第十四話 島の声、名を呼ばぬ神
舟が波に押し出されるようにして、浅瀬に着いたのは黄昏が迫る刻だった。
空は灰色の雲に覆われ、海は墨を溶かしたように濃く沈んでいた。風はさほど強くはないのに、雨粒だけが斜めに走り、視界を削いでゆく。
沖田が先に舟を降りた。足首まで沈む砂を踏みしめると、じんわりと冷えが骨へ伝わる。矢野も遅れて足を浸した。舟は彼らを置き去りにするように揺れ、波に弄ばれている。
周囲を見回しても、人影はなかった。焚き火の跡も、漁の網も、漂着した木片すら見えない。荒涼とした砂浜は、ただ波の縁取りだけを繰り返している。
「無人島……か」
矢野の声は雨音に飲み込まれそうだった。
沖田は答えず、ただ視線を海に投げていた。白い波頭が砕け、刹那に散る飛沫を、目だけで追っている。何かを待つようでもあり、何も求めていないようでもあった。
雨はしだいに強まり、衣が肌に張りついた。体温を奪われる危険を思い、矢野は「雨を避けられる場所を探そう」と声をかけた。沖田は頷き、足を進める。
二人は岩の裂け目に、洞窟のような空間を見つけた。奥は暗く、潮の匂いがこもっている。人が長く滞在できるほど広くはないが、雨をしのぐには十分だった。
狭い岩窟に入り込むと、外の雨音は遠のき、代わりに水滴の落ちる音が響いた。一定の間隔で滴り落ちるそれは、時を刻む鼓動のようでもあった。
矢野は濡れた袖を絞りながら、思い出していた。あの老女の言葉――。
「名を呼ばれぬ島、か……」
かつて港町で出会った老婆は、火のそばで語ってくれた。
人には名があり、名を呼ばれることで縛られる。だが、この世には「名を呼ばれぬ者」を祀る島があるのだと。そこでは名を問わず、名を捨てた者だけが神に迎えられる、と。
掠れた声が耳の奥に残っている。
「名を持つがゆえに、人は望まずとも家や血に縛られる。名を呼ばれぬ神は、誰のためにも生き、誰のためにも死ねる。だが、その魂は帰る場所を得ぬのだよ」
矢野は掌の冷えを吐息で温めながら、沖田に向いた。
「なあ……ここがそういう島なのかもしれないな。名を呼ばれぬ者の行き着く場所」
沖田はしばらく黙っていた。濡れた髪が頬に張りつき、伏せた目元を隠している。やがて掌を擦り合わせながら、低い声を落とした。
「名があると、人はそこへ縛られます。血筋でも、家でも、過去でも。……私は、縛られたくない」
言葉は淡々としていたが、その奥に深い凪の気配があった。底知れぬ静けさに、矢野は胸の奥を掴まれる思いがした。
長い沈黙が続いたのち、沖田はかすかに口角を動かした。
「……ただ」
矢野は顔を上げる。
「あなたが呼ぶなら――縛られてもいい」
一瞬、沖田自身が驚いたように瞼を震わせた。吐き出した言葉が、己をも焼いたのだろう。
矢野は返答を飲み込んだ。言葉を添えることが正しいのか、それとも沈黙こそが赦しなのか。洞窟の入口で雨が幕を引き、二人を外界から切り離していた。
※
雨脚がいくらか細くなったころ、海の向こうから低い響きがやって来た。
ひとつ、だけ。腹の底に沈む太鼓の一打だった。
矢野は顔を上げ、洞窟の入口へ歩み寄った。潮風が濡れた頬を撫で、塩の匂いと共に夜の気配が忍び込む。沖田は立ち上がらず、膝を抱えたまま眼だけを海に向けている。その横顔に灯るのは、炎のない火のような微笑だった。
「……道が空いた」
彼は独り言のように言った。
矢野は胸の内で合点がいった。潮は満ちと引きの狭間にあり、入り組んだ岩礁のあいだに短い通い路が生じる。昔、港の若い水主が教えてくれた。夜の漁師は、波より低い音で合図する、と。大声は風に裂け、灯りは敵に見える。だが太鼓の一打は、岩と岩のあいだで合う者だけに届く。
「合図は、まだ生きてる」
矢野が呟くと、沖田はかすかに頷いた。
「息で数えろ。二十、そして十。――“二”は南、“一”は北だ」
矢野は息を整え、胸の内でゆっくりと数えた。空気は湿り、闇はやわらかい膜のように肌へ貼りつく。二十を越え、十を折り返すあいだ、太鼓は沈黙したままだった。打つべき時にのみ打つ。それは、かつて二人が編んだ“音の言葉”の作法そのものだった。
あの夜の記憶が、雨の匂いに混じって甦る。
土塀に囲まれた廃寺、月は雲に隠れ、声の代わりに石段を指で叩いて互いの在処を伝え合った。打数と間で、危険の有無、方向、人数を分けて伝達する。呼べば縛る。ゆえに名は使わない。名の代わりに、音だけを並べる。
――名がないからこそ、誰の耳にも正しく届かない、二人だけの言葉。
「“二十と十”……南、そして北」
矢野は繰り返した。
沖田は立ち上がると、濡れた衣の裾を絞った。
「潮の背骨が南から北へ通りました。あの岬の影――きっと岩礁が隠れている。見えない背の上を、ゆっくり渡る」
彼は洞窟の奥へ一瞥を投げた。暗がりの中に、黒ずんだ祠のようなものがあった。風化した石片と、貝殻を重ねて造られた粗末な台座。紙垂はない。名もない。
