第二話 朱の鳥居、黒い道
瀬戸の雨は、夜を濃くするために生まれたもののように降り続いていた。朱の鳥居は波を被り、柱の木目に沿って黒い筋が伸び、海と空の境いがほどけた。灯は風に揉まれて小さくなり、息をひそめた者たちの顔の位置だけが、うっすらと白く浮かび上がる。神域は祈りのためにあるのか、それとも戦のためにあるのか、誰もが口にしないまま、その矛盾だけが雨粒の数に等しく、島の上に降り積もった。
僧は、濡れた衣を指で絞っていた。寺は海へ向かって傾斜する細道の終わりにあり、瓦は潮を吸って重く、堂の戸には海藻の匂いが染みついている。僧は、合掌してから掌をほどき、ゆっくりと声を出した。
「穢れと祓いは、背中合わせのものです」
雨に押し潰されないように、言葉の骨にすこし力を込める。「祓いは穢れを抱いてしか立たない。穢れがなければ、それは祓いと呼ばれぬ。ただの空です。戦は穢れを増やす。だからこそ、人は祓いを欲しがる。祓いを求める声が強いほど、戦の音は大きくなる」
社家は、神職の衣の裾を持ち上げて、ぬかるみを渡った。社殿の榊は雨に折れ、紙垂はぺたりと木肌に張りついている。火を守るための屋根は低く、そこに集まった兵の背が煙を裂いた。社家は口角に苦さを宿し、あたりの顔を一巡させた。
「神は人を選びはしない。けれど、人は神を言い訳に選ぶ。自分の刃で切り捨てるより、神の名の下に切るほうが、楽だから」
言い終えて、彼は肩をすくめた。「あなたがたの勝利は、神の御用ではない。あなたがたの都合です。神域は、誰の都合にもならないのに」
漁師は、浜の端で網を広げ、何度目かの雨に諦めたように膝をついた。指の節は潮で膨らみ、爪は黒く、塩が乾けば白く粉を吹く。彼は鳥居の脚を見上げ、声をひそめた。
「丑寅の刻に、海は道を開ける」
呟きは風にさらわれ、戻ってこない。「潮の癖は人の癖によく似とる。毎日違うようで、要所は同じだ。この島の腹ん中には、誰にも見えん溝がある。雨が叩けば叩くほど、そこだけ静かになる刻がある」
沖田静は、漁師の手の甲をじっと見た。皺の奥に溜まった塩の白さ、その白に混じる血の古い線。眼差しは飄々としているのに、その奥で何かを数えている気配が手に取るように分かる。
「溝の口は、どこから開くのでしょう」
漁師は首を振った。「口やら、目やらの言い方はせんが……鳥居の影から社殿裏へな、雨が幕になって、音が消える筋が出る。緩む風がひとつ、山から降りてくる。そいで――」
「海は道を開けます」
沖田が言葉を継ぐと、漁師はうなずいて、袖で顔を拭った。袖はすぐにまた濡れ、同じ顔を作る。
白い小石を、沖田は掌に受けた。濡れた白は、夜の中で色を持たない。持たないものは、よく道になる。砂は重く、水脈は浅く、足音は雨に溶ける。彼はそれらを一つずつ視線で撫で、地図の上に小石を置いていった。鳥居の脚の影から、社殿裏の斜面へ。斜面から、山の心臓を避けて、海へ向かう細い筋へ。地図の紙は既に端からふやけているが、筋は滲まない。筋は、頭の中に刻まれる。
同行の斥候は、近づくのをためらった。白装束の背が、雨の幕の中で、なぜか濡れていないように見える瞬間がある。そう見える瞬間は、だいたい、誰かの呼吸が変わる瞬間だ。斥候は無意識に息を止め、それから胸が痛くなるほど一度に吸った。沖田は顔を上げず、手首だけを傾けた。動作は小さいのに、命令ははっきりしていた。彼の命令は、言葉ではなく重心で出る。重心の移動は、戦場で最も早い言語だった。
飄々と笑う気配が、彼の頬の端にだけ滲んだ。彼が笑う時、それは雨粒が石に跳ねる一瞬に似る。音は立たず、水だけが形を換えて、すぐに消える。斥候は、その笑いに寒気を覚えた。笑いは脅しではない。脅しならば、楽に耐えられる。彼の笑いは、出来の良い刃物が麻の繊維を撫でて、何も音を立てないのと同じだった。
油紙を解く音が、ささやきよりも静かにしたたった。短刀が露わになる。刃は灯りを拾わず、雨粒だけを受け止める。沖田は躊躇いなく左の手の甲に刃先をあてた。皮膚が開く。開いたものの間から、赤が出る。その赤は、雨よりも重く、雨よりも遅い。
斥候は息を呑んだ。
「何を――」
問いは最後まで出なかった。沖田が手を傾けると、血は指先からひとつ、ふたつ、と落ちた。落ちる速さで、風の向きと温度を測っている。滴は縦に落ちるときは風が眠っている。斜めにほどけるときは、山から降りる息が強い。途中で形が崩れれば、雨脚が変わる。血は、よく気象を語る。
「異常だ」誰かが喉の奥でつぶやいた。違う、異常ではない、と別の誰かが目の奥で言い直す。戦はすでに、人を正常から遠く連れてきている。ここにあるのは異常ではなく、ただの方法だった。
沖田は血を雨に溶かし、短刀の刃を親指で拭った。刃に残った赤は、すぐに湯気になって消えた。指の腹には、ほんの少し鉄の味が残る。味は好まない。好まないものは、記憶に長く残る。長く残るものは、夜の眼に重しになる。重くなった眼は、刃を軽くする。
彼は斥候に向き直り、手首でつくる三つの符丁を続けた。社殿の裏に回り込む者、崖の上から音だけで見張る者、潮の道を先に確かめる者。口は開かない。開かなくても、伝わる。伝わらない時だけ、死人が出る。死人の出ない命令は、いつでも短い。
矢野蓮は、対岸に狼煙の準備をさせていた。濡れた薪は火を嫌う。嫌いを宥めるように、布で拭き、油を薄く刷き、乾いた藁を芯にして、火種を抱かせる。火は生き物だ。息を合わせなければ、起き上がってくれない。
吹いた瞬間に、風がそれを裂いた。煙はひとかたまりにならず、空の低いところでちぎれ、雨の縞に混じって見えなくなる。狼煙は合図にならない。合図にならないものは、嘘よりも悪い。嘘はまだ、誰かに届く。届かない煙は、ただの湿気だ。
矢野は顎を引き、命じた。「やめろ」
煙の残骸が鼻腔を刺し、胸がわずかにきしんだ。彼は咳を堪え、周囲を見た。誰もが空ばかり見ている。空を見ている間は、足もとが崩れる。彼はそれを嫌った。
「標を打て。小さく、目立たなく、しかし迷いようのないところに」
