第十六話 潮の外(そと)へ
まだ夜が明けきらぬ刻、海沿いの小径に霧が降りていた。
風はなく、ただ波の息が寄せては返す。岩に打ち寄せるたび、白い泡が足元に残り、やがて跡形もなく消える。
矢野は歩を緩め、立ち止まった。息は上がっていない。むしろ胸の奥が過剰に静まり返り、音のすべてを拾ってしまう。耳の奥で鼓動が早鐘のように響くのに、外界は驚くほどに寡黙だった。
隣には沖田がいる。
白布を裂いたあとも、彼の装束はまだ白のままだった。だが血と潮で薄墨に染まり、夜明けの霧に混じって輪郭を失いつつある。その姿は、もはや「生者」であることを留めながらも、同時に「消えゆく者」にも見えた。
矢野は言葉を探した。何を口にしても、音は霧に吸い込まれるだろう。それでも、沈黙を抱えたまま歩みを進めることはできなかった。
「……まだ先に、道はあるのか?」
沖田はわずかに振り返った。
霧に濡れた黒髪が頬に張りつく。視線は細く鋭いのに、そこに宿る熱はやわらかだった。
「道はあります。けれど、名を持ったままでは踏み込めない」
矢野は唇を噛んだ。
「名を呼ばぬ島」の記憶が甦る。祠に置かれていた白い石。名を呼ばれぬ神。呼び戻す太鼓。――すべてが、この道のためにあったのではないかとさえ思える。
歩みを再開すると、やがて海中に立つ鳥居が見えてきた。
両柱は古びて苔に覆われ、波を受けて軋むたび、鈍い音を鳴らす。その姿は、まるで海が用意した門出の標のようだった。
矢野は思わず立ち止まり、護符を握りしめた。布に包んだそれは、幾度もの戦いで擦り切れ、もはやただの紙片に近い。それでも彼にとっては唯一の「証」だった。
「なあ、沖田」
声が掠れた。
「お前がもし、ここで消えたら……俺はどう記せばいい」
沖田は足を止めた。鳥居の向こうに朝の気配が満ちていく。その光の縁に背を重ね、彼は振り返った。
「記すことはありません」
短く言い、そして続けた。
「けれど、忘れないでほしい」
矢野の胸に鋭い痛みが走った。記さなければ、誰も知らない。忘れなければ、誰も救えない。だが――その矛盾こそが彼らの選んだ生だった。
沖田の目は淡く笑っていた。
「記すことは縛ります。忘れないことは赦します。あなたにできるのは、その両方です」
霧が濃くなり、鳥居の輪郭がぼやけていく。二人は互いに視線を交わした。そこには別れの合図も、逃避の決意もなかった。ただ、同じ影の濃い方へと並び立つ者の姿があった。
矢野は護符を握り直した。指の間から、布片がひらりとこぼれ落ちる。波がそれを攫い、足元でほどけ、海へ溶けた。
――彼らの足取りは、もはや記録には残らない。
鳥居を背にして、小径は海と並走した。右に波、左に低い石垣。霧は薄布のように視界を仕切り、先の形を曖昧にする。
浜の端に、古い番屋があった。屋根は斜に傾き、壁板は潮に焼けている。出入り口には布帘が垂れ、黒い線で「止」の字が掠れて読めた。霧の幕の向こうで、かすかな人の気配が動いた。
矢野は護符を握り、顎で合図した。沖田は頷き、鞘に触れず、まず耳に触れた。風の向き、波の返し、足音の層――ここに在る音を一つずつ外していく。最後に残るのは、人の呼吸だけだ。
番屋の背後には、舟を吊るす滑車台がある。濡れた縄が垂れ、雫が間遠に落ちている。矢野はそこへ素早く回り込み、足場板の節目を指で叩いた。
トン――。
短く、低い一打。
沖田は振り向かない。鞘尻で砂を、同じ拍で返す。
トン。
言葉の代わりに、記憶で重なった合図が息を繋ぐ。
帘が揺れ、見張りが一人、顔を出した。若い。目は眠たげで、肩には弓が雑に載っている。彼は霧の向こうを見て、こちらに気づかないふりをした。気づきながら、見なかったことにする迷いの目だ。
沖田はまっすぐに近寄らず、斜めに歩いた。波打ち際の湿った砂に足を置けば、音は小さい。若者の肩がほんのわずかに上がり、口が開く。名を問う声が出るより早く、沖田の手が動いた。
刃ではない。鞘だ。
喉元に、押し当てる――止めるため、切らぬための角度で。
「声を出すな」
囁きは潮の音に混じって、彼一人にしか届かない。若者の眼に恐怖がよぎり、すぐに羞恥の色が上書きする。彼はまだ命令を持たない兵だ。命令を持たぬ者は、殺すべき対象ではない。
矢野は合図の間(ま)に、番屋の内へ滑り込んだ。網の匂い、古い油の匂い。壁際に矢束、棚に銅鈴。床板の下に、警告用の太鼓が据えられているのを見つけた。縁の革は乾き、叩けば間違いなく峠の見張りへ響く。
矢野は太鼓の縁に指先を置いた。打てば呼ぶ。呼べば縛る。彼は指を離し、代わりに太鼓枠の外周を爪で弾いた。
コ……ン。
乾いた輪郭だけが、番屋の木組みに吸い込まれる。
外で、沖田が若者の肩から手を離した。若者は膝をつき、咳を一度だけした。沖田はその肩を押し、屋内へ促す。
「伏せろ。目を閉じろ」
命令は短い。若者は逆らわない。逆らわない者は、ここでは生き残る。
帘の影がもう一つ動いた。今度は年配で、眼の底が冷えている。矢を番え、口は開かない。判断が早い。こういう者は、戦(いくさ)の歯車に噛む。
沖田は一歩、砂を踏み替えた。刃を抜く。水平――。
