第一話 潮目に立つ

 瀬戸の潮は、荒れていた。
 日が傾き、宵闇が海面から立ちのぼるように濃くなると、波は朱の鳥居に打ちつけ、濡れた柱をきしませた。音は呻きに似ていた。神域の喉の奥で、誰かが息をひそめている気配がする。雨は横殴りに落ち、砂混じりの水飛沫が頬に当たってはすぐに冷えた。
 木々は潮を吸って黒く光り、湿った土は靴底を離れようとせず、草葉に溜まった水が重みで順に落ちて、見えない時刻を刻んだ。だれもが声を抑え、焚き火の火がひと息で消えぬよう、掌で覆っていた。
 噂は、火の上を渡る煙より早く広がる。
 毛利の兵の間で、小声の名が育っていた。白装束の影。人ならぬ身で、闇の裂け目を通り抜ける者。味方をも怯えさせる、異形の斬り手。
 白は夜を拒む色であるはずだった。だが雨に濡れれば、白は光を吸い、闇の一部になった。濡れた布は肌の上で重く、雨粒を弾かず、そのまま飲み込んでいく。ときおり稲光が雲の腹で転がり、鳥居の朱が刃のように浮かんでは、また波に沈んだ。
 沖田静は、そこに立っていた。
 雨の温度を見分けるように、まぶたを静かに閉じ、すぐに開いた。海は、血を薄める。薄められた血は、雨の真似をする。彼は波の動きを見ていた。割れては寄せる白の縁。舌に塩の粒を感じながら、肺の奥でゆっくりと息を育てた。
「海に流れる血を見ると、生を思い出す」
 言葉は、独白の形をしていた。聞いた者はなく、雨に紛れて自分の耳にだけ届く。ひと呼吸ごとに足元の砂が沈み、踵がゆっくりと空気へ戻る。彼は膝の傍らに広げた地図を、雨から庇うように肘で押さえた。
 墨はもう滲んでいる。だが道筋は滲まぬ。
 斥候が記した見張り台と、社殿裏の物見の位置、潮汐の刻の書き込み、風向の矢印。紙の上の風景の、隙と隙を彼は指先でつないだ。濡れた指の腹に砂がひと粒くっつき、それを払わずに、白い小石を三つ取り出す。
 小石は、夜半に開く黒い道の印だった。
 鳥居の影から、社殿の裏手へ。そこから山の斜面をかすめ、雨で鈍る草の音に紛れて入江へ降りる。俯いた敵兵の視界の下端は、闇が重くなると狭まる。その狭まりと、風の裏になる瞬間とが重なる時刻を捉えて、彼は石を置いた。
「この島は、死がよく似合う」
 刀紐を締め直す手は、丁寧だった。結び目の形に、癖がある。片方をわずかに長く残し、切先の重みがそこへ寄るようにする。歩くときに音が消える。走るときに布が鳴らない。癖は習慣となり、習慣は身体の一部となる。
 笑っているのか、分からない顔をして、彼は立ち上がった。笑えば、不気味だと言われる笑いになるのを知っている。だから大抵は、笑わない。笑わないことが、人を安心させないと知っていても。
 雨は、止まない。止まないほうがいい、と彼は思う。止まない雨は、匂いと音を厚くして、気配を別の層に押し込める。押し込められた気配の間を、人はすり抜けられる。
     ※
 同じ頃、陶晴賢の陣でも、雨がものを言わせていた。
 矢野蓮は、灯の小さな明かりの下で、濡れた紙に掌を置いていた。紙は布より弱い。布は血にも雨にも耐えるが、紙は広げただけで破れる。破ける紙の端を指で押さえながら、彼は数を数えた。供給、干し飯、矢羽の残り、脚の遅い兵の名。
 撤退は恥ではない。撤退は、道である。
 彼はそう考えていた。だが、そう口に出すことの難しさも知っていた。軍議の席で、彼は静かに言った。潮が引く刻、雨が弱まる刻、視界が戻る刻。それは敵にとっても同じ刻であること。疲れた兵は勝機に足を取られること。退く路を残しておかねば、勝ちに見せかけた負けに飲み込まれること。
 笑う者がいた。
「弱気を吐くな」「潮が味方する」
 誰かは茶化し、誰かは怒った。怒りは自分の恐れを隠すために最も都合のいい形をしている。彼は諍いを避けた。言い返せば、誰かの面子を折る。それでは兵が萎える。萎えた兵は、命を落とす。