命令は短い。短さの中に意図を収めるのは、刃の鞘に剣を返すときに似る。音を立てずに、ぴたりと収めること。そのためには、刃が自分の幅を知っている必要がある。自分の幅を知らない者が戦を指揮すると、すべての音が外へこぼれる。こぼれた音は、敵の腹に落ちて肥やしになる。
「臆病だ」背後で誰かが言った。音程は低く、濡れた木のようだった。「潮が引けば勝てる。夜明けまで耐えれば――」
言いさした声に、彼は振り返らなかった。振り返ると、言葉が顔を得てしまう。顔にした言葉は、抜きにくい棘になる。
彼はただ肩の泥を払った。泥の重さはほんのわずかだが、払い落とす手の気配を人は見る。見たものの中に、言葉にならない判断が沈む。判断は沈んでこそ、根になる。根のない声は、翌朝には忘れる。忘れられないのは、肩を払う仕草の方だ。
標の木札は、煤で焼かれ、油で拭かれている。雨に強い。強いものは目立ちにくい。目立つものは弱い。彼は、弱いものから遠ざけるために強さを選ぶ。強さとは、見えにくさの別名だ。
小径に、木札は一つずつ、目に見えない線でつながれていった。濡れた石の表情、崖の苔の濃淡、杉の根の張り方、水の溜まりやすいくぼみ。それらがすべて符号になり、兵の足はやがて、その符号を「読む」ようになる。読み間違いを正すのは、人の声ではなく、前の者の足跡だ。
矢野は、兵の目を確かめて回った。心が崩れない者の目は、決まって小さい光を宿している。大きな光は、風と雨で簡単にもみ消される。小さい光は、布の隙間で生き延びる。
彼は負傷者のそばに膝をつき、包帯を解き、泥を落とし、再び巻き直した。手の動きは簡潔で、迷いがなかった。迷いはにおいになる。においはすぐに群れに広がる。群れのにおいが変われば、戦は負ける。負けを遠ざけるのは、匂いの管理だ。匂いを洗うのは、雨にしかできない。だから彼は雨が嫌いではなかった。
沖田は、漁師から借りた骨針で、小石に微かな傷をつけた。傷は、よく見なければ見えない。見えない印ほど、裏切らない。彼は石をひとつ、鳥居の根もとへ投げた。音はしない。音がしないのに、そこに新しい重さが生まれる。重さは地形を下へ引き、下へ引かれた水はためらい、ためらいは音を薄くする。音が薄い場所は、生きて帰る人間の味方をする。
「あなたたちは、そこを通りなさい」
声は出していない。目だけが言った。斥候たちは頷き、足の指の間に泥を挟みながら、道の口の位置を体に覚え込ませた。
彼は、飄々とした笑みを包み直すように、顎に指を当てた。夜は良い。夜は、人の輪郭を甘やかす。甘やかされた輪郭の隙間に、刃を通す。通した刃は、骨の間で止まることを覚える。止まることのできる刃だけが、抜きやすい。抜きやすい刃だけが、次を許される。
「穢れは背中合わせじゃと、僧が言った」
漁師がぼそりと言った。沖田は頷いた。
「背中を合わせて立つ者は、よく生きます。正面よりも」
「お武家の言い草には聞こえんな」
「刃物は、どちらにも刃がありますから」
それ以上、彼はなにも言わなかった。言葉の刃は、すぐに鈍る。鈍った言葉ほど、人を深く傷つける。彼は、口を閉じる術をよく知っている。
矢野の耳に、縁に引っかかった鈴のような音が届いた。海鳴りの裾に、金属の小さな触れ合いが混じる。斥候の誰かが、刃の柄を掴み直したのだ。雨で冷えた金は、音を高くする。
彼は振り返らず、胸の前で指を二本立て、下げた。その合図は、息を深くするという意味だった。兵は理解した。理解する集団は、それだけで歩きやすい。
狼煙が不発に終わっても、合図は別にある。太鼓一打の代わりに、彼は小石を道に置いた。置いた位置は誰の目にも映らない。だが、足の裏は覚える。覚えられた石は、やがて「踏まずに避ける」という動作になり、その動作は集団の歩幅の合奏を生む。合奏が始まれば、音は密になる。密の音は、雨に勝つ。雨に勝つ音だけが、夜を渡れる。
「臆病者」陰で笑いが漏れた。
彼は笑いに対して、なんの動作も与えなかった。動作を与えないものは、すぐに形を失う。形のないものは、夜明けにまぎれて消える。消えたものは、今夜のために働く。笑いは、今夜のために消えてくれればいい。
彼は肩の泥を、もう一度払った。
沖田は、社殿の裏へ回り込む道の端に膝をついた。苔が水を含んで、やわらかくなっている。やわらかい土は音を飲む。飲まれ過ぎると、足が沈む。沈むほどではない、ぎりぎりの柔らかさを、彼は指の腹で確かめた。指は、血の匂いが抜けたばかりで、雨に濡れている。
「その石を置いてはなりません」
彼は、斥候が腰帯から取り出しかけた石を軽く手の甲で押し戻した。置けば安心する。安心すると、そこに人の癖が残る。残った癖は、すぐに敵の癖に拾われる。彼は癖を残さない。代わりに、癖が残る余地を増やす。その余地の中で、刃はよく曲がる。曲がる刃は、折れにくい。
僧は祈祷の声を弱め、雨の音に紛れさせた。祈りは、人の耳のためではない。島の心臓のためにある。心臓は、戦の音に疲れやすい。疲れた心臓に、祈りは静けさを渡す。静けさは刹那のものでよい。刹那が揺れるあいだに、誰かの刃と誰かの呼吸が入れ替わる。その入れ替え一つで、夜は別の夜になる。
彼は、自分の掌の冷たさに驚いた。祈りは、掌の温度から始まる。掌が冷たいとき、祈りは長くなる。長い祈りは、戦には向かない。だから短くした。短さは、戦の中にあって、唯一の慈悲だ。
社家は、榊の枝を差し替えながら、目を細めた。戦が神を説くとき、神はいつも黙る。黙る神の代わりに、雨が語る。雨は公平だ。公平であることは、残酷であることの別名でもある。
「誰であれ、朱の門をくぐるなら、名を置いて行け」
自分に向けて言って、結び目をきゅっと締めた。名は、神域で重い。重いものは沈む。沈んだ名は、戦に使われない。それでいい、と彼は思う。名の代わりに、足が動けば。
漁師は、網を畳み、沖田に目で合図した。「いま、風が眠った」