が、線は空気を割らない。刃は男の頬に届く直前で止まり、鞘が先に男の手首を叩いた。弦が鳴る寸前の衝動だけを奪う。
停刀(ていとう)。
殺せるのに、殺さない。切れるのに、切らない。そこにわずかな間(ま)が生まれる。男の目が釘打ちのように固まり、躰の力が抜ける。
その間の内に、矢野が番屋の床板を静かに上げ、太鼓の革を手拭で包む。音の口を塞ぐ。太鼓は呼ばない。呼ばれなければ、追手は遅れる。
沖田は刃を引き、男の膝へ低く触れた。関節が折れて石に落ちる。痛みで意識が遠のく。命は落ちない。落とさない。
海が近い。誰も溺れさせない角度へ、彼は二人を横向けに転がした。
霧の奥で、遠い一打が響いた。
ドウ――ン。
太鼓ではない。岬の向こうの岩が波を噛む音が、たまたま太鼓の低音と同じ腹を持っていたに過ぎない。だが二人は同時に息を整え、同じ拍に心を合わせた。
番屋の裏手に、低い木戸がある。鍵は縄一本。ほどけば海へ出る細道につながる。
矢野が縄を解きながら囁く。
「ここじゃ似合わない」
沖田は刃を納め、頷いた。
「ここでは死なせない」
言葉は反復して、霧に消えるのではなく、霧の形をわずかに変えた。
細道の先、滑車台の陰から兵が二人現れた。片方は濡れた弓、もう片方は錆びた槍を持つ。二人とも、迷いを持った目だ。
矢野が先に出る。足の運びは速いが、音は浅い。槍持ちが威嚇的に突き出した。
「名を名乗れ」
問う声は形ばかりで、実は答えを期待していない。名を得れば、責任が生まれる。彼らは責任を持つほどの命令を受けていない。
沖田は一歩前に出た。刃は抜かない。左手の指で舟縁を叩く。
トン、トン……。
二つの短い点、ひとつの長い間。
矢野の喉が、その間に合わせて、息を一つだけ吐く。
はあ――。
音の言葉が形を結ぶ。敵味方の線は、目の前ではなく、音の向こうに引かれる。
槍持ちの足が鈍った。沖田はその懐へ、水平線を引くように身体を滑らせる。刃は鞘のまま、槍の柄へ“触る”。弾かず、押さず、触るだけ。手応えのない接触が、相手の力の行き場を奪う。勢いは地へ逃げ、槍の穂先は濡れた板を舐め、空を切った。
次の呼吸で、沖田の右足が槍の石突(いしづき)を踏む。槍はたわみ、男の腕から抜け、板の隙間へ落ちた。
弓持ちは弦に指をかけたが、革は湿って重い。彼の肩が上がる。狙いが高い。
矢野は素手で、弓の腹に手刀を落とした。音は小さいが、響きは深い。弦がかすかに振動し、矢羽は矢筒へ戻った。
「帰れ」
矢野の声は低く、命令ではない。道を示すだけの声だ。
ふたりの兵は顔を見合わせ、霧の向こうへ退いた。足取りは速くない。速くない退きは、生還の合図だ。
番屋の中で、若者が身を起こしかけた。沖田は手で制し、床に残る太鼓へ目をやった。
「叩けば助かると思いますか」
若者は唇を噛み、首を振った。彼は知っている。この霧と潮の日には、助けは遅れ、犠牲が増えることを。
「なら、あなたは見なかった。私たちも、あなたを見なかった」
沖田はそう言い、若者の肩に布をかけた。布は白ではない。煤けた灰色だ。
小径へ戻ると、鳥居の向こうでまた波が砕けた。
ドウ……ン。
ふいに、別の打音が重なった。
トン――。
遠く、岬のほう。合図の“ひとつ”。
矢野と沖田は視線を交わす。太鼓は封じた。では、誰が。
霧の帳の先で、何者かが同じ言葉を知っている。救いか、追手か。その区別は、もう彼らにとって重大ではない。音が通うなら、行ける。
矢野は護符を握り直し、囁いた。
「書けば、ここで物語は止まる」
「書かないでよろしい」
沖田が応じる。
「でも、忘れない」
「ええ」
反復は祈りに近い。二人のあいだで、言葉は名を持たず、しかし確かな形を持った。
さらに奥へ、小径は海から剥がれるように山裾へ寄り、石段へ変わる。段の苔は濡れ、踏めば小さく鳴く。階の上手(かみて)、霧の濃さが一段深くなり、輪郭のない人影が横切った。
矢野が先に動いた。石段の脇へ身を落とし、袖の内で指を鳴らす。
コッ。
短い吸気。
は――。
沖田は反対側から同じ拍を返す。
トン。
人影が止まった。霧の粒子の中に、驚きが広がる。彼もまた、音の言葉に反応したのだ。愚鈍ではない。名の代わりに音を聞く耳を持つ。こういう者には、刃よりも間(ま)で答える。
沖田は石段の上段へひらりと移り、影の背後に立った。刃を抜く。水平――。
止まる。
影が振り向く。顔は若くも老いともつかず、霧の加減で頬の起伏が曖昧だ。眼だけが確かで、そこに怯懦ではない警戒があった。
「誰のために行くのですか」
沖田が問う。
「誰のためでもない。命令があるだけだ」
その答えは真実だった。命令は名を持たない。名を持たない命令は、斬っても斬り切れない。
刃が、わずかに下がる。
「なら、あなたも見なかった」
沖田は刃を納め、影の肩を押して脇へ退けた。
影は押されるまま、一段下へ退き、霧に溶けた。
矢野が息を吐く。停刀の間は、いつも刃より鋭い。救いの刃は、殺しの刃より冷える。
石段を登り切ると、海は背中で低く鳴った。鳥居は遠くなり、揺れる白いものが足元でほどけている。さきほど海へ流した布片ではない。誰かの袖の端だ。きっと、ここで誰かが“死んだ”ことにされた。
