第三話 雨幕の中の名もなき声
雨は、島を長い布で包むように降り続いていた。
濡れた葉は、息をひそめる兵たちの頭上でぎらりともせず、ただ重さを増やし、その重さがときおり耐え切れなくなっては、溜めた滴をまとめて落とした。滴は土に吸われ、土はさらに深く沈み、沈んだ分だけ音が薄くなる。音の薄くなった夜は、噂を早く育てた。
「首がない」
誰ともなく、言葉が生まれた。
「白装束が来た。見張りの首を持っていった」
濡れた口々で、同じ文が反復された。言葉は形を変え、数を増やし、雨脚のように重なり合って、陣の端から端へ滑った。誰も確かめていない。だが確かめる前から、身体はその噂に合わせて震える。震えは、実在を与える。実在のないところに、恐怖は最も確かな家を建てる。
矢野蓮は、その家の土台を蹴るように歩いた。
ぬかるみは靴底を離さず、泥の紐で足首を結びつけてくる。息を細く保ったまま、彼は見張り線の切れ目を順々に辿った。噂が先に走った場所では、目が大きく、口が小さい。目に水が溜まり、口は結ばれる。結ばれた口が、噂を増やす。増えた噂は、見張り線を内側からほどく。ほどけた糸は、雨に似て見分けがつかない。
「首がないんだ、本当に」
若い兵が言った。声は幼く、濡れた薪のように鳴った。
「見たのか」
矢野は問うた。口は静かだが、目は濡れていない。
兵は瞬きを繰り返した。「……聞いた。皆が言ってる」
「皆が言うなら、ここに首が一つくらい転がっているはずだ」
矢野は泥を見た。泥は、形を取りやすい。転がったものの痕跡を、容易に残す。だが、ない。転がった首の重さも、弾んだ跡も、血の筋も。あるのは、踏み荒らされた草と、雨で流れた足跡の渦だけだった。
彼は、噂の先にいるものを探すように目を上げた。
闇は、雨の幕でひたすら均されている。均された闇の端で、低く長い呻きが、樹間を渡った。人の息か、雨の鳴きか。線を引けば、どちらにも見える曖昧な音だ。だが、耳が、それを知っている。耳は、戦の夜の声を覚えている。
矢野は音へ向かった。若い兵を二人、肩で制して残す。残すことで、彼一人の歩みは軽くなる。軽い歩みは泥に深く沈まず、深く沈まぬ足音は、夜の底へ不要の皺を立てない。
呻きは、近づくほど細くなった。
そこにいたのは、首を持たれた死骸ではなく、首のある生者だった。
男は仰向けなのか俯せなのか判断のつかない姿勢で、草と泥に半ば埋まり、両の足首のあたりで不自然に土が波打っている。手近な露草が半分ちぎれ、切り口が白かった。矢野は膝をついた。泥が膝に吸い付く。膝の重さが、骨へまっすぐ降りた。骨は冷える。冷えは思考を澄ませる。
指を差し入れ、ふくらはぎに触れた。
生温い。力が逃げている。足首の腱の上に指を滑らせると、そこだけ、何もいない。あるべき張りがない。触れた指が、その欠落の形を記憶として引き取った。
「息はある。首もある。足だけが、ない」
彼は低く言った。足首の腱は、刃で切られている。切断は浅く、しかし正確だ。刃は骨を嫌っている。骨に触れていない。触れれば音が出る。音が出れば夜が乱れる。夜を乱さぬための刃。戦いの刃ではなく、用途の刃。
「首はないと言ったが、ここに声が残っている」
矢野は、付き従ってきた兵に向かって、静かに告げた。
若い兵が息を飲んだ。「斬られて……いない?」
「殺せるのに、殺していない」
言葉の重さが、一瞬だけ雨音と同じ重さになった。雨は、彼の声を薄めなかった。薄める必要もなかった。声の骨が自立している。
矢野は男の顔の泥を拭った。瞼は震え、眼球は曇り、呼吸は浅い。意識は薄いが、恐怖だけが体に残っている。恐怖は、筋肉と同じように、縮みと弛みで語る。縮んだ筋肉を、彼は掌で押し延ばした。掌は温かい。温かさは、刃ではない。刃でないものに触れられるとき、人は生きる方向を思い出す。
「担げ。足は吊るすな。擦ると血が戻らない。……このまま置けば、声は夜明けまで続く。それが、敵の狙いだ」
若い兵がもう一度、息を飲む音がした。
「狙い?」
「見張り線は声で繋がっている。声が恐怖の形を取れば、繋がりは自分でほどける。ほどければ、道が空く」
「白装束の噂は、嘘ですか」
「噂は、刃より早く走る。刃の代わりに走るのが、今夜の仕事だ」
矢野は、担架の手配を命じた。担架は濡れ、布は泥を吸って重くなる。重さを嫌うな。重いものを動かすとき、人は呼吸を揃える。揃った呼吸は、恐れを遅らせる。遅れれば、勝ちでも負けでもないところへ、いちど戻れる。
呻きは、別の場所からも湧いた。
次の、次の、その次。
同じ高さから、同じ淡さで、雨にまぎれ、音は繰り返された。誰かが低く吐き捨てた。「……囮だ」