沖田は手の甲を軽く振って、血の跡がもう消えていることを確かめ、白い小石をひとつ、親指で弾いた。石は草の際に落ち、雨に洗われながらも、そこだけ色が薄くなったように見える。見える者だけに見える。それでいい。見えない者は、そういう夜には死ぬ。死なないための夜の知恵は、見える者の目を通して群れに降りてくる。
矢野は、標を打つ音を極力薄くするために、木槌に布を巻いた。何かを隠すために布を使うとき、布は言葉になる。布言葉は、兵の背中へ染み込む。
「ここで死ぬな」
言葉はもう、合図であり、命令であり、祈りだった。彼の声は湿って、重く、しかし澄んでいる。澄んだ声は短く長く、兵の骨の中に届く。骨に届く声は、忘れられない。忘れられないものだけが、夜を越える。
斥候のひとりが、沖田の傍で小さく口を開いた。「手の傷は、痛まないのですか」
沖田は答えなかった。答えないことで、言葉の形が変わる。少年は、問うた自分の声の震えを恥じ、それを今度は歩幅に変えた。歩幅の均し方で、臆病は消える。臆病が消えたとき、人は驕る。驕りの手前で、彼は笑った。
「痛むときは、斬りません」
それが、ようやくの答えだった。少年は驚いた。痛むときにこそ斬るのが彼のような者だと、勝手に思っていたからだ。
「斬るときは、誰の痛みも似ていますから」
沖田は肩をすくめ、雨へ頬を向けた。雨は答えない。答えないものは、味方だ。
矢野の背後で、兵がまた囁いた。「臆病だ」
別の兵が、低く返した。「臆病がなきゃ、明日まで生きられねえ」
矢野は振り返らず、右肩の泥を払った。肩の動きは静謐で、雨の筋と同じ速さをしていた。動作を真似した者が、一人、ふたり。群れは、仕草を模倣する。模倣が始まれば、同じ恐れが、同じ方向へ流れていく。恐れの流れを統べるのが、指揮だった。彼はそれをよく知っている。
雨脚が再び変わる。山から降りる風が細り、海から上がる息が広がる。鳥居の脚の影がわずかに伸び、その先に黒い筋が立つ。
「口が開いた」
漁師の声に、沖田は首を上げる。白い小石はすでに道の首飾りのように点々と置かれ、誰の目にも見えぬまま、重みだけが島の皮膚の下を移動する。彼は斥候を分け、ひとりを山の上へ、ひとりを入江の端へ、ひとりを鳥居の足もとへ。
合図はない。合図は、呼吸ですでに交わされている。呼吸は嘘をつかない。嘘をつくのは、口だ。口は今夜、硬く閉じられているべきものだった。
僧は灯をひとつ消し、もうひとつだけ残した。人は闇が深すぎると、足もとを見ない。闇に慣れているはずの者も、深さの質が変わると途端に盲になる。盲にさせてはいけない。彼は、残した灯の位置を、祈りの文句の節と合わせた。節は、兵の歩幅に合うように緩やかに、短く、繰り返した。
「背中合わせ、背中合わせ」
声は雨にほどけ、骨に入る。
社家は、祓串をひと度ふり、雨の幕を払う真似をしてみせた。兵たちは笑わない。笑わないことで、儀礼は形になる。形になった儀礼は、雨と同じく、公平であり、残酷だ。門の前に立つ者は、名を置いてから足を踏み入れろ。置き忘れた名を背にし、置き捨てた名を胸に秘めよ。彼の手首は、戦を知っている者の手首をしていた。神職もまた、戦を知る。知るだけで、使わない。それが彼らの役目だ。
矢野は、標の最後の一本を打ち終え、掌を擦った。皮膚が擦れ、熱が出る。熱はいっとき、寒さをだます。だまされた体は、数歩ぶんの勇気を貯める。勇気など、数歩分でよい。数十歩ぶんの勇気は、すぐに人を殺す。
彼は、兵たちに小さく告げた。「夜半、道が開く。開けば引く。引くことは恥ではない。引くために、いま前へ出る」
声は呟きに近く、しかし一人残らず耳に入った。耳に入ったものは、骨へ下り、足へ降り、地へ触れる。触れた地は、濡れていたが、冷たくはなかった。
沖田は、雨の重なりで音の薄まる箇所を踏み、石と石の間に空気の隙を作った。空気は刃より鋭い。鋭さは、知られてはならない。知られぬところで働く刃ほど、長く使える。
斥候が震えた。震えに気づいて、沖田は目を細めた。震えは悪くない。震えは体の覚醒だ。覚醒だけが、死を遠ざける。死は遠ざかるふりをして、いつでも一歩先に立っている。
「戻りなさい。いまは、そこまで」
彼は小さく指を振った。斥候はすぐに下がる。すぐに下がる者だけが、深く入れる。入れる者だけが、戻れる。戻れる道があるときに、人は大胆な歩幅を選べる。大胆は、死の反対側だ。
夜の縁で、朱の鳥居がさらに深く海に沈んだように見えた。その色は、血の色に似ていながら、血の匂いを持たなかった。持たない赤は、記憶だけに残る。記憶に残った赤は、戦より長い。
矢野は、その赤に目をやり、老女から押しつけられた護符の存在を胸の上に意識した。名を呼ばれぬ島。名を呼ばれぬ者が生きるための、薄い紙切れ。薄いものほど、折り目が強い。折り目に沿って、明日の道が開く。
漁師は、網を抱えながら笑った。笑いは歯の隙間から波のようにこぼれた。「この雨じゃ、魚も寝とる。起きとるのは、人の欲と、お侍の刃だけだ」
沖田は軽く顎を上げた。「欲は古い。刃は新しい。古いものは、押す。新しいものは、切る。押されて切られるのが、人の夜です」
漁師は肩をすくめた。「あんたはよう喋るのか、喋らんのか、どっちや」
「雨が答えます」
それは答えの形をして、答えではなかった。
僧は、最後の祈りを胸の中だけで唱え、唇は動かさなかった。祈りの最後は、いつも言葉を捨てるところにある。言葉を捨てたあとに残るのは、湿った呼吸だ。呼吸が揃えば、見知らぬ者同士でも、背中を合わせられる。背中が触れれば、穢れと祓いの背中合わせは、現実のものになる。
雨は、祈りの言葉に、何も返さない。それが救いだった。
社家は、社殿の屋根に落ちる雨の音の数を数えた。均(なら)しの悪い音は、棟のどこかが痛んでいる印だ。痛みは見ないふりをすると、すぐに崩落に変わる。変わってからでは遅い。戦も同じだ。彼は棟木の位置を記憶の中で少しずつずらし、そこに匿(かく)すべき名を置いた。名は呼ばれない。その代わりに、守られる。守られた名は、雨の翌日に芽吹く。芽吹きは早いほど、柔らかい。柔らかいものだけが、切っ先をやり過ごす。
