第十二話 名を隠す宿
海沿いの荒れ寺は、潮に洗われた木の匂いと、古い灯心油の酸い匂いを同じだけ抱いていた。
山門はとうに外され、柱だけが骨のように立って、風の通り道を作っている。鐘楼は傾き、梵鐘は別の寺へ売られたのか、縄だけが梁からぶら下がり、縄の撚り目に白い塩が結晶していた。大きな本堂は半分を板で囲い、そこを宿に改めたらしい。朱の剥げた欄間に、粗末な簾と藁の寝具、歪んだ火鉢に小さな火。寺だった頃の名は、どこにも見当たらない。名を剥がされた建物は、たいてい静かだ。静かさは、祓いより効く。
矢野蓮は、入口の板戸を肩で押し、湿った空気をいったん外へ追い出してから入った。
沖田静が、後に続く。白装束は黒い外套の下で色を見せず、濡れた裾だけが床板に小さな水紋を作った。板は海の塩を吸い、足音を柔らげる。火は弱く、灰に半ば沈んだ炭が、ときおり鳴る。鍛えの甘い鉄を軽く叩いたような、乾いた音。音は、戦の余韻に似ていた。
宿の主は老いた尼だった。
頭は剃らず、白い髪を布で後ろに束ね、粗末な法衣の袖を肘まで捲り上げている。目は海の色を少し残して、よく眠れない夜の色も少し混ぜていた。尼は二人を見ると、名を問わず、手で火のそばを示した。
「名帳はない。金は、前に」
矢野が懐から銭を出す。尼は数えず、手のひらで重さだけ確かめ、柱の隙に滑らせた。滑らせるというのは、祈りの一種だ。目に見えぬところへ重さを移すことで、この場に名を置かぬ処し方が成立する。
火のそばで、二人は武具を外す順を互いに観た。
矢野は槍を壁に立てかけ、石突きに布を巻いて音を殺した。脛当ての紐をほどく手は無駄がない。沖田は刀を膝に置き、鞘の口に指を触れてから、半刻だけ遠くを見る癖を出した。刃を眠らせる前の、小さな礼だ。礼に礼は要らない。要らない沈黙が、火の上に薄く張る。
尼が湯を運んだ。
茗荷と塩の匂いがほんの少し。茶ではない。草を湯に通しただけのものだ。矢野は両手で碗を受け取り、沖田の前へ置く。沖田は飄々と笑い、碗の縁に口をつけず、湯気だけ吸った。熱の形を測るみたいに、薄い煙を舌で追って、目を細める。
尼は眉を動かさず、火へ新しい炭を足す。
最初の言葉は、矢野から出た。
「名を、聞いておきたい」
矢野の口の中は、塩の味がまだ薄く残っている。鳥居の脚の飛沫が乾き、唇の端に白い粉となっていた。名を問う声は、祈りではない。構えだ。構えの良し悪しは、最初の一言に現れる。
沖田は、火を覗きこみ、炭の角の崩れ具合を見てから、答えた。
「沖田、静」
短く。名の後に、何も置かない。呼吸ひとつ分だけ、わざと空白を残し、そこへ微笑を置いた。
「ただ、名はたびたび変わる」
矢野の眉がわずかに動く。
「変えるのか」
「変わる」
飄々と、言い直さない。能動も受動も捨て、事実の側へ身を置く。
「名は、他人が呼ぶ音です。他人が変えれば、変わります。私は耳がよくて。呼ばれた音をそのまま、今夜の名にするんです」
「今夜の名、か」
「今夜の名。明日の名は、あれば明日また聞けばいい」
理の声がそう言わせ、嗜虐の舌が退屈そうに欠伸をした。
矢野は頷き、小さな間を挟んで、自分の名を出した。
「矢野、蓮」
それだけ。姓と名の間に、薄い刃物のような沈黙を挟む。「蓮」という音の涼しさが、この荒れ寺の湿り気に似合わないほど清澄に響く。名は場に水脈を作る。作った水脈に、火がわずかに反応して音を立てた。
沖田は、その音へ目線だけを投げ、口の端を少し上げた。
「蓮。水を吸っても折れない草の名です。あなたには似合う」
「似合う、か」
矢野は自らの掌を見た。掌の小さな擦過は、今日の砂州の名残だ。皮膚の地形が、名の音を受け入れる場所を探す。
矢野は懐から護符を取り出した。
老女から受けた、小さな紙片。潮除けの細い藁を巻き、結び目がひとつ。紙には見えない墨が走っている。火にかざせば、墨は立つのかもしれないが、彼はそれをしない。護符は、火の試しを嫌う。
「これを、返す」
矢野は、紙を沖田の前へ差し出した。指先は震えない。震えないが、力が入っていない。返し方の礼を選んでいる。
沖田は、受け取りの礼を取らなかった。掌を出す代わりに、護符と矢野の手ごと、そっと押し戻した。
「持っていてください。あなたには似合う」