ただ、誰かが長い間ここに手を合わせてきた、そう思わせる気配だけがあった。
「――名を呼ばぬ神」
矢野の口の内で、老女の言葉が形になった。
沖田は祠の前に立ち、手を合わせるでもなく、しかし背筋を少しだけ伸ばした。敬意とも、距離ともつかない姿勢で、しばし無言を守る。
矢野は彼の横顔を見た。頬に貼りついた髪が、わずかな風にほどけてゆく。光のない場所で、彼の顔は極端に若くも、極端に古くも見える。生まれおちる前と、消え去った後のあいだ――そのどこにでも立てるような顔だ。
「名を呼ばれないなら、ここで祈る言葉は、どこへ届くんだろうな」
矢野が問うと、沖田は目を伏せた。
「届かないから、自由なんです」
「自由は、帰れないことと同じか?」
「帰れないから、縛られない。縛られないから、迷える。……迷えるうちは、まだ生きています」
洞窟の天井から、ひとしずくが石へ落ちた。間を置いて、またひとつ。整った拍は、耳の底で太鼓に混じってゆく。外の一打と、内の滴。世界はふたつの音で出来ているように思えた。
太鼓がふたたび一度だけ鳴った。先ほどより近い。
沖田は踵を返し、洞窟の口へ向かった。
「行きましょう」
「夜に漕ぐのは危ない」
「昼のほうが危ない。目は嘘をつきますが、音は嘘をつきません」
ふたりは洞窟を出た。雨は細くなり、雲の切れ間から月の縁がのぞく。砂の上には彼らの足跡だけがあり、波が寄せるたびに輪郭が崩れていく。浜の端には、風に倒れた小さな祠があった。こちらも名を記す札はなく、白い布切れが一枚、濡れて石に貼りついている。
矢野はそれを剥がし、掌にのせた。布は潮で重く、指の痕がそのまま形になった。
「持っていくんですか」
「置いていけば、誰のものでもないまま朽ちる。持っていけば、俺のものになる」
「どちらがいいんです?」
「……どちらでも、いいはずがないな」
彼は布を祠に戻した。指先が震えていたのは寒さのせいか、それとも。
沖田は舟のもとへ向かう途中で立ち止まり、海を見た。夜の海は濃い墨のように静まり、沖のほうで白い筋が一本、ゆるやかに滑っている。潮の背骨――彼の言う通い路が、月の薄明に一瞬だけ浮かび上がったのだ。
「矢野」
呼ばれて、矢野は足を止めた。
沖田は、何も続けなかった。名を呼ばない呼び方。呼ばなくても届く距離。
矢野は頷き、舟の舷を押し出した。
水に触れた舟は、最初の一呼吸だけ重く、次の一呼吸で軽かった。潮の背に乗ったのだと知れる。
櫂を握る矢野の手に、沖田の手がそっと触れた。
「音で行きます。目は捨てて」
「合図は、昔のままか」
「昔より、少しだけ、短く」
沖田は舟の先へ移り、櫂の柄を指で叩いた。
トン。
静かな一打。岩礁の位置を告げる“無”の符。続けて、息を吐く。
はあ――。
長さで「遠さ」を、切れで「深さ」を。ふたりの間だけで意味を持つ、誰の名も使わない言葉が、闇の内で張り渡される。
矢野は櫂を立て、音の間(ま)に合わせて舟を滑らせた。目は役に立たない。黒い水の上で、黒い岩が黒い影を伸ばす。だが音は嘘をつかない。
トン。
はあ――。
舟は岩の脇をかすめ、泡の音をひと筋残して通り抜けた。
ふと、浜のほうで別の音がした。
鳥の声かと思ったが、違う。短い、低い、二度。
矢野は身を強ばらせた。合図の体系に照らせば、それは「見られている」に等しい。
沖田は振り向かなかった。舟首の先、見えない道の先だけを視ている。
「構うな」
短く言い捨て、彼は櫂をまた叩いた。
トン。
矢野は歯を食いしばった。背中の皮膚が夜気にひやりとする。見るな、呼ぶな、名を与えるな――そうすれば、島は通してくれる。老女の話の文脈が、今ようやく肌の上で確かになってゆく。
名がないものは、こちらのものにならない。こちらのものにならないものは、恨みにも、救いにも変わらない。
それは残酷で、同時に優しい。
舟はさらに沖へ出た。
太鼓が、三度目の一打を打った。今度は遠く、背を押すような位置から。
沖田は「よし」とだけ言った。
矢野は櫂を引き、潮の背の上で舟を軽く跳ねさせた。夜の海は、不思議と静かだった。風はあるのに、波が荒れない。どこかで、見えない手が水の皺を撫でているようだった。
「あなたが呼ぶなら、縛られてもいい」
洞窟での沖田の言葉が、今さらのように胸へ戻ってきた。
矢野は、その言葉の余韻を噛みしめる。名を呼ぶとは、縛ること。縛るとは、帰る場所をつくること。帰る場所は、ときに檻にもなる。
それでも――。
それでも、ひとつだけ、彼のために用意しておきたい檻がある。名ではない。音でもない。たぶん、手だ。
誰にも見えないところで握る、目印のない手。
沖田がふいに振り返った。
「矢野」
また、名を呼ばない呼び方で呼ぶ。
矢野もまた、名を呼ばない返事で応えた。
「ああ」
ふたりの声は、波頭にも風にも捕まらず、舟の内側だけで完結した。
