第十五話 白い布の行方

 海は細く絞られ、峡湾へと変わっていた。両岸は切り立った岩壁で、海面は墨のように暗く、波はほとんど立たない。静けさは息苦しいほどで、鳥の声も風の囁きも遮られていた。
 舟を進めながら、矢野は背後の気配に気づいていた。追手だ。水音はわずかであったが、静まり返った峡湾では一滴の雫の落下すら響く。耳に届く度、胸の鼓動が同調するように早まっていく。
 沖田は舟の先端に立っていた。身体の動きはまるで波と同化するように滑らかで、剣を抜く気配すら見せない。それでも、矢野には分かった。彼は既に戦いの只中にある。呼吸の深さと、指先の微細な緊張が、それを告げていた。
「ここは狭すぎる。逃げ切れない」
 矢野が言うと、沖田は肩越しに振り返った。濡れた髪が頬に貼りつき、瞳は細く光っている。
「散る覚悟をするしかないですね」
 散る、という言葉には二つの意味があった。別々の道を選ぶこと。そして、命を散らすこと。
 矢野は唇を噛んだ。崖上に視線をやる。岩壁には狭い獣道のような道筋があり、そこから追手の影が覗いている。弓を構える者、石を投げ落とす者――峡湾の道は完全に狙われていた。舟の上で戦えば、一瞬で射抜かれる。
「俺が上へ出る。囮になる」
 矢野は櫂を放り、岩壁に取り付いた。指先が濡れた岩を掴み、足裏に冷たい苔が滑る。息を殺して登るうち、追手の影がより鮮明になっていく。
 沖田は舟を止め、海際に立ち尽くした。刀はまだ鞘に収まったままだ。彼の姿は、嵐を待つ鳥のように静かで、しかし研ぎ澄まされていた。
 矢野は崖の中腹に達し、追手の集団を正面に見た。彼らは驚き、一瞬矢野に狙いを集中させた。その隙に、沖田の動きが始まった。
 彼は鞘から刃を抜き、水平に構えた。刃は光を吸い、声なき線となって峡湾の狭間に走った。
 矢野は崖上からその姿を見下ろした。沖田が踏み出すたび、波がわずかに揺れる。崖の上の追手は矢野を狙いながらも、下方で閃く刃に気を取られ始めていた。矢野はそれを利用し、声を張り上げた。
「こっちだ! 俺を狙え!」
 岩を蹴り、さらに高く駆け上がる。矢野の声に導かれるように矢が飛んだ。矢羽が頬を掠め、岩に突き刺さる。火花が散った。彼はあえて身を晒し、追手の視線と矢を自分へ引きつけた。
 その間に――沖田は、動いた。
 矢野が崖上で矢を誘い、怒号と視線を自分へ集めた刹那――静止していた世界が、わずかにずれた。
 沖田が動いた。
 彼の歩幅は小さい。水際に沿って浅瀬の縁を踏むたび、足裏で波の起伏を受け止め、刃は終始、水平のまま保たれた。角度が変わらないということは、迷いがないということだ。斜めに振れば斬れるものも、水平に保てば、必要なものだけが切り分けられる。
 最初の一人は、矢を番えようとして指が震えていた。狙いは下がる。だから沖田は敢えて低く、波と同じ高さに身を沈めた。矢は肩越しに抜け、背の岩に乾いた音を残す。その音の中へ、彼は踏み込んだ。
 柄頭で弓の腹を打ち、弦が緩む音を聴き終えるより早く、横へ一歩。水平の刃は、息を吸う間にだけ触れ、男の重心を奪った。落ちかけた体が岩の斜面へもたれ、足を滑らす。海へ落ちた音は思いのほか軽く、泡の弾ける匂いだけが残った。
 次の二人は、岩伝いに駆け下りてくる。
 沖田は待った。待つあいだ、刃先がわずかに呼吸をするのが見えた。人差し指と中指の間に挟まれた空気が、さざ波のように刃を揺らす。間合いが合うや否や、彼は一人目の膝裏へ水平に触れ、同時にもう一人の喉元へは鞘で押しあてるに留めた。落とす者と、止める者――線引きは一瞬の判断だった。
 膝を折った男は、視界の端から海へ消えた。鞘を喉に受けた男は息を詰まらせ、よろけ、石の上に崩れた。沖田はその頭を支えて横向きに転がし、肺に水を入れない角度で置く。指先が、ほんの僅か温もりに触れている。
 矢の唸りが崖上から降りた。
 矢野の声が、風に切り刻まれながらも届く。
「こっちだ!」
