第五話 潮闇の潜入
丑寅の刻。
雨は刃の目を細くするためだけに降っているように思えた。粒は小さく、数は多い。風が山から降りてきて、社殿の背をなで、入江の口でよどみ、音を重ねながら、ついには音そのものを潰してしまう。灯は濡れた手で覆われ、声は胸の内で折りたたまれ、足は自分の重さを忘れはじめている。夜は、島の上に、もう一枚、薄い皮膜を重ねた。
沖田静は、白装束の上に黒の雨合羽を重ねた。黒は濡れて光を吸い、白は内側で沈む。二つの色は境を失い、泥と血と雨が、同じ濃さの同じ温度になった。紐の結び目は片側だけをわずかに長く、歩幅の深さに合わせて布の鳴りを殺す。靴の底に通した細い麻の繊維が、水を吸って重くなり、しかしその重さが、足音の角を舐め取る。刃は鞘に眠ったまま、掌の血の匂いだけをゆるやかに吸い続けていた。
彼は立ち止まり、雨に耳を澄ました。
呼吸の列。
兵の寝返り。
火口にかぶせた鉢のへりを、雨粒がたたく鈍い音。
遠くで鹿が短く鳴き、それがいま夜の中にいないことを確かめるための合図のように一度だけ跳ねた。
音は多いのに、薄い。薄い音は、数えやすい。数えられる音だけが、刃の味方だ。彼は数えた。息が三で、寝返りが二で、鉢の音が不規則で、それでも巡回の足の重さが五の間で繰り返される。五の間の端に、斥候長の歩みがある。歩幅は静かだが、間合いを誤っている。誤りは、雨に似せて隠される。隠されたものほど、刃にかかりやすい。
黒い道は、鳥居の根から社殿裏へ、その斜面をかすめ、獣道のような山道を舐め、入江の喉元に向かって伸びている。昼間に置いた白い小石は、もう雨に洗われて見えない。それでいい。見えないものを、体は覚えている。彼は体の中の小石を踏み、肩を少し前に寄せ、雨合羽の裾を膝に巻きつけるようにして、闇の膜へ身体を滑らせた。
最初の見張りは、声を飼っていた。
寝ぼけた声、退屈の声、恐怖に火の粉を足すための無意味なおしゃべり。
彼は、声の静脈を指で押さえるように、足の角度をひとつ変え、土の柔らかさを膝で量り、斜めに踏み出した。草の先端に雨が一つ、二つ、三つ。三で、彼は息を止め、四で、刃の重さを掌に移し、五で、刃の先を鞘から一寸だけ出した。出した刃は、音を吸い、雨粒を二つ飲み、三つ目の粒を、唇で受けた。鉄の味は、もう遠い。遠い味は、今夜の邪魔をしない。
見張りの横顔が、雨の膜の向こうに現れては消えた。彼は、横顔の呼吸の谷間を数え、その谷間に、体を滑り込ませた。刃はまだ眠っている。眠っている刃で、彼は見張りの足首に触れ、腱のあるべき線を指の腹でなぞった。なぞりきらぬ寸前に、角度を知っている刃が、眠りのふりをやめた。音は出なかった。出ない代わりに、男の息が一度だけ、大きく吸われ、そこで止まった。止まった息は、声になる。声は、陣の内側へ伝令より早く忍び込む。
彼は男を置いた。
置いたというより、夜の底に戻した。
戻されたものは、夜の別の奥行きを引き連れてくる。奥行きが増えると、斥候の目は手前に寄り、手前に寄った目は、前だけを見る。前だけを見る陣は、横から崩れる。
黒い道は、斜面の曲がりでいったん細くなる。雨で滑る土の、わずかに盛り上がった場所。そこに、人の気配がひとつ、腰を据えていた。斥候長だ。全身の筋が雨に慣れていて、怠けていない。怠けない筋は、刃を跳ね返す。跳ね返された刃は、別の角度を覚える。角度は、彼の骨の中で季節のように入れ替わる。
斥候長の横顔は、火のない夜なのに、薄く明かりを持っていた。目は濡れ、唇は引き結ばれ、耳は風の向きに正直だ。正直な耳は、こちらの息を一度だけ拾った。拾って、拾わなかったふりをした。良い耳だ。良い耳は、音の薄い場所を嫌う。嫌う者ほど、そこに座る。座ったままの者は、最短で死ぬ。
沖田は、刃を一寸、二寸。
そこまで出して、いったん目を閉じた。
癖だ。致命の直前に、一拍だけ目を閉じる。閉じた目の裏で、切らずに済むかを確かめる。確かめる手は、嗜虐の底で小さく震える。震えは、理性の刃を揺らす。揺れた刃は、抜かないという選択をひとつ、増やす。増やした選択のうち、今夜いくつを使えるか。雨が答えないとき、彼は自分の舌で答えを持つ。
切らずに済むか。
斥候長の背後の草の揺れ、裏手の小石の転がる音、遠くの呻き、手前の巡回の足。
彼は、目を開けた。