矢野は、狼煙の藁を湿らせたまま、火を落とした。諦めるという動作もまた、指揮だった。諦めの仕草は、群れに伝わると、余分な期待を取り去る。期待のない者は、余計な死に方をしない。
彼は、肩の泥を払った。あの仕草を、まただ、と心のどこかで自分に向けて笑った。笑いは内側のものだ。内側でだけ、彼は自分を笑う。笑いは刃を鈍らせる。それでいい。鈍らせた刃を鞘に戻し、鞘ごと前へ運ぶ。鞘が砕けぬうちは、まだ切らなくていい。
沖田は、手の甲を開いて、傷が薄く塞がっているのを確かめた。痛みはない。痛みがないのに、あの赤は、まだ爪の間に残っている。残っているものは、戦の最中には役に立たない。役に立たない記憶は、夜の終わりにだけ、静かに意味を持つ。
二つの石の間に、彼は小さく息を落とした。落とした息が霧になって、雨に紛れる。紛れたものは、見つかりにくい。見つからないものの脇を通って、刃は進む。
島の呼吸は、ようやく整いかけていた。海はしずかに息を吐き、鳥居はわずかに首を傾け、社殿の礎石は沈黙の意志で雨を受け止める。僧の祈り、社家の苦い視線、漁師の潮の癖が、一枚の薄い皮膜のように島を覆った。その皮膜の裏側で、二人の影が別々に動いている。
片方は白。片方は泥。白は濡れ、泥は乾く。乾いた泥は軽い。軽くなった泥は、すぐにまた濡れる。濡れた白は重い。重いものだけが、夜に沈む。沈んだものだけが、夜の底を歩ける。
矢野は、標の一つに指先を触れ、木目のざらつきで場所を覚えた。覚えた指は、明日になっても嘘をつかない。目は、嘘をつく。見えたものを都合よく並べ替える。指はしない。
「ここで死ぬな」
彼は、また言った。声は小さい。だが小さい声ほど、近くの者の内側に深く入る。入った声は、長くそこに留まる。留まったものだけが、人を動かす。
沖田は、白い小石の列が地図から現実へ移っていくのを、冷ややかな満足で見守った。満足は滅びの端に似ている。満足が長く続くと、刃の背が柔くなる。柔い背は、跳ね返りを受け止められない。受け止められない者から、先に死ぬ。
彼は満足を短く息で殺し、かわりに笑いをわずかに残した。飄々とした笑いは、自分を軽くする。軽い者ほど、深いところへ入れる。深いところでは、音が遅くなる。遅くなった音を、人は恐れない。恐れぬ者から、先に斬る。
雨は、相変わらず、粒の形を絶えず変えながら降り続いていた。僧の言葉は雨に和らげられ、社家の苦い顔は雨で磨かれ、漁師の指は雨に馴れ、沖田の刃は雨で滑らかになった。矢野の標は、雨で重くなり、逆にしっかり地に噛みついた。
この島では、雨がすべての仲立ちをする。神と人、戦と祈り、穢れと祓い、白と泥、生と死。雨はすべてを同じ温度にし、同じ湿りにする。そこから各々が、わずかな差で己の道を選ぶ。選んだ差の小ささだけが、明日の生を分ける。
朱の鳥居は、ふと、門ではなく刃に見えた。刃が海に刺さっている。柄は空に消え、誰の手にも握られていない。誰の手にも握られていない刃ほど、よく人を斬る。斬られぬためには、刃の影の位置を覚えねばならない。影の位置は、潮の癖に従う。潮は、丑寅の刻に道を開ける。道が開いたとき、鳥居は門に戻る。
その変わり目を、沖田は知っている。矢野もまた、別の方法で知っている。
矢野の背に、また誰かの視線が刺さった。臆病、という言葉は、もはや口にされなかったが、視線の端に残っている。視線は、声よりも長く残る。彼はそれを背で受け、背で払った。背で受けるものは、背で払う。背で払えないものは、胸へ置く。胸へ置いたものは、いつか言葉になって出る。今夜はまだ、その時ではない。
彼は、泥を払う手の形を整え、歩き出した。
沖田は、石列の最後のひとつを、鳥居の脚の陰に置いた。置いた瞬間、雨脚がわずかに変わった。変わったことを彼は指の甲で受け取り、その指の古い傷を舐めた。鉄の味は、もうしなかった。代わりに、海の味がした。海の味は、空の味と似ている。空の味は、夜の味と同じだ。
「この島は、死がよく似合う」
彼は、誰にも聞こえないように繰り返した。繰り返すことで、意味は薄れる。薄れた意味は、形だけ残る。形だけ残った言葉ほど、よく人を動かす。
僧は雨の幕の向こうに、白装束の背を見た。祈りはそこへ向けられていない。祈りは、誰にも向けられない。向けない祈りだけが、夜に効く。
社家は、朱の柱の足もとで、名を置き去りにする者たちの靴音を聞いた。名は呼ばれぬ。呼ばれぬとき、名は生きる。
漁師は、潮の癖をもう一度だけ胸でなぞり、黙った。黙ることほど確かな言葉はない。
矢野は、標に沿って歩き、最後に自分の足跡に自分の足を重ねた。重ねるという行為は、未来を一度だけ過去に預けることだ。預けたものは、戻ってくる。戻ってきたものだけが、今夜の味方だ。
彼は護符の位置を確かめ、息を細くした。「ここで死なせない」
声は短く、静かで、遠くまで行かない。遠くまで行かない声は、近くの者を深く掴む。
黒い道は、まだ完全には開かない。開かない時刻の準備は、開いた時刻の十倍難しい。十倍難しいことを退屈にやる者だけが、刃を抜いたときに短く済ませられる。短い斬撃ほど、後味がない。後味のない斬撃は、戦を長引かせない。
沖田は、指の第二関節まで泥に沈め、そこからゆっくり引き上げた。泥の重さが褪せ、指が軽くなる。軽くなった指を、彼は鞘の上に置いた。鞘はまだ、開かない。開かないまま、夜は深みに入る。深みは、二人の間で同じ暗さを持った。
雨は、過不足なく降りつづけた。
朱の鳥居は、刃と門のあいだで揺れ、黒い道は、開く直前の沈黙を重ねる。
僧の祈り、社家の苦み、漁師の癖。
そして、白と泥。
それらはすべて、同じ夜に収まっている。夜の器は広く、誰の名も刻まない。刻まれない器にだけ、救いがある。救いはいつも、もっとも薄いところにある。薄いところでこそ、刃はよく走る。
やがて、丑寅の刻は来る。海は道を開ける。開いた道を、誰が最初に踏むのか、雨だけが知っている。
息をひとつ。
雨の音に紛れて、誰にも届かない合図が、それでも確かに、島のあちこちで交わされた。
夜は、彼らの方へ、もう少し傾いた。
