老いた背は、若い背より長持ちする。持ち場を替えるだけで、列全体の持久が変わる。変わるたび、夜の機嫌が少しだけ良くなる。
沖田は、斜面の中腹で体を横へ滑らせ、尾根の陰に沿って進んだ。
火の橋の明滅が、雨に和らげられ、誰かの記憶の中で道のかたちへ固まりつつある。固まった記憶ほど、壊しやすい。壊すために、彼は明滅のリズムをずらした。火に息を吹きかけるのではない。火のそばに溜まった湿りを、手首で切ってやる。湿りは、火の敵だ。敵の敵は、味方に似る。似ているものは、よく働く。
明滅が崩れ、火の橋は橋であることをやめる。やめた瞬間に、人の列の前後は分からなくなる。分からないものの間を、彼は通す。通すことで、誰かの背を救う。背を救うことと、刃を救うことは、今夜は同じ意味だ。
矢野は、尾根の上で一度だけ立ち止まった。
止まり方は短い。短い停止は、全体の速度を上げる。止まらずに行けば、足は伸び続け、やがて切れる。切れる前に短く止まり、呼吸を整え、筋を伸ばし、標の方向を確かめ、次へ移る。移るたび、背の借りの形が胸の中で変わっていく。
借り。
言葉にすれば軽くなる。軽くなってはいけない。彼は、言葉を飲み込んだ。飲み込んだ言葉は血肉になり、血肉は歩幅になる。歩幅に変わった借りは、夜の背骨の隙間へ入り込み、彼を立たせる。
雨はなお降り続き、等しくすべてを濡らしている。
公平さは残酷だ。
だが、残酷の中でこそ、礼が生きる。
礼は、太鼓の一打に似て、短く、深く、名を呼ばない。それでいて、確かに届く。届いた先で、誰かが生き、誰かが死なずに済み、誰かが刃を抜かずに済む。済んだものの総量が、今夜の戦の勝敗より、はるかに大きい。
沖田は、黒い雨の梯子を下り、別の梯子を上り、尾根の裏側で、一瞬だけ立ち止まって耳を澄ました。
太鼓は、もう鳴らない。鳴らす必要がない。
代わりに、土の中で、水が小さく笑った。笑いは、音にならない。音にならない笑いだけが、島の心臓の皮膚を微かに震わせる。震えは、礼の返礼だ。返礼を受け取った気がして、彼は肩をすくめ、飄々と、雨の中へと溶けた。
矢野は、尾根の上で振り返らずに、ただ一度だけ胸に手を当てた。
護符の角が、皮膚へ押しつけられ、痛みが短く灯る。灯りは、火ではなく、雨の中の目印だ。目印がある限り、人は迷わない。迷いは、敵と味方を同じ濡れた土の上に置き、同じ雨の梯子を上らせる。上りきった先で、彼はようやく息を吐いた。吐いた息は、笑いに似た形をしていた。誰にも見せない笑い。自分の骨の内側だけに許した笑いだ。
火の橋は、雨に溶けた。
雨の梯子は、まだ続いている。
その上を、名前を呼ばれぬ者たちが、それぞれの骨に書いた言葉と、雨に溶かした血の匂いと、返すべき借りの形とを抱えたまま、すれ違い、追い抜き、追い抜かれず、同じ方向へ、すこしだけ角度を違えて進んでいく。
角度の違いは、いつか交わるために、夜が用意した余白だ。
余白の上に、太鼓の一打の記憶が、長く、薄く、光っていた。