刀は、眠りをやめ、骨の生きている場所だけを、丁寧に撫でた。斥候長の喉に触れなかった。触れれば、音が出る。音は好きだが、夜は音を嫌う。脇の下から肋骨の間、刃は、雨の筋を真似る。真似された雨だけが、血を薄める。
人の体がひとつ、静かにほどけた。
ほどけるものは、埋葬の方へ傾く。
彼は、刃を拭かず、男の瞼をそっと閉じた。閉じる指先は、刃よりも静かだ。埋葬の手。残虐の直後に現れる、その手のために、彼はいつも刃を持っているのかもしれない。刃は埋葬の前段階だ。埋葬は、刃の余白だ。余白がなければ、殺しは長持ちしない。長持ちしないものは、夜の仕事に向かない。
斥候長の肩から、重みが雨に渡された。渡された重みの欠落に、周囲の空気がわずかに浮く。浮いた空気へ、人は油断という名の砂を撒く。砂は、足を滑らせる。滑った足の音が、今夜の地図にひとつ、印を付けた。
彼は立ち上がり、黒い雨を肩で受けた。肩は濡れて重いが、内側は乾いていた。乾いたところには、昔覚えた数の板がまだ残っている。呼吸、歩幅、雨脚、刃の角度。数の板を指先で弾くと、音は出ないが、夜の厚さが指に伝わる。厚さが薄くなったとき、そこが「通り」だ。通りを、人より先に刃が歩く。
別の見張りが、うっすらとこちらに顔を向けた。おそらく、見えていない。見えないのに、体は先に覚える。覚えた体は、まず不自然に硬くなる。不自然は、刃に似合う。彼は、合羽の裾を指で押さえ、泥の上に膝を置き、膝の圧で水を押しのけ、押しのけた水の音が草の音と重なる瞬間を待った。重なったところで、刃はまた眠るふりをやめた。眠りをやめるたび、彼は目を閉じる。閉じた一拍の間に、切らずに済むかが過ぎる。過ぎたものは、雨に戻る。雨になったものは、夜に長くいる。
入江の喉で、空気が低く鳴った。潮が、道を開ける合図だ。
彼は黒い道の縁に体を滑らせ、社殿の背を舐めて、山道の陰に入った。斥候長を失った見張り線は、枝の根元を切られた木のように、上から順に静かに傾く。倒れた音は出ない。出ないのに、空気の傾きだけで、そこに倒れたことがわかる。わかる者だけが、そこを通る。通る者は、呼吸を持ち寄る。呼吸は、雨に勝つ唯一の音だ。
山道の曲がりで、古い太鼓が雨に濡れていた。皮は湿り、枠は黴の匂いを吸って重く、叩けば、音は出ないに等しい。等しくなった音に、意味は宿りやすい。意味を持たない音は、夜を壊す。意味を持つ音は、夜を生かす。彼は掌をひらりと返し、太鼓の皮に、爪の根で、ほんの一拍、触れた。音とも呼べないほどの浅い震えが、湿った土の中へ降りた。降りた震えは、雨の筋に紛れ、入江の喉をくぐり、島の心臓の皮膚に触れ、そこで、消えない。
その一拍は、矢野蓮の耳に入った。
彼は、太鼓のそばにいなかった。彼の手は、太鼓の縁を掴もうとして、掴まなかった。雨は音を殺す。今鳴らせば、混乱だけが島を走る。彼はそれを知っていたから、鳴らさなかった。鳴らさないという意志は、群れには見えない。見えないものは、すぐに疑われる。疑いの重さを受けながら、彼は巡回を続けた。少数の兵を連れ、負傷者のところへ戻り、口を開けすぎないように水を含ませ、呼吸を合わせさせ、標の位置をさりげなく指差し、声より先に手で合図した。
「隊長、太鼓を――」
部下が言いかけ、彼は首を振った。
「いま鳴らせば、島じゅうが『いま』になる。『いま』が増えれば、道は消える」
「では、いつ」
「いつでもない。鳴らさないことも、合図になる」
彼は視線を雨の向こうへ送り、掌を胸に当てた。護符がそこに湿り、紙の角が肌に貼りついて、拍に合わせて微かに擦れた。擦れる音は、彼だけに聞こえた。
遠く、耳の奥の皮膚をくすぐるほどの浅い震えが、彼の骨へ降りた。太鼓のそれとも、土のそれともつかない。けれど、意味だけが先に到着していた。道が、ひとつ、開いた。
彼は、太鼓へ手を伸ばすふりをしてやめた。「鳴らすな」
部下は不安に揺れた。「合図がなければ、皆……」
「合図は、雨に紛れる」
彼は、兵の肩を軽く叩いた。叩くものは、骨だ。骨に合図を残せ。骨の中の合図は、雨に負けない。
巡回の途上、彼は若い兵の目を見た。目は、噂の名残を抱えていた。首の噂は、声に置換され、いまや「声の刃」という像に変わった。刃は見えないほうが、深く刺さる。刺さったものを抜くのは、言葉ではない。動作だ。彼は、水を渡し、布を巻き、指で標をなぞり、泥を払う。泥を払う仕草は、自分でもうつくしいと思うほど、静謐だった。うつくしさは、雨に似て、人を油断させる。油断で、呼吸がほどける。ほどけた呼吸だけが、夜を渡る。
