第十三話 夜舟
荒れ寺の板戸が、指先の温度だけで内へ押された。
矢野蓮は戸口の暗がりから外の湿りを一口吸い、塩の重さを舌で量ってから、背で戸を戻した。灯はすでに落としてある。灰の下で赤く息をする炭が、底光りのように残っている。尼は何も問わず、柱の影に退いた。名を置かぬ宿は、見送る眼も名を持たない。
沖田静が、黒い外套の裾を持ち上げ、濡れた板の上で音を作らないように姿勢を低くした。白装束は夜の色の内側に畳まれ、刃は鞘の口を半寸だけ斜めに向けてある。抜かずに撃つ構えだ。
「潮が変わる」
矢野が囁く。声というより、骨で叩いた合図。
「海の道に乗るなら、今の拍だ」
尼が火箸を灰に差し入れ、炭をひとつ、やや離れた場所へ寄せた。赤い脈動が弱くなり、部屋の輪郭がほどける。
「南の崖の下、舟を一つ。持ち主は口が少ない。潮の癖を知っている。銭はすでに受け取った」
それだけ言って、尼は再び影へ戻った。言葉の重さは、祈りの重さと同じだけで足りる。
廊下で風が向きを変え、鳥居の見えない夜が臭いを入れ替えた。山の湿りが海に押され、藻の腐れと縄の塩が前へ出る。遠く、崖の上で松明が一つ、また一つ、星の代わりに灯った。星は少ない夜だった。雲が薄いが、光は海面に降りず、空のどこかで躊躇している。
矢野は槍を肩から下ろさず、石突きに巻いた布を確かめた。沖田は刀の柄に手を置いて、軽く親指の腹で鞘の口を撫でる。指先に、湿った木の冷たさが移り、嗜虐の舌が目を覚まそうとするのを、理の声が「まだだ」と押し戻した。
「行こう」
矢野は尼に目をやらずに言い、沖田は飄々と微笑み、畳にひとつ礼を置いた。名を隠す宿は、何も覚えず、何も忘れない。そういう場所だけが、背中の紙一枚を乾かしてくれる。
寺の外は、藁葺きの影が塩気を吸って膨らんでいた。小径は海へ向かって傾き、足の下で砂と細かな貝殻が、声を持たない音で均された。
「右へ二つ、左へ一つ。次に踏む段は、苔です」
沖田が低く言い、矢野は言葉の前に足を置いた。背中合わせの輪舞で覚えた拍が、夜の小径に移植され、呼吸の数だけ二人の身体の中心を合わせる。海の音が手前に寄り、崖の下で餌を待つ泡が、闇の底で白く眠っている。
崖の陰に、舟はあった。
舷は低く、艫は丸く、板の節に乾ききらない塩が薄く残っている。縄は新しくはないが、撚り目の癖がよく、結びが崩れにくい。櫂は三本。一本は軽く、一本は重い。もう一本は、予備なのか、柄の中央に滑り止めの刻みが浅く刻まれていた。舟の側に、影が立った。
「遅かった」
声は、潮の癖を語ったあの漁師のものだった。髭は以前より薄く、眼はさらに海に似ている。
「丑寅には少し早いが、南へ回る蛇の潮が口を開けている。北へ抜ければ渦の根。そこへ落ちると、祟りに背を掴まれる」
祟りという語が、彼の口では潮の名と同じ音に聞こえた。名前は通り道だ。通り道に誤りはない。
矢野が銭袋を差し出す。漁師は受け取らず、手で舟の舷を叩いた。
「櫂は二本で足りる。軽いほうを前、重いほうを後ろ。予備は、投げるために使え」
「投げる?」
矢野が眉を上げると、漁師は短く頷いた。
「追手の舟の鼻先に、あるいは焚き松明の根に。火は海を怖れぬふりをするが、木の足を奪われれば、たちまち泳げなくなる」
沖田が、飄々と笑って礼を置いた。
「よく、海の理を知っている」
「海は知っている者にだけ、道を貸す。貸した道を勝手に変えると、すぐ取り上げる」
漁師は沖田の声から血の匂いを嗅ぎ取ったらしく、少し顎を引いた。
「白い布を流したのは、お前か」
問いではない。海が答えを知っている問いだ。
沖田は笑いを深くもし薄くもしない程度に、声の裏を穏やかにした。
「海は、よく薄める」
漁師は頷き、舟べりに手を置いた掌を一度だけ返した。海の側へ見せる礼だ。
舟を水へ押すとき、矢野が肩で重みを受け、沖田が舳先の傾きを指で整えた。舳先は風に向けるのではなく、風の肩へ置く。正面から受ければ喧嘩になる。肩で受ければ話になる。海は話を好む。
「背中を預けるのは」
舟が浮く瞬間、沖田が低く言った。
「世界で二人にしか許しません」
矢野の手が櫂の柄を掴む前に、言葉は舟底に落ち、板の節に吸われた。
「……もう一人は」
矢野が問おうとする。問いは最後まで形にならない。
「昔、いたはずの誰かです」
沖田の声は、波の呼吸と同じ高さで揺れた。誰かの輪郭が、霧の向こうでいったん浮かび、すぐに海霧に紛れた。
矢野は前の軽い櫂を取り、沖田は後ろの重い櫂を手にした。舟はまだ岸の湿りを脚に持ち、波の最初の段に乗るのをためらっている。漁師が足で舟べりを軽く蹴った。何も言わない合図だ。
「呼吸」
矢野が言い、吸う。沖田が、吐く。二人の胸が、波の拍へ近づいていく。舟の腹が海の喉元に触れ、海が一拍だけ咳をする。咳が止むと、舟は知らぬ間に外へ出る。出てから振り向いても遅い。遅さが、今夜は味方だ。
最初の矢は、音を持たずに降りた。