矢野はそれを拾わず、見るだけにした。拾えば、名がつく。見れば、痕跡になる。今は、痕跡だけで足りる。
霧の向こうで、再び“ひとつ”。
トン。
それに呼応するように、沖田が舟の舷を叩いた記憶の手つきで、空気を叩く。
トン。
二つの音は合わさって、道のかたちを描いた。
ふたりは並んだ。分かれて消えるのではなく、同じ影の濃い方へ。
矢野が囁く。
「ここじゃ似合わない」
「ここでは死なせない」
反復は、もう呪文ではなかった。約束になっていた。
足下で波が寄せ、拾わなかった白い端布をさらっていく。ほどける。生地の繊維がほどけ、塩に融け、海に紛れる。
記すな。けれど、忘れるな。
その言葉の芯だけが、ふたりの胸で硬質に残った。
彼らは音の道を辿り、霧の層のさらに奥へと消えていった。そこで待つものが救いであれ、追手であれ、今や重要ではない。無言の連携が立ち上がり、殺せる刃は停り、太鼓は鳴らずに、しかし確かに彼らを導いた。
世界は、わずかに静かになった。
静けさの中で、潮が、遠くで、ひとつだけ打った。
ドウ――ン。
※
霧の層を抜けると、石段は峠へ続いていた。そこには戦の痕跡が残されていた。血に濡れた地面、折れた矢、焦げ跡。誰の勝利で、誰の敗北かは分からない。ただ「ここで争いがあった」という事実だけが、濃い匂いとなって漂っていた。
矢野は足を止め、吐息を押し殺した。足元の黒ずんだ泥に、踏み潰された護符の切れ端が混じっている。名もなく、主もなく、ただ「信じた証」だけが抹消されていた。
「……勝った者の痕跡すら、こうして消える」
矢野が低く呟くと、沖田は肩をすくめた。
「勝利は誰のものにもなりません。名を刻まれなければ、すぐに砂に戻る」
二人が進む先に、十数名の影が立ちはだかった。霧に隠れていた兵たちが、峠を塞いでいる。槍と弓が並び、その背後には鎧姿の指揮者がひとり。年配で、眼差しは冷たく研ぎ澄まされていた。
「白き影……」
指揮者が唇を歪めた。
「お前はここで消える。功に記すことなく、ただ“なかった者”として」
その言葉に、矢野は悟った。戦の帰趨はもう定まっている。だが権力にとって都合の悪い者は、勝利と共に抹消される。政治による否認――それは戦よりも冷酷な刃だった。
矢野は沖田に視線を送る。沖田は刃を抜き、水平に構えた。その姿は、挑むでもなく、抗うでもない。――ただ線を引くだけの者。
「矢野さん。私に背を預けて」
短く言われ、矢野は息を呑んだ。これまで幾度も戦場で聞いた言葉。だが今は違う。
「背を預けるのは……お前だけだ」
背中合わせに立った瞬間、霧の中で二つの影が一つになった。矢野の剣は前を、沖田の刃は左右を、互いの死角を補い合う。
兵が突撃した。槍の穂先が霧を裂き、弓の弦が唸る。
矢野は弾き、沖田は落とす。
矢野は突き、沖田は止める。
殺すべき者と、赦すべき者が、背中を通して瞬時に分けられる。
背を預けることは、存在を預けることだ。矢野はそれを理解していた。彼らは互いの呼吸を知っていた。刃の間合いも、足の拍も、すでに分かち合っていた。
一人が倒れ、二人が退き、三人が声を失う。残った者たちは指揮者の背を仰いだ。だが指揮者は動かない。彼もまた理解していたのだ。――この二人を殺しても、功には記されない。否認される者に、勝利の意味はない。
やがて兵たちは矛を下げた。誰も口を開かない。霧が再び濃くなり、峠は静けさを取り戻していく。
矢野と沖田は刃を収め、背中を離した。
「勝ったのか?」
矢野が問う。
「勝ちも負けもありません。ただ、ここで私たちは“いなかった”ことになるのです」
沖田は淡々と答えた。
その言葉に、矢野の胸が締め付けられる。存在しなかった者として、歴史の帳面から抹消される――それは死よりも深い孤独だった。だが彼はそれを受け入れるしかなかった。
「お前と俺だけは、忘れない」
矢野は強く言った。
「記すな。けれど、忘れるな」
沖田が反復した。
霧の向こうで、太鼓が一打響いた。
救いか、追手か――もはや関係なかった。
※
霧は音を吸い、海は光を薄め、世界は白い盲目の内側で呼吸していた。
鳥居は海中に立ち、波に洗われながら、門出の角度を保っている。両柱の苔は深く、縄は海塩を吸って硬い。くぐる者を選ばず、しかし名を持つ者をそのままには通さない、そんな顔つきだ。
矢野は鳥居の前で足を止め、護符を握った。擦り切れた紙の角は、指の腹に馴染みすぎて、もはや痛みすら起こさない。書かれたはずの字は潮でぼやけ、線は線のままではなく、ただ“記そうとした痕”だけを残している。
「……沖田」
呼びかけは名を避け、しかし確かに彼へ届く。
沖田は鳥居の影に立ち、霧に濡れた髪を耳にかけた。その仕草は、あまりに生のものだった。消えゆく者のものではない。
「聞いています」
「お前が消えたあと、俺は本当に忘れないだけでいいのか」
矢野の問いは、霧の濃淡を測るように慎重だった。
沖田の口元が、わずかに笑いのかたちを作る。
「ええ。記すな。けれど、忘れるな」
反復は祈りに近い。
矢野は護符を握り直し、指の間からわずかにほつれた紙片が、ひらりと鳥居の足元へ落ちるのを見た。波がそれを攫い、白い布片のようにほどき、塩に融かして海へ返す。