 彼はただ、頷かなかった。頷かないことで、言葉を止めた。会議が散ってから、彼は小さな木札をいくつも用意させた。木札には簡単な刻印を入れ、自然の倒木や岩の陰に紛れるよう加工させる。雨に濡れても文字が流れぬよう、煤で焼き、油で拭いた。
 それは撤退の標だった。
 夜半にしか見えない標。そこをたどれば、海へ抜けられる。余計な叫び声も、狼煙も、旗も要らない。兵の足は、疲れたときにこそ間違える。間違える足を、標で支える。誰かが倒れても、標が残っていれば、次の誰かが道を拾える。
 矢野は、手を動かし続けた。手を動かし続けることで、考えが固まる。固まった考えは、ときに硬くなる。だが硬さが要る夜もあった。雨は肩から落ち、袖を重くした。火は紙の端を焦がすぎりぎりのところで止まり、湿気のせいで、消えずに続いている。
 彼は歩く。歩くことで、兵の顔を見た。顔は、敵より雄弁だ。顔は、兵糧より正確に飢えを語る。
 彼は負傷兵に近づき、袖をまくって傷口を見た。布で押さえ、指で血の縁に触れ、呼吸の浅さを耳で測った。道具がなくても、手はあればよい。手は、まだ裏切らない。
「ここで死ぬな」
 彼はそれしか言わない。言葉は少ないほど力を持つことを、知っている。
 雨脚が強くなり、潮の音が重くなった。
 波と波の間に、別の足音が紛れ込む。矢野は立ち止まり、耳を済ませた。足音は波と同じ律動で近づき、消える。戻る。また消える。まるで海が歩いている。
 幻聴ではない。体が先に判断し、心がそれに追いつく。体は、雨の中で育つ。矢野は自分の呼吸を細くし、気配の重さを測った。重さは海のほうへ傾いている。わずかに。だが確かに。
     ※
 島は、息をしていた。
 息をする島の境目に、二つの孤が立っている。片方は、死が似合うと言い、片方は、ここで死なせないと言う。二つの言葉は、聞こえぬまま、同じ潮目で交差する。交差は刃のように薄く、しかしそこにだけ道が開くことがある。
 沖田は地図を畳んだ。畳んでから、もう一度広げ、石の位置をずらした。風が一瞬、逆に吹いたのだ。雨の粒の傾きが変わる。匂いの層が動く。海の塩が強くなった。こういう夜は、いつもより獣が沈む。沈んだ獣の代わりに、人の動きが浮く。
 彼は斥候に目をやった。斥候の少年は、それだけで体を強張らせる。強張った体は音を立てる。音は夜に似合わない。少年は背を丸め、おもむろに皮の筒を抱え直した。中には、油紙に包まれた火口と、細い綱。彼らは火を使わない。火は敵を集める。火は味方の目を奪う。この夜は、音と匂いだけで十分に足りる。
「お眠りなさい」
 沖田は少年に言った。
「眠れない」
「目を閉じなさい。目を閉じて、雨の音だけを聞くといい。雨はやがて、何も言わなくなります」
 少年は従い、濡れた袖で顔を拭った。雨は、すぐにまた同じ顔をつくった。
 沖田はひとり、鳥居の影の近くへ歩いた。鳥居は、海に立つ門だ。門は、人を出入りさせるためにある。ここでは、人よりも、匂いと声が出入りしている。門の柱に額を寄せ、耳で木の湿りを測る。木は海を吸って膨らんでいる。膨らんだ木は割れにくい。焼けづらい。火矢が舐めても、すぐには燃えない。準備はまだ要る。
「死が似合う」
 彼は低く繰り返した。言葉は、雨に沈み、波に押され、砂に消える。言葉が消える間に、彼は生き延び方を数えた。彼にとって、生は数だった。斬る数、斬らぬ数、歩幅の数、呼吸の数。数を足すとき、人は思想を持たずに済む。思想がない者は、斬られても痛まず、斬っても痛まない。
 矢野は、木札のひとつを自ら打った。
 人に任せるほうが早い。だが、最初の一つは、自分の手でやる。木の感触は、夜明けになっても手に残る。残った感触が、あとで判断を助ける。木は湿って重い。鉄の釘は冷たい。冷たさは、迷いを吸う。