崖の上で松明が増え、影が二、三、縁に立つ。火は夜よりも自分自身を照らし、矢を持つ腕の角度を海へ教える。矢は風の肩に乗ろうとして、湿りに重さを奪われ、舟の背に詰め物のように打ち当たり、板を鳴らした。鳴った音は鳥の足跡の長さほどもなく、沖田は刃を抜かず、柄で矢の根を叩いて水へ落とした。
「味方は、一番恐ろしい」
飄々と呟く。のろいでも祝詞でもない、癖になった真実。
矢野は返事をせず、櫂を水に入れ、押す。押すというより、滑らせる。水は押されるのを嫌う。嫌いな動きは戻ってくる。滑らせれば、行かせてくれる。
崖上の影が位置を変え、矢の角度が変わった。次は、舳先の左右、狭い間を狙ってくる。
沖田は、刃の背を舳先の横木に当て、木の震えで風の癖を読む。弾くときの角度は、矢を返さずに落とす角度。殺し切らない——彼の刃は、そのために鈍く研がれている。最初の矢を水へ返し、二の矢を柄で払い、三の矢の羽根を指で摘まみ、羽根を一枚だけ抜いた。バランスを失った矢は、水面に腹を打ち、音を残さないまま沈む。
「海は、血よりも速く薄まる」
沖田は自嘲のように言い、矢野は目を細めた。
「薄まるものは、祟りになりにくい」
返す言葉は、舟の腹へ小さく吸い込まれ、波の裏側で意味だけが残る。
追手の舟が、北の崖の影から滑り出た。
海の衆の舟だ。舳先に短い帆柱を立て、帆の代わりに濡れた布を張り、鉤を二つ持った男が舷に腰をかけ、鎖を巻いた腕が光を拾う。二艘。間隔は狭く、互いの影を踏む。影を踏む癖は、夜舟に向かない。向かないのに、迫る。迫ることが、仕事なのだ。
矢野は櫂を深く入れすぎず、浅すぎず、水を掴んだまま手前へ引かず、舟の重みを水へ預ける角度にだけ保った。舟は肩で風を受け、筋を変えず、蛇の潮へ自らを落とす。
「右、わずかに浅い。白泡が立つ前に左へ」
沖田が言う。目ではなく、背中で見ている。
矢野は櫂の先を半寸だけ外へ、舳先の向きに触れず、舟底の傾きだけを変えた。舟は命令に従ったふりをして、実際には彼らの腹の下で自分の都合の良いほうへ流れた。海はいつも、そうする。
矢がまた降りる。
今度は、火の根から外れている。崖上の者たちは風を失い、勘に頼り、勘は夜に裏切られる。沖田は、降りてくる筋だけを読み、刃で線を引くように払った。音が出ない。出ない音が、矢野の背の筋に通う。背の紙は、今夜は要らない。紙の替わりに、海の湿りが二人を貼り付ける。
追手の舟が距離を詰めた。
男のひとりが鉤を振り上げ、縄が蛇のように空へ走る。空は、奪われやすい。矢野は軽い櫂を左手から右手へ持ち替え、予備の櫂を肩で払って立ち上がり、舟の縁まで二歩で出た。
「今だ」
漁師の声が、どこからか風に乗って届いた。
矢野は予備の櫂を投げた。投げるというより、置く。水の上の、敵の舟の鼻先の、松明の足もとへ。櫂は、飛沫一つ立てずに、ほとんど音を持たずに、必要な位置へ落ちた。焚き火の足を叩かれ、火は自尊心に傷を負い、炎の形を一瞬だけ失って、煙を吐いた。その煙が矢の目を曇らせ、鉤の軌道が半寸ずれた。
ずれの一瞬に、沖田は鞘の角で鉤縄の根を叩き、縄を板の節に噛ませた。縄は切れない。切れば、男は祟る。噛ませるだけだ。噛まされた縄を見て、男が一瞬だけ驚く。驚きは礼だ。礼の間に、矢野の櫂が水を掴み、舟は半身で潮の肩を抜け、蛇の潮の背へ滑り込んだ。
矢のない瞬間が、ごく短く来た。
星が一つ、遅れて落ち、黒い海の向こうで沈んだ。星は、何も照らさない。照らさない光が、夜舟の道標だ。
「静」
矢野が、名前だけ呼んだ。
「蓮」
沖田が、音だけ返した。
背中の紙は無いが、名の音が二人の位置を仮留めする。仮留めは、抹消の反対にある唯一の技だ。
海が、いったん静かになり、すぐに速度を上げた。
潮の蛇は、南へ身体をくねらせ、岩の根を舐め、砂の上に浅い筋を刻む。舟の腹が筋を読み、矢野の肋骨がそれを写す。沖田は後ろで重い櫂をわずかに持ち上げ、舟の尻に当たる水の肩を撫でる。撫でられた水は、自分の方向を選び、舟を少し速くした。
追手の一艘が、無理に角度を変えた。無理は、海に嫌われる。舟は舳先を波に取られ、鉤を持った男がバランスを崩し、鎖が腕から滑り落ちかける。落ちる前に、沖田が刀の背で鎖を軽く打った。鎖は驚き、砂に落ちず、男の肩に返って、彼自身の動きを縛った。縛られた者は、次に祟りに変わるだろう。今夜は、それでよかった。
崖の上から、太鼓の一打に似た音が落ちた。
波が鳥居の脚を叩いた音だ。
「道が空きました」
沖田が微笑む。微笑みは嗜虐に向かず、理の側から出る。
矢野は櫂を深く入れず、その音だけを舳先の向きに変換し、蛇の潮の背から次の筋へ舟を渡した。潮は二枚重ねになっていて、一枚目は早く、二枚目は柔らかい。柔らかいほうへ落ちると、追手は速度を失う。速度を失った刃は、鈍く、美しい。
沖田が、ふと息をついた。
「背中を預けるのは、二人だけだと言ったな」
矢野が問う。海に聞かせない声の高さ。
「はい」