また一人、彼は抱き起こした。足首の腱が断たれている。沖田の仕事だ、と矢野は言わなかった。言わずに、手でそれを覚え、指に残った欠落の形を、胸の内側に置いた。置いた欠落は、怒りではなかった。怒りで動かない。怒りで動く者は、夜の地図を破る。破れた地図は、午前にしか使えない。今はまだ夜だ。
「ここで死ぬな」
彼は、負傷兵の耳に落とした。声は小さく、耳の内側で広がるように。負傷兵の眼は濁っていたが、濁りの底で、紙のような光がひとつ揺れた。揺れは短く、しかし確かだった。確かなものは、夜に長くいる。
沖田は、斥候長の懐に手を入れた。紙片、細い紐、乾いた梅、火口の欠片。どれも重みを持たない。持たないものは、夜を通過する。通過するものだけが、役に立つ。彼は紙片を水で湿らせ、口の中で軽く噛んだ。味はない。味のない紙は、祈りに似ている。祈りは、刃に従属しない。従属しないものは、安心だ。安心をひとつだけ持ち、彼はまた動いた。
斥候の一人が、こちらに向かって、気配の層を乱すことなく歩いてくる。良い歩きだ。良い歩きの者は、死ぬのが遅い。遅いものからは、詩が採れる。彼は一拍、目を閉じた。切らずに済むか。済むなら、それがよい。済まないなら、刃をよく磨く。磨くのは、埋葬のためだ。
刃は眠りをやめず、彼は肩だけをずらして、相手の視界から自分の輪郭を抜いた。輪郭を持たない者は、見えても見えない。見えないものの脇を、人は通る。通らせて、彼は背を向けた。背を見せることもまた、刃だ。背を見せて、見せない。矢のような雨が、背の白を打った。白は、内側で黒と溶けている。色はもう意味を持たない。
入江の口に、唇のような波が立ち、低く閉じたり開いたりしていた。潮は道を開け、すぐに閉じる。開いているあいだに、彼は足を差し入れた。差し入れた足は、泥ではなく水に沈んだ。水は、泥よりも静かだ。静けさの中に、鳥居の残響が長く漂っている。朱の残響は、目ではなく皮膚で受ける。皮膚に残った朱は、祟りの真似をする。真似だけで十分だ。祟りを呼ぶより、真似を連れて歩け。
矢野は、入江を遠望した。波は口を開けたり閉じたりし、岸の影は濃かった。濃い影は、人の恐怖を呼ぶ。恐怖は、集団を縮める。縮んだ集団は、ひと塊の石になる。石は、押したら動く。押す前に、砂を払え。彼は、兵の肩の泥を払った。払うたび、呼吸の数がそろった。数の揃いは歌に似て、歌は太鼓の代わりに夜をつなぐ。
太鼓のことを、彼はまだ考えていた。
鳴らすという行為は、力を集める。集めた力は、同時に、散る準備を始める。散らすために鳴らす太鼓がある。今は、鳴らさないことで散らさない。散らさないために、彼は巡回の軌跡を重ね合わせ、小さな渦をいくつも作った。渦の中心に、負傷兵、標、水。渦の縁に、恐怖。恐怖は渦の外で回る。外を回るものは、酔う。酔った恐怖は、舌を噛む。噛んだ舌の味は、雨に薄められる。
黒い道の末端で、沖田は、息を一度、殺した。殺した息は、刃の重さに置き換わる。刃の重さは、いま夜の重さと等しい。等しいものは、音を生まない。音を生まない刃だけが、黒い道の底まで沈める。沈んだ刃は、そこから軽く戻る。戻るとき、刃の背で雨を撫でた。撫でられた雨は、しばらく音にならない。音にならないあいだに、伝令が切れる。
斥候長の所在は、もう彼の胸の小石に移っていた。小石は、呼吸に合わせて軽く跳ね、跳ねるたびに、島の心臓の膜を内側から軽く叩いた。叩かれた膜は、雨をより細かくした。細かい雨は、刃の目をさらに細くする。細い目は、よく見える。見えすぎると、人は切りすぎる。切りすぎる前に、目を閉じる。閉じる一拍。彼は、それを捨てなかった。
矢野は、標の列を再確認し、老女の護符を指で押し、指先の皺に湿気を吸わせた。吸わせるという行為は、受け入れの形をしているが、実は調整だ。調整という言葉を、彼は口にしない。口にした途端、兵は命令を待つ。命令より先に、手を待て。手の動きが合えば、命令は要らない。要らないものが増えるほど、夜は静かになる。
太鼓は鳴らない。
しかし、鳴らないという事実が、島のどこかで鳴っていた。
兵の背に、濡れた布の重さが均等に落ちている。均等は、戦において、稀だ。稀な均等は、いつも誰かが見えないところで重りを配っている兆しだ。彼は、その重りの配り方に、遠い礼を感じた。礼の気配は、刃よりも長く残る。