「ここじゃ似合わないな」
矢野が言う。鳥居の正面、揺れる白と灰の境目に目をやりながら。
「ここでは死なせない」
沖田が応じる。
ふたりの言葉は潮に紛れ、しかし消えず、同じ拍に収まった。
遠くの浜辺に、かすかな人影が揺れた。追手かもしれない。救いかもしれない。或いはただ、この霧の日に道を見失った漁夫かもしれない。どちらでも、もういい。
矢野は沖田を見、沖田は矢野を見た。分かれて消えるのではない。同じ影の濃い方へ、肩を並べて入っていく――その選択だけが、彼らの中で固まっていた。
鳥居をくぐる。
海は膝の下で冷たく、砂は沈黙のまま形を変える。ここを境に、名はほどける。名がほどければ、追う手もほどける。ほどけたものは、もう一度結べるだろうか――それは分からない。分からないからこそ、美しい。
沖田は装束の袖口に指をやった。白は潮を吸い、重く垂れている。裂いて流した布の欠け目から、朝の風が入り、薄い音をこぼした。
「唯一無二って、面倒ですね」
「面倒でも、消すには惜しい」
「惜しいものは、いったん外しましょう。世界から半歩、退く」
淡々とした声に、矢野の胸が静かに疼いた。
鳥居の先で、霧が一段と濃くなる。見えるものは少なく、聞こえるものだけが多い。波がひとつ、岩を叩き、海燕が二羽、霧の縫い目を渡る。
トン――。
どこかで、合図とよく似た一打がした。太鼓ではない。岩腔に溜まった空気が、波で押されて吐息した音。その偶然ですら、彼らにとっては道の印だった。
「矢野さん」
名を呼ばない呼び方で、沖田が言う。
「隣にいてくれませんか」
「最初から、そのつもりだ」
ふたりの肩が触れ合う。衣の布目が擦れ、わずかな温度が伝わる。その温度だけが、確かなものだ。記録には残らない。だが皮膚は覚える。
膝を打つ波が引き、ふたりは砂洲の上へ出た。霧は湿った幕を少し持ち上げ、細い道筋が現れる。左右は浅瀬、真ん中だけが硬い。歩き違えれば沈む。音を合わせれば渡れる。
沖田が先か、矢野が先か――もはや判じがたい。ふたりは同じ拍で足を運び、同じ間で息を吐く。
「書けば、ここで物語は止まる」
矢野が囁く。
「書くな」
「でも、忘れない」
「ええ、忘れるな」
鳥居の方から、遅れて声が掛かった。誰かが彼らを呼ぶ。名ではなく、ただ声のかたちだけで。
ふたりは振り向かない。振り向けば、名が戻る。名が戻れば、線が引かれる。線が引かれれば、誰かが裁く。
裁かれないまま、消える。――それが、ここでの赦しだ。
砂洲が終わり、岩の背骨が海面からのぞく。滑りやすい苔の上に、朝の光が薄く差す。沖田は一瞬、足を止め、右足から先に置いた。矢野は左を選ぶ。互いの癖を、互いが補う。背を預けるというより、拍を預ける。
世界は、ふたりにとって、音でできている。
やがて砂が硬い道へ変わり、霧の内側に石の鳥居がもう一基、影のように現れた。海からの帰り道を示す鳥居だ。くぐれば陸。陸へ出れば、また追手と記録が待っている。
沖田はそこで立ち止まった。
「行けるか」
「ええ、行きますよ」
「名のないままで?」
「名がないから、行けるんです、きっと」
矢野は護符を胸元に戻した。紙は湿り、肌の上で冷たくなった。
「記さない。けれど、忘れない」
「……それでいい」
最後の鳥居をくぐりかけて、足元で白いものがほどけた。
先の浜で流れた布片だろうか。それとも別の誰かの、抹消の切れ端だろうか。布は水を含み、指の間で頼りなく裂け、繊維の一本一本が光に浮いた。
矢野は拾わない。拾えば、名が付く。
沖田もまた、見送るだけにした。見送れば、痕跡だけが残る。
「ここじゃ似合わない」
「ここでは死なせない」
同じ言葉が、今度は重なり合って一度だけ響いた。反復は呪いではなく、誓いになった。
陸の気配が濃くなる。遠くで犬が吠え、どこかの家の戸が軋む。人の生活は、ふたりの“いなかったこと”に気づかないまま、平らに続く。その平らさは残酷で、救いでもあった。
峠の向こう、霧を切るように旗の影が揺れた。武の印か、僧の布か、旅人の荷か。どれであっても同じだ。彼らは、もう表舞台に戻らない。
白き影と若武者の風聞は、諸国の道の端々に点々と残るだろう。名は伝わらず、ただ「見た」「助かった」「怖かった」「美しかった」という人の声だけが、折れた矢のように土へ刺さっていく。
世界は少しだけ静かになった。
静けさは、誰かの死ではなく、誰かの抹消によってもたらされることがある。勝者のいない勝利。敗者のいない敗北。その狭間に、ふたりは立っている。
沖田が前を見据えた。
「行きますか」
矢野は横に並ぶ。
「ああ、行こう」
ふたりは海を背に、陸の影へ入った。名を呼ぶ者はいない。名を求める者もいない。
ただ、潮の外(そと)へ――世界の輪郭から半歩退くための一歩を、同じ拍で踏み出した。
霧の向こうで、最後にひとつだけ音がした。
トン。
それが合図だったのか、別れの拍だったのか、誰にもわからない。わからないままのほうが、きっといい。
潮騒が寄せ、言葉の縁をさらい、砂に戻す。
記すな。けれど、忘れるな。
波が、一度だけ、静かに打った。