 彼は部下を集め、短く言った。
「潮が変わる刻に、退く準備を終えろ。旗は使うな。声を張り上げるな。標を見つけた者が先導しろ」
「勝ち目は、捨てるのですか」
 若い兵が言った。声は怒りの形をしていた。怒りの中身は、恐れだ。
「勝ち目を捨てるのではない。死に目を捨てる」
 彼は答え、若い兵の肩に手を置いた。肩は熱かった。恐れは熱を帯びる。熱は、手に伝わって冷める。
 彼は負傷兵の列へ戻った。うずくまった男の隣に膝をつき、包帯を巻き直し、泥を拭った。手のひらが血を吸う。血は熱い。熱いものを持てば、冷静さが戻る。
 彼は彼自身の体温を下げ、目を澄ませた。目は、夜の中で仕事をし、心のほうをあとから連れてくる。
 雨は、まだ止まない。
 止まない雨の向こうで、鳥居の影が細く揺れた。沖田の白は、暗い水面に反射し、見えない線を引く。その線は、海の道と重なっていた。潮が開ける刻、海は歩ける。歩ける海は、道のように静かで、道よりも深い。
 さざ波の向こうで、誰かが笑ったように聞こえた。矢野は、その笑いを風の癖だと片づけ、同時に、笑った者の位置を計算した。笑いは、驚きよりも遠くまで届く。無造作に発せられた音は力が弱い。弱い音ほど、波に揺られて長く残る。
 誰かが近づいている。
 矢野は、短く笛を鳴らしそうになって、それをやめた。音は、味方を集める。同時に、敵も寄せる。寄ってくるものが同じなら、鳴らす意味がない。彼は背を向け、別の路を歩くふりをして、木陰に身を沈めた。
 湿った葉の匂いは、血の匂いに似ている。
 似ている匂いを嗅ぎ分けるには、時間がいる。時間が要るとき、人は死ぬ。死ぬ前に、標を見つければよい。目に見えるものが一つ増えるだけで、足は迷いを離れる。迷いを離れた足の裏は軽くなり、軽い足は、遠くへ行ける。
 矢野は、遠くへ行かせたいのだ。
 兵を。名も顔も覚えきれぬ多くの者を。自分の掌からこぼれ落ちる砂を、すべて拾うことはできない。それでも、拾おうとしている手の形を、人に見せることはできる。その形を見た者だけが、生き延びて、次の誰かの掌を見つけるのだ、と彼は信じた。
 夜がさらに深くなった。
 雨粒は小さく、数は多く、音は柔らかくなった。柔らかい音が重なると、耳は重くなる。重くなった耳は、遠い音を聴く。遠い音は、近い足音よりも大きい。大きいのに、目には見えない。見えないものの側に、道が開く。
 沖田は、耳を澄ませて歩いた。歩いているようでいて、ほとんど動かない。動かないことで動く方法を、彼の体は知っていた。背中の筋肉が、雨を受けて緩む。緩んだ筋は、刃を走らせるときに初めて固まる。固まるのは短く、またすぐにほどける。ほどけるときに、刃の記憶が皮膚に残る。残った記憶が、次の刃を助ける。
 彼は立ち止まり、掌をひらいた。雨の粒は、皮膚に触れる寸前にひとつ小さくなり、触れた途端に形を失う。形を失うものは、美しい。形がないものは、斬れない。斬れないものの中に、刃を休ませる。休ませた刃は、よく動く。
 背後で、斥候の少年が小さなくしゃみをした。止められないものは、止めなくてよい。止めたふりをすると、さらに大きくなる。彼は何も言わないで、少年から視線を外した。外した視線は、鳥居の根元に落ちた。濡れた木の根は、暗い蛇のように見える。その下を、蟻ほどの光が這い、消えた。
 矢野は、その光の消える位置を見た。見たことに気づかれないよう、目を動かさずに見た。光は、灯の真似をする虫ではない。火口の残り火だ。火は、雨に負けるが、人の意志には負けない。意志は、雨より長い。長いものは、短いものの形を借りる。借りた形のほうが、目につかない。
 彼は唇を噛んだ。そのまま、ひとりの兵を呼び、耳元で囁いた。