太鼓はもう鳴らなかった。必要なだけ鳴って、必要がなくなれば黙る。
闇はただ闇で、海はただ海だった。だが、ふたりの胸の内では、名のない神が静かに頷いたように思えた。通れ、と。
そして、帰るな、と。
いつのまにか、雨はやんでいた。雲は千切れ、月の縁が太くなった。岩礁の群れが、薄い墨の下絵のように浮かび、遥か先に黒い島影が見える。
沖田はそこでようやく笑った。
「道は、空の下にありましたね」
「空の下で、海の背だ」
「名よりも短い言葉です」
「名よりも、忘れにくい」
矢野は櫂を握り直し、舟の鼻先を島影へ向けた。
夜は更けてゆくが、闇は薄くなっている。ふたりの間に流れる言葉は、名を持たず、しかし確かな輪郭を帯びていた。
呼ばれぬものは、いつか消える。
けれど、呼ばれぬものだけが、渡ってゆける道がある。
その夜、彼らは誰の名も呼ばず、誰にも名を与えなかった。
ただ音と息を交わし、ひとつの舟を、ひとつの背骨の上で運んだ。
名を呼ばぬ神は、沈黙の祠で眠っている。祠の前に残された白い布は、やがて乾き、また濡れ、また乾くだろう。
それでも、布は布のままだ。
名を持たないまま、誰かの祈りの形だけを帯びて。
※
夜明けの気配とともに、舟は再び小さな入り江へ滑り込んだ。外海よりは穏やかで、波は砂にやさしく寄せては返していた。二人は舟を浜に引き上げ、濡れた衣の裾を絞る。
夜を越えた海の湿り気は、骨の奥にまで沁み込んでいたが、矢野は心地よい疲労を感じていた。舟の揺れのあいだ、彼らは言葉を交わさず、ただ音で合図をした。それでも十分に通じていた。むしろ、名を呼ばない沈黙こそが確かなものとして、心を結び直したように思えた。
沖田は砂の上に腰を下ろし、夜明け前の薄光を見つめていた。
「ここは……人が住んだ跡がある」
そう呟いて、彼は指先で砂を払った。そこには崩れかけた石段の名残が覗いていた。苔むした岩が列をなし、浜から森へと続いている。
矢野は石段を上り始めた。木々の間に踏み慣らされた道がかすかに残っている。人が去って久しいにせよ、ここに“何か”があったのは確かだ。
森は湿っていた。夜の雨が葉に溜まり、歩くたびに滴が肩へ落ちる。鳥の声はなく、虫の鳴きも聞こえない。まるで時が途絶えた場所に足を踏み入れたかのようだった。
やがて二人は、広場のような開けた場所に出た。中央には石を積み上げた台座があり、その上に、風化しかけた祠があった。屋根は崩れ、柱は傾き、祠の内にはただ、白い石が一つ置かれているだけだった。
「……これが、名を呼ばれぬ祠か」
矢野が呟くと、沖田は無言で頷いた。
近づいてみると、その白い石には刻印も銘もなかった。祀る者の名も、祀られる者の名も、どこにも記されていない。ただ風雨に削られ、角が丸くなった石塊にすぎない。
矢野はふと、老女の言葉を思い出した。
「名を呼ばれぬ神は、誰のためにも生き、誰のためにも死ねる。だが、帰る場所を持たぬ」
ここに祀られた石は、その象徴だった。
名を持たぬゆえに、誰も独占できない。誰のものにもならない。だからこそ、祈る者は“自分だけの祈り”を映せる。
「帰る場所がない、というのは……赦しでもあるのかもしれん」
矢野は独りごちた。
沖田は祠を見下ろし、唇を結んでいた。しばし沈黙があったのち、静かな声が落ちた。 「私は――帰りたくないんだ。名を持つ場所に」
矢野は振り返った。
「家にか。血にか」
「すべてです。……生まれた名も、背負わされた名も、剣で刻まれた名も」
言葉は淡々としていた。だが、そこに漂うのは孤独ではなかった。むしろ沖田の声は、祠に向けられているように響いた。まるで名を持たぬ石に、自らの思いを託すように。
矢野は息を呑んだ。
「だが――お前は俺に、『呼ばれるなら縛られてもいい』と言ったな」
沖田は一瞬、瞳を揺らした。だが次の瞬間には微笑を浮かべ、肩をすくめてみせた。
「あれは……口を滑らせただけです」
「本当にそうか?」
「ええ。私は縛られたくない」
その声に、矢野は追及をやめた。
それ以上は、彼自身の傷に踏み込むことになる。祠の石にすら名を刻まぬこの場所で、彼の心を縛るようなことをしてはならない――そう感じた。
広場には、潮風が森を抜けて届いていた。遠くで波が岩を叩く音がする。だが、不思議とその音は祠に届かず、石の周囲は静寂に守られているかのようだった。
「矢野」
沖田が名を呼ばずに呼んだ。
矢野はただ頷いた。
それだけで、十分に伝わる。名を呼ばないことが、この島では祈りの形だった。
※
森の奥で静寂に包まれていた広場を後にし、二人は再び石段を降りていった。空は淡く明るみはじめ、夜明けが近いことを告げていた。潮の匂いが濃くなり、風がわずかに強まっている。
浜へ戻る途中、矢野は振り返った。木々の合間に小さく祠の影が覗いている。そこには誰の名もなく、ただ白い石がひとつ置かれているだけだ。その石を見ていると、不思議と胸の奥に安堵と痛みが同時に広がった。