沖田は、入江の喉の岩陰で、ひとりの影がこちらに背を向けているのを見た。斥候長とは別の、若い守り。背が、まだ自分の重さに慣れていない。慣れない背ほど、刃は避ける。避けるために、彼は、刃をしまった。しまって、石を拾い、石を水に落とした。音は、雨に紛れ、波の口でひとつ弾んだ。弾みが伝令の列を乱し、乱された列は、斜面の細道で自分を疑う。疑いは、よい。疑いは、刃の味方だ。
彼は、若い背が、自分に気づかないまま通り過ぎるのを待った。通り過ぎたあと、彼は、その背中に向かって、ごく小さく、掌で空気を押した。押された空気は、彼の指の長さだけ、相手の骨に触れた。骨は、触れられると、なぜだか生き延びる方向へ傾く。傾いた骨のうしろで、彼はまた別の音を拾う。音は薄い。薄いほど、意味が深い。
矢野は、兵の耳に口を近づけた。
「ここで死ぬな」
言葉はもう幾度も繰り返されているのに、古びない。古びないのは、雨が新しくしているからだ。新しくされた言葉は、骨の中で音を変える。変わった音が、太鼓のかわりになる。太鼓は鳴らない。鳴らないことが、彼の中で、確かな合図になりつつあった。
島の心臓は、薄く、しかし確かに震えていた。震えの上で、刃と呼吸が交差し、礼が言葉にならぬまま繰り返され、埋葬の手が、時おりだけ現れては消えた。消えるものほど、深く残る。深く残るものがある限り、夜は崩れない。崩れない夜の底で、黒い道は、さらに深くなる。深い道を、彼は踏み、彼も踏む。踏まれた道は、誰のものでもない。
斥候長の死は、誰にも知られず、しかしつぎの刻に、島はそれをはっきり覚えた。覚えたから、息をひとつ、変えた。息が変われば、雨の粒の角度が変わる。角度が変われば、刃の眠りは浅くなる。浅くなった眠りのふちで、沖田は目を閉じた。閉じて、また開けた。開けた途端に、彼は自分の嗜虐が、夜の底で微笑んでいるのに気づいた。微笑みを、彼は短く殺した。殺したのち、軽く笑った。笑いは、雨に消える。
矢野は、太鼓の縁に触れずに、太鼓の重さを思った。鳴らせば、雨が集まる。雨が集まれば、音は死ぬ。音が死ねば、合図は生きる。生きた合図は、誰のものでもない。誰のものでもない合図だけが、敵と味方のあいだで同じ意味になる。彼は、その同じ意味を、遠くの白に向けて、まだ言葉にもならない礼として返した。返された礼は、雨で磨かれ、骨で受け取られ、夜にしまわれた。
丑寅の刻は過ぎつつあったが、雨はやまず、黒い道はむしろ静かさを増した。増した静けさは、刃より鋭かった。鋭い静けさの中で、沖田は斥候長の瞼を閉じた指の感触を、掌の内側で何度も確かめた。埋葬の手は、彼を人に戻す。戻された人は、また刃を持つ。持ち直した刃は、前よりも静かだ。静かな刃だけが、雨に勝つ。
「道が、ひとつ、空いた」
彼は、誰に向けるでもなく言った。雨が、その言葉を薄くして、海へ渡した。海は聞かない。聞かないかわりに、彼の足の裏を軽くした。軽くなった足で、彼はまた一歩、黒へ入った。
矢野は、護符を指で押し、紙のしわの位置を移した。移したことで、胸の拍に微かなずれが生じ、そのずれが、骨の中で太鼓の代わりに一打、鳴った。鳴らないはずの太鼓が、鳴った。鳴ったという事実は、誰にも届かない。届かない合図は、彼だけを動かす。彼は動いた。動いて、巡回の軌跡を重ね、渦の中心をひとつずらした。ずれた中心に、水と布と標が移る。移るたび、恐怖は渦の外側へ押し出される。
雨は、彼らの上に公平に降っていた。
公平さは、残酷だ。
だが残酷さの中で、人は礼を覚える。礼は、刃を鈍らせる。鈍った刃は、切らないで済む選択を増やす。増えた選択の中で、人ははじめて、殺しの美学と理性の共存という、夜の芸を身につける。芸は、戦に似合わない。似合わないものが、今夜は生き延びた。
鳥居の朱は、ほとんど水に溶けて、痕跡だけを残していた。痕跡は、祟りにも記録にもならない。ならないから、長く残る。長く残るものほど、雨はよく洗う。洗いながら、夜は、もう少しだけ彼らの方へ傾いた。
合図は、いまだに鳴らない。
鳴らないという合図のもとで、白と泥のふたつの影は、同じ潮闇の下、同じ拍を数えていた。
殺せるのに、殺さない一拍。
鳴らせるのに、鳴らさない一拍。
ふたつの一拍が、島の心臓の膜のうえで、はじめて重なった。