矢野は頷いた。「囮は、助けられるときにだけ囮の役目を終える」
囮を見捨てれば、囮はずっと声を出し続ける。声は人を食う。食われた者は夜明けに倒れる。倒れた者は、道の真ん中で眠る。眠る者を避けながら、道は狭くなる。狭い道は、刃に向いている。
矢野は、囮である負傷兵を順に拾わせた。拾うたび、見張り線の足もとはわずかに軽くなり、同時にどこかが薄くなる。薄さは音で補った。彼は低く合図を出し、太鼓ではなく、喉の奥の拍で小隊を動かした。雨がそれを隠す。隠すことで、始まるものがある。
※
同じ時刻。
白装束は、雨の縁でただ立っていた。
沖田静。
彼は、鳴り続ける呻きを背に受けて、海のほうを見ていた。鳥居は輪郭を持たず、朱は水に薄められて、白に近づきつつある。白は、夜の底で初めて濃くなる。濃くなる白は、闇を塗りつぶすのではない。輪郭だけを奪う。輪郭のないものは、刃の前で躊躇う。躊躇いは、斬らずに済むときにだけ、美しい。
彼は自分の指の背で、雨を掬った。掬った水は、血の匂いをいくらか含んでいる。含んでいるが、喉は渇かない。嗜虐の舌は、水では濡れない。濡れない舌は、言葉を持たない。言葉を持たない者は、目で命令する。目は、今、遠くの火を数えていた。火は少なく、雨が残した湿りのほうが勝っている。
呻きは、彼の足跡のうしろで途切れず続いた。
足首の腱は、刃に正直だった。刃は、躊躇わない角度を覚えている。角度は、骨の位置を外している。外したからこそ、声が残る。声は、彼の仕事の半分だった。半分は静けさに費やす。静けさは、彼の仕事のもう半分。
「殺せるのに、殺さないのは、何のためだ」
雨が、そう問うふりをして落ちてくる。彼は笑った。飄々と、雨に混じって笑い、肩でそれを受け止めた。
「ため、というのは、いつも後から生まれる」
彼は、誰に向けるでもなく答えた。答えは自分の耳にだけ届いた。届いた声は、雨が薄めた。薄くなった声が、また刃を軽くする。
置かれた呻きは、迷いを増やす。迷いは、正しさの反対ではない。正しさの前段階にある。前段階が長いほど、人は死ににくい。だが、群れの前段階は、短くされがちだ。短くされた群れは、刃の長さを誤る。
彼は、切らずに済む選択を、一度だけ選んだ。選んだという感覚は、薄い。薄さが、今夜の彼を支える。
「首は、取らない」
彼は、誰にも聞かれない声で言って、近くの男の瞼をそっと閉じた。閉じるとき、指先が震えた。震えは、彼の中で昔から生きている冬の名残だ。冬は、血を早く冷やす。冷やされた血は、雨と混じりやすい。混じりやすいものは、夜に長く残る。
※
矢野は、拾い上げた負傷兵を、濡れた布の上に寝かせた。布は木の根に渡してあり、泥に沈ませない工夫が施されている。工夫は、目立たないほど役に立つ。目立つ工夫は、敵のためにある。
「水を少し。口を開かせすぎるな。咳き込む」
命令は短く、手は長かった。手の動きは、兵の眼を落ち着かせる。眼が落ち着けば、噂は遅くなる。遅くなった噂は、やがて消える。消えないのは、声だ。
すぐ傍で、別の呻きが、雨と同じ速度で繰り返された。矢野は目を閉じ、耳の中だけで、その繰り返しの間隔を数えた。間隔は、ほぼ等間。等間は、作為だ。作為は、敵の息だ。「声を封じるな」
部下が戸惑いを見せかけたところで、矢野は先に言った。
「口を塞げば、恐怖は胸の中で育つ。育った恐怖は、言葉より早い」
「しかし、敵の策なら」
「策は、こちらの生かし方で崩せる」
矢野は、負傷兵の額に掌を置いた。「この声は、まだ人の声だ。人の声であるうちは、こちらの側に置ける」
人の声でなくなる瞬間が、戦にはある。呻きが獣の鳴きに変わる刻。変わった瞬間、見張り線は自壊する。矢野は、その境目がまだ遠いと見た。遠さを見抜く目は、焦りを中和する。中和された焦りだけが、刃に勝てる。
雨は、等しく降った。
等しさの残酷さを、社家は言葉にしなかった。僧は祈りの節回しで雨の拍をひとつずらし、漁師は潮の癖を胸で撫でたまま、網を濡らすのをやめた。島全体が、小さく息を合わせ直している。夜はその息を、いったん、認める。
噂は、鎮まらないふりを続けていた。
「白装束が首を持っていった」
口にされるたび、言葉は薄くなり、薄くなるたびに、恐怖は形を変えた。首という像が、雨の中でぼやけ、かわりに声だけが、鋭さを増した。
矢野は、噂の薄まりと、声の濃さの反比例を見ていた。見ることで、秤の傾きがわずかに戻る。戻った秤に、人の重さを乗せ直せば、戦はすぐには転ばない。
沖田は、鳥居の陰で立ち止まり、刃を鞘から一寸だけ抜いた。抜いた刃は、雨を受け、雨だけを映した。人影は映らない。映らない鏡ほど、よく使える。