瀬戸の雨は、夜を濃くするために生まれたもののように降り続いていた。朱の鳥居は波を被り、柱の木目に沿って黒い筋が伸び、海と空の境いがほどけた。灯は風に揉まれて小さくなり、息をひそめた者たちの顔の位置だけが、うっすらと白く浮かび上がる。神域は祈りのためにあるのか、それとも戦のためにあるのか、誰もが口にしないまま、その矛盾だけが雨粒の数に等しく、島の上に降り積もった。
僧は、濡れた衣を指で絞っていた。寺は海へ向かって傾斜する細道の終わりにあり、瓦は潮を吸って重く、堂の戸には海藻の匂いが染みついている。僧は、合掌してから掌をほどき、ゆっくりと声を出した。
「穢れと祓いは、背中合わせのものです」
雨に押し潰されないように、言葉の骨にすこし力を込める。「祓いは穢れを抱いてしか立たない。穢れがなければ、それは祓いと呼ばれぬ。ただの空です。戦は穢れを増やす。だからこそ、人は祓いを欲しがる。祓いを求める声が強いほど、戦の音は大きくなる」
社家は、神職の衣の裾を持ち上げて、ぬかるみを渡った。社殿の榊は雨に折れ、紙垂はぺたりと木肌に張りついている。火を守るための屋根は低く、そこに集まった兵の背が煙を裂いた。社家は口角に苦さを宿し、あたりの顔を一巡させた。
「神は人を選びはしない。けれど、人は神を言い訳に選ぶ。自分の刃で切り捨てるより、神の名の下に切るほうが、楽だから」
言い終えて、彼は肩をすくめた。「あなたがたの勝利は、神の御用ではない。あなたがたの都合です。神域は、誰の都合にもならないのに」
漁師は、浜の端で網を広げ、何度目かの雨に諦めたように膝をついた。指の節は潮で膨らみ、爪は黒く、塩が乾けば白く粉を吹く。彼は鳥居の脚を見上げ、声をひそめた。
「丑寅の刻に、海は道を開ける」
呟きは風にさらわれ、戻ってこない。「潮の癖は人の癖によく似とる。毎日違うようで、要所は同じだ。この島の腹ん中には、誰にも見えん溝がある。雨が叩けば叩くほど、そこだけ静かになる刻がある」
沖田静は、漁師の手の甲をじっと見た。皺の奥に溜まった塩の白さ、その白に混じる血の古い線。眼差しは飄々としているのに、その奥で何かを数えている気配が手に取るように分かる。
「溝の口は、どこから開くのでしょう」
漁師は首を振った。「口やら、目やらの言い方はせんが……鳥居の影から社殿裏へな、雨が幕になって、音が消える筋が出る。緩む風がひとつ、山から降りてくる。そいで――」
「海は道を開けます」
沖田が言葉を継ぐと、漁師はうなずいて、袖で顔を拭った。袖はすぐにまた濡れ、同じ顔を作る。
白い小石を、沖田は掌に受けた。濡れた白は、夜の中で色を持たない。持たないものは、よく道になる。砂は重く、水脈は浅く、足音は雨に溶ける。彼はそれらを一つずつ視線で撫で、地図の上に小石を置いていった。鳥居の脚の影から、社殿裏の斜面へ。斜面から、山の心臓を避けて、海へ向かう細い筋へ。地図の紙は既に端からふやけているが、筋は滲まない。筋は、頭の中に刻まれる。
同行の斥候は、近づくのをためらった。白装束の背が、雨の幕の中で、なぜか濡れていないように見える瞬間がある。そう見える瞬間は、だいたい、誰かの呼吸が変わる瞬間だ。斥候は無意識に息を止め、それから胸が痛くなるほど一度に吸った。沖田は顔を上げず、手首だけを傾けた。動作は小さいのに、命令ははっきりしていた。彼の命令は、言葉ではなく重心で出る。重心の移動は、戦場で最も早い言語だった。
飄々と笑う気配が、彼の頬の端にだけ滲んだ。彼が笑う時、それは雨粒が石に跳ねる一瞬に似る。音は立たず、水だけが形を換えて、すぐに消える。斥候は、その笑いに寒気を覚えた。笑いは脅しではない。脅しならば、楽に耐えられる。彼の笑いは、出来の良い刃物が麻の繊維を撫でて、何も音を立てないのと同じだった。
油紙を解く音が、ささやきよりも静かにしたたった。短刀が露わになる。刃は灯りを拾わず、雨粒だけを受け止める。沖田は躊躇いなく左の手の甲に刃先をあてた。皮膚が開く。開いたものの間から、赤が出る。その赤は、雨よりも重く、雨よりも遅い。
斥候は息を呑んだ。
「何を――」
問いは最後まで出なかった。沖田が手を傾けると、血は指先からひとつ、ふたつ、と落ちた。落ちる速さで、風の向きと温度を測っている。滴は縦に落ちるときは風が眠っている。斜めにほどけるときは、山から降りる息が強い。途中で形が崩れれば、雨脚が変わる。血は、よく気象を語る。
「異常だ」誰かが喉の奥でつぶやいた。違う、異常ではない、と別の誰かが目の奥で言い直す。戦はすでに、人を正常から遠く連れてきている。ここにあるのは異常ではなく、ただの方法だった。
沖田は血を雨に溶かし、短刀の刃を親指で拭った。刃に残った赤は、すぐに湯気になって消えた。指の腹には、ほんの少し鉄の味が残る。味は好まない。好まないものは、記憶に長く残る。長く残るものは、夜の眼に重しになる。重くなった眼は、刃を軽くする。
彼は斥候に向き直り、手首でつくる三つの符丁を続けた。社殿の裏に回り込む者、崖の上から音だけで見張る者、潮の道を先に確かめる者。口は開かない。開かなくても、伝わる。伝わらない時だけ、死人が出る。死人の出ない命令は、いつでも短い。
矢野蓮は、対岸に狼煙の準備をさせていた。濡れた薪は火を嫌う。嫌いを宥めるように、布で拭き、油を薄く刷き、乾いた藁を芯にして、火種を抱かせる。火は生き物だ。息を合わせなければ、起き上がってくれない。
吹いた瞬間に、風がそれを裂いた。煙はひとかたまりにならず、空の低いところでちぎれ、雨の縞に混じって見えなくなる。狼煙は合図にならない。合図にならないものは、嘘よりも悪い。嘘はまだ、誰かに届く。届かない煙は、ただの湿気だ。
矢野は顎を引き、命じた。「やめろ」
煙の残骸が鼻腔を刺し、胸がわずかにきしんだ。彼は咳を堪え、周囲を見た。誰もが空ばかり見ている。空を見ている間は、足もとが崩れる。彼はそれを嫌った。
「標を打て。小さく、目立たなく、しかし迷いようのないところに」