まだ夜が明けきらぬ刻、海沿いの小径に霧が降りていた。
風はなく、ただ波の息が寄せては返す。岩に打ち寄せるたび、白い泡が足元に残り、やがて跡形もなく消える。
矢野は歩を緩め、立ち止まった。息は上がっていない。むしろ胸の奥が過剰に静まり返り、音のすべてを拾ってしまう。耳の奥で鼓動が早鐘のように響くのに、外界は驚くほどに寡黙だった。
隣には沖田がいる。
白布を裂いたあとも、彼の装束はまだ白のままだった。だが血と潮で薄墨に染まり、夜明けの霧に混じって輪郭を失いつつある。その姿は、もはや「生者」であることを留めながらも、同時に「消えゆく者」にも見えた。
矢野は言葉を探した。何を口にしても、音は霧に吸い込まれるだろう。それでも、沈黙を抱えたまま歩みを進めることはできなかった。
「……まだ先に、道はあるのか?」
沖田はわずかに振り返った。
霧に濡れた黒髪が頬に張りつく。視線は細く鋭いのに、そこに宿る熱はやわらかだった。
「道はあります。けれど、名を持ったままでは踏み込めない」
矢野は唇を噛んだ。
「名を呼ばぬ島」の記憶が甦る。祠に置かれていた白い石。名を呼ばれぬ神。呼び戻す太鼓。――すべてが、この道のためにあったのではないかとさえ思える。
歩みを再開すると、やがて海中に立つ鳥居が見えてきた。
両柱は古びて苔に覆われ、波を受けて軋むたび、鈍い音を鳴らす。その姿は、まるで海が用意した門出の標のようだった。
矢野は思わず立ち止まり、護符を握りしめた。布に包んだそれは、幾度もの戦いで擦り切れ、もはやただの紙片に近い。それでも彼にとっては唯一の「証」だった。
「なあ、沖田」
声が掠れた。
「お前がもし、ここで消えたら……俺はどう記せばいい」
沖田は足を止めた。鳥居の向こうに朝の気配が満ちていく。その光の縁に背を重ね、彼は振り返った。
「記すことはありません」
短く言い、そして続けた。
「けれど、忘れないでほしい」
矢野の胸に鋭い痛みが走った。記さなければ、誰も知らない。忘れなければ、誰も救えない。だが――その矛盾こそが彼らの選んだ生だった。
沖田の目は淡く笑っていた。
「記すことは縛ります。忘れないことは赦します。あなたにできるのは、その両方です」
霧が濃くなり、鳥居の輪郭がぼやけていく。二人は互いに視線を交わした。そこには別れの合図も、逃避の決意もなかった。ただ、同じ影の濃い方へと並び立つ者の姿があった。
矢野は護符を握り直した。指の間から、布片がひらりとこぼれ落ちる。波がそれを攫い、足元でほどけ、海へ溶けた。
――彼らの足取りは、もはや記録には残らない。
鳥居を背にして、小径は海と並走した。右に波、左に低い石垣。霧は薄布のように視界を仕切り、先の形を曖昧にする。
浜の端に、古い番屋があった。屋根は斜に傾き、壁板は潮に焼けている。出入り口には布帘が垂れ、黒い線で「止」の字が掠れて読めた。霧の幕の向こうで、かすかな人の気配が動いた。
矢野は護符を握り、顎で合図した。沖田は頷き、鞘に触れず、まず耳に触れた。風の向き、波の返し、足音の層――ここに在る音を一つずつ外していく。最後に残るのは、人の呼吸だけだ。
番屋の背後には、舟を吊るす滑車台がある。濡れた縄が垂れ、雫が間遠に落ちている。矢野はそこへ素早く回り込み、足場板の節目を指で叩いた。
トン――。
短く、低い一打。
沖田は振り向かない。鞘尻で砂を、同じ拍で返す。
トン。
言葉の代わりに、記憶で重なった合図が息を繋ぐ。
帘が揺れ、見張りが一人、顔を出した。若い。目は眠たげで、肩には弓が雑に載っている。彼は霧の向こうを見て、こちらに気づかないふりをした。気づきながら、見なかったことにする迷いの目だ。
沖田はまっすぐに近寄らず、斜めに歩いた。波打ち際の湿った砂に足を置けば、音は小さい。若者の肩がほんのわずかに上がり、口が開く。名を問う声が出るより早く、沖田の手が動いた。
刃ではない。鞘だ。
喉元に、押し当てる――止めるため、切らぬための角度で。
「声を出すな」
囁きは潮の音に混じって、彼一人にしか届かない。若者の眼に恐怖がよぎり、すぐに羞恥の色が上書きする。彼はまだ命令を持たない兵だ。命令を持たぬ者は、殺すべき対象ではない。
矢野は合図の間(ま)に、番屋の内へ滑り込んだ。網の匂い、古い油の匂い。壁際に矢束、棚に銅鈴。床板の下に、警告用の太鼓が据えられているのを見つけた。縁の革は乾き、叩けば間違いなく峠の見張りへ響く。
矢野は太鼓の縁に指先を置いた。打てば呼ぶ。呼べば縛る。彼は指を離し、代わりに太鼓枠の外周を爪で弾いた。
コ……ン。
乾いた輪郭だけが、番屋の木組みに吸い込まれる。
外で、沖田が若者の肩から手を離した。若者は膝をつき、咳を一度だけした。沖田はその肩を押し、屋内へ促す。
「伏せろ。目を閉じろ」
命令は短い。若者は逆らわない。逆らわない者は、ここでは生き残る。
帘の影がもう一つ動いた。今度は年配で、眼の底が冷えている。矢を番え、口は開かない。判断が早い。こういう者は、戦(いくさ)の歯車に噛む。
沖田は一歩、砂を踏み替えた。刃を抜く。水平――。