遠く、人の動きがひとつ、気配の層を破って現れた。破り方がいい。破ることで風を呼ばず、呼ばぬことで雨を乱さない。乱さない動きは、彼の内側にある何かと似ていた。
彼は、刃を揺らし、すぐに戻した。戻すとき、鞘鳴りをさせない。させてはならない。鳴った音は、夜の合図になる。合図は、今はまだ要らない。要るのは、礼だけだ。
礼法は、刃の世界にもある。
殺せる距離で、殺さないときにだけ使う礼。
刃をわずかに下げる。顔は向けない。正面に立たない。雨の幕に半分身を隠し、半分を見せる。見せる半分は、鞘の口と、濡れた肩。肩が力みで張っていないことを、遠くからでも分かるように。
矢野は、その礼を、遠望した。
雨の筋が、白を縦に裂き、裂かれながらも、白は濃度を保っている。濃すぎず、薄すぎない。人を煽らず、侮らせない。その中庸の立ち方が、彼の胸の奥に、短く、鋭い疼きを残した。
敵が、礼を持っている。
礼は、戦の中で最も贅沢なものだ。贅沢なものを手放さないために、人は斬る。斬らないで、礼を保つ者がいる。そこに、何かがある。
「隊長」
背後で、兵が声を低くした。「見ますか」
「見るな」
矢野は言った。「目は、欲を連れてくる。欲は、雨より早い」
「なら、どうします」
「礼には、礼で返す」
彼は、ほんのわずかに、槍先を下げた。下げる動作は、小さすぎて、背の者には分からない。分かるのは、礼を送った側だけだ。礼は、送られて半分、返されて半分で完成する。完成した礼は、言葉にならず、それでも夜の空気をわずかに変える。
沖田は、遠くで槍がわずかに下がるのを見た。
見たことに、笑いも驚きも与えなかった。動作に、返礼を与えた。返礼は、正面を向かないこと。向けば、刃になる。今は、刃ではない。
彼は、背を返すと、足元の呻きへ近づいた。呻きは、まだ人の声だ。人の声であるうちは、彼はその口に布を押し当てたりしない。布で塞ぐことは、刃で斬ることより、はるかに重い。重いことは、昼にやればよい。夜は、軽くあるべきだ。
目を開けたままの男のまぶたを、彼はまた閉じた。閉じるとき、雨が睫毛を重くして、指にまとわりついた。
「生きるほうに、寄れ」
小さく、誰にともなく言って、彼は立った。立ちながら、斥候たちの震えが遠くで減っているのを感じた。減り方には波がある。波は、礼の後で静まりやすい。礼の意味は、いつもあとから分かる。分かる者だけが、明日まで残る。
矢野は、担架が途切れず運ばれていくのを確かめた。運ぶたび、見張り線のどこかが透ける。透けた穴を埋めるのは、位置ではなく、呼吸だ。
「呼吸を合わせろ。合わせないと、誰かの背中が背中でなくなる」
彼は、自分の声が小さいのを知っている。小さい声は、近くにだけ効く。近くに効いたものは、二番目の者が真似て、三番目の者に届く。届いた合図だけが、夜を長くする。長くなった夜の端で、道は静かに開いていく。
噂を抱え込んだ兵が、震えを隠すために笑った。
笑いは、濡れた焚き木に似ている。火になりそうで、ならない。煙ばかり出して、周りの眼を痛める。矢野は笑いに背を向けた。背を向けるのは、無視ではない。背で受け、背で流す。流された笑いは、足元の泥に吸われる。
「臆病だ」
遠くで、またその言葉が生まれそうになった。彼は、肩の泥を払った。払うたび、同じ形の仕草が、兵の目に刻まれる。刻まれた形だけが、夜明けの手前で人を繋ぎ止める。
沖田は、雨の層をずらすように位置を換えた。
ずらし方は、刃の角度と同じでよい。角度が深ければ、雨は肩から背へ、背から地へ、まっすぐ落ちる。浅ければ、頬を滑って口に入る。口に入ると、舌が雨を数える。数えた雨は、刃の重さを変える。
「雨が、良い」
呟くと、舌が鉄の味を思い出し、次に、海の味を呼んだ。海は、懐かしい。懐かしさは、彼を遠くへ連れていく。遠くへ行ってはならない。今夜は、近いところで終わらせる。終わらせるために、殺さない。殺さないで、終わる夜がある。
彼の仕事は、半分が傷口で、半分が空気だった。
傷口に残った声が、雨とともに繰り返される。繰り返されることで、陣の内側にある余白がざわめき、余白がざわめくと、誰かが穴を埋めようとして歩く。歩いた足が、空いた筋に触れる。筋は、黒い道の起点だ。
彼の白は、その起点を、遠くから、濡れた肩で引き寄せていた。
矢野は、拾い終えた負傷兵を見届け、見張りの位置を少しずつずらした。ずらし方は、敵に似せた。敵のずらし方を真似るのは、礼に対する礼の続きのようなものだ。真似られた敵は、初めて、こちらを「在る」と見る。見られることは、隙だ。だが、今は、その隙が要る。隙がない夜は、刃が鈍る。鈍った刃は、無差別になる。無差別は、敗北よりも遠いところにある。