命令は短い。短さの中に意図を収めるのは、刃の鞘に剣を返すときに似る。音を立てずに、ぴたりと収めること。そのためには、刃が自分の幅を知っている必要がある。自分の幅を知らない者が戦を指揮すると、すべての音が外へこぼれる。こぼれた音は、敵の腹に落ちて肥やしになる。
「臆病だ」背後で誰かが言った。音程は低く、濡れた木のようだった。「潮が引けば勝てる。夜明けまで耐えれば――」
言いさした声に、彼は振り返らなかった。振り返ると、言葉が顔を得てしまう。顔にした言葉は、抜きにくい棘になる。
彼はただ肩の泥を払った。泥の重さはほんのわずかだが、払い落とす手の気配を人は見る。見たものの中に、言葉にならない判断が沈む。判断は沈んでこそ、根になる。根のない声は、翌朝には忘れる。忘れられないのは、肩を払う仕草の方だ。
標の木札は、煤で焼かれ、油で拭かれている。雨に強い。強いものは目立ちにくい。目立つものは弱い。彼は、弱いものから遠ざけるために強さを選ぶ。強さとは、見えにくさの別名だ。
小径に、木札は一つずつ、目に見えない線でつながれていった。濡れた石の表情、崖の苔の濃淡、杉の根の張り方、水の溜まりやすいくぼみ。それらがすべて符号になり、兵の足はやがて、その符号を「読む」ようになる。読み間違いを正すのは、人の声ではなく、前の者の足跡だ。
矢野は、兵の目を確かめて回った。心が崩れない者の目は、決まって小さい光を宿している。大きな光は、風と雨で簡単にもみ消される。小さい光は、布の隙間で生き延びる。
彼は負傷者のそばに膝をつき、包帯を解き、泥を落とし、再び巻き直した。手の動きは簡潔で、迷いがなかった。迷いはにおいになる。においはすぐに群れに広がる。群れのにおいが変われば、戦は負ける。負けを遠ざけるのは、匂いの管理だ。匂いを洗うのは、雨にしかできない。だから彼は雨が嫌いではなかった。
沖田は、漁師から借りた骨針で、小石に微かな傷をつけた。傷は、よく見なければ見えない。見えない印ほど、裏切らない。彼は石をひとつ、鳥居の根もとへ投げた。音はしない。音がしないのに、そこに新しい重さが生まれる。重さは地形を下へ引き、下へ引かれた水はためらい、ためらいは音を薄くする。音が薄い場所は、生きて帰る人間の味方をする。
「あなたたちは、そこを通りなさい」
声は出していない。目だけが言った。斥候たちは頷き、足の指の間に泥を挟みながら、道の口の位置を体に覚え込ませた。
彼は、飄々とした笑みを包み直すように、顎に指を当てた。夜は良い。夜は、人の輪郭を甘やかす。甘やかされた輪郭の隙間に、刃を通す。通した刃は、骨の間で止まることを覚える。止まることのできる刃だけが、抜きやすい。抜きやすい刃だけが、次を許される。
「穢れは背中合わせじゃと、僧が言った」
漁師がぼそりと言った。沖田は頷いた。
「背中を合わせて立つ者は、よく生きます。正面よりも」
「お武家の言い草には聞こえんな」
「刃物は、どちらにも刃がありますから」
それ以上、彼はなにも言わなかった。言葉の刃は、すぐに鈍る。鈍った言葉ほど、人を深く傷つける。彼は、口を閉じる術をよく知っている。
矢野の耳に、縁に引っかかった鈴のような音が届いた。海鳴りの裾に、金属の小さな触れ合いが混じる。斥候の誰かが、刃の柄を掴み直したのだ。雨で冷えた金は、音を高くする。
彼は振り返らず、胸の前で指を二本立て、下げた。その合図は、息を深くするという意味だった。兵は理解した。理解する集団は、それだけで歩きやすい。
狼煙が不発に終わっても、合図は別にある。太鼓一打の代わりに、彼は小石を道に置いた。置いた位置は誰の目にも映らない。だが、足の裏は覚える。覚えられた石は、やがて「踏まずに避ける」という動作になり、その動作は集団の歩幅の合奏を生む。合奏が始まれば、音は密になる。密の音は、雨に勝つ。雨に勝つ音だけが、夜を渡れる。
「臆病者」陰で笑いが漏れた。
彼は笑いに対して、なんの動作も与えなかった。動作を与えないものは、すぐに形を失う。形のないものは、夜明けにまぎれて消える。消えたものは、今夜のために働く。笑いは、今夜のために消えてくれればいい。
彼は肩の泥を、もう一度払った。
沖田は、社殿の裏へ回り込む道の端に膝をついた。苔が水を含んで、やわらかくなっている。やわらかい土は音を飲む。飲まれ過ぎると、足が沈む。沈むほどではない、ぎりぎりの柔らかさを、彼は指の腹で確かめた。指は、血の匂いが抜けたばかりで、雨に濡れている。
「その石を置いてはなりません」
彼は、斥候が腰帯から取り出しかけた石を軽く手の甲で押し戻した。置けば安心する。安心すると、そこに人の癖が残る。残った癖は、すぐに敵の癖に拾われる。彼は癖を残さない。代わりに、癖が残る余地を増やす。その余地の中で、刃はよく曲がる。曲がる刃は、折れにくい。
僧は祈祷の声を弱め、雨の音に紛れさせた。祈りは、人の耳のためではない。島の心臓のためにある。心臓は、戦の音に疲れやすい。疲れた心臓に、祈りは静けさを渡す。静けさは刹那のものでよい。刹那が揺れるあいだに、誰かの刃と誰かの呼吸が入れ替わる。その入れ替え一つで、夜は別の夜になる。
彼は、自分の掌の冷たさに驚いた。祈りは、掌の温度から始まる。掌が冷たいとき、祈りは長くなる。長い祈りは、戦には向かない。だから短くした。短さは、戦の中にあって、唯一の慈悲だ。
社家は、榊の枝を差し替えながら、目を細めた。戦が神を説くとき、神はいつも黙る。黙る神の代わりに、雨が語る。雨は公平だ。公平であることは、残酷であることの別名でもある。
「誰であれ、朱の門をくぐるなら、名を置いて行け」
自分に向けて言って、結び目をきゅっと締めた。名は、神域で重い。重いものは沈む。沈んだ名は、戦に使われない。それでいい、と彼は思う。名の代わりに、足が動けば。
漁師は、網を畳み、沖田に目で合図した。「いま、風が眠った」