「標の二本目を打て。いまから、音を消せ」
 兵は頷き、泥を蹴って走った。走る音は雨の音に飲まれ、返ってこない。返ってこない音は、不安を呼ぶ。不安は、すぐに呼吸の数を増やす。数が増えた呼吸は、冷たくなる。冷たくなった呼吸は、長くなる。長い呼吸は、夜を渡る。
 沖田は、彼方の這うような気配に気づいた。気づいて、笑わなかった。笑うのは、まだ早い。早く笑えば、後が短くなる。短いものは鋭い。鋭いものは折れやすい。折れる刃は、嫌いではない。だが今夜、折れてよいのは、自分の刃ではない。
 雨の間から、鹿の鳴く声がした。声は短く、乾いていた。鹿は、この雨を嫌う。嫌うものは、隠れる。隠れたものは、道を空ける。空いた道は、黒い。黒い道には、足音が似合う。波と同じ拍で、近づいては消える足音。
 矢野は、振り返らなかった。振り返ると、誰かの視線に捕まる。捕まれば、こちらが捕まえようとしていたものが、逃げる。逃げるものは美しいが、今夜は、美しいものに見とれている暇はない。彼はただ、誰かの肩を叩いた。叩いた肩が震え、震えが彼の掌を上ってきた。震えは、若さの形をしている。
「ここで死なせない」
 彼は静かに言い、次の標の位置を目で示した。
 沖田は、鳥居の脚に指を這わせた。木の目は濡れて広がり、そこに溜まった水が揺れて、鏡になっている。鏡の中の自分は、白さを持たず、暗い布の塊に見える。自分の顔は、形にならない。形にならない顔は、世に残らない。残らぬものは、軽い。軽いものは、速い。
 彼は地図をしまい、紐を肩にかけ、腰を落とした。膝の角度は、習い続けた者の角度をしている。踵の下の砂の沈み具合で、次の一歩の深さが決まる。深い一歩は、長い間合いを作り、長い間合いは、刃を鈍く見せる。鈍く見える刃は、よく通る。
 彼は、夜を待っていた。夜はとっくに来ているのに、なお待っていた。夜の核がこちらへ寄ってくるまで。夜の核は、雨が細くなって音が寄り添ったとき、鳥居の沈黙のちょうど真ん中に現れる。そこに、黒い道の最初の入口が開く。
 矢野は、標の列の最初から、最後までを歩いた。歩くたびに、泥が新しい形をつくる。形は、水を受けて、すぐに崩れる。崩れた跡は、誰かの目印になる。目印が増えれば、夜は薄くなる。薄くなった夜に、刃の影が濃くなる。濃くなった影は、目でなく皮膚で見る。皮膚で見たものは、忘れない。
 兵たちは、彼の背中を見ていた。背中は顔より正直だ。背中は、隠そうとしても隠せない。背中に、言葉は宿らない。宿らないところにこそ、信が残る。彼は、背で言った。退く準備をしてから、前へ出ろ。死に場所ではなく、生き延びる場所を探せ。探す手は、いつでも足もとから始まる、と。
 雨が、ひときわ強くなった。音が、島を覆った。
 その音の底で、足音がひとつ、消えた。
 同じ拍で、別の足音が、生まれた。
 沖田は、その生まれた足音の位置を踏み、何も置かず、何も拾わず、そのまままたひとつ、消した。消すことに意味はない。ただ、意味のない作業で体を温める。温まった体は、余計な考えを手放す。考えは少ないほど、正確になる。
 彼は、低く息を吐いた。吐息は、すぐに雨になった。雨は、息の形を知らない。知らないから、等しく降る。等しく降るものの中で、差をつくるのは、手の感覚だけだ。
 矢野は、夜の向こうに、遠い灯りを見た。灯りは、狼煙ではない。漁師の舟でもない。島の背で光るものは、たいてい、祈りの跡だ。祈りの跡は、濡れるほど、よく光る。祈りの光は、戦の光より温い。温い光の近くで人は、死ににくい。
 彼は、祈りに頼るつもりはない。だが、祈りを道具にすることを厭わない。道具は、意図から離れれば離れるほど、役に立つ。彼は、布を一枚懐に入れた。古い護符だ。昼間、道で出会った老女が、押しつけるように渡してきた。