雨は、相変わらず、すべてを同じ形に濡らした。
残酷な公平さが、島を覆っている。
僧は祈りを短く切り、社家は榊の葉を換え、漁師は網を肩にかけ直し、矢野は標を一つ撫でた。
沖田は、瞼を閉じた男の額から泥を拭い、指先を雨に晒した。晒された指は、すぐに冷える。冷えた指は、刃を握ると温かい。温かいものを握れば、余計なことを考えない。考えないときにだけ、斬らずに済む。
誰かが、遠くで太鼓を叩こうとして、やめた。
やめたことが、島の空気に小さな凹みを作った。凹みはすぐに雨で満たされたが、満たされる前に、ふたりの影だけが、その形をなぞった。なぞられた形は、次の刻に、合図になる。合図は、言葉でないときに最もよく働く。
矢野は、もう一度だけ遠くを見た。
白は、正面を向かない。向かないことで、こちらを見ている。見ていることが、見える。見えることが、礼だ。
槍先は、まだ下がったまま。彼はそれを、さらにわずかに傾けた。傾きは、重さに似る。重さは、雨のほうへ渡す。渡した重さだけ、こちらは軽くなる。軽くなったぶん、兵の背が少しだけ伸びた。伸びた背の分だけ、噂は縮む。
沖田は、礼の返礼の返礼を、しなかった。
返しすぎれば、それは打ち合いになる。打ち合いは、まだ先でいい。今は、噂と声だけで、陣の内側を緩ませる。緩みきった頃に、刃は軽くなり、軽くなった刃は、少しの力で済む。少ない力だけが、次を許す。
彼は自分の息の数を数え、数の中に、矢野の息の数を薄く混ぜた。混ぜたことを、おそらく相手は知らない。知られないまま、呼吸だけが、雨の中で並んだ。
「首はない」と言った声は、雨の下で形を失い、「声がある」に変わりつつあった。
変わった言葉は、兵の胸の中で、違う重さを持つ。重さの違いが、足の運びを変える。足の運びが変われば、道は別の道になる。別の道は、まだ見えていないが、見えていなくても、足はそこへ行ける。標があるからだ。
矢野は、標の一本に軽く触れ、掌のざらつきを覚え直した。覚え直した記憶が、雨の冷たさで固定される。固定されたものだけが、夜明けの手前で使える。
呻きの一つが、やがて途切れた。
途切れる前に、矢野は布を添え、息の道を確かめた。助かるかどうかは、夜のほうが決める。ただ、助かる側に重さを少し傾けることは、人にもできる。傾けられた分だけ、噂はまた薄まる。薄まった噂の代わりに、兵たちの眼の中で、別の像が育ち始めている。
「殺せるのに、殺していない」
それは恐怖よりも先に来る尊敬ではない。敵への驚きだ。驚きは、憎しみと並んで人を覚醒させる。覚醒した群れは、逃げない。逃げないとき、敗北は、まだ先にある。
沖田は、最後に一度だけ、雨の中で刃の重さを測った。
重さは、血ではなく、声で測れる夜だった。
「ここじゃ、似合わない」
誰の死にも、そう言える夜だと、彼は思った。思ったことが、飄々とした笑みに変わり、その笑みがすぐに雨に消えた。消えた笑いは、周囲の震えをひとつずつ減らす。減らした震えの分だけ、黒い道は静かに濃くなった。
矢野は、遠望した白の影の、わずかな肩の傾きと、刃の下がりを、胸の内で繰り返し再生した。再生するという行為は、理解のふりをして、理解ではない。ただ、目の前で起きたことを、骨に移す。骨に移したものは、忘れない。忘れないものが、次の判断を短くする。
「ここで死なせない」
彼は、声に出さずに言った。声にすれば、雨に負ける。負けない言葉は、骨の中にだけある。骨の中の言葉は、槍先の角度に移る。角度は、礼をなぞったまま、夜の縁で静かに止まった。
雨は、なお降り続いた。
噂も、なお続いた。だが、その中身は、静かに置換されていた。
首なき白装束、という像は、雨の中で輪郭を失い、かわりに「声を残す刃」という形を取りつつある。形を持った噂は、やがて、策として読み解かれる。読み解かれた策は、敗北の芽を摘む。摘まれた芽の根は、しかし残る。根がある限り、夜は何度でも伸びる。伸びる夜に、道は重なる。
その道の先に、まだ交わらない二つの影が、同じ雨の層の下で、同じ拍を数えていた。
礼は、言葉にならないまま、確かに交わされ、礼の上に、まだ名のない約束が、うすく置かれた。
名を呼ばれぬ島の、雨の夜。
声は、誰のものでもない音になって、しずかに陣の内側を満たしていく。
夜は、ほんのわずか、彼らのほうへ傾いた。
傾きは、雨に覆われて見えなかったが、足はそれを感じ取っていた。足が感じ取ったものに、頭が追いつくのは、いつも少し後だった。後から追いつく理解が、戦を長くする。長くなった戦の端で、黒い道は、ようやく、うすく口を開き始めた。
その口へ、先に誰が足を入れるのか。