丑寅の刻。
雨は刃の目を細くするためだけに降っているように思えた。粒は小さく、数は多い。風が山から降りてきて、社殿の背をなで、入江の口でよどみ、音を重ねながら、ついには音そのものを潰してしまう。灯は濡れた手で覆われ、声は胸の内で折りたたまれ、足は自分の重さを忘れはじめている。夜は、島の上に、もう一枚、薄い皮膜を重ねた。
沖田静は、白装束の上に黒の雨合羽を重ねた。黒は濡れて光を吸い、白は内側で沈む。二つの色は境を失い、泥と血と雨が、同じ濃さの同じ温度になった。紐の結び目は片側だけをわずかに長く、歩幅の深さに合わせて布の鳴りを殺す。靴の底に通した細い麻の繊維が、水を吸って重くなり、しかしその重さが、足音の角を舐め取る。刃は鞘に眠ったまま、掌の血の匂いだけをゆるやかに吸い続けていた。
彼は立ち止まり、雨に耳を澄ました。
呼吸の列。
兵の寝返り。
火口にかぶせた鉢のへりを、雨粒がたたく鈍い音。
遠くで鹿が短く鳴き、それがいま夜の中にいないことを確かめるための合図のように一度だけ跳ねた。
音は多いのに、薄い。薄い音は、数えやすい。数えられる音だけが、刃の味方だ。彼は数えた。息が三で、寝返りが二で、鉢の音が不規則で、それでも巡回の足の重さが五の間で繰り返される。五の間の端に、斥候長の歩みがある。歩幅は静かだが、間合いを誤っている。誤りは、雨に似せて隠される。隠されたものほど、刃にかかりやすい。
黒い道は、鳥居の根から社殿裏へ、その斜面をかすめ、獣道のような山道を舐め、入江の喉元に向かって伸びている。昼間に置いた白い小石は、もう雨に洗われて見えない。それでいい。見えないものを、体は覚えている。彼は体の中の小石を踏み、肩を少し前に寄せ、雨合羽の裾を膝に巻きつけるようにして、闇の膜へ身体を滑らせた。
最初の見張りは、声を飼っていた。
寝ぼけた声、退屈の声、恐怖に火の粉を足すための無意味なおしゃべり。
彼は、声の静脈を指で押さえるように、足の角度をひとつ変え、土の柔らかさを膝で量り、斜めに踏み出した。草の先端に雨が一つ、二つ、三つ。三で、彼は息を止め、四で、刃の重さを掌に移し、五で、刃の先を鞘から一寸だけ出した。出した刃は、音を吸い、雨粒を二つ飲み、三つ目の粒を、唇で受けた。鉄の味は、もう遠い。遠い味は、今夜の邪魔をしない。
見張りの横顔が、雨の膜の向こうに現れては消えた。彼は、横顔の呼吸の谷間を数え、その谷間に、体を滑り込ませた。刃はまだ眠っている。眠っている刃で、彼は見張りの足首に触れ、腱のあるべき線を指の腹でなぞった。なぞりきらぬ寸前に、角度を知っている刃が、眠りのふりをやめた。音は出なかった。出ない代わりに、男の息が一度だけ、大きく吸われ、そこで止まった。止まった息は、声になる。声は、陣の内側へ伝令より早く忍び込む。
彼は男を置いた。
置いたというより、夜の底に戻した。
戻されたものは、夜の別の奥行きを引き連れてくる。奥行きが増えると、斥候の目は手前に寄り、手前に寄った目は、前だけを見る。前だけを見る陣は、横から崩れる。
黒い道は、斜面の曲がりでいったん細くなる。雨で滑る土の、わずかに盛り上がった場所。そこに、人の気配がひとつ、腰を据えていた。斥候長だ。全身の筋が雨に慣れていて、怠けていない。怠けない筋は、刃を跳ね返す。跳ね返された刃は、別の角度を覚える。角度は、彼の骨の中で季節のように入れ替わる。
斥候長の横顔は、火のない夜なのに、薄く明かりを持っていた。目は濡れ、唇は引き結ばれ、耳は風の向きに正直だ。正直な耳は、こちらの息を一度だけ拾った。拾って、拾わなかったふりをした。良い耳だ。良い耳は、音の薄い場所を嫌う。嫌う者ほど、そこに座る。座ったままの者は、最短で死ぬ。
沖田は、刃を一寸、二寸。
そこまで出して、いったん目を閉じた。
癖だ。致命の直前に、一拍だけ目を閉じる。閉じた目の裏で、切らずに済むかを確かめる。確かめる手は、嗜虐の底で小さく震える。震えは、理性の刃を揺らす。揺れた刃は、抜かないという選択をひとつ、増やす。増やした選択のうち、今夜いくつを使えるか。雨が答えないとき、彼は自分の舌で答えを持つ。
切らずに済むか。
斥候長の背後の草の揺れ、裏手の小石の転がる音、遠くの呻き、手前の巡回の足。
彼は、目を開けた。