「――矢野」
沖田が低く呼びかけた。名を呼ばぬ声で。
矢野は頷き、歩を早める。だがそのとき、遠くから太鼓の音が再び響いた。
一打、低く。
間を置いて、さらに一打。
矢野は立ち止まり、耳を澄ました。
「合図か……?」
「いえ、これは――呼び戻す音です」
沖田の目は細められ、表情にはわずかな笑みがあった。
「呼び戻す?」
「人を、島へ縛りつけるための音です。海に出た者を、再び戻させる太鼓。名を呼ばない代わりに、音で引き寄せる」
矢野は背筋に冷たいものを感じた。夜の舟を導いた太鼓が、今度は彼らを島へ縛りつけようとしている――そう思わせる響きだった。
「……まるで、この島そのものが生きているみたいだ」
「生きていますよ」沖田は淡々と言った。「名を呼ばれぬ神は、音でしか存在を示しません。だからこそ、音に応えるかどうかは、私たち次第なんです」
太鼓の音が再び鳴った。
その瞬間、矢野は沖田の横顔を盗み見た。彼は薄い笑みを浮かべながらも、どこかで迷っているように見えた。呼び戻されたいのか、振り切りたいのか。矢野には判別できなかった。
「縛られたくないんだろう?」
矢野が言うと、沖田は目を細め、口元に短い影を走らせた。
「……ええ。しかし、不思議なものです。縛られることを恐れているのに、誰かに縛ってほしいと思う瞬間がある」
矢野の胸が痛んだ。洞窟での言葉――「あなたが呼ぶなら縛られてもいい」――が、夜明けの風に重なって甦る。
太鼓はなおも続いていた。打つ間隔は一定で、しかし確かに近づいている。まるで足音のように。
矢野は息を呑み、沖田を見た。
「行くか、それとも戻るか」
沖田は少しの間、目を閉じた。瞼の奥に光を閉じ込め、風の音と太鼓の響きを聞き分けている。
やがて彼は目を開き、淡く笑った。
「行きましょう。縛られない道を選びます」
二人は浜へ出た。夜明けの海は淡い青に染まりつつあり、潮の背骨はまだ残っているように見えた。舟を押し出すと、太鼓の音はひときわ強く響き、波間を震わせた。
矢野は振り返った。島影が薄明の中に沈み、その中心に祠の白い石がかすかに光った気がした。
名を呼ばれぬ神が、彼らを見送っている。呼び戻そうとしながら、同時に許している――そんな気配があった。
「……縛られるのも、解き放たれるのも、同じ神の仕業かもしれん」
矢野の言葉に、沖田は「そうですね」と短く答えた。
舟は潮の背を再び滑り出した。太鼓の音はやがて遠ざかり、風と波の音に溶けていった。
※
舟は潮の背を滑るように進んでいた。東の空が白み、夜の名残はゆっくりと剥がれていく。水面はまだ暗いが、波の縁にわずかな光が宿り、銀の筋を描いていた。
矢野は櫂を握りしめながら、その光を追った。舟を導くのは目ではなく、あの夜に交わした音の言葉――短い打音と息の合図だった。だが今は、太鼓の響きも、洞窟の滴もなく、ただ二人の心音だけが同じ拍を刻んでいる。
「……静かだな」
矢野が呟くと、沖田は頷いた。
「名を呼ばぬ神は、もう沈黙したようです」
「沈黙は、赦しか?」
「赦しでもあり、忘却でもあります」
風が髪を揺らした。沖田は前を見据えたまま、微かに笑った。
「忘れられるのは悪いことじゃない。名が残らないなら、私は自由でいられる」
矢野は口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。自由とは、本当に救いなのか。名を持たぬまま、帰る場所もなく漂い続けること――それは赦しなのか、それとも孤独の果てなのか。
沈黙の中で、ふと沖田が言った。
「でも……あなただけは、私を忘れないでしょう?」
矢野は驚いて沖田を見た。
「それは――縛ってほしいと言っているのと同じだぞ」
「そうかもしれません」
沖田は視線を逸らさず、淡々と続けた。
「あなたが呼ぶなら、私は縛られてもいい。縛られるのが檻でも、檻の中にあなたがいるなら、それは赦しです」
矢野は胸の奥が熱くなるのを感じた。だがその熱を言葉にすることはできなかった。ただ櫂を強く握りしめ、舟を進めた。
潮の背が途切れる前に、沖の向こうに新しい島影が見えた。そこはまだ遠く、朝霧に覆われている。だが確かに道は続いている。
振り返れば、祠のあった島はすでに薄靄の向こうに消えかけていた。太鼓の音も、白い石も、名を呼ばぬ神の気配も、すべて海に溶けていく。
矢野は心の内でその島に祈った。
――どうか、この名を呼ばぬ者に赦しを。
――どうか、この縛られた心を赦しとして受け取ってほしい。
波が舟を押した。朝の風が背を撫でた。
二人は言葉を交わさず、ただ前を見据えた。
名を呼ばぬ神は、もう彼らを呼び戻さない。
けれど、その沈黙は決して拒絶ではなく、彼らが選んだ道を承認するような、柔らかな余韻だった。
やがて東の空に陽が昇り、海は光を取り戻した。
二人の舟は、光の道を渡るようにして進んでいった。