雨だけが、知っていた。
雨は、島を長い布で包むように降り続いていた。
濡れた葉は、息をひそめる兵たちの頭上でぎらりともせず、ただ重さを増やし、その重さがときおり耐え切れなくなっては、溜めた滴をまとめて落とした。滴は土に吸われ、土はさらに深く沈み、沈んだ分だけ音が薄くなる。音の薄くなった夜は、噂を早く育てた。
「首がない」
誰ともなく、言葉が生まれた。
「白装束が来た。見張りの首を持っていった」
濡れた口々で、同じ文が反復された。言葉は形を変え、数を増やし、雨脚のように重なり合って、陣の端から端へ滑った。誰も確かめていない。だが確かめる前から、身体はその噂に合わせて震える。震えは、実在を与える。実在のないところに、恐怖は最も確かな家を建てる。
矢野蓮は、その家の土台を蹴るように歩いた。
ぬかるみは靴底を離さず、泥の紐で足首を結びつけてくる。息を細く保ったまま、彼は見張り線の切れ目を順々に辿った。噂が先に走った場所では、目が大きく、口が小さい。目に水が溜まり、口は結ばれる。結ばれた口が、噂を増やす。増えた噂は、見張り線を内側からほどく。ほどけた糸は、雨に似て見分けがつかない。
「首がないんだ、本当に」
若い兵が言った。声は幼く、濡れた薪のように鳴った。
「見たのか」
矢野は問うた。口は静かだが、目は濡れていない。
兵は瞬きを繰り返した。「……聞いた。皆が言ってる」
「皆が言うなら、ここに首が一つくらい転がっているはずだ」
矢野は泥を見た。泥は、形を取りやすい。転がったものの痕跡を、容易に残す。だが、ない。転がった首の重さも、弾んだ跡も、血の筋も。あるのは、踏み荒らされた草と、雨で流れた足跡の渦だけだった。
彼は、噂の先にいるものを探すように目を上げた。
闇は、雨の幕でひたすら均されている。均された闇の端で、低く長い呻きが、樹間を渡った。人の息か、雨の鳴きか。線を引けば、どちらにも見える曖昧な音だ。だが、耳が、それを知っている。耳は、戦の夜の声を覚えている。
矢野は音へ向かった。若い兵を二人、肩で制して残す。残すことで、彼一人の歩みは軽くなる。軽い歩みは泥に深く沈まず、深く沈まぬ足音は、夜の底へ不要の皺を立てない。
呻きは、近づくほど細くなった。
そこにいたのは、首を持たれた死骸ではなく、首のある生者だった。
男は仰向けなのか俯せなのか判断のつかない姿勢で、草と泥に半ば埋まり、両の足首のあたりで不自然に土が波打っている。手近な露草が半分ちぎれ、切り口が白かった。矢野は膝をついた。泥が膝に吸い付く。膝の重さが、骨へまっすぐ降りた。骨は冷える。冷えは思考を澄ませる。
指を差し入れ、ふくらはぎに触れた。
生温い。力が逃げている。足首の腱の上に指を滑らせると、そこだけ、何もいない。あるべき張りがない。触れた指が、その欠落の形を記憶として引き取った。
「息はある。首もある。足だけが、ない」
彼は低く言った。足首の腱は、刃で切られている。切断は浅く、しかし正確だ。刃は骨を嫌っている。骨に触れていない。触れれば音が出る。音が出れば夜が乱れる。夜を乱さぬための刃。戦いの刃ではなく、用途の刃。
「首はないと言ったが、ここに声が残っている」
矢野は、付き従ってきた兵に向かって、静かに告げた。
若い兵が息を飲んだ。「斬られて……いない?」
「殺せるのに、殺していない」
言葉の重さが、一瞬だけ雨音と同じ重さになった。雨は、彼の声を薄めなかった。薄める必要もなかった。声の骨が自立している。
矢野は男の顔の泥を拭った。瞼は震え、眼球は曇り、呼吸は浅い。意識は薄いが、恐怖だけが体に残っている。恐怖は、筋肉と同じように、縮みと弛みで語る。縮んだ筋肉を、彼は掌で押し延ばした。掌は温かい。温かさは、刃ではない。刃でないものに触れられるとき、人は生きる方向を思い出す。
「担げ。足は吊るすな。擦ると血が戻らない。……このまま置けば、声は夜明けまで続く。それが、敵の狙いだ」
若い兵がもう一度、息を飲む音がした。
「狙い?」
「見張り線は声で繋がっている。声が恐怖の形を取れば、繋がりは自分でほどける。ほどければ、道が空く」
「白装束の噂は、嘘ですか」
「噂は、刃より早く走る。刃の代わりに走るのが、今夜の仕事だ」
矢野は、担架の手配を命じた。担架は濡れ、布は泥を吸って重くなる。重さを嫌うな。重いものを動かすとき、人は呼吸を揃える。揃った呼吸は、恐れを遅らせる。遅れれば、勝ちでも負けでもないところへ、いちど戻れる。
呻きは、別の場所からも湧いた。
次の、次の、その次。
同じ高さから、同じ淡さで、雨にまぎれ、音は繰り返された。誰かが低く吐き捨てた。「……囮だ」