沖田は手の甲を軽く振って、血の跡がもう消えていることを確かめ、白い小石をひとつ、親指で弾いた。石は草の際に落ち、雨に洗われながらも、そこだけ色が薄くなったように見える。見える者だけに見える。それでいい。見えない者は、そういう夜には死ぬ。死なないための夜の知恵は、見える者の目を通して群れに降りてくる。
矢野は、標を打つ音を極力薄くするために、木槌に布を巻いた。何かを隠すために布を使うとき、布は言葉になる。布言葉は、兵の背中へ染み込む。
「ここで死ぬな」
言葉はもう、合図であり、命令であり、祈りだった。彼の声は湿って、重く、しかし澄んでいる。澄んだ声は短く長く、兵の骨の中に届く。骨に届く声は、忘れられない。忘れられないものだけが、夜を越える。
斥候のひとりが、沖田の傍で小さく口を開いた。「手の傷は、痛まないのですか」
沖田は答えなかった。答えないことで、言葉の形が変わる。少年は、問うた自分の声の震えを恥じ、それを今度は歩幅に変えた。歩幅の均し方で、臆病は消える。臆病が消えたとき、人は驕る。驕りの手前で、彼は笑った。
「痛むときは、斬りません」
それが、ようやくの答えだった。少年は驚いた。痛むときにこそ斬るのが彼のような者だと、勝手に思っていたからだ。
「斬るときは、誰の痛みも似ていますから」
沖田は肩をすくめ、雨へ頬を向けた。雨は答えない。答えないものは、味方だ。
矢野の背後で、兵がまた囁いた。「臆病だ」
別の兵が、低く返した。「臆病がなきゃ、明日まで生きられねえ」
矢野は振り返らず、右肩の泥を払った。肩の動きは静謐で、雨の筋と同じ速さをしていた。動作を真似した者が、一人、ふたり。群れは、仕草を模倣する。模倣が始まれば、同じ恐れが、同じ方向へ流れていく。恐れの流れを統べるのが、指揮だった。彼はそれをよく知っている。
雨脚が再び変わる。山から降りる風が細り、海から上がる息が広がる。鳥居の脚の影がわずかに伸び、その先に黒い筋が立つ。
「口が開いた」
漁師の声に、沖田は首を上げる。白い小石はすでに道の首飾りのように点々と置かれ、誰の目にも見えぬまま、重みだけが島の皮膚の下を移動する。彼は斥候を分け、ひとりを山の上へ、ひとりを入江の端へ、ひとりを鳥居の足もとへ。
合図はない。合図は、呼吸ですでに交わされている。呼吸は嘘をつかない。嘘をつくのは、口だ。口は今夜、硬く閉じられているべきものだった。
僧は灯をひとつ消し、もうひとつだけ残した。人は闇が深すぎると、足もとを見ない。闇に慣れているはずの者も、深さの質が変わると途端に盲になる。盲にさせてはいけない。彼は、残した灯の位置を、祈りの文句の節と合わせた。節は、兵の歩幅に合うように緩やかに、短く、繰り返した。
「背中合わせ、背中合わせ」
声は雨にほどけ、骨に入る。
社家は、祓串をひと度ふり、雨の幕を払う真似をしてみせた。兵たちは笑わない。笑わないことで、儀礼は形になる。形になった儀礼は、雨と同じく、公平であり、残酷だ。門の前に立つ者は、名を置いてから足を踏み入れろ。置き忘れた名を背にし、置き捨てた名を胸に秘めよ。彼の手首は、戦を知っている者の手首をしていた。神職もまた、戦を知る。知るだけで、使わない。それが彼らの役目だ。
矢野は、標の最後の一本を打ち終え、掌を擦った。皮膚が擦れ、熱が出る。熱はいっとき、寒さをだます。だまされた体は、数歩ぶんの勇気を貯める。勇気など、数歩分でよい。数十歩ぶんの勇気は、すぐに人を殺す。
彼は、兵たちに小さく告げた。「夜半、道が開く。開けば引く。引くことは恥ではない。引くために、いま前へ出る」
声は呟きに近く、しかし一人残らず耳に入った。耳に入ったものは、骨へ下り、足へ降り、地へ触れる。触れた地は、濡れていたが、冷たくはなかった。
沖田は、雨の重なりで音の薄まる箇所を踏み、石と石の間に空気の隙を作った。空気は刃より鋭い。鋭さは、知られてはならない。知られぬところで働く刃ほど、長く使える。
斥候が震えた。震えに気づいて、沖田は目を細めた。震えは悪くない。震えは体の覚醒だ。覚醒だけが、死を遠ざける。死は遠ざかるふりをして、いつでも一歩先に立っている。
「戻りなさい。いまは、そこまで」
彼は小さく指を振った。斥候はすぐに下がる。すぐに下がる者だけが、深く入れる。入れる者だけが、戻れる。戻れる道があるときに、人は大胆な歩幅を選べる。大胆は、死の反対側だ。
夜の縁で、朱の鳥居がさらに深く海に沈んだように見えた。その色は、血の色に似ていながら、血の匂いを持たなかった。持たない赤は、記憶だけに残る。記憶に残った赤は、戦より長い。
矢野は、その赤に目をやり、老女から押しつけられた護符の存在を胸の上に意識した。名を呼ばれぬ島。名を呼ばれぬ者が生きるための、薄い紙切れ。薄いものほど、折り目が強い。折り目に沿って、明日の道が開く。
漁師は、網を抱えながら笑った。笑いは歯の隙間から波のようにこぼれた。「この雨じゃ、魚も寝とる。起きとるのは、人の欲と、お侍の刃だけだ」
沖田は軽く顎を上げた。「欲は古い。刃は新しい。古いものは、押す。新しいものは、切る。押されて切られるのが、人の夜です」
漁師は肩をすくめた。「あんたはよう喋るのか、喋らんのか、どっちや」
「雨が答えます」
それは答えの形をして、答えではなかった。
僧は、最後の祈りを胸の中だけで唱え、唇は動かさなかった。祈りの最後は、いつも言葉を捨てるところにある。言葉を捨てたあとに残るのは、湿った呼吸だ。呼吸が揃えば、見知らぬ者同士でも、背中を合わせられる。背中が触れれば、穢れと祓いの背中合わせは、現実のものになる。
雨は、祈りの言葉に、何も返さない。それが救いだった。
社家は、社殿の屋根に落ちる雨の音の数を数えた。均(なら)しの悪い音は、棟のどこかが痛んでいる印だ。痛みは見ないふりをすると、すぐに崩落に変わる。変わってからでは遅い。戦も同じだ。彼は棟木の位置を記憶の中で少しずつずらし、そこに匿(かく)すべき名を置いた。名は呼ばれない。その代わりに、守られる。守られた名は、雨の翌日に芽吹く。芽吹きは早いほど、柔らかい。柔らかいものだけが、切っ先をやり過ごす。