が、線は空気を割らない。刃は男の頬に届く直前で止まり、鞘が先に男の手首を叩いた。弦が鳴る寸前の衝動だけを奪う。
停刀(ていとう)。
殺せるのに、殺さない。切れるのに、切らない。そこにわずかな間(ま)が生まれる。男の目が釘打ちのように固まり、躰の力が抜ける。
その間の内に、矢野が番屋の床板を静かに上げ、太鼓の革を手拭で包む。音の口を塞ぐ。太鼓は呼ばない。呼ばれなければ、追手は遅れる。
沖田は刃を引き、男の膝へ低く触れた。関節が折れて石に落ちる。痛みで意識が遠のく。命は落ちない。落とさない。
海が近い。誰も溺れさせない角度へ、彼は二人を横向けに転がした。
霧の奥で、遠い一打が響いた。
ドウ――ン。
太鼓ではない。岬の向こうの岩が波を噛む音が、たまたま太鼓の低音と同じ腹を持っていたに過ぎない。だが二人は同時に息を整え、同じ拍に心を合わせた。
番屋の裏手に、低い木戸がある。鍵は縄一本。ほどけば海へ出る細道につながる。
矢野が縄を解きながら囁く。
「ここじゃ似合わない」
沖田は刃を納め、頷いた。
「ここでは死なせない」
言葉は反復して、霧に消えるのではなく、霧の形をわずかに変えた。
細道の先、滑車台の陰から兵が二人現れた。片方は濡れた弓、もう片方は錆びた槍を持つ。二人とも、迷いを持った目だ。
矢野が先に出る。足の運びは速いが、音は浅い。槍持ちが威嚇的に突き出した。
「名を名乗れ」
問う声は形ばかりで、実は答えを期待していない。名を得れば、責任が生まれる。彼らは責任を持つほどの命令を受けていない。
沖田は一歩前に出た。刃は抜かない。左手の指で舟縁を叩く。
トン、トン……。
二つの短い点、ひとつの長い間。
矢野の喉が、その間に合わせて、息を一つだけ吐く。
はあ――。
音の言葉が形を結ぶ。敵味方の線は、目の前ではなく、音の向こうに引かれる。
槍持ちの足が鈍った。沖田はその懐へ、水平線を引くように身体を滑らせる。刃は鞘のまま、槍の柄へ“触る”。弾かず、押さず、触るだけ。手応えのない接触が、相手の力の行き場を奪う。勢いは地へ逃げ、槍の穂先は濡れた板を舐め、空を切った。
次の呼吸で、沖田の右足が槍の石突(いしづき)を踏む。槍はたわみ、男の腕から抜け、板の隙間へ落ちた。
弓持ちは弦に指をかけたが、革は湿って重い。彼の肩が上がる。狙いが高い。
矢野は素手で、弓の腹に手刀を落とした。音は小さいが、響きは深い。弦がかすかに振動し、矢羽は矢筒へ戻った。
「帰れ」
矢野の声は低く、命令ではない。道を示すだけの声だ。
ふたりの兵は顔を見合わせ、霧の向こうへ退いた。足取りは速くない。速くない退きは、生還の合図だ。
番屋の中で、若者が身を起こしかけた。沖田は手で制し、床に残る太鼓へ目をやった。
「叩けば助かると思いますか」
若者は唇を噛み、首を振った。彼は知っている。この霧と潮の日には、助けは遅れ、犠牲が増えることを。
「なら、あなたは見なかった。私たちも、あなたを見なかった」
沖田はそう言い、若者の肩に布をかけた。布は白ではない。煤けた灰色だ。
小径へ戻ると、鳥居の向こうでまた波が砕けた。
ドウ……ン。
ふいに、別の打音が重なった。
トン――。
遠く、岬のほう。合図の“ひとつ”。
矢野と沖田は視線を交わす。太鼓は封じた。では、誰が。
霧の帳の先で、何者かが同じ言葉を知っている。救いか、追手か。その区別は、もう彼らにとって重大ではない。音が通うなら、行ける。
矢野は護符を握り直し、囁いた。
「書けば、ここで物語は止まる」
「書かないでよろしい」
沖田が応じる。
「でも、忘れない」
「ええ」
反復は祈りに近い。二人のあいだで、言葉は名を持たず、しかし確かな形を持った。
さらに奥へ、小径は海から剥がれるように山裾へ寄り、石段へ変わる。段の苔は濡れ、踏めば小さく鳴く。階の上手(かみて)、霧の濃さが一段深くなり、輪郭のない人影が横切った。
矢野が先に動いた。石段の脇へ身を落とし、袖の内で指を鳴らす。
コッ。
短い吸気。
は――。
沖田は反対側から同じ拍を返す。
トン。
人影が止まった。霧の粒子の中に、驚きが広がる。彼もまた、音の言葉に反応したのだ。愚鈍ではない。名の代わりに音を聞く耳を持つ。こういう者には、刃よりも間(ま)で答える。
沖田は石段の上段へひらりと移り、影の背後に立った。刃を抜く。水平――。
止まる。
影が振り向く。顔は若くも老いともつかず、霧の加減で頬の起伏が曖昧だ。眼だけが確かで、そこに怯懦ではない警戒があった。
「誰のために行くのですか」
沖田が問う。
「誰のためでもない。命令があるだけだ」
その答えは真実だった。命令は名を持たない。名を持たない命令は、斬っても斬り切れない。
刃が、わずかに下がる。
「なら、あなたも見なかった」
沖田は刃を納め、影の肩を押して脇へ退けた。
影は押されるまま、一段下へ退き、霧に溶けた。
矢野が息を吐く。停刀の間は、いつも刃より鋭い。救いの刃は、殺しの刃より冷える。
石段を登り切ると、海は背中で低く鳴った。鳥居は遠くなり、揺れる白いものが足元でほどけている。さきほど海へ流した布片ではない。誰かの袖の端だ。きっと、ここで誰かが“死んだ”ことにされた。