矢野は頷いた。「囮は、助けられるときにだけ囮の役目を終える」
囮を見捨てれば、囮はずっと声を出し続ける。声は人を食う。食われた者は夜明けに倒れる。倒れた者は、道の真ん中で眠る。眠る者を避けながら、道は狭くなる。狭い道は、刃に向いている。
矢野は、囮である負傷兵を順に拾わせた。拾うたび、見張り線の足もとはわずかに軽くなり、同時にどこかが薄くなる。薄さは音で補った。彼は低く合図を出し、太鼓ではなく、喉の奥の拍で小隊を動かした。雨がそれを隠す。隠すことで、始まるものがある。
※
同じ時刻。
白装束は、雨の縁でただ立っていた。
沖田静。
彼は、鳴り続ける呻きを背に受けて、海のほうを見ていた。鳥居は輪郭を持たず、朱は水に薄められて、白に近づきつつある。白は、夜の底で初めて濃くなる。濃くなる白は、闇を塗りつぶすのではない。輪郭だけを奪う。輪郭のないものは、刃の前で躊躇う。躊躇いは、斬らずに済むときにだけ、美しい。
彼は自分の指の背で、雨を掬った。掬った水は、血の匂いをいくらか含んでいる。含んでいるが、喉は渇かない。嗜虐の舌は、水では濡れない。濡れない舌は、言葉を持たない。言葉を持たない者は、目で命令する。目は、今、遠くの火を数えていた。火は少なく、雨が残した湿りのほうが勝っている。
呻きは、彼の足跡のうしろで途切れず続いた。
足首の腱は、刃に正直だった。刃は、躊躇わない角度を覚えている。角度は、骨の位置を外している。外したからこそ、声が残る。声は、彼の仕事の半分だった。半分は静けさに費やす。静けさは、彼の仕事のもう半分。
「殺せるのに、殺さないのは、何のためだ」
雨が、そう問うふりをして落ちてくる。彼は笑った。飄々と、雨に混じって笑い、肩でそれを受け止めた。
「ため、というのは、いつも後から生まれる」
彼は、誰に向けるでもなく答えた。答えは自分の耳にだけ届いた。届いた声は、雨が薄めた。薄くなった声が、また刃を軽くする。
置かれた呻きは、迷いを増やす。迷いは、正しさの反対ではない。正しさの前段階にある。前段階が長いほど、人は死ににくい。だが、群れの前段階は、短くされがちだ。短くされた群れは、刃の長さを誤る。
彼は、切らずに済む選択を、一度だけ選んだ。選んだという感覚は、薄い。薄さが、今夜の彼を支える。
「首は、取らない」
彼は、誰にも聞かれない声で言って、近くの男の瞼をそっと閉じた。閉じるとき、指先が震えた。震えは、彼の中で昔から生きている冬の名残だ。冬は、血を早く冷やす。冷やされた血は、雨と混じりやすい。混じりやすいものは、夜に長く残る。
※
矢野は、拾い上げた負傷兵を、濡れた布の上に寝かせた。布は木の根に渡してあり、泥に沈ませない工夫が施されている。工夫は、目立たないほど役に立つ。目立つ工夫は、敵のためにある。
「水を少し。口を開かせすぎるな。咳き込む」
命令は短く、手は長かった。手の動きは、兵の眼を落ち着かせる。眼が落ち着けば、噂は遅くなる。遅くなった噂は、やがて消える。消えないのは、声だ。
すぐ傍で、別の呻きが、雨と同じ速度で繰り返された。矢野は目を閉じ、耳の中だけで、その繰り返しの間隔を数えた。間隔は、ほぼ等間。等間は、作為だ。作為は、敵の息だ。「声を封じるな」
部下が戸惑いを見せかけたところで、矢野は先に言った。
「口を塞げば、恐怖は胸の中で育つ。育った恐怖は、言葉より早い」
「しかし、敵の策なら」
「策は、こちらの生かし方で崩せる」
矢野は、負傷兵の額に掌を置いた。「この声は、まだ人の声だ。人の声であるうちは、こちらの側に置ける」
人の声でなくなる瞬間が、戦にはある。呻きが獣の鳴きに変わる刻。変わった瞬間、見張り線は自壊する。矢野は、その境目がまだ遠いと見た。遠さを見抜く目は、焦りを中和する。中和された焦りだけが、刃に勝てる。
雨は、等しく降った。
等しさの残酷さを、社家は言葉にしなかった。僧は祈りの節回しで雨の拍をひとつずらし、漁師は潮の癖を胸で撫でたまま、網を濡らすのをやめた。島全体が、小さく息を合わせ直している。夜はその息を、いったん、認める。
噂は、鎮まらないふりを続けていた。
「白装束が首を持っていった」
口にされるたび、言葉は薄くなり、薄くなるたびに、恐怖は形を変えた。首という像が、雨の中でぼやけ、かわりに声だけが、鋭さを増した。
矢野は、噂の薄まりと、声の濃さの反比例を見ていた。見ることで、秤の傾きがわずかに戻る。戻った秤に、人の重さを乗せ直せば、戦はすぐには転ばない。
沖田は、鳥居の陰で立ち止まり、刃を鞘から一寸だけ抜いた。抜いた刃は、雨を受け、雨だけを映した。人影は映らない。映らない鏡ほど、よく使える。