 怒りは上へ――その分だけ、海際の殺気が薄れる。沖田は波の反射光に目を細め、岩肌の“濡れていない線”を見つけて跳んだ。さっきまで誰かが立っていた場所。踏み跡が乾きかけている。そこへ足を置けば、音は最小で済む。
 崖を伝って降りてきた男が、石を振りかぶる。沖田は一歩だけ退き、その影を水へ落とした。石は男の手から離れ、間の抜けた音を立てて沈んだ。男は水面で荒くもがき、やがて岩にしがみついた。
 助けられる者だ。
 沖田は彼の指のかかる出っ張りに足を置き、さらなる追手の進路だけを塞いだ。踏みつけはしない。ただ、そこに立っている。彼の体温が、冷えた岩を通じてわずかに伝わる。
 横から短剣の閃き。
 沖田は腕を締め、肘で受け、刃の平で払う。水平のまま保たれた線が、短剣の軌道をすうっと外へ滑らせ、相手の手首の力を削いだ。次の瞬間、柄で顎を打つ。歯の割れる音はしない。ただ呼気がひとつ、喉で跳ねた。男は膝を折り、座り込む。それ以上は追わない。
 戦いは短いはずだった。
 だが短い、というのは、切迫のうちに判断を加速させることを意味する。時間が伸び縮みする。沖田の世界では、瞬き一度の中に、五つの線が引かれ、三つの命が行き先を変え、二つの足音だけが残った。
 崖上で矢野がつまずいた。湿った苔に足を取られ、体勢を崩す。その隙を、弓手が見逃さない。弦が鳴る――その音と同時に、沖田は小石を拾い、水平に弾いた。
 石は斜めに立つ岩角に当たり、乾いた跳ね返りを二度繰り返して矢羽を叩いた。矢はわずかに軌道を失い、矢野の耳朶のはるか先へ抜けた。
 矢野が振り返る。見開いた瞳に、笑いとも涙ともつかない光が瞬く。
 沖田は応えない。応えず、ただ進む。
 岩の上で踏み替え、刃を水平に滑らせる。狙いは指だ。撓んだ弓の握りを持ち替えようとした瞬間の、硬くなった指節。そこを叩けば、弦は己で弛む。
 打つ音が二つ。落ちる音が一つ。
 落ちたのは弓で、男の体ではない。
 後方から駆け下りた別の者が叫ぶ。声は荒く、恐れが混じっている。沖田はその声の高低だけを聴いて、殺すべきかどうかを決める。
 叫びが命令へ変わる時、声は下がる。
 救いを請う時、声は上ずる。
 今の声は、そのどちらでもなかった。
 彼は、ただ人であった。
 ならば落とす。
 踏み込みは浅く、刃は衣だけを掠める。男は自分の体が斬られなかったことに驚き、足場を確かめる前に足を引いた。そこは空隙だ。岩と岩のわずかな段差が、彼の靴底を拒む。身体は傾き、重さが前へ流れ、海へ。
 水の音。
 沖田は振り返らない。
 矢野の側で、矢筒を持つ者が最後の一本を探っていた。指がもつれ、矢羽が抜けない。焦燥は、命より先に手元を殺す。沖田はそこへは行かず、代わりに矢野の真下の岩へ跳んだ。
「下だ!」と矢野が叫ぶ。
 沖田は頷き、刃を水平に、岩の縁へ置いた。
 弓手が狙いを付ける。
 その瞬間、沖田は刃で“音”を切った。刃が岩の角を擦り、澄んだ金属音が峡湾に満ちる。狭い地形では音が輪になる。輪は人の耳を惑わせ、距離感を奪う。矢は的を失い、岩へ吸い込まれた。飛沫が上がり、海は冷たく笑った。
 残った者たちは互いに顔を見合わせ、後ずさった。彼らはまだ戦える。だが、戦わないことを選ぶ可能性がある。
 沖田はそこで初めて、水平の刃先をほんの少し下げた。
 降ろすのではない。赦す位置まで、置き直す。
 そのときだった。
 崖の上の奥――見えない角度から、別の矢が飛んだ。
 狙いは沖田。
 矢野が息を呑む。叫ぶより早く、沖田は半歩、己の影へ入った。影は水に揺れ、揺れる影は、刃の影と重なる。影を切れば、音が出る。音が出れば、矢はわずかに揺らぐ。
 矢は肩の上を抜け、背後の岩へ。沈黙が戻る。
 静けさの芯で、沖田は呼吸を整えた。
 戦いは――短い。
 短いからこそ、取り返しのつかない決定が詰め込まれる。殺す者は、殺さねばならない。落とす者は、落とせばよい。止められる者は、止めればよい。