矢野は、狼煙の藁を湿らせたまま、火を落とした。諦めるという動作もまた、指揮だった。諦めの仕草は、群れに伝わると、余分な期待を取り去る。期待のない者は、余計な死に方をしない。
彼は、肩の泥を払った。あの仕草を、まただ、と心のどこかで自分に向けて笑った。笑いは内側のものだ。内側でだけ、彼は自分を笑う。笑いは刃を鈍らせる。それでいい。鈍らせた刃を鞘に戻し、鞘ごと前へ運ぶ。鞘が砕けぬうちは、まだ切らなくていい。
沖田は、手の甲を開いて、傷が薄く塞がっているのを確かめた。痛みはない。痛みがないのに、あの赤は、まだ爪の間に残っている。残っているものは、戦の最中には役に立たない。役に立たない記憶は、夜の終わりにだけ、静かに意味を持つ。
二つの石の間に、彼は小さく息を落とした。落とした息が霧になって、雨に紛れる。紛れたものは、見つかりにくい。見つからないものの脇を通って、刃は進む。
島の呼吸は、ようやく整いかけていた。海はしずかに息を吐き、鳥居はわずかに首を傾け、社殿の礎石は沈黙の意志で雨を受け止める。僧の祈り、社家の苦い視線、漁師の潮の癖が、一枚の薄い皮膜のように島を覆った。その皮膜の裏側で、二人の影が別々に動いている。
片方は白。片方は泥。白は濡れ、泥は乾く。乾いた泥は軽い。軽くなった泥は、すぐにまた濡れる。濡れた白は重い。重いものだけが、夜に沈む。沈んだものだけが、夜の底を歩ける。
矢野は、標の一つに指先を触れ、木目のざらつきで場所を覚えた。覚えた指は、明日になっても嘘をつかない。目は、嘘をつく。見えたものを都合よく並べ替える。指はしない。
「ここで死ぬな」
彼は、また言った。声は小さい。だが小さい声ほど、近くの者の内側に深く入る。入った声は、長くそこに留まる。留まったものだけが、人を動かす。
沖田は、白い小石の列が地図から現実へ移っていくのを、冷ややかな満足で見守った。満足は滅びの端に似ている。満足が長く続くと、刃の背が柔くなる。柔い背は、跳ね返りを受け止められない。受け止められない者から、先に死ぬ。
彼は満足を短く息で殺し、かわりに笑いをわずかに残した。飄々とした笑いは、自分を軽くする。軽い者ほど、深いところへ入れる。深いところでは、音が遅くなる。遅くなった音を、人は恐れない。恐れぬ者から、先に斬る。
雨は、相変わらず、粒の形を絶えず変えながら降り続いていた。僧の言葉は雨に和らげられ、社家の苦い顔は雨で磨かれ、漁師の指は雨に馴れ、沖田の刃は雨で滑らかになった。矢野の標は、雨で重くなり、逆にしっかり地に噛みついた。
この島では、雨がすべての仲立ちをする。神と人、戦と祈り、穢れと祓い、白と泥、生と死。雨はすべてを同じ温度にし、同じ湿りにする。そこから各々が、わずかな差で己の道を選ぶ。選んだ差の小ささだけが、明日の生を分ける。
朱の鳥居は、ふと、門ではなく刃に見えた。刃が海に刺さっている。柄は空に消え、誰の手にも握られていない。誰の手にも握られていない刃ほど、よく人を斬る。斬られぬためには、刃の影の位置を覚えねばならない。影の位置は、潮の癖に従う。潮は、丑寅の刻に道を開ける。道が開いたとき、鳥居は門に戻る。
その変わり目を、沖田は知っている。矢野もまた、別の方法で知っている。
矢野の背に、また誰かの視線が刺さった。臆病、という言葉は、もはや口にされなかったが、視線の端に残っている。視線は、声よりも長く残る。彼はそれを背で受け、背で払った。背で受けるものは、背で払う。背で払えないものは、胸へ置く。胸へ置いたものは、いつか言葉になって出る。今夜はまだ、その時ではない。
彼は、泥を払う手の形を整え、歩き出した。
沖田は、石列の最後のひとつを、鳥居の脚の陰に置いた。置いた瞬間、雨脚がわずかに変わった。変わったことを彼は指の甲で受け取り、その指の古い傷を舐めた。鉄の味は、もうしなかった。代わりに、海の味がした。海の味は、空の味と似ている。空の味は、夜の味と同じだ。
「この島は、死がよく似合う」
彼は、誰にも聞こえないように繰り返した。繰り返すことで、意味は薄れる。薄れた意味は、形だけ残る。形だけ残った言葉ほど、よく人を動かす。
僧は雨の幕の向こうに、白装束の背を見た。祈りはそこへ向けられていない。祈りは、誰にも向けられない。向けない祈りだけが、夜に効く。
社家は、朱の柱の足もとで、名を置き去りにする者たちの靴音を聞いた。名は呼ばれぬ。呼ばれぬとき、名は生きる。
漁師は、潮の癖をもう一度だけ胸でなぞり、黙った。黙ることほど確かな言葉はない。
矢野は、標に沿って歩き、最後に自分の足跡に自分の足を重ねた。重ねるという行為は、未来を一度だけ過去に預けることだ。預けたものは、戻ってくる。戻ってきたものだけが、今夜の味方だ。
彼は護符の位置を確かめ、息を細くした。「ここで死なせない」
声は短く、静かで、遠くまで行かない。遠くまで行かない声は、近くの者を深く掴む。
黒い道は、まだ完全には開かない。開かない時刻の準備は、開いた時刻の十倍難しい。十倍難しいことを退屈にやる者だけが、刃を抜いたときに短く済ませられる。短い斬撃ほど、後味がない。後味のない斬撃は、戦を長引かせない。
沖田は、指の第二関節まで泥に沈め、そこからゆっくり引き上げた。泥の重さが褪せ、指が軽くなる。軽くなった指を、彼は鞘の上に置いた。鞘はまだ、開かない。開かないまま、夜は深みに入る。深みは、二人の間で同じ暗さを持った。
雨は、過不足なく降りつづけた。
朱の鳥居は、刃と門のあいだで揺れ、黒い道は、開く直前の沈黙を重ねる。
僧の祈り、社家の苦み、漁師の癖。
そして、白と泥。
それらはすべて、同じ夜に収まっている。夜の器は広く、誰の名も刻まない。刻まれない器にだけ、救いがある。救いはいつも、もっとも薄いところにある。薄いところでこそ、刃はよく走る。
やがて、丑寅の刻は来る。海は道を開ける。開いた道を、誰が最初に踏むのか、雨だけが知っている。
息をひとつ。
雨の音に紛れて、誰にも届かない合図が、それでも確かに、島のあちこちで交わされた。
夜は、彼らの方へ、もう少し傾いた。