刀は、眠りをやめ、骨の生きている場所だけを、丁寧に撫でた。斥候長の喉に触れなかった。触れれば、音が出る。音は好きだが、夜は音を嫌う。脇の下から肋骨の間、刃は、雨の筋を真似る。真似された雨だけが、血を薄める。
人の体がひとつ、静かにほどけた。
ほどけるものは、埋葬の方へ傾く。
彼は、刃を拭かず、男の瞼をそっと閉じた。閉じる指先は、刃よりも静かだ。埋葬の手。残虐の直後に現れる、その手のために、彼はいつも刃を持っているのかもしれない。刃は埋葬の前段階だ。埋葬は、刃の余白だ。余白がなければ、殺しは長持ちしない。長持ちしないものは、夜の仕事に向かない。
斥候長の肩から、重みが雨に渡された。渡された重みの欠落に、周囲の空気がわずかに浮く。浮いた空気へ、人は油断という名の砂を撒く。砂は、足を滑らせる。滑った足の音が、今夜の地図にひとつ、印を付けた。
彼は立ち上がり、黒い雨を肩で受けた。肩は濡れて重いが、内側は乾いていた。乾いたところには、昔覚えた数の板がまだ残っている。呼吸、歩幅、雨脚、刃の角度。数の板を指先で弾くと、音は出ないが、夜の厚さが指に伝わる。厚さが薄くなったとき、そこが「通り」だ。通りを、人より先に刃が歩く。
別の見張りが、うっすらとこちらに顔を向けた。おそらく、見えていない。見えないのに、体は先に覚える。覚えた体は、まず不自然に硬くなる。不自然は、刃に似合う。彼は、合羽の裾を指で押さえ、泥の上に膝を置き、膝の圧で水を押しのけ、押しのけた水の音が草の音と重なる瞬間を待った。重なったところで、刃はまた眠るふりをやめた。眠りをやめるたび、彼は目を閉じる。閉じた一拍の間に、切らずに済むかが過ぎる。過ぎたものは、雨に戻る。雨になったものは、夜に長くいる。
入江の喉で、空気が低く鳴った。潮が、道を開ける合図だ。
彼は黒い道の縁に体を滑らせ、社殿の背を舐めて、山道の陰に入った。斥候長を失った見張り線は、枝の根元を切られた木のように、上から順に静かに傾く。倒れた音は出ない。出ないのに、空気の傾きだけで、そこに倒れたことがわかる。わかる者だけが、そこを通る。通る者は、呼吸を持ち寄る。呼吸は、雨に勝つ唯一の音だ。
山道の曲がりで、古い太鼓が雨に濡れていた。皮は湿り、枠は黴の匂いを吸って重く、叩けば、音は出ないに等しい。等しくなった音に、意味は宿りやすい。意味を持たない音は、夜を壊す。意味を持つ音は、夜を生かす。彼は掌をひらりと返し、太鼓の皮に、爪の根で、ほんの一拍、触れた。音とも呼べないほどの浅い震えが、湿った土の中へ降りた。降りた震えは、雨の筋に紛れ、入江の喉をくぐり、島の心臓の皮膚に触れ、そこで、消えない。
その一拍は、矢野蓮の耳に入った。
彼は、太鼓のそばにいなかった。彼の手は、太鼓の縁を掴もうとして、掴まなかった。雨は音を殺す。今鳴らせば、混乱だけが島を走る。彼はそれを知っていたから、鳴らさなかった。鳴らさないという意志は、群れには見えない。見えないものは、すぐに疑われる。疑いの重さを受けながら、彼は巡回を続けた。少数の兵を連れ、負傷者のところへ戻り、口を開けすぎないように水を含ませ、呼吸を合わせさせ、標の位置をさりげなく指差し、声より先に手で合図した。
「隊長、太鼓を――」
部下が言いかけ、彼は首を振った。
「いま鳴らせば、島じゅうが『いま』になる。『いま』が増えれば、道は消える」
「では、いつ」
「いつでもない。鳴らさないことも、合図になる」
彼は視線を雨の向こうへ送り、掌を胸に当てた。護符がそこに湿り、紙の角が肌に貼りついて、拍に合わせて微かに擦れた。擦れる音は、彼だけに聞こえた。
遠く、耳の奥の皮膚をくすぐるほどの浅い震えが、彼の骨へ降りた。太鼓のそれとも、土のそれともつかない。けれど、意味だけが先に到着していた。道が、ひとつ、開いた。
彼は、太鼓へ手を伸ばすふりをしてやめた。「鳴らすな」
部下は不安に揺れた。「合図がなければ、皆……」
「合図は、雨に紛れる」
彼は、兵の肩を軽く叩いた。叩くものは、骨だ。骨に合図を残せ。骨の中の合図は、雨に負けない。
巡回の途上、彼は若い兵の目を見た。目は、噂の名残を抱えていた。首の噂は、声に置換され、いまや「声の刃」という像に変わった。刃は見えないほうが、深く刺さる。刺さったものを抜くのは、言葉ではない。動作だ。彼は、水を渡し、布を巻き、指で標をなぞり、泥を払う。泥を払う仕草は、自分でもうつくしいと思うほど、静謐だった。うつくしさは、雨に似て、人を油断させる。油断で、呼吸がほどける。ほどけた呼吸だけが、夜を渡る。