「そのもう一人は、今も生きているのか」
「夜には、いる。朝には、いない」
沖田は、笑いにも泣きにも似ない声で言って、櫂の柄を握る手の力を一瞬だけ抜いた。
「海は、よく薄めますから」
同じ言葉が、別の意味で落ちた。矢野は、それを拾わない。拾わないことで、礼とした。
追手のもう一艘が、諦めずに距離を詰めてくる。
矢はもう正確ではなく、鉤も軌道を失っているが、人は形を続けることで自分自身を支える。支えられている間に逃げるのが、夜舟の作法だ。
「右へ細い筋、左は浅い」
沖田の声に、矢野の腕が、櫂の先が、舳先の向きが、同じ拍で短く応じた。舟は為すべきことだけを為し、余計な音を出さず、星の影の下を滑る。
崖の上の火が、風に煽られて一つ消えた。
消えた光は、追手の目をしばらく甘やかしていたから、消えると彼らの足場を奪う。足場を失った者は、声を荒げる。荒げられた声は、海へも山へも届かず、自分たちの耳を叩く。叩かれた耳で矢を引いても、弦が涙と汗の塩で湿っている。湿った弦は、音を忘れる。
舟の鼻先が、鳥居の朱の影を斜めに掠めた。
朱は夜の色を飲み込み、海の底から古い光を返す。鳥居を門に見立てるのは、人の幻想だ。実際は、潮が通る場所に木が立っているだけ。木は見ていない。見ていないものほど、よく憶える。
矢野は護符の手触りを懐で確かめた。紙は湿りを吸って柔らかくなり、結び目は固く、墨の筋は見えないままそこにある。見えない文字が、今この拍の舟底に真っ直ぐな線を引く。
「記すな。けれど、忘れるな」
誰の声でもない言葉が、海の咳払いに混じって、二人の肋骨の内側へ滑った。
追手の矢は、もう届かない。
代わりに、海鳥が一羽、遅れて彼らの上を横切った。白い腹が、星を借りずに光る。夜の底で見える白は、記録に残りにくい。残りにくいものほど、長く残る。沖田は白い影を眼の端で追い、指先で柄を撫でる。嗜虐の舌は眠り、理の声が静かに起きている。
漁師の舟は、もう見えない。
見えないが、潮の癖だけが背中に残っている。蛇の潮は南へ身体をくゆらせ、その尻尾で舟の尻を押す。押された重みは、矢野の肩に薄く移り、沖田の掌の皮膚に広がる。二人の呼吸が、波の呼吸と同じ数になる。吸えば、海が吐く。吐けば、海が吸う。海と対等に息をする場所は、戦場では少ない。夜舟は、そのわずかな対等の一つだった。
遠くで、別の太鼓が鳴った。
実際には、岩が波を二度続けて叩いただけだ。だが意味は同じだ。道はこの先で二つに裂け、どちらも正しい。南へ逃げれば、追手は北で待つ。北へ戻れば、祟りは南で息を吹き返す。
「どちらでも構いません」
沖田が言う。
「今夜の名簿には、出入りの欄がない」
矢野は櫂を緩めず、舳先をほんのわずか南へ寄せた。寄せた先に、海の陰の薄いところがあった。そこは、潮が人の意志を試さない場所。意志が海と同じ速さで動ける間は、人は生きる。
矢野は後ろを見なかった。見ないことで、礼を立てる。
「あなたの背中は、軽い」
沖田が飄々と、半ば冗談のように言う。冗談は骨に残らず、皮膚に残る。
「持ち物が少ないからな」
矢野は櫂を滑らせたまま返す。
「借りものも少ない」
「借りは増えた」
「借りは返す。ここではないが」
「ここじゃ似合わない」
二人の言葉が、刃の代わりに夜の面(おもて)をすべった。面は傷つかず、かすかな擦過の痕だけが残る。擦過は、朝には消える。消えた痕が、骨にだけ残る。
海は、二人を選んだわけではない。
道が開いているときに、そこにいた者の舟底を持ち上げただけだ。それでも、その持ち上げが恩寵に見える夜がある。祟りと恩寵は、いつもどこかで撚り合わされ、ほどけそうでほどけない縄になって梁から垂れている。今夜、その下を二人はもう一度素通りした。
沖田が、懐から白い布の切れを取り出した。
鳥居の下で矢野が拾い、懐に仕舞ったものとは別の、裾から裂いた小さな布。彼はそれを指先で細く撚り、風上へ放った。布はすぐ濡れて重くなり、舟の後ろで波に揉まれ、星のない夜に小さな白を一度だけ置いた。
「死んだことにする布です」
沖田が言う。言いながら、自分でもその言葉が少しだけ自分に似合わないことを知っていた。
「死んだことにした者ほど、よく生きる」
矢野が返す。
「記すな。けれど、忘れるな」
彼は護符の上から布の位置を確かめ、紙の下で二つの質感が重なるのを感じた。重なれば、ほどけやすい。ほどけやすいものは、長く続く。
追手の灯は、もう背後で小さくなった。
崖の上の松明は湿りに疲れ、火の世話をする手が眠気を覚え、海はその間に彼らを海の外へ押した。外といっても、海の外は海だ。島の外は、別の島。だが、鳥居が見えなくなるだけで、人は息を変える。変えた息の数だけ、夜は彼らのものに近づく。
矢野は櫂を緩め、沖田は櫂を少し深く入れて、舟の方向を一定に保った。舟は滑る。滑るとき、人はよく喋る。喋らない二人は、息だけで会話を続ける。
吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
拍が合う。拍の合い方が、輪舞のときとは違う。背中は触れていないが、海が背中の紙の役を果たす。紙は濡れて破れやすい。破れやすいものだけが、夜舟にふさわしい。
「お前は、朝になれば、どこへ消える」
矢野が、櫂の音の合間に問う。
「消える先は、いつも同じです。名のない場所」
沖田が笑う。笑いは柔らかく、嗜虐の舌は折りたたまれ、理の声だけが薄く響く。
「ですが、今夜は、あなたのいる場所へ消えます」
その言葉は、骨に簡単に入った。入って、痛まなかった。痛まない言葉だけが、長く残る。
彼方で、海が重心を移した。
潮の蛇が尾を巻き、別の蛇が口を開ける。そこは、漁師が「祟りに背を掴まれる」と言った場所の縁だ。縁は、刃の縁に似て、触れれば切れるが、切り口は美しい。
「ここで、背中を」
矢野の声が、自然に低くなった。
「預けてもらう」
「預けます」
沖田は、背中を見せずに言った。背を見せずに背を預けるのは、奇妙な作法だ。だが、今夜は海が背の紙だから、背中合わせは要らない。二人は、それぞれ前を向いたまま、同じ方向へ身体の芯を回した。
舟は、縁を踏まずに縁を渡った。
渡るというより、縁の上にしばらく浮かんで、重みを海へ返した。返された重みは、矢野の肩から抜け、沖田の掌から抜け、息の深さだけが増した。
「生きにくい夜だ」
沖田が言う。
「生きやすい夜だ」
矢野が言う。
答えは両方正しい。夜は、祟りと恩寵の撚り合わせだ。ほどけそうでほどけず、ほどけたと見せかけて別の結び目を作る。
遠く、陸のほうから犬の吠える声がした。
吠え声は潮に削がれ、意味を失い、音だけが残った。意味を失った音は、海の子守唄に似る。舟はその子守唄にうっかり身を委ねそうになり、矢野が肩で起こし、沖田が柄で起こした。眠るのは朝だ。眠らぬまま、夜を抜けるのが夜舟の礼儀だ。
星は少ないままだったが、海の色がわずかに緩んだ。
東ではない。東はまだ暗い。南のほうの雲の肌理が粗くなり、風が湿りを運ぶのをやめ、代わりに塩の匂いを薄めた。薄まった塩は、血の匂いを思い出させない。思い出さない夜は、人にやさしい。
矢野は櫂を抜き、水をの上でひと呼吸分だけ櫂先を休ませた。沖田は重い櫂を肩にかけ、舟の尻を海へ預けた。舟は滑るのをやめず、しかし速さを求めず、ただ、夜と同じ速さで動いた。
「お前に背を預けた」
矢野が言う。
「あなたに背を預けた」
沖田が言う。
反復は祈りではない。記録でもない。背中合わせの輪舞の型が、今夜は海の上で別の形になっただけだ。
鳥居はもう見えない。
見えない朱の代わりに、黒い線が海と空の境を曖昧にする。境が曖昧になると、人は自分の輪郭を少し失い、その失われ方が、救いに似る。
「名は、呼びません」
沖田が言う。
「呼ばれなくても、覚えている」
矢野が言う。
記すな。けれど、忘れるな。
海は、その掟を一度だけ咳払いで肯いた。
やがて、舟は小さな入り江の影を拾った。
崩れかけの岩の裂け目が、潮で抉られ、奥に浅い池のような静けさを抱いている。波が外で暴れても、ここは怒らない。怒らない場所は、約束をしない。約束のない静けさは、逃げる者のためにある。
「入る」
矢野が言い、沖田が頷いた。櫂の先が水の皮膚を撫で、舟は影の中へ消えた。消えるというのは、抹消の真似だが、今夜のこれは、生の選び方だった。
舟底が砂を軽く擦った。
音は出ない。出ない音だけが、長く残る。
矢野は舟から降り、沖田に手を差し出さず、自分の足場だけ確かめた。沖田は手を借りずに立ち上がり、外套の裾を絞り、刃の鞘を指で叩いた。刃は眠っている。嗜虐の舌も眠っている。理の声だけが薄く起きて、海のほうを振り向かずに頷いた。
「ここから先は、また別の道だ」
矢野が言う。
「陸の黒い道は、海の黒い道より狭い」
沖田が笑う。
「狭いぶん、静かだ」
「静かなほうが、よく生き残る」
二人は舟を岩陰に引き上げ、櫂を舳先の裏へ伏せ、縄の結び目に砂をかけた。漁師の舟は、朝になるまでこの影で息をする。息をする舟には、名が要らない。名を持たぬものだけが、のちに噂になる。
夜はまだ終わらない。
だが、夜の中に別の色が混じった。疲れの色ではない。薄い、解けかけの黒。そこへ足を入れると、足首の骨が軽くなる。軽くなるのは、危険の合図でもあるが、今夜は贈り物のようにも感じられた。
「行こう」
矢野が言い、沖田が頷いた。
背中の紙はない。ないが、海と塩と風とが、その役を取り合って、二人の間を同じ速さで満たしている。
夜舟の跡は、朝には消える。
消えるものだけが、祟りにならず、恩寵へ変わる。
鳥居の見えない海の上で、彼らは一度だけ振り向かず、一度だけ足を止めず、同じ方向へ肩を並べて入っていった。波が寄せ、白い泡が足首にほどけ、海に融ける。
記すな。けれど、忘れるな。
夜はその言葉を、舟の板の節に、岩の影の湿りに、二人の骨の奥に、薄く、長く、置いていった。