 いま、この峡湾で、彼が殺すべき者は、三人だけだった。
 一人は、指示を切り替え、恐怖を支配に変える目をしていた男。
 一人は、弦を引き絞る腕に迷いがない弓手。
 もう一人は――沖田自身の、過去。
 刃が水平のまま、静かに線を引いた。
 命は、刃の線より先へ進もうとして、しかし進まなかった。倒れる音は、岩のうえで短く途切れる。海は、受け取るべきものだけを受け取った。
 矢野が崖を駆け下りてくる。
 膝に泥がつき、頬に薄い傷がある。だが目は冴えていた。
「終わったか」
「終わりました」
 沖田は刃を払うでもなく、ただ水平から垂直へ、そして鞘へと戻した。雨は上がり、風だけが峡湾を渡っている。
 生き残った者たちは、じりじりと退いた。彼らは命令を待っている。命じるべき者がいないことに、やっと気づきはじめている。
 沖田は追わなかった。追えば、もっと殺せた。だが、殺さなかったのは、彼の剣がそう望んだからではない。
 ――矢野の呼吸が、今は、彼の剣よりも優先されるべき拍を刻んでいた。
 舟のほうで、波が小さく砕けた。
 沖田はそこで初めて、装束の袖口に指をやった。白は潮に濡れ、重く張りついている。
 彼は袖の縫い目を指先で探った。裂け目を作る動きは、まだ早い。だが、どこを裂けば“線”になるか、確かめておく必要があった。
 矢野が側に立つ。肩で息をしながら、崖上を見渡した。追手の影は遠ざかる。まだ完全に消えたわけではないが、いまは彼らの番ではない。
「……短かったな」
「短くしました」
「どこか痛むか」
「痛みは、あとでまとめて来ます」
 沖田は乾いた冗談のように言い、剣を腰へ収めた。
 矢野は笑って、すぐに真顔へ戻った。
「下へ降りる。舟を出せるか」
「出せる。潮はまだ背を見せている」
 そのとき、崖の奥で小さな音がした。
 岩と岩のあいだから、一本の白い細紐が滑り出す。誰かの腰に巻かれていたものが緩み、風に引かれ、海へ向かって伸びる。
 沖田はそれを見て、袖から指を離した。
 まだだ。
 裂く線は、もっと静かなところで引くべきだ。
 矢野が頷く。
「行こう」
 二人は水際へ戻り、舟の舷に手をかけた。
 背後で、誰かが小さく咳をした。彼らの命は落とされたが、まだ息はある。
 沖田は振り返り、倒れた者を横向けにして、喉の詰まりを避ける姿勢へ直した。指がもう一度、温もりを確かめる。
 矢野はその手つきを見て、何も言わなかった。言葉は褒めるに似合わず、赦すに似合わない。
 舟が水に入る。
 岩と水の境に、新しい線が一本引かれた。
 戦いの線ではなく、逃れるための線。
 彼らの行く先に、まだいくつもの線がある。いくつかは越えられ、いくつかは戻れない。
 沖田は櫂を握り、矢野は舟首に腰を落とした。
 峡湾の風は冷たく、しかしもう、刃の匂いはしなかった。
 水平に保たれたものは、刃から、呼吸へと移り、二人の胸の中で同じ拍を刻みはじめていた。
 峡湾を抜けた先に、小さな入江があった。潮の流れは穏やかで、波は砂を撫でるように寄せては返す。戦いの余熱が残る身体には、あまりにも静かすぎる景色だった。
 舟を引き上げると、二人は砂の上に腰を下ろした。矢野は額に汗を滲ませ、肩で息を整えている。沖田は黙ったまま、袖を解き、海風に晒した。白装束は血と潮で重く、ところどころに裂け目が走っている。
「……短い戦いだったな」
 矢野の声は、まだ息に追いついていなかった。
「短くしましたから」
 沖田はまたそれだけを言い、布の端を指で探った。
 矢野は目を細め、その動きを見ていた。沖田が裂こうとしているのは、装束の袖の一部だった。細く引けば、波に乗る布片となる。残すべきは形ではなく、痕跡だった。
「ここで?」
 矢野が問うと、沖田は首を横に振った。
「まだ。峡湾は近すぎます。追手が見れば、すぐに気づく」
「なら、いつ?」
「静けさが戻ったとき。……そのときが線です」