遠く、人の動きがひとつ、気配の層を破って現れた。破り方がいい。破ることで風を呼ばず、呼ばぬことで雨を乱さない。乱さない動きは、彼の内側にある何かと似ていた。
彼は、刃を揺らし、すぐに戻した。戻すとき、鞘鳴りをさせない。させてはならない。鳴った音は、夜の合図になる。合図は、今はまだ要らない。要るのは、礼だけだ。
礼法は、刃の世界にもある。
殺せる距離で、殺さないときにだけ使う礼。
刃をわずかに下げる。顔は向けない。正面に立たない。雨の幕に半分身を隠し、半分を見せる。見せる半分は、鞘の口と、濡れた肩。肩が力みで張っていないことを、遠くからでも分かるように。
矢野は、その礼を、遠望した。
雨の筋が、白を縦に裂き、裂かれながらも、白は濃度を保っている。濃すぎず、薄すぎない。人を煽らず、侮らせない。その中庸の立ち方が、彼の胸の奥に、短く、鋭い疼きを残した。
敵が、礼を持っている。
礼は、戦の中で最も贅沢なものだ。贅沢なものを手放さないために、人は斬る。斬らないで、礼を保つ者がいる。そこに、何かがある。
「隊長」
背後で、兵が声を低くした。「見ますか」
「見るな」
矢野は言った。「目は、欲を連れてくる。欲は、雨より早い」
「なら、どうします」
「礼には、礼で返す」
彼は、ほんのわずかに、槍先を下げた。下げる動作は、小さすぎて、背の者には分からない。分かるのは、礼を送った側だけだ。礼は、送られて半分、返されて半分で完成する。完成した礼は、言葉にならず、それでも夜の空気をわずかに変える。
沖田は、遠くで槍がわずかに下がるのを見た。
見たことに、笑いも驚きも与えなかった。動作に、返礼を与えた。返礼は、正面を向かないこと。向けば、刃になる。今は、刃ではない。
彼は、背を返すと、足元の呻きへ近づいた。呻きは、まだ人の声だ。人の声であるうちは、彼はその口に布を押し当てたりしない。布で塞ぐことは、刃で斬ることより、はるかに重い。重いことは、昼にやればよい。夜は、軽くあるべきだ。
目を開けたままの男のまぶたを、彼はまた閉じた。閉じるとき、雨が睫毛を重くして、指にまとわりついた。
「生きるほうに、寄れ」
小さく、誰にともなく言って、彼は立った。立ちながら、斥候たちの震えが遠くで減っているのを感じた。減り方には波がある。波は、礼の後で静まりやすい。礼の意味は、いつもあとから分かる。分かる者だけが、明日まで残る。
矢野は、担架が途切れず運ばれていくのを確かめた。運ぶたび、見張り線のどこかが透ける。透けた穴を埋めるのは、位置ではなく、呼吸だ。
「呼吸を合わせろ。合わせないと、誰かの背中が背中でなくなる」
彼は、自分の声が小さいのを知っている。小さい声は、近くにだけ効く。近くに効いたものは、二番目の者が真似て、三番目の者に届く。届いた合図だけが、夜を長くする。長くなった夜の端で、道は静かに開いていく。
噂を抱え込んだ兵が、震えを隠すために笑った。
笑いは、濡れた焚き木に似ている。火になりそうで、ならない。煙ばかり出して、周りの眼を痛める。矢野は笑いに背を向けた。背を向けるのは、無視ではない。背で受け、背で流す。流された笑いは、足元の泥に吸われる。
「臆病だ」
遠くで、またその言葉が生まれそうになった。彼は、肩の泥を払った。払うたび、同じ形の仕草が、兵の目に刻まれる。刻まれた形だけが、夜明けの手前で人を繋ぎ止める。
沖田は、雨の層をずらすように位置を換えた。
ずらし方は、刃の角度と同じでよい。角度が深ければ、雨は肩から背へ、背から地へ、まっすぐ落ちる。浅ければ、頬を滑って口に入る。口に入ると、舌が雨を数える。数えた雨は、刃の重さを変える。
「雨が、良い」
呟くと、舌が鉄の味を思い出し、次に、海の味を呼んだ。海は、懐かしい。懐かしさは、彼を遠くへ連れていく。遠くへ行ってはならない。今夜は、近いところで終わらせる。終わらせるために、殺さない。殺さないで、終わる夜がある。
彼の仕事は、半分が傷口で、半分が空気だった。
傷口に残った声が、雨とともに繰り返される。繰り返されることで、陣の内側にある余白がざわめき、余白がざわめくと、誰かが穴を埋めようとして歩く。歩いた足が、空いた筋に触れる。筋は、黒い道の起点だ。
彼の白は、その起点を、遠くから、濡れた肩で引き寄せていた。
矢野は、拾い終えた負傷兵を見届け、見張りの位置を少しずつずらした。ずらし方は、敵に似せた。敵のずらし方を真似るのは、礼に対する礼の続きのようなものだ。真似られた敵は、初めて、こちらを「在る」と見る。見られることは、隙だ。だが、今は、その隙が要る。隙がない夜は、刃が鈍る。鈍った刃は、無差別になる。無差別は、敗北よりも遠いところにある。