荒れ寺の板戸が、指先の温度だけで内へ押された。
矢野蓮は戸口の暗がりから外の湿りを一口吸い、塩の重さを舌で量ってから、背で戸を戻した。灯はすでに落としてある。灰の下で赤く息をする炭が、底光りのように残っている。尼は何も問わず、柱の影に退いた。名を置かぬ宿は、見送る眼も名を持たない。
沖田静が、黒い外套の裾を持ち上げ、濡れた板の上で音を作らないように姿勢を低くした。白装束は夜の色の内側に畳まれ、刃は鞘の口を半寸だけ斜めに向けてある。抜かずに撃つ構えだ。
「潮が変わる」
矢野が囁く。声というより、骨で叩いた合図。
「海の道に乗るなら、今の拍だ」
尼が火箸を灰に差し入れ、炭をひとつ、やや離れた場所へ寄せた。赤い脈動が弱くなり、部屋の輪郭がほどける。
「南の崖の下、舟を一つ。持ち主は口が少ない。潮の癖を知っている。銭はすでに受け取った」
それだけ言って、尼は再び影へ戻った。言葉の重さは、祈りの重さと同じだけで足りる。
廊下で風が向きを変え、鳥居の見えない夜が臭いを入れ替えた。山の湿りが海に押され、藻の腐れと縄の塩が前へ出る。遠く、崖の上で松明が一つ、また一つ、星の代わりに灯った。星は少ない夜だった。雲が薄いが、光は海面に降りず、空のどこかで躊躇している。
矢野は槍を肩から下ろさず、石突きに巻いた布を確かめた。沖田は刀の柄に手を置いて、軽く親指の腹で鞘の口を撫でる。指先に、湿った木の冷たさが移り、嗜虐の舌が目を覚まそうとするのを、理の声が「まだだ」と押し戻した。
「行こう」
矢野は尼に目をやらずに言い、沖田は飄々と微笑み、畳にひとつ礼を置いた。名を隠す宿は、何も覚えず、何も忘れない。そういう場所だけが、背中の紙一枚を乾かしてくれる。
寺の外は、藁葺きの影が塩気を吸って膨らんでいた。小径は海へ向かって傾き、足の下で砂と細かな貝殻が、声を持たない音で均された。
「右へ二つ、左へ一つ。次に踏む段は、苔です」
沖田が低く言い、矢野は言葉の前に足を置いた。背中合わせの輪舞で覚えた拍が、夜の小径に移植され、呼吸の数だけ二人の身体の中心を合わせる。海の音が手前に寄り、崖の下で餌を待つ泡が、闇の底で白く眠っている。
崖の陰に、舟はあった。
舷は低く、艫は丸く、板の節に乾ききらない塩が薄く残っている。縄は新しくはないが、撚り目の癖がよく、結びが崩れにくい。櫂は三本。一本は軽く、一本は重い。もう一本は、予備なのか、柄の中央に滑り止めの刻みが浅く刻まれていた。舟の側に、影が立った。
「遅かった」
声は、潮の癖を語ったあの漁師のものだった。髭は以前より薄く、眼はさらに海に似ている。
「丑寅には少し早いが、南へ回る蛇の潮が口を開けている。北へ抜ければ渦の根。そこへ落ちると、祟りに背を掴まれる」
祟りという語が、彼の口では潮の名と同じ音に聞こえた。名前は通り道だ。通り道に誤りはない。
矢野が銭袋を差し出す。漁師は受け取らず、手で舟の舷を叩いた。
「櫂は二本で足りる。軽いほうを前、重いほうを後ろ。予備は、投げるために使え」
「投げる?」
矢野が眉を上げると、漁師は短く頷いた。
「追手の舟の鼻先に、あるいは焚き松明の根に。火は海を怖れぬふりをするが、木の足を奪われれば、たちまち泳げなくなる」
沖田が、飄々と笑って礼を置いた。
「よく、海の理を知っている」
「海は知っている者にだけ、道を貸す。貸した道を勝手に変えると、すぐ取り上げる」
漁師は沖田の声から血の匂いを嗅ぎ取ったらしく、少し顎を引いた。
「白い布を流したのは、お前か」
問いではない。海が答えを知っている問いだ。
沖田は笑いを深くもし薄くもしない程度に、声の裏を穏やかにした。
「海は、よく薄める」
漁師は頷き、舟べりに手を置いた掌を一度だけ返した。海の側へ見せる礼だ。
舟を水へ押すとき、矢野が肩で重みを受け、沖田が舳先の傾きを指で整えた。舳先は風に向けるのではなく、風の肩へ置く。正面から受ければ喧嘩になる。肩で受ければ話になる。海は話を好む。
「背中を預けるのは」
舟が浮く瞬間、沖田が低く言った。
「世界で二人にしか許しません」
矢野の手が櫂の柄を掴む前に、言葉は舟底に落ち、板の節に吸われた。
「……もう一人は」
矢野が問おうとする。問いは最後まで形にならない。
「昔、いたはずの誰かです」
沖田の声は、波の呼吸と同じ高さで揺れた。誰かの輪郭が、霧の向こうでいったん浮かび、すぐに海霧に紛れた。
矢野は前の軽い櫂を取り、沖田は後ろの重い櫂を手にした。舟はまだ岸の湿りを脚に持ち、波の最初の段に乗るのをためらっている。漁師が足で舟べりを軽く蹴った。何も言わない合図だ。
「呼吸」
矢野が言い、吸う。沖田が、吐く。二人の胸が、波の拍へ近づいていく。舟の腹が海の喉元に触れ、海が一拍だけ咳をする。咳が止むと、舟は知らぬ間に外へ出る。出てから振り向いても遅い。遅さが、今夜は味方だ。
最初の矢は、音を持たずに降りた。