舟が波に押し出されるようにして、浅瀬に着いたのは黄昏が迫る刻だった。
空は灰色の雲に覆われ、海は墨を溶かしたように濃く沈んでいた。風はさほど強くはないのに、雨粒だけが斜めに走り、視界を削いでゆく。
沖田が先に舟を降りた。足首まで沈む砂を踏みしめると、じんわりと冷えが骨へ伝わる。矢野も遅れて足を浸した。舟は彼らを置き去りにするように揺れ、波に弄ばれている。
周囲を見回しても、人影はなかった。焚き火の跡も、漁の網も、漂着した木片すら見えない。荒涼とした砂浜は、ただ波の縁取りだけを繰り返している。
「無人島……か」
矢野の声は雨音に飲み込まれそうだった。
沖田は答えず、ただ視線を海に投げていた。白い波頭が砕け、刹那に散る飛沫を、目だけで追っている。何かを待つようでもあり、何も求めていないようでもあった。
雨はしだいに強まり、衣が肌に張りついた。体温を奪われる危険を思い、矢野は「雨を避けられる場所を探そう」と声をかけた。沖田は頷き、足を進める。
二人は岩の裂け目に、洞窟のような空間を見つけた。奥は暗く、潮の匂いがこもっている。人が長く滞在できるほど広くはないが、雨をしのぐには十分だった。
狭い岩窟に入り込むと、外の雨音は遠のき、代わりに水滴の落ちる音が響いた。一定の間隔で滴り落ちるそれは、時を刻む鼓動のようでもあった。
矢野は濡れた袖を絞りながら、思い出していた。あの老女の言葉――。
「名を呼ばれぬ島、か……」
かつて港町で出会った老婆は、火のそばで語ってくれた。
人には名があり、名を呼ばれることで縛られる。だが、この世には「名を呼ばれぬ者」を祀る島があるのだと。そこでは名を問わず、名を捨てた者だけが神に迎えられる、と。
掠れた声が耳の奥に残っている。
「名を持つがゆえに、人は望まずとも家や血に縛られる。名を呼ばれぬ神は、誰のためにも生き、誰のためにも死ねる。だが、その魂は帰る場所を得ぬのだよ」
矢野は掌の冷えを吐息で温めながら、沖田に向いた。
「なあ……ここがそういう島なのかもしれないな。名を呼ばれぬ者の行き着く場所」
沖田はしばらく黙っていた。濡れた髪が頬に張りつき、伏せた目元を隠している。やがて掌を擦り合わせながら、低い声を落とした。
「名があると、人はそこへ縛られます。血筋でも、家でも、過去でも。……私は、縛られたくない」
言葉は淡々としていたが、その奥に深い凪の気配があった。底知れぬ静けさに、矢野は胸の奥を掴まれる思いがした。
長い沈黙が続いたのち、沖田はかすかに口角を動かした。
「……ただ」
矢野は顔を上げる。
「あなたが呼ぶなら――縛られてもいい」
一瞬、沖田自身が驚いたように瞼を震わせた。吐き出した言葉が、己をも焼いたのだろう。
矢野は返答を飲み込んだ。言葉を添えることが正しいのか、それとも沈黙こそが赦しなのか。洞窟の入口で雨が幕を引き、二人を外界から切り離していた。
※
雨脚がいくらか細くなったころ、海の向こうから低い響きがやって来た。
ひとつ、だけ。腹の底に沈む太鼓の一打だった。
矢野は顔を上げ、洞窟の入口へ歩み寄った。潮風が濡れた頬を撫で、塩の匂いと共に夜の気配が忍び込む。沖田は立ち上がらず、膝を抱えたまま眼だけを海に向けている。その横顔に灯るのは、炎のない火のような微笑だった。
「……道が空いた」
彼は独り言のように言った。
矢野は胸の内で合点がいった。潮は満ちと引きの狭間にあり、入り組んだ岩礁のあいだに短い通い路が生じる。昔、港の若い水主が教えてくれた。夜の漁師は、波より低い音で合図する、と。大声は風に裂け、灯りは敵に見える。だが太鼓の一打は、岩と岩のあいだで合う者だけに届く。
「合図は、まだ生きてる」
矢野が呟くと、沖田はかすかに頷いた。
「息で数えろ。二十、そして十。――“二”は南、“一”は北だ」
矢野は息を整え、胸の内でゆっくりと数えた。空気は湿り、闇はやわらかい膜のように肌へ貼りつく。二十を越え、十を折り返すあいだ、太鼓は沈黙したままだった。打つべき時にのみ打つ。それは、かつて二人が編んだ“音の言葉”の作法そのものだった。
あの夜の記憶が、雨の匂いに混じって甦る。
土塀に囲まれた廃寺、月は雲に隠れ、声の代わりに石段を指で叩いて互いの在処を伝え合った。打数と間で、危険の有無、方向、人数を分けて伝達する。呼べば縛る。ゆえに名は使わない。名の代わりに、音だけを並べる。
――名がないからこそ、誰の耳にも正しく届かない、二人だけの言葉。
「“二十と十”……南、そして北」
矢野は繰り返した。
沖田は立ち上がると、濡れた衣の裾を絞った。
「潮の背骨が南から北へ通りました。あの岬の影――きっと岩礁が隠れている。見えない背の上を、ゆっくり渡る」
彼は洞窟の奥へ一瞥を投げた。暗がりの中に、黒ずんだ祠のようなものがあった。風化した石片と、貝殻を重ねて造られた粗末な台座。紙垂はない。名もない。