矢野はそれを拾わず、見るだけにした。拾えば、名がつく。見れば、痕跡になる。今は、痕跡だけで足りる。
霧の向こうで、再び“ひとつ”。
トン。
それに呼応するように、沖田が舟の舷を叩いた記憶の手つきで、空気を叩く。
トン。
二つの音は合わさって、道のかたちを描いた。
ふたりは並んだ。分かれて消えるのではなく、同じ影の濃い方へ。
矢野が囁く。
「ここじゃ似合わない」
「ここでは死なせない」
反復は、もう呪文ではなかった。約束になっていた。
足下で波が寄せ、拾わなかった白い端布をさらっていく。ほどける。生地の繊維がほどけ、塩に融け、海に紛れる。
記すな。けれど、忘れるな。
その言葉の芯だけが、ふたりの胸で硬質に残った。
彼らは音の道を辿り、霧の層のさらに奥へと消えていった。そこで待つものが救いであれ、追手であれ、今や重要ではない。無言の連携が立ち上がり、殺せる刃は停り、太鼓は鳴らずに、しかし確かに彼らを導いた。
世界は、わずかに静かになった。
静けさの中で、潮が、遠くで、ひとつだけ打った。
ドウ――ン。
※
霧の層を抜けると、石段は峠へ続いていた。そこには戦の痕跡が残されていた。血に濡れた地面、折れた矢、焦げ跡。誰の勝利で、誰の敗北かは分からない。ただ「ここで争いがあった」という事実だけが、濃い匂いとなって漂っていた。
矢野は足を止め、吐息を押し殺した。足元の黒ずんだ泥に、踏み潰された護符の切れ端が混じっている。名もなく、主もなく、ただ「信じた証」だけが抹消されていた。
「……勝った者の痕跡すら、こうして消える」
矢野が低く呟くと、沖田は肩をすくめた。
「勝利は誰のものにもなりません。名を刻まれなければ、すぐに砂に戻る」
二人が進む先に、十数名の影が立ちはだかった。霧に隠れていた兵たちが、峠を塞いでいる。槍と弓が並び、その背後には鎧姿の指揮者がひとり。年配で、眼差しは冷たく研ぎ澄まされていた。
「白き影……」
指揮者が唇を歪めた。
「お前はここで消える。功に記すことなく、ただ“なかった者”として」
その言葉に、矢野は悟った。戦の帰趨はもう定まっている。だが権力にとって都合の悪い者は、勝利と共に抹消される。政治による否認――それは戦よりも冷酷な刃だった。
矢野は沖田に視線を送る。沖田は刃を抜き、水平に構えた。その姿は、挑むでもなく、抗うでもない。――ただ線を引くだけの者。
「矢野さん。私に背を預けて」
短く言われ、矢野は息を呑んだ。これまで幾度も戦場で聞いた言葉。だが今は違う。
「背を預けるのは……お前だけだ」
背中合わせに立った瞬間、霧の中で二つの影が一つになった。矢野の剣は前を、沖田の刃は左右を、互いの死角を補い合う。
兵が突撃した。槍の穂先が霧を裂き、弓の弦が唸る。
矢野は弾き、沖田は落とす。
矢野は突き、沖田は止める。
殺すべき者と、赦すべき者が、背中を通して瞬時に分けられる。
背を預けることは、存在を預けることだ。矢野はそれを理解していた。彼らは互いの呼吸を知っていた。刃の間合いも、足の拍も、すでに分かち合っていた。
一人が倒れ、二人が退き、三人が声を失う。残った者たちは指揮者の背を仰いだ。だが指揮者は動かない。彼もまた理解していたのだ。――この二人を殺しても、功には記されない。否認される者に、勝利の意味はない。
やがて兵たちは矛を下げた。誰も口を開かない。霧が再び濃くなり、峠は静けさを取り戻していく。
矢野と沖田は刃を収め、背中を離した。
「勝ったのか?」
矢野が問う。
「勝ちも負けもありません。ただ、ここで私たちは“いなかった”ことになるのです」
沖田は淡々と答えた。
その言葉に、矢野の胸が締め付けられる。存在しなかった者として、歴史の帳面から抹消される――それは死よりも深い孤独だった。だが彼はそれを受け入れるしかなかった。
「お前と俺だけは、忘れない」
矢野は強く言った。
「記すな。けれど、忘れるな」
沖田が反復した。
霧の向こうで、太鼓が一打響いた。
救いか、追手か――もはや関係なかった。
※
霧は音を吸い、海は光を薄め、世界は白い盲目の内側で呼吸していた。
鳥居は海中に立ち、波に洗われながら、門出の角度を保っている。両柱の苔は深く、縄は海塩を吸って硬い。くぐる者を選ばず、しかし名を持つ者をそのままには通さない、そんな顔つきだ。
矢野は鳥居の前で足を止め、護符を握った。擦り切れた紙の角は、指の腹に馴染みすぎて、もはや痛みすら起こさない。書かれたはずの字は潮でぼやけ、線は線のままではなく、ただ“記そうとした痕”だけを残している。
「……沖田」
呼びかけは名を避け、しかし確かに彼へ届く。
沖田は鳥居の影に立ち、霧に濡れた髪を耳にかけた。その仕草は、あまりに生のものだった。消えゆく者のものではない。
「聞いています」
「お前が消えたあと、俺は本当に忘れないだけでいいのか」
矢野の問いは、霧の濃淡を測るように慎重だった。
沖田の口元が、わずかに笑いのかたちを作る。
「ええ。記すな。けれど、忘れるな」
反復は祈りに近い。
矢野は護符を握り直し、指の間からわずかにほつれた紙片が、ひらりと鳥居の足元へ落ちるのを見た。波がそれを攫い、白い布片のようにほどき、塩に融かして海へ返す。