崖の上で松明が増え、影が二、三、縁に立つ。火は夜よりも自分自身を照らし、矢を持つ腕の角度を海へ教える。矢は風の肩に乗ろうとして、湿りに重さを奪われ、舟の背に詰め物のように打ち当たり、板を鳴らした。鳴った音は鳥の足跡の長さほどもなく、沖田は刃を抜かず、柄で矢の根を叩いて水へ落とした。
「味方は、一番恐ろしい」
飄々と呟く。のろいでも祝詞でもない、癖になった真実。
矢野は返事をせず、櫂を水に入れ、押す。押すというより、滑らせる。水は押されるのを嫌う。嫌いな動きは戻ってくる。滑らせれば、行かせてくれる。
崖上の影が位置を変え、矢の角度が変わった。次は、舳先の左右、狭い間を狙ってくる。
沖田は、刃の背を舳先の横木に当て、木の震えで風の癖を読む。弾くときの角度は、矢を返さずに落とす角度。殺し切らない——彼の刃は、そのために鈍く研がれている。最初の矢を水へ返し、二の矢を柄で払い、三の矢の羽根を指で摘まみ、羽根を一枚だけ抜いた。バランスを失った矢は、水面に腹を打ち、音を残さないまま沈む。
「海は、血よりも速く薄まる」
沖田は自嘲のように言い、矢野は目を細めた。
「薄まるものは、祟りになりにくい」
返す言葉は、舟の腹へ小さく吸い込まれ、波の裏側で意味だけが残る。
追手の舟が、北の崖の影から滑り出た。
海の衆の舟だ。舳先に短い帆柱を立て、帆の代わりに濡れた布を張り、鉤を二つ持った男が舷に腰をかけ、鎖を巻いた腕が光を拾う。二艘。間隔は狭く、互いの影を踏む。影を踏む癖は、夜舟に向かない。向かないのに、迫る。迫ることが、仕事なのだ。
矢野は櫂を深く入れすぎず、浅すぎず、水を掴んだまま手前へ引かず、舟の重みを水へ預ける角度にだけ保った。舟は肩で風を受け、筋を変えず、蛇の潮へ自らを落とす。
「右、わずかに浅い。白泡が立つ前に左へ」
沖田が言う。目ではなく、背中で見ている。
矢野は櫂の先を半寸だけ外へ、舳先の向きに触れず、舟底の傾きだけを変えた。舟は命令に従ったふりをして、実際には彼らの腹の下で自分の都合の良いほうへ流れた。海はいつも、そうする。
矢がまた降りる。
今度は、火の根から外れている。崖上の者たちは風を失い、勘に頼り、勘は夜に裏切られる。沖田は、降りてくる筋だけを読み、刃で線を引くように払った。音が出ない。出ない音が、矢野の背の筋に通う。背の紙は、今夜は要らない。紙の替わりに、海の湿りが二人を貼り付ける。
追手の舟が距離を詰めた。
男のひとりが鉤を振り上げ、縄が蛇のように空へ走る。空は、奪われやすい。矢野は軽い櫂を左手から右手へ持ち替え、予備の櫂を肩で払って立ち上がり、舟の縁まで二歩で出た。
「今だ」
漁師の声が、どこからか風に乗って届いた。
矢野は予備の櫂を投げた。投げるというより、置く。水の上の、敵の舟の鼻先の、松明の足もとへ。櫂は、飛沫一つ立てずに、ほとんど音を持たずに、必要な位置へ落ちた。焚き火の足を叩かれ、火は自尊心に傷を負い、炎の形を一瞬だけ失って、煙を吐いた。その煙が矢の目を曇らせ、鉤の軌道が半寸ずれた。
ずれの一瞬に、沖田は鞘の角で鉤縄の根を叩き、縄を板の節に噛ませた。縄は切れない。切れば、男は祟る。噛ませるだけだ。噛まされた縄を見て、男が一瞬だけ驚く。驚きは礼だ。礼の間に、矢野の櫂が水を掴み、舟は半身で潮の肩を抜け、蛇の潮の背へ滑り込んだ。
矢のない瞬間が、ごく短く来た。
星が一つ、遅れて落ち、黒い海の向こうで沈んだ。星は、何も照らさない。照らさない光が、夜舟の道標だ。
「静」
矢野が、名前だけ呼んだ。
「蓮」
沖田が、音だけ返した。
背中の紙は無いが、名の音が二人の位置を仮留めする。仮留めは、抹消の反対にある唯一の技だ。
海が、いったん静かになり、すぐに速度を上げた。
潮の蛇は、南へ身体をくねらせ、岩の根を舐め、砂の上に浅い筋を刻む。舟の腹が筋を読み、矢野の肋骨がそれを写す。沖田は後ろで重い櫂をわずかに持ち上げ、舟の尻に当たる水の肩を撫でる。撫でられた水は、自分の方向を選び、舟を少し速くした。
追手の一艘が、無理に角度を変えた。無理は、海に嫌われる。舟は舳先を波に取られ、鉤を持った男がバランスを崩し、鎖が腕から滑り落ちかける。落ちる前に、沖田が刀の背で鎖を軽く打った。鎖は驚き、砂に落ちず、男の肩に返って、彼自身の動きを縛った。縛られた者は、次に祟りに変わるだろう。今夜は、それでよかった。
崖の上から、太鼓の一打に似た音が落ちた。
波が鳥居の脚を叩いた音だ。
「道が空きました」
沖田が微笑む。微笑みは嗜虐に向かず、理の側から出る。
矢野は櫂を深く入れず、その音だけを舳先の向きに変換し、蛇の潮の背から次の筋へ舟を渡した。潮は二枚重ねになっていて、一枚目は早く、二枚目は柔らかい。柔らかいほうへ落ちると、追手は速度を失う。速度を失った刃は、鈍く、美しい。
沖田が、ふと息をついた。
「背中を預けるのは、二人だけだと言ったな」
矢野が問う。海に聞かせない声の高さ。
「はい」
「そのもう一人は、今も生きているのか」