また一人、彼は抱き起こした。足首の腱が断たれている。沖田の仕事だ、と矢野は言わなかった。言わずに、手でそれを覚え、指に残った欠落の形を、胸の内側に置いた。置いた欠落は、怒りではなかった。怒りで動かない。怒りで動く者は、夜の地図を破る。破れた地図は、午前にしか使えない。今はまだ夜だ。
「ここで死ぬな」
彼は、負傷兵の耳に落とした。声は小さく、耳の内側で広がるように。負傷兵の眼は濁っていたが、濁りの底で、紙のような光がひとつ揺れた。揺れは短く、しかし確かだった。確かなものは、夜に長くいる。
沖田は、斥候長の懐に手を入れた。紙片、細い紐、乾いた梅、火口の欠片。どれも重みを持たない。持たないものは、夜を通過する。通過するものだけが、役に立つ。彼は紙片を水で湿らせ、口の中で軽く噛んだ。味はない。味のない紙は、祈りに似ている。祈りは、刃に従属しない。従属しないものは、安心だ。安心をひとつだけ持ち、彼はまた動いた。
斥候の一人が、こちらに向かって、気配の層を乱すことなく歩いてくる。良い歩きだ。良い歩きの者は、死ぬのが遅い。遅いものからは、詩が採れる。彼は一拍、目を閉じた。切らずに済むか。済むなら、それがよい。済まないなら、刃をよく磨く。磨くのは、埋葬のためだ。
刃は眠りをやめず、彼は肩だけをずらして、相手の視界から自分の輪郭を抜いた。輪郭を持たない者は、見えても見えない。見えないものの脇を、人は通る。通らせて、彼は背を向けた。背を見せることもまた、刃だ。背を見せて、見せない。矢のような雨が、背の白を打った。白は、内側で黒と溶けている。色はもう意味を持たない。
入江の口に、唇のような波が立ち、低く閉じたり開いたりしていた。潮は道を開け、すぐに閉じる。開いているあいだに、彼は足を差し入れた。差し入れた足は、泥ではなく水に沈んだ。水は、泥よりも静かだ。静けさの中に、鳥居の残響が長く漂っている。朱の残響は、目ではなく皮膚で受ける。皮膚に残った朱は、祟りの真似をする。真似だけで十分だ。祟りを呼ぶより、真似を連れて歩け。
矢野は、入江を遠望した。波は口を開けたり閉じたりし、岸の影は濃かった。濃い影は、人の恐怖を呼ぶ。恐怖は、集団を縮める。縮んだ集団は、ひと塊の石になる。石は、押したら動く。押す前に、砂を払え。彼は、兵の肩の泥を払った。払うたび、呼吸の数がそろった。数の揃いは歌に似て、歌は太鼓の代わりに夜をつなぐ。
太鼓のことを、彼はまだ考えていた。
鳴らすという行為は、力を集める。集めた力は、同時に、散る準備を始める。散らすために鳴らす太鼓がある。今は、鳴らさないことで散らさない。散らさないために、彼は巡回の軌跡を重ね合わせ、小さな渦をいくつも作った。渦の中心に、負傷兵、標、水。渦の縁に、恐怖。恐怖は渦の外で回る。外を回るものは、酔う。酔った恐怖は、舌を噛む。噛んだ舌の味は、雨に薄められる。
黒い道の末端で、沖田は、息を一度、殺した。殺した息は、刃の重さに置き換わる。刃の重さは、いま夜の重さと等しい。等しいものは、音を生まない。音を生まない刃だけが、黒い道の底まで沈める。沈んだ刃は、そこから軽く戻る。戻るとき、刃の背で雨を撫でた。撫でられた雨は、しばらく音にならない。音にならないあいだに、伝令が切れる。
斥候長の所在は、もう彼の胸の小石に移っていた。小石は、呼吸に合わせて軽く跳ね、跳ねるたびに、島の心臓の膜を内側から軽く叩いた。叩かれた膜は、雨をより細かくした。細かい雨は、刃の目をさらに細くする。細い目は、よく見える。見えすぎると、人は切りすぎる。切りすぎる前に、目を閉じる。閉じる一拍。彼は、それを捨てなかった。
矢野は、標の列を再確認し、老女の護符を指で押し、指先の皺に湿気を吸わせた。吸わせるという行為は、受け入れの形をしているが、実は調整だ。調整という言葉を、彼は口にしない。口にした途端、兵は命令を待つ。命令より先に、手を待て。手の動きが合えば、命令は要らない。要らないものが増えるほど、夜は静かになる。
太鼓は鳴らない。
しかし、鳴らないという事実が、島のどこかで鳴っていた。
兵の背に、濡れた布の重さが均等に落ちている。均等は、戦において、稀だ。稀な均等は、いつも誰かが見えないところで重りを配っている兆しだ。彼は、その重りの配り方に、遠い礼を感じた。礼の気配は、刃よりも長く残る。