ただ、誰かが長い間ここに手を合わせてきた、そう思わせる気配だけがあった。
「――名を呼ばぬ神」
矢野の口の内で、老女の言葉が形になった。
沖田は祠の前に立ち、手を合わせるでもなく、しかし背筋を少しだけ伸ばした。敬意とも、距離ともつかない姿勢で、しばし無言を守る。
矢野は彼の横顔を見た。頬に貼りついた髪が、わずかな風にほどけてゆく。光のない場所で、彼の顔は極端に若くも、極端に古くも見える。生まれおちる前と、消え去った後のあいだ――そのどこにでも立てるような顔だ。
「名を呼ばれないなら、ここで祈る言葉は、どこへ届くんだろうな」
矢野が問うと、沖田は目を伏せた。
「届かないから、自由なんです」
「自由は、帰れないことと同じか?」
「帰れないから、縛られない。縛られないから、迷える。……迷えるうちは、まだ生きています」
洞窟の天井から、ひとしずくが石へ落ちた。間を置いて、またひとつ。整った拍は、耳の底で太鼓に混じってゆく。外の一打と、内の滴。世界はふたつの音で出来ているように思えた。
太鼓がふたたび一度だけ鳴った。先ほどより近い。
沖田は踵を返し、洞窟の口へ向かった。
「行きましょう」
「夜に漕ぐのは危ない」
「昼のほうが危ない。目は嘘をつきますが、音は嘘をつきません」
ふたりは洞窟を出た。雨は細くなり、雲の切れ間から月の縁がのぞく。砂の上には彼らの足跡だけがあり、波が寄せるたびに輪郭が崩れていく。浜の端には、風に倒れた小さな祠があった。こちらも名を記す札はなく、白い布切れが一枚、濡れて石に貼りついている。
矢野はそれを剥がし、掌にのせた。布は潮で重く、指の痕がそのまま形になった。
「持っていくんですか」
「置いていけば、誰のものでもないまま朽ちる。持っていけば、俺のものになる」
「どちらがいいんです?」
「……どちらでも、いいはずがないな」
彼は布を祠に戻した。指先が震えていたのは寒さのせいか、それとも。
沖田は舟のもとへ向かう途中で立ち止まり、海を見た。夜の海は濃い墨のように静まり、沖のほうで白い筋が一本、ゆるやかに滑っている。潮の背骨――彼の言う通い路が、月の薄明に一瞬だけ浮かび上がったのだ。
「矢野」
呼ばれて、矢野は足を止めた。
沖田は、何も続けなかった。名を呼ばない呼び方。呼ばなくても届く距離。
矢野は頷き、舟の舷を押し出した。
水に触れた舟は、最初の一呼吸だけ重く、次の一呼吸で軽かった。潮の背に乗ったのだと知れる。
櫂を握る矢野の手に、沖田の手がそっと触れた。
「音で行きます。目は捨てて」
「合図は、昔のままか」
「昔より、少しだけ、短く」
沖田は舟の先へ移り、櫂の柄を指で叩いた。
トン。
静かな一打。岩礁の位置を告げる“無”の符。続けて、息を吐く。
はあ――。
長さで「遠さ」を、切れで「深さ」を。ふたりの間だけで意味を持つ、誰の名も使わない言葉が、闇の内で張り渡される。
矢野は櫂を立て、音の間(ま)に合わせて舟を滑らせた。目は役に立たない。黒い水の上で、黒い岩が黒い影を伸ばす。だが音は嘘をつかない。
トン。
はあ――。
舟は岩の脇をかすめ、泡の音をひと筋残して通り抜けた。
ふと、浜のほうで別の音がした。
鳥の声かと思ったが、違う。短い、低い、二度。
矢野は身を強ばらせた。合図の体系に照らせば、それは「見られている」に等しい。
沖田は振り向かなかった。舟首の先、見えない道の先だけを視ている。
「構うな」
短く言い捨て、彼は櫂をまた叩いた。
トン。
矢野は歯を食いしばった。背中の皮膚が夜気にひやりとする。見るな、呼ぶな、名を与えるな――そうすれば、島は通してくれる。老女の話の文脈が、今ようやく肌の上で確かになってゆく。
名がないものは、こちらのものにならない。こちらのものにならないものは、恨みにも、救いにも変わらない。
それは残酷で、同時に優しい。
舟はさらに沖へ出た。
太鼓が、三度目の一打を打った。今度は遠く、背を押すような位置から。
沖田は「よし」とだけ言った。
矢野は櫂を引き、潮の背の上で舟を軽く跳ねさせた。夜の海は、不思議と静かだった。風はあるのに、波が荒れない。どこかで、見えない手が水の皺を撫でているようだった。
「あなたが呼ぶなら、縛られてもいい」
洞窟での沖田の言葉が、今さらのように胸へ戻ってきた。
矢野は、その言葉の余韻を噛みしめる。名を呼ぶとは、縛ること。縛るとは、帰る場所をつくること。帰る場所は、ときに檻にもなる。
それでも――。
それでも、ひとつだけ、彼のために用意しておきたい檻がある。名ではない。音でもない。たぶん、手だ。
誰にも見えないところで握る、目印のない手。
沖田がふいに振り返った。
「矢野」
また、名を呼ばない呼び方で呼ぶ。
矢野もまた、名を呼ばない返事で応えた。
「ああ」
ふたりの声は、波頭にも風にも捕まらず、舟の内側だけで完結した。
太鼓はもう鳴らなかった。必要なだけ鳴って、必要がなくなれば黙る。