「夜には、いる。朝には、いない」
沖田は、笑いにも泣きにも似ない声で言って、櫂の柄を握る手の力を一瞬だけ抜いた。
「海は、よく薄めますから」
同じ言葉が、別の意味で落ちた。矢野は、それを拾わない。拾わないことで、礼とした。
追手のもう一艘が、諦めずに距離を詰めてくる。
矢はもう正確ではなく、鉤も軌道を失っているが、人は形を続けることで自分自身を支える。支えられている間に逃げるのが、夜舟の作法だ。
「右へ細い筋、左は浅い」
沖田の声に、矢野の腕が、櫂の先が、舳先の向きが、同じ拍で短く応じた。舟は為すべきことだけを為し、余計な音を出さず、星の影の下を滑る。
崖の上の火が、風に煽られて一つ消えた。
消えた光は、追手の目をしばらく甘やかしていたから、消えると彼らの足場を奪う。足場を失った者は、声を荒げる。荒げられた声は、海へも山へも届かず、自分たちの耳を叩く。叩かれた耳で矢を引いても、弦が涙と汗の塩で湿っている。湿った弦は、音を忘れる。
舟の鼻先が、鳥居の朱の影を斜めに掠めた。
朱は夜の色を飲み込み、海の底から古い光を返す。鳥居を門に見立てるのは、人の幻想だ。実際は、潮が通る場所に木が立っているだけ。木は見ていない。見ていないものほど、よく憶える。
矢野は護符の手触りを懐で確かめた。紙は湿りを吸って柔らかくなり、結び目は固く、墨の筋は見えないままそこにある。見えない文字が、今この拍の舟底に真っ直ぐな線を引く。
「記すな。けれど、忘れるな」
誰の声でもない言葉が、海の咳払いに混じって、二人の肋骨の内側へ滑った。
追手の矢は、もう届かない。
代わりに、海鳥が一羽、遅れて彼らの上を横切った。白い腹が、星を借りずに光る。夜の底で見える白は、記録に残りにくい。残りにくいものほど、長く残る。沖田は白い影を眼の端で追い、指先で柄を撫でる。嗜虐の舌は眠り、理の声が静かに起きている。
漁師の舟は、もう見えない。
見えないが、潮の癖だけが背中に残っている。蛇の潮は南へ身体をくゆらせ、その尻尾で舟の尻を押す。押された重みは、矢野の肩に薄く移り、沖田の掌の皮膚に広がる。二人の呼吸が、波の呼吸と同じ数になる。吸えば、海が吐く。吐けば、海が吸う。海と対等に息をする場所は、戦場では少ない。夜舟は、そのわずかな対等の一つだった。
遠くで、別の太鼓が鳴った。
実際には、岩が波を二度続けて叩いただけだ。だが意味は同じだ。道はこの先で二つに裂け、どちらも正しい。南へ逃げれば、追手は北で待つ。北へ戻れば、祟りは南で息を吹き返す。
「どちらでも構いません」
沖田が言う。
「今夜の名簿には、出入りの欄がない」
矢野は櫂を緩めず、舳先をほんのわずか南へ寄せた。寄せた先に、海の陰の薄いところがあった。そこは、潮が人の意志を試さない場所。意志が海と同じ速さで動ける間は、人は生きる。
矢野は後ろを見なかった。見ないことで、礼を立てる。
「あなたの背中は、軽い」
沖田が飄々と、半ば冗談のように言う。冗談は骨に残らず、皮膚に残る。
「持ち物が少ないからな」
矢野は櫂を滑らせたまま返す。
「借りものも少ない」
「借りは増えた」
「借りは返す。ここではないが」
「ここじゃ似合わない」
二人の言葉が、刃の代わりに夜の面(おもて)をすべった。面は傷つかず、かすかな擦過の痕だけが残る。擦過は、朝には消える。消えた痕が、骨にだけ残る。
海は、二人を選んだわけではない。
道が開いているときに、そこにいた者の舟底を持ち上げただけだ。それでも、その持ち上げが恩寵に見える夜がある。祟りと恩寵は、いつもどこかで撚り合わされ、ほどけそうでほどけない縄になって梁から垂れている。今夜、その下を二人はもう一度素通りした。
沖田が、懐から白い布の切れを取り出した。
鳥居の下で矢野が拾い、懐に仕舞ったものとは別の、裾から裂いた小さな布。彼はそれを指先で細く撚り、風上へ放った。布はすぐ濡れて重くなり、舟の後ろで波に揉まれ、星のない夜に小さな白を一度だけ置いた。
「死んだことにする布です」
沖田が言う。言いながら、自分でもその言葉が少しだけ自分に似合わないことを知っていた。
「死んだことにした者ほど、よく生きる」
矢野が返す。
「記すな。けれど、忘れるな」
彼は護符の上から布の位置を確かめ、紙の下で二つの質感が重なるのを感じた。重なれば、ほどけやすい。ほどけやすいものは、長く続く。
追手の灯は、もう背後で小さくなった。
崖の上の松明は湿りに疲れ、火の世話をする手が眠気を覚え、海はその間に彼らを海の外へ押した。外といっても、海の外は海だ。島の外は、別の島。だが、鳥居が見えなくなるだけで、人は息を変える。変えた息の数だけ、夜は彼らのものに近づく。
矢野は櫂を緩め、沖田は櫂を少し深く入れて、舟の方向を一定に保った。舟は滑る。滑るとき、人はよく喋る。喋らない二人は、息だけで会話を続ける。
吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