雨は、相変わらず、すべてを同じ形に濡らした。
残酷な公平さが、島を覆っている。
僧は祈りを短く切り、社家は榊の葉を換え、漁師は網を肩にかけ直し、矢野は標を一つ撫でた。
沖田は、瞼を閉じた男の額から泥を拭い、指先を雨に晒した。晒された指は、すぐに冷える。冷えた指は、刃を握ると温かい。温かいものを握れば、余計なことを考えない。考えないときにだけ、斬らずに済む。
誰かが、遠くで太鼓を叩こうとして、やめた。
やめたことが、島の空気に小さな凹みを作った。凹みはすぐに雨で満たされたが、満たされる前に、ふたりの影だけが、その形をなぞった。なぞられた形は、次の刻に、合図になる。合図は、言葉でないときに最もよく働く。
矢野は、もう一度だけ遠くを見た。
白は、正面を向かない。向かないことで、こちらを見ている。見ていることが、見える。見えることが、礼だ。
槍先は、まだ下がったまま。彼はそれを、さらにわずかに傾けた。傾きは、重さに似る。重さは、雨のほうへ渡す。渡した重さだけ、こちらは軽くなる。軽くなったぶん、兵の背が少しだけ伸びた。伸びた背の分だけ、噂は縮む。
沖田は、礼の返礼の返礼を、しなかった。
返しすぎれば、それは打ち合いになる。打ち合いは、まだ先でいい。今は、噂と声だけで、陣の内側を緩ませる。緩みきった頃に、刃は軽くなり、軽くなった刃は、少しの力で済む。少ない力だけが、次を許す。
彼は自分の息の数を数え、数の中に、矢野の息の数を薄く混ぜた。混ぜたことを、おそらく相手は知らない。知られないまま、呼吸だけが、雨の中で並んだ。
「首はない」と言った声は、雨の下で形を失い、「声がある」に変わりつつあった。
変わった言葉は、兵の胸の中で、違う重さを持つ。重さの違いが、足の運びを変える。足の運びが変われば、道は別の道になる。別の道は、まだ見えていないが、見えていなくても、足はそこへ行ける。標があるからだ。
矢野は、標の一本に軽く触れ、掌のざらつきを覚え直した。覚え直した記憶が、雨の冷たさで固定される。固定されたものだけが、夜明けの手前で使える。
呻きの一つが、やがて途切れた。
途切れる前に、矢野は布を添え、息の道を確かめた。助かるかどうかは、夜のほうが決める。ただ、助かる側に重さを少し傾けることは、人にもできる。傾けられた分だけ、噂はまた薄まる。薄まった噂の代わりに、兵たちの眼の中で、別の像が育ち始めている。
「殺せるのに、殺していない」
それは恐怖よりも先に来る尊敬ではない。敵への驚きだ。驚きは、憎しみと並んで人を覚醒させる。覚醒した群れは、逃げない。逃げないとき、敗北は、まだ先にある。
沖田は、最後に一度だけ、雨の中で刃の重さを測った。
重さは、血ではなく、声で測れる夜だった。
「ここじゃ、似合わない」
誰の死にも、そう言える夜だと、彼は思った。思ったことが、飄々とした笑みに変わり、その笑みがすぐに雨に消えた。消えた笑いは、周囲の震えをひとつずつ減らす。減らした震えの分だけ、黒い道は静かに濃くなった。
矢野は、遠望した白の影の、わずかな肩の傾きと、刃の下がりを、胸の内で繰り返し再生した。再生するという行為は、理解のふりをして、理解ではない。ただ、目の前で起きたことを、骨に移す。骨に移したものは、忘れない。忘れないものが、次の判断を短くする。
「ここで死なせない」
彼は、声に出さずに言った。声にすれば、雨に負ける。負けない言葉は、骨の中にだけある。骨の中の言葉は、槍先の角度に移る。角度は、礼をなぞったまま、夜の縁で静かに止まった。
雨は、なお降り続いた。
噂も、なお続いた。だが、その中身は、静かに置換されていた。
首なき白装束、という像は、雨の中で輪郭を失い、かわりに「声を残す刃」という形を取りつつある。形を持った噂は、やがて、策として読み解かれる。読み解かれた策は、敗北の芽を摘む。摘まれた芽の根は、しかし残る。根がある限り、夜は何度でも伸びる。伸びる夜に、道は重なる。
その道の先に、まだ交わらない二つの影が、同じ雨の層の下で、同じ拍を数えていた。
礼は、言葉にならないまま、確かに交わされ、礼の上に、まだ名のない約束が、うすく置かれた。
名を呼ばれぬ島の、雨の夜。
声は、誰のものでもない音になって、しずかに陣の内側を満たしていく。
夜は、ほんのわずか、彼らのほうへ傾いた。
傾きは、雨に覆われて見えなかったが、足はそれを感じ取っていた。足が感じ取ったものに、頭が追いつくのは、いつも少し後だった。後から追いつく理解が、戦を長くする。長くなった戦の端で、黒い道は、ようやく、うすく口を開き始めた。
その口へ、先に誰が足を入れるのか。
雨だけが、知っていた。