闇はただ闇で、海はただ海だった。だが、ふたりの胸の内では、名のない神が静かに頷いたように思えた。通れ、と。
そして、帰るな、と。
いつのまにか、雨はやんでいた。雲は千切れ、月の縁が太くなった。岩礁の群れが、薄い墨の下絵のように浮かび、遥か先に黒い島影が見える。
沖田はそこでようやく笑った。
「道は、空の下にありましたね」
「空の下で、海の背だ」
「名よりも短い言葉です」
「名よりも、忘れにくい」
矢野は櫂を握り直し、舟の鼻先を島影へ向けた。
夜は更けてゆくが、闇は薄くなっている。ふたりの間に流れる言葉は、名を持たず、しかし確かな輪郭を帯びていた。
呼ばれぬものは、いつか消える。
けれど、呼ばれぬものだけが、渡ってゆける道がある。
その夜、彼らは誰の名も呼ばず、誰にも名を与えなかった。
ただ音と息を交わし、ひとつの舟を、ひとつの背骨の上で運んだ。
名を呼ばぬ神は、沈黙の祠で眠っている。祠の前に残された白い布は、やがて乾き、また濡れ、また乾くだろう。
それでも、布は布のままだ。
名を持たないまま、誰かの祈りの形だけを帯びて。
※
夜明けの気配とともに、舟は再び小さな入り江へ滑り込んだ。外海よりは穏やかで、波は砂にやさしく寄せては返していた。二人は舟を浜に引き上げ、濡れた衣の裾を絞る。
夜を越えた海の湿り気は、骨の奥にまで沁み込んでいたが、矢野は心地よい疲労を感じていた。舟の揺れのあいだ、彼らは言葉を交わさず、ただ音で合図をした。それでも十分に通じていた。むしろ、名を呼ばない沈黙こそが確かなものとして、心を結び直したように思えた。
沖田は砂の上に腰を下ろし、夜明け前の薄光を見つめていた。
「ここは……人が住んだ跡がある」
そう呟いて、彼は指先で砂を払った。そこには崩れかけた石段の名残が覗いていた。苔むした岩が列をなし、浜から森へと続いている。
矢野は石段を上り始めた。木々の間に踏み慣らされた道がかすかに残っている。人が去って久しいにせよ、ここに“何か”があったのは確かだ。
森は湿っていた。夜の雨が葉に溜まり、歩くたびに滴が肩へ落ちる。鳥の声はなく、虫の鳴きも聞こえない。まるで時が途絶えた場所に足を踏み入れたかのようだった。
やがて二人は、広場のような開けた場所に出た。中央には石を積み上げた台座があり、その上に、風化しかけた祠があった。屋根は崩れ、柱は傾き、祠の内にはただ、白い石が一つ置かれているだけだった。
「……これが、名を呼ばれぬ祠か」
矢野が呟くと、沖田は無言で頷いた。
近づいてみると、その白い石には刻印も銘もなかった。祀る者の名も、祀られる者の名も、どこにも記されていない。ただ風雨に削られ、角が丸くなった石塊にすぎない。
矢野はふと、老女の言葉を思い出した。
「名を呼ばれぬ神は、誰のためにも生き、誰のためにも死ねる。だが、帰る場所を持たぬ」
ここに祀られた石は、その象徴だった。
名を持たぬゆえに、誰も独占できない。誰のものにもならない。だからこそ、祈る者は“自分だけの祈り”を映せる。
「帰る場所がない、というのは……赦しでもあるのかもしれん」
矢野は独りごちた。
沖田は祠を見下ろし、唇を結んでいた。しばし沈黙があったのち、静かな声が落ちた。 「私は――帰りたくないんだ。名を持つ場所に」
矢野は振り返った。
「家にか。血にか」
「すべてです。……生まれた名も、背負わされた名も、剣で刻まれた名も」
言葉は淡々としていた。だが、そこに漂うのは孤独ではなかった。むしろ沖田の声は、祠に向けられているように響いた。まるで名を持たぬ石に、自らの思いを託すように。
矢野は息を呑んだ。
「だが――お前は俺に、『呼ばれるなら縛られてもいい』と言ったな」
沖田は一瞬、瞳を揺らした。だが次の瞬間には微笑を浮かべ、肩をすくめてみせた。
「あれは……口を滑らせただけです」
「本当にそうか?」
「ええ。私は縛られたくない」
その声に、矢野は追及をやめた。
それ以上は、彼自身の傷に踏み込むことになる。祠の石にすら名を刻まぬこの場所で、彼の心を縛るようなことをしてはならない――そう感じた。
広場には、潮風が森を抜けて届いていた。遠くで波が岩を叩く音がする。だが、不思議とその音は祠に届かず、石の周囲は静寂に守られているかのようだった。
「矢野」
沖田が名を呼ばずに呼んだ。
矢野はただ頷いた。
それだけで、十分に伝わる。名を呼ばないことが、この島では祈りの形だった。
※
森の奥で静寂に包まれていた広場を後にし、二人は再び石段を降りていった。空は淡く明るみはじめ、夜明けが近いことを告げていた。潮の匂いが濃くなり、風がわずかに強まっている。
浜へ戻る途中、矢野は振り返った。木々の合間に小さく祠の影が覗いている。そこには誰の名もなく、ただ白い石がひとつ置かれているだけだ。その石を見ていると、不思議と胸の奥に安堵と痛みが同時に広がった。