拍が合う。拍の合い方が、輪舞のときとは違う。背中は触れていないが、海が背中の紙の役を果たす。紙は濡れて破れやすい。破れやすいものだけが、夜舟にふさわしい。
「お前は、朝になれば、どこへ消える」
矢野が、櫂の音の合間に問う。
「消える先は、いつも同じです。名のない場所」
沖田が笑う。笑いは柔らかく、嗜虐の舌は折りたたまれ、理の声だけが薄く響く。
「ですが、今夜は、あなたのいる場所へ消えます」
その言葉は、骨に簡単に入った。入って、痛まなかった。痛まない言葉だけが、長く残る。
彼方で、海が重心を移した。
潮の蛇が尾を巻き、別の蛇が口を開ける。そこは、漁師が「祟りに背を掴まれる」と言った場所の縁だ。縁は、刃の縁に似て、触れれば切れるが、切り口は美しい。
「ここで、背中を」
矢野の声が、自然に低くなった。
「預けてもらう」
「預けます」
沖田は、背中を見せずに言った。背を見せずに背を預けるのは、奇妙な作法だ。だが、今夜は海が背の紙だから、背中合わせは要らない。二人は、それぞれ前を向いたまま、同じ方向へ身体の芯を回した。
舟は、縁を踏まずに縁を渡った。
渡るというより、縁の上にしばらく浮かんで、重みを海へ返した。返された重みは、矢野の肩から抜け、沖田の掌から抜け、息の深さだけが増した。
「生きにくい夜だ」
沖田が言う。
「生きやすい夜だ」
矢野が言う。
答えは両方正しい。夜は、祟りと恩寵の撚り合わせだ。ほどけそうでほどけず、ほどけたと見せかけて別の結び目を作る。
遠く、陸のほうから犬の吠える声がした。
吠え声は潮に削がれ、意味を失い、音だけが残った。意味を失った音は、海の子守唄に似る。舟はその子守唄にうっかり身を委ねそうになり、矢野が肩で起こし、沖田が柄で起こした。眠るのは朝だ。眠らぬまま、夜を抜けるのが夜舟の礼儀だ。
星は少ないままだったが、海の色がわずかに緩んだ。
東ではない。東はまだ暗い。南のほうの雲の肌理が粗くなり、風が湿りを運ぶのをやめ、代わりに塩の匂いを薄めた。薄まった塩は、血の匂いを思い出させない。思い出さない夜は、人にやさしい。
矢野は櫂を抜き、水をの上でひと呼吸分だけ櫂先を休ませた。沖田は重い櫂を肩にかけ、舟の尻を海へ預けた。舟は滑るのをやめず、しかし速さを求めず、ただ、夜と同じ速さで動いた。
「お前に背を預けた」
矢野が言う。
「あなたに背を預けた」
沖田が言う。
反復は祈りではない。記録でもない。背中合わせの輪舞の型が、今夜は海の上で別の形になっただけだ。
鳥居はもう見えない。
見えない朱の代わりに、黒い線が海と空の境を曖昧にする。境が曖昧になると、人は自分の輪郭を少し失い、その失われ方が、救いに似る。
「名は、呼びません」
沖田が言う。
「呼ばれなくても、覚えている」
矢野が言う。
記すな。けれど、忘れるな。
海は、その掟を一度だけ咳払いで肯いた。
やがて、舟は小さな入り江の影を拾った。
崩れかけの岩の裂け目が、潮で抉られ、奥に浅い池のような静けさを抱いている。波が外で暴れても、ここは怒らない。怒らない場所は、約束をしない。約束のない静けさは、逃げる者のためにある。
「入る」
矢野が言い、沖田が頷いた。櫂の先が水の皮膚を撫で、舟は影の中へ消えた。消えるというのは、抹消の真似だが、今夜のこれは、生の選び方だった。
舟底が砂を軽く擦った。
音は出ない。出ない音だけが、長く残る。
矢野は舟から降り、沖田に手を差し出さず、自分の足場だけ確かめた。沖田は手を借りずに立ち上がり、外套の裾を絞り、刃の鞘を指で叩いた。刃は眠っている。嗜虐の舌も眠っている。理の声だけが薄く起きて、海のほうを振り向かずに頷いた。
「ここから先は、また別の道だ」
矢野が言う。
「陸の黒い道は、海の黒い道より狭い」
沖田が笑う。
「狭いぶん、静かだ」
「静かなほうが、よく生き残る」
二人は舟を岩陰に引き上げ、櫂を舳先の裏へ伏せ、縄の結び目に砂をかけた。漁師の舟は、朝になるまでこの影で息をする。息をする舟には、名が要らない。名を持たぬものだけが、のちに噂になる。
夜はまだ終わらない。
だが、夜の中に別の色が混じった。疲れの色ではない。薄い、解けかけの黒。そこへ足を入れると、足首の骨が軽くなる。軽くなるのは、危険の合図でもあるが、今夜は贈り物のようにも感じられた。
「行こう」
矢野が言い、沖田が頷いた。
背中の紙はない。ないが、海と塩と風とが、その役を取り合って、二人の間を同じ速さで満たしている。
夜舟の跡は、朝には消える。
消えるものだけが、祟りにならず、恩寵へ変わる。
鳥居の見えない海の上で、彼らは一度だけ振り向かず、一度だけ足を止めず、同じ方向へ肩を並べて入っていった。波が寄せ、白い泡が足首にほどけ、海に融ける。
記すな。けれど、忘れるな。
夜はその言葉を、舟の板の節に、岩の影の湿りに、二人の骨の奥に、薄く、長く、置いていった。