 ここでは、名は呼ばれぬよ。老女はそう言った。名は呼ばれぬが、手は触れる。触れた手の感触は、名より長く残る。
「ここで死なせない」
 矢野は、もう一度、言った。言葉の重みは、繰り返されるたびに少しずつ変わる。最初は誓いの形をしていたものが、次には命令の形をとり、やがて祈りに似る。祈りは、声に出すと弱くなるから、本来は胸の中だけで済ませるべきだ。だが彼はあえて、声にした。声にせねば、届かぬ者がいるからだ。
 夜は、ようやく、彼らにとっての夜になった。
 鳥居の根元から、黒い道の入り口が静かに開き、波は引くでも寄せるでもなく、ただそこに留まった。留まった波は、鏡になる。鏡に映った白は、線になった。線は、手の甲の血管に似ている。似ているものは、体が先に思い出す。思い出した体は、勝手に動く。
 沖田は、一度だけ、目を閉じた。
 閉じた瞬間、闇は彼の内側にも降りてきて、過去の足音を短く呼んだ。呼ばれた足音は、すぐに遠のいた。遠のくものは、追ってはならない。追えば、こちらが遠くなる。遠くなれば、刃は鈍る。鈍った刃は、人を救うふりをする。救うふりは、救いより人を傷つける。
 彼は、目を開け、雨を見た。
 雨は、刃の上でだけ、形を保つ。刃は、形を保つものを好む。好むものを、よく切る。よく切る刃は、たまに、よく切らない。よく切らないことが、よく切ることより難しい夜がある。その夜のひとつが、今夜であると、彼は感じていた。
 矢野は、標の数を心の中で数え、数え終えたところで、深く呼吸をした。呼吸には数がある。数の合わない呼吸は、敵を呼ぶ。敵は、呼ばれなくとも来る。だからこそ、こちらは数を合わせて待つ。待つことは、弱さではない。待つことは、攻めである。攻めは、刃だけの名前ではない。
 ふいに、風が変わった。
 雨脚が斜めから縦に変わり、鳥居の朱が海に揺れて、いつもより赤く見えた。赤いものを見て、人は早足になる。早足になった心を、彼らは、各々の仕方で押しとどめた。
 沖田は、刀紐を結び目から一度ほどいた。ほどいて、結び直す。その間、刃は鞘の中で眠ったままだ。眠っている刃を、眠らせておく力が、彼にはあった。斬る者の大半は、斬らぬ力を持たない。持たぬ者は、早く斬って、早く死ぬ。
 矢野は、指先を火にかざした。指先の皺は、濡れて膨らみ、白くなっていた。白は、弱さを語らない。白は、隠す。隠すことは、弱さのもう一つの名だ。弱さがなければ、人は生きようとしない。生きようとする意志は、弱さのなかに眠っている。
 どこかで、誰かが足を止めた。
 止めた足の音は、動く足よりも大きい。止まることは、そこに在るという合図だからだ。合図に気づく者だけが、夜を越える。気づかぬ者は、夜を過ぎても、朝に追いつけない。
 沖田は、その合図を、水の向こうから拾った。拾って、懐にしまい、もう一度、鳥居を見た。鳥居の足元に、波がひとつ、やさしく寄せた。やさしさは、ひとの油断を生む。油断は、刃を鈍らせる。鈍らせないために、彼は自分の舌の裏を噛んだ。鉄の味がした。鉄は安心を連れてくる。
 矢野は、泥に膝をついた。膝の湿りは、骨まで届き、骨は冷えて、思考を澄ませる。澄んだ思考は、余分なものを削る。削ったあとの余白に、祈りが入り込む。祈りは、彼が望んでいないところからやって来て、彼が望んでいる形に一度もならない。それでも、祈りの匂いは、兵の背を押す。
 夜の核が、ふたりのあいだにいよいよ近づいた。
 足音は波と同じ拍で、近づいては消え、またどこからともなく現れた。現れては消えるものは、刃に似合う。刃は、はっきりとしないものを好む。はっきりしているものは、もう割れているからだ。
 沖田は、初めて、口の端で笑った。笑いは短く、つくられたものではなかった。
「――さて」
 言葉は、誰にも聞こえなかった。