 二人はしばらく言葉を交わさなかった。波の音だけが耳に届き、空は淡い灰から青へと移り変わる。夜と朝の境目にあるその景色は、何かが終わり、何かが始まることを予感させていた。
 矢野は砂に指を走らせ、無意識に線を描いていた。水平の線、斜めの線、交わる線。戦いの余韻がまだ手に残っているのか、それとも沖田の刃が心に影を落としているのか、自分でも分からなかった。
「線って、不思議だな」
 呟きに近い声だった。沖田は視線を向ける。
「斬る線と、赦す線。越える線と、戻れない線。……お前は、どこに線を引く?」
 沖田は布を握りながら、わずかに微笑んだ。
「線は、あとから分かるものです。引いたときには気づかない」
「気づいたときには、もう戻れない」
「だから面白いんです」
 矢野は返す言葉を失った。だがその無言は、決して拒絶ではなく、同意にも似ていた。
 やがて沖田は、布を裂いた。
 乾いた音がして、白い布片が手の中で軽く震える。彼はそれを一瞥し、ためらいもなく海へ投げた。
 布片は波に揺られ、やがて沖へ流れていく。朝の光を受けて白く浮かび、やがて遠くの影と混ざり合った。
 矢野はその光景を黙って見つめた。胸の奥に、言葉にならない重みが沈む。やがて彼は小さく吐息を漏らした。
「……ここで、お前が死んだことにしよう」
 沖田は驚きもせず、ただ笑った。
「私は、よく死ぬ」
 そして短く間を置き、続けた。
「だが今は、生きていく」
 その言葉に、矢野は目を閉じた。布片はすでに見えない。残っているのは、二人の胸に引かれた線だけだった。
 海に流した布片は、波に揉まれながら光を失っていった。白は灰に近づき、やがて水の色へと溶けて消えた。ほんの少し前まで沖田の袖であったものが、今は「死んだ者の痕跡」として漂っている。その一瞬の変容を、矢野は凝視していた。
「ここで、お前は死んだ」
 矢野は重ねて言った。声は決して大きくはなかった。むしろ自分自身に言い聞かせるような響きだった。
 沖田は膝に肘を乗せ、唇の端をわずかに上げた。
「そうか。なら、またひとつ死んだわけです」
「軽く言うな」
「軽いんですよ、私にとっては。私はもう幾度も死んできました。名を捨て、顔を捨て、刃の重さだけを残してきた」
 矢野は砂を握りしめ、吐き出すように言った。
「だが今は、生きていくと言った」
「ええ。死んでみせることでしか生きられないこともあります。ですが――」
 沖田は目を細め、朝焼けを見上げた。
「今は、あなたといるから、生きていく」
 矢野の胸に熱が広がった。答えたい言葉はあった。だが声にすれば、縛りになる。だから彼は黙った。沈黙は、最も正確な返事になると知っていた。
 二人はしばし砂浜に座り、波の音を聞いた。世界のどこにも彼らの名は残らない。記録には載らず、伝承にも刻まれない。ただ布片ひとつが「死」の証として流されただけだ。だが、その抹消を二人は自ら選び、互いに背負った。
「私は、存在しなかった者になる」
 沖田が低く言った。
「俺もだ」
 矢野は応じた。
「そうして、お前の“死”を背負う。お前も、俺の“抹消”を抱け」
 沖田は振り返り、矢野の目を見た。その視線は澄んでいた。荒ぶる刃を持ちながら、その瞳には柔らかな光があった。
「名を持たない逃げ道を選ぶってことですね」
「ああ。名があれば追われる。名がなければ、風になる」
 二人は立ち上がり、舟を再び海へ押し出した。背後の峡湾は静かに口を閉ざしている。追手の影はもうなかった。だが、彼らの存在もまた、この土地から消えた。
 沖田は櫂を握り、矢野は舟首に腰を下ろす。朝の光が水面に乱反射し、舟の影を細く引き延ばしていく。
「行こうか」
「どこへ」
「どこでもない場所へ」
 舟は沖へ滑り出した。海風が二人の背を押し、流された布片の行方を追うように漂った。白はもう見えなかった。けれど、その「消えたもの」が、確かに二人を護っていた。
 ――存在しなかった者を抱くということは、赦しを選ぶことだ。
 その赦しの名は、誰にも呼ばれない。