沖田は、入江の喉の岩陰で、ひとりの影がこちらに背を向けているのを見た。斥候長とは別の、若い守り。背が、まだ自分の重さに慣れていない。慣れない背ほど、刃は避ける。避けるために、彼は、刃をしまった。しまって、石を拾い、石を水に落とした。音は、雨に紛れ、波の口でひとつ弾んだ。弾みが伝令の列を乱し、乱された列は、斜面の細道で自分を疑う。疑いは、よい。疑いは、刃の味方だ。
彼は、若い背が、自分に気づかないまま通り過ぎるのを待った。通り過ぎたあと、彼は、その背中に向かって、ごく小さく、掌で空気を押した。押された空気は、彼の指の長さだけ、相手の骨に触れた。骨は、触れられると、なぜだか生き延びる方向へ傾く。傾いた骨のうしろで、彼はまた別の音を拾う。音は薄い。薄いほど、意味が深い。
矢野は、兵の耳に口を近づけた。
「ここで死ぬな」
言葉はもう幾度も繰り返されているのに、古びない。古びないのは、雨が新しくしているからだ。新しくされた言葉は、骨の中で音を変える。変わった音が、太鼓のかわりになる。太鼓は鳴らない。鳴らないことが、彼の中で、確かな合図になりつつあった。
島の心臓は、薄く、しかし確かに震えていた。震えの上で、刃と呼吸が交差し、礼が言葉にならぬまま繰り返され、埋葬の手が、時おりだけ現れては消えた。消えるものほど、深く残る。深く残るものがある限り、夜は崩れない。崩れない夜の底で、黒い道は、さらに深くなる。深い道を、彼は踏み、彼も踏む。踏まれた道は、誰のものでもない。
斥候長の死は、誰にも知られず、しかしつぎの刻に、島はそれをはっきり覚えた。覚えたから、息をひとつ、変えた。息が変われば、雨の粒の角度が変わる。角度が変われば、刃の眠りは浅くなる。浅くなった眠りのふちで、沖田は目を閉じた。閉じて、また開けた。開けた途端に、彼は自分の嗜虐が、夜の底で微笑んでいるのに気づいた。微笑みを、彼は短く殺した。殺したのち、軽く笑った。笑いは、雨に消える。
矢野は、太鼓の縁に触れずに、太鼓の重さを思った。鳴らせば、雨が集まる。雨が集まれば、音は死ぬ。音が死ねば、合図は生きる。生きた合図は、誰のものでもない。誰のものでもない合図だけが、敵と味方のあいだで同じ意味になる。彼は、その同じ意味を、遠くの白に向けて、まだ言葉にもならない礼として返した。返された礼は、雨で磨かれ、骨で受け取られ、夜にしまわれた。
丑寅の刻は過ぎつつあったが、雨はやまず、黒い道はむしろ静かさを増した。増した静けさは、刃より鋭かった。鋭い静けさの中で、沖田は斥候長の瞼を閉じた指の感触を、掌の内側で何度も確かめた。埋葬の手は、彼を人に戻す。戻された人は、また刃を持つ。持ち直した刃は、前よりも静かだ。静かな刃だけが、雨に勝つ。
「道が、ひとつ、空いた」
彼は、誰に向けるでもなく言った。雨が、その言葉を薄くして、海へ渡した。海は聞かない。聞かないかわりに、彼の足の裏を軽くした。軽くなった足で、彼はまた一歩、黒へ入った。
矢野は、護符を指で押し、紙のしわの位置を移した。移したことで、胸の拍に微かなずれが生じ、そのずれが、骨の中で太鼓の代わりに一打、鳴った。鳴らないはずの太鼓が、鳴った。鳴ったという事実は、誰にも届かない。届かない合図は、彼だけを動かす。彼は動いた。動いて、巡回の軌跡を重ね、渦の中心をひとつずらした。ずれた中心に、水と布と標が移る。移るたび、恐怖は渦の外側へ押し出される。
雨は、彼らの上に公平に降っていた。
公平さは、残酷だ。
だが残酷さの中で、人は礼を覚える。礼は、刃を鈍らせる。鈍った刃は、切らないで済む選択を増やす。増えた選択の中で、人ははじめて、殺しの美学と理性の共存という、夜の芸を身につける。芸は、戦に似合わない。似合わないものが、今夜は生き延びた。
鳥居の朱は、ほとんど水に溶けて、痕跡だけを残していた。痕跡は、祟りにも記録にもならない。ならないから、長く残る。長く残るものほど、雨はよく洗う。洗いながら、夜は、もう少しだけ彼らの方へ傾いた。
合図は、いまだに鳴らない。
鳴らないという合図のもとで、白と泥のふたつの影は、同じ潮闇の下、同じ拍を数えていた。
殺せるのに、殺さない一拍。
鳴らせるのに、鳴らさない一拍。
ふたつの一拍が、島の心臓の膜のうえで、はじめて重なった。