 矢野は、最後の標を自ら打った。打って、掌を泥で拭った。拭った掌に、老女の護符が湿って張りついていた。彼はそれを剥がさなかった。剥がせば、布は泥を吸う。泥を吸った護符は重くなり、重さは、道を指す。指し示された道は、誰かが踏む。踏まれた道は、次の誰かの命になる。
 潮の音が、ふいに軽くなった。
 軽い音の裏側で、重い静けさがひとつ生まれた。生まれた静けさは、島の心臓に似ていた。心臓の音は、戦の音に似ていない。だが、心臓がなければ、戦の音はどこにも響かない。
 沖田は、最初の一歩を踏み出した。
 矢野は、最初のひとりを送り出した。
 ふたつの孤は、まだ互いを知らない。
 だが、おたがいの影は、すでに相手のほうへ伸びている。
 その影の上を、雨粒が無数に叩き、消え、叩き、消え、やがて叩くことをやめた。
 夜は、息をひそめた。
 鳥居は、わずかに揺れて、動かないふりをした。
 海は、内側でだけ荒れた。
 明けない夜はないと、人は言う。
 だが、明ける夜を選ぶことは、人にはできない。選べるのは、夜のなかで、どちらの影に立つかだけだ。
 沖田は、死が似合う場所を選んだ。
 矢野は、死が似合わぬ場所を選んだ。
 選ばれたふたつの場所は、思いのほか、近かった。
 近くて、まだ遠かった。
 雨は、それでも、降り続いた。
 雨は、いい。すべてを同じに見せてくれる。
 同じに見えるものの中で、違いをつくるのは、いつだって、ひとの手と、ひとの呼吸だ。
 呼吸を揃えよ、と、誰も言わなかった。
 それでも、潮と潮のあいだで、ふたりの呼吸は、やがて、ほとんど同じ数を数えはじめた。
 遠く、太鼓は鳴らなかった。
 鳴らぬ太鼓のかわりに、島の心臓が、ひとつ、ふたつ、と鳴った。
 その拍に合わせて、白い影と、若い指揮官の影が、まだ交わらぬまま、同じ夜へ入っていった。
 雨は、降りやまない。
 そのほうがいい。
 雨は、ひとを平等に濡らす。平等に濡れた夜にだけ、あの黒い道は口を開ける。
 鳥居の下、波は低く呼吸し、海は、やさしいふりをした。
 やさしさを疑う者たちは、まだ互いの名を知らない。名は、呼ばれないほうが、長く残る。呼ばれぬ名が、これから二人のあいだで、どんな音になるのかを、夜だけが知っていた。
 彼らは、それぞれの足場から、同じ闇へ足を伸ばした。
 刃はまだ抜かれぬまま、しかし、抜かれたときよりも鋭い気配で。
 それが、潮目に立つ、ということだった。
 そして、潮は変わる。
 音のないところで。
 誰の許しもなく。
 夜は、ほんの少しだけ、彼らのほうへ傾いた。
 その傾きを、どちらも知らないまま、受け取った。
 受け取ったものは、やがて、返さねばならない。夜はそういう仕組みだ。
 まだ、何もはじまっていない。
 だが、はじまっていないものほど、はっきりと、終わりの形をしている。
 終わりの形は、白い布の端のように、雨に濡れていた。
 矢野は、布を懐に押し込み、掌で押さえ、立ち上がる。
 沖田は、白の重みを肩で受け、その重みを、まるで羽織っていないかのように軽く見せて、歩きだす。
 潮の匂いは、血の匂いに似ている。
 似ていないのは、残り方だけだ。潮は残り、血は消える。
 それでも、どちらも雨には勝てない。雨は、その夜、すべてに勝っていた。
 勝ったものは、語らない。
 語らないもののあとを、物語がゆっくりと追いかける。
 追いついたとき、そこには、すでに刃が、ひと筋、置かれているだろう。
 その刃を握る手の片方は、白。片方は、泥。
 夜は、それを見て、また、何も言わない。
 ただ、潮が、鳴る。
 あるいは、鳴らないふりをする。
 どちらでも、かまわない。
 ふたりは、同じ闇へ向かって、歩きだしていた。
 それが、今夜のすべてであり、すべての始まりだった。