「ここじゃ似合わないな」
矢野が言う。鳥居の正面、揺れる白と灰の境目に目をやりながら。
「ここでは死なせない」
沖田が応じる。
ふたりの言葉は潮に紛れ、しかし消えず、同じ拍に収まった。
遠くの浜辺に、かすかな人影が揺れた。追手かもしれない。救いかもしれない。或いはただ、この霧の日に道を見失った漁夫かもしれない。どちらでも、もういい。
矢野は沖田を見、沖田は矢野を見た。分かれて消えるのではない。同じ影の濃い方へ、肩を並べて入っていく――その選択だけが、彼らの中で固まっていた。
鳥居をくぐる。
海は膝の下で冷たく、砂は沈黙のまま形を変える。ここを境に、名はほどける。名がほどければ、追う手もほどける。ほどけたものは、もう一度結べるだろうか――それは分からない。分からないからこそ、美しい。
沖田は装束の袖口に指をやった。白は潮を吸い、重く垂れている。裂いて流した布の欠け目から、朝の風が入り、薄い音をこぼした。
「唯一無二って、面倒ですね」
「面倒でも、消すには惜しい」
「惜しいものは、いったん外しましょう。世界から半歩、退く」
淡々とした声に、矢野の胸が静かに疼いた。
鳥居の先で、霧が一段と濃くなる。見えるものは少なく、聞こえるものだけが多い。波がひとつ、岩を叩き、海燕が二羽、霧の縫い目を渡る。
トン――。
どこかで、合図とよく似た一打がした。太鼓ではない。岩腔に溜まった空気が、波で押されて吐息した音。その偶然ですら、彼らにとっては道の印だった。
「矢野さん」
名を呼ばない呼び方で、沖田が言う。
「隣にいてくれませんか」
「最初から、そのつもりだ」
ふたりの肩が触れ合う。衣の布目が擦れ、わずかな温度が伝わる。その温度だけが、確かなものだ。記録には残らない。だが皮膚は覚える。
膝を打つ波が引き、ふたりは砂洲の上へ出た。霧は湿った幕を少し持ち上げ、細い道筋が現れる。左右は浅瀬、真ん中だけが硬い。歩き違えれば沈む。音を合わせれば渡れる。
沖田が先か、矢野が先か――もはや判じがたい。ふたりは同じ拍で足を運び、同じ間で息を吐く。
「書けば、ここで物語は止まる」
矢野が囁く。
「書くな」
「でも、忘れない」
「ええ、忘れるな」
鳥居の方から、遅れて声が掛かった。誰かが彼らを呼ぶ。名ではなく、ただ声のかたちだけで。
ふたりは振り向かない。振り向けば、名が戻る。名が戻れば、線が引かれる。線が引かれれば、誰かが裁く。
裁かれないまま、消える。――それが、ここでの赦しだ。
砂洲が終わり、岩の背骨が海面からのぞく。滑りやすい苔の上に、朝の光が薄く差す。沖田は一瞬、足を止め、右足から先に置いた。矢野は左を選ぶ。互いの癖を、互いが補う。背を預けるというより、拍を預ける。
世界は、ふたりにとって、音でできている。
やがて砂が硬い道へ変わり、霧の内側に石の鳥居がもう一基、影のように現れた。海からの帰り道を示す鳥居だ。くぐれば陸。陸へ出れば、また追手と記録が待っている。
沖田はそこで立ち止まった。
「行けるか」
「ええ、行きますよ」
「名のないままで?」
「名がないから、行けるんです、きっと」
矢野は護符を胸元に戻した。紙は湿り、肌の上で冷たくなった。
「記さない。けれど、忘れない」
「……それでいい」
最後の鳥居をくぐりかけて、足元で白いものがほどけた。
先の浜で流れた布片だろうか。それとも別の誰かの、抹消の切れ端だろうか。布は水を含み、指の間で頼りなく裂け、繊維の一本一本が光に浮いた。
矢野は拾わない。拾えば、名が付く。
沖田もまた、見送るだけにした。見送れば、痕跡だけが残る。
「ここじゃ似合わない」
「ここでは死なせない」
同じ言葉が、今度は重なり合って一度だけ響いた。反復は呪いではなく、誓いになった。
陸の気配が濃くなる。遠くで犬が吠え、どこかの家の戸が軋む。人の生活は、ふたりの“いなかったこと”に気づかないまま、平らに続く。その平らさは残酷で、救いでもあった。
峠の向こう、霧を切るように旗の影が揺れた。武の印か、僧の布か、旅人の荷か。どれであっても同じだ。彼らは、もう表舞台に戻らない。
白き影と若武者の風聞は、諸国の道の端々に点々と残るだろう。名は伝わらず、ただ「見た」「助かった」「怖かった」「美しかった」という人の声だけが、折れた矢のように土へ刺さっていく。
世界は少しだけ静かになった。
静けさは、誰かの死ではなく、誰かの抹消によってもたらされることがある。勝者のいない勝利。敗者のいない敗北。その狭間に、ふたりは立っている。
沖田が前を見据えた。
「行きますか」
矢野は横に並ぶ。
「ああ、行こう」
ふたりは海を背に、陸の影へ入った。名を呼ぶ者はいない。名を求める者もいない。
ただ、潮の外(そと)へ――世界の輪郭から半歩退くための一歩を、同じ拍で踏み出した。
霧の向こうで、最後にひとつだけ音がした。
トン。
それが合図だったのか、別れの拍だったのか、誰にもわからない。わからないままのほうが、きっといい。
潮騒が寄せ、言葉の縁をさらい、砂に戻す。
記すな。けれど、忘れるな。
波が、一度だけ、静かに打った。