「――矢野」
沖田が低く呼びかけた。名を呼ばぬ声で。
矢野は頷き、歩を早める。だがそのとき、遠くから太鼓の音が再び響いた。
一打、低く。
間を置いて、さらに一打。
矢野は立ち止まり、耳を澄ました。
「合図か……?」
「いえ、これは――呼び戻す音です」
沖田の目は細められ、表情にはわずかな笑みがあった。
「呼び戻す?」
「人を、島へ縛りつけるための音です。海に出た者を、再び戻させる太鼓。名を呼ばない代わりに、音で引き寄せる」
矢野は背筋に冷たいものを感じた。夜の舟を導いた太鼓が、今度は彼らを島へ縛りつけようとしている――そう思わせる響きだった。
「……まるで、この島そのものが生きているみたいだ」
「生きていますよ」沖田は淡々と言った。「名を呼ばれぬ神は、音でしか存在を示しません。だからこそ、音に応えるかどうかは、私たち次第なんです」
太鼓の音が再び鳴った。
その瞬間、矢野は沖田の横顔を盗み見た。彼は薄い笑みを浮かべながらも、どこかで迷っているように見えた。呼び戻されたいのか、振り切りたいのか。矢野には判別できなかった。
「縛られたくないんだろう?」
矢野が言うと、沖田は目を細め、口元に短い影を走らせた。
「……ええ。しかし、不思議なものです。縛られることを恐れているのに、誰かに縛ってほしいと思う瞬間がある」
矢野の胸が痛んだ。洞窟での言葉――「あなたが呼ぶなら縛られてもいい」――が、夜明けの風に重なって甦る。
太鼓はなおも続いていた。打つ間隔は一定で、しかし確かに近づいている。まるで足音のように。
矢野は息を呑み、沖田を見た。
「行くか、それとも戻るか」
沖田は少しの間、目を閉じた。瞼の奥に光を閉じ込め、風の音と太鼓の響きを聞き分けている。
やがて彼は目を開き、淡く笑った。
「行きましょう。縛られない道を選びます」
二人は浜へ出た。夜明けの海は淡い青に染まりつつあり、潮の背骨はまだ残っているように見えた。舟を押し出すと、太鼓の音はひときわ強く響き、波間を震わせた。
矢野は振り返った。島影が薄明の中に沈み、その中心に祠の白い石がかすかに光った気がした。
名を呼ばれぬ神が、彼らを見送っている。呼び戻そうとしながら、同時に許している――そんな気配があった。
「……縛られるのも、解き放たれるのも、同じ神の仕業かもしれん」
矢野の言葉に、沖田は「そうですね」と短く答えた。
舟は潮の背を再び滑り出した。太鼓の音はやがて遠ざかり、風と波の音に溶けていった。
※
舟は潮の背を滑るように進んでいた。東の空が白み、夜の名残はゆっくりと剥がれていく。水面はまだ暗いが、波の縁にわずかな光が宿り、銀の筋を描いていた。
矢野は櫂を握りしめながら、その光を追った。舟を導くのは目ではなく、あの夜に交わした音の言葉――短い打音と息の合図だった。だが今は、太鼓の響きも、洞窟の滴もなく、ただ二人の心音だけが同じ拍を刻んでいる。
「……静かだな」
矢野が呟くと、沖田は頷いた。
「名を呼ばぬ神は、もう沈黙したようです」
「沈黙は、赦しか?」
「赦しでもあり、忘却でもあります」
風が髪を揺らした。沖田は前を見据えたまま、微かに笑った。
「忘れられるのは悪いことじゃない。名が残らないなら、私は自由でいられる」
矢野は口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。自由とは、本当に救いなのか。名を持たぬまま、帰る場所もなく漂い続けること――それは赦しなのか、それとも孤独の果てなのか。
沈黙の中で、ふと沖田が言った。
「でも……あなただけは、私を忘れないでしょう?」
矢野は驚いて沖田を見た。
「それは――縛ってほしいと言っているのと同じだぞ」
「そうかもしれません」
沖田は視線を逸らさず、淡々と続けた。
「あなたが呼ぶなら、私は縛られてもいい。縛られるのが檻でも、檻の中にあなたがいるなら、それは赦しです」
矢野は胸の奥が熱くなるのを感じた。だがその熱を言葉にすることはできなかった。ただ櫂を強く握りしめ、舟を進めた。
潮の背が途切れる前に、沖の向こうに新しい島影が見えた。そこはまだ遠く、朝霧に覆われている。だが確かに道は続いている。
振り返れば、祠のあった島はすでに薄靄の向こうに消えかけていた。太鼓の音も、白い石も、名を呼ばぬ神の気配も、すべて海に溶けていく。
矢野は心の内でその島に祈った。
――どうか、この名を呼ばぬ者に赦しを。
――どうか、この縛られた心を赦しとして受け取ってほしい。
波が舟を押した。朝の風が背を撫でた。
二人は言葉を交わさず、ただ前を見据えた。
名を呼ばぬ神は、もう彼らを呼び戻さない。
けれど、その沈黙は決して拒絶ではなく、彼らが選んだ道を承認するような、柔らかな余韻だった。
やがて東の空に陽が昇り、海は光を取り戻した。
二人の舟は、光の道を渡るようにして進んでいった。