「お前にこそ、必要だ」
「私には、名の代わりにできるものが幾つかある。紙より古く、紙より薄く、紙より燃えにくいものが」
「何だ」
「骨に書いた掟です」
沖田は飄々と笑い、火の上で軽く手を振った。火花がひとつ、灰の上で弾けて消える。
「記すな。けれど、忘れるな」
その音律だけが、護符のかわりに場へ置かれた。
会話は、ここから手合わせになった。
矢野は姿勢を変えず、血の匂いの薄い呼気を保ったまま、問いを敵の懐へ打ち込むように出した。
「なぜ、俺を殺さなかった」
火の上をすべる刃。刃先を出さず、相手の間合いだけ測る問いだ。
沖田は、すぐには受けない。受けず、火鉢の灰を指で崩し、崩れた灰の温度で間合いをずらした。
「ここでは、似合いませんでしたから」
「似合わない、とは、何の尺度だ」
「死ぬ場所の品格、というやつですね。死はどこでも同じ色になるようでいて、やはり場との相性がある。鳥居の脚は、祓いの色が強すぎます。そこであなたを斬れば、死は祓いに食われる。祓いに食われた死は、早く薄まる。薄まる死が私は嫌いです」
矢野は目を細めた。
「俺は、死に薄まってほしい者を、薄まらせたくて戦ってきた」
「それも、倫理です。私のは、嗜好に近い」
沖田は嗜虐の舌を指で押さえるように、唇の端を軽く噛んだ。
「ですが、嗜好の理を、ずっと鞘で囲っています。そこが、あなたには見えにくいところでしょうね」
「見えにくい、が、見えないわけではない」
矢野の言葉が、刃の背で打つ一撃のように静かに落ちた。
沈黙が、火の上で形になる。
言葉を重ねれば、意志は磨耗する。磨耗は鈍さと同義だが、鈍い刃ほど深く入る場所もある。二人は、沈黙の輪郭を拡げたり狭めたりしながら、互いの呼吸を測った。
沖田は、刃を出さない手で机上の湯碗を半寸ずらす。矢野は、それを視線で追わず、火の音をひとつ数える。手合わせの初合は、互いの「見ない」を確認するところから始まる。
尼が、さらに炭を足した。
「夜分、騒がしゅうしてはならぬ」
言いながら、尼は二人の刃を見もせず、足の向きを見た。宿の主は、刃を見ない。足の向きだけで客の結末を見分ける。
沖田が尼へ一礼する。飄々として、畳の目をなぞるようなうやうやしさ。尼は礼を受けず、火へ視線を落とした。火は礼を吸う。
矢野が、もうひとつ踏み込んだ。
「お前のいう品格は、俺の側に立つのか。お前自身の側に立つのか」
刃を捻る問いだ。
沖田は、刃の角度を変えず、答えをずらした。
「品格は、残される者の側に立ちます。死ぬ当人にとっては、どうでもいいんです。死んだものは、死後の礼に加わりません」
「残される者に、俺も入るのか」
「入ります」
「敵でも」
「今夜の名簿では、敵味方という欄が消えていましたから」
沖田の口調に笑いが混ざる。
「名簿はいつも、濡れてにじみます。にじんだ行は拾い読みするのにちょうどいい。あなたの行は、墨がよく滲みます」
「悪筆か」
「長生きする筆です」
矢野が、湯をひと口含んだ。
苦くはない。塩気も薄い。草の香りが舌の端を撫で、眠りの前の静けさを作る。静けさは罠になりうる。罠の真ん中で、彼は護符を懐に戻した。戻す位置は胸の左。心臓の前。
沖田が、その動作を視線の角で拾った。拾って、どこへも置かない。拾った重みを、ただ骨に預ける。
「返さないんですね」
「返さない」
「返さなかったことは、のちに祟ります」
「祟るなら、俺が受ける。受けるべきだ」
矢野の声は、火の高さと同じだった。
火が、いっとき高くなり、すぐに低くなった。
外で、海が息を吸い、吐いた。潮の音の拍に、誰かの足音がひとつ乗る。板戸の外の敷石が、微かに軋む。山の湿りと海の湿りが交互に来る。吉川の影と小早川の影。
尼は、火箸を握り直し、灰を静かに均した。均し方が祈りに似ている。
矢野と沖田は、同時に顔を上げなかった。上げないのは、最初の礼だ。礼を先に交わす者ほど、刃は鈍る。
沖田が、手合わせの最後の問いを出した。
「今夜の名で、呼びますか」
「呼ぶなら、どう呼べばいい」
「静、と。字は要りません。音だけでいい」
「静」
矢野の声が、火の上で一度だけ揺れた。音の重さが、場の柱に記録される。名を呼ぶことが、契りにならないよう、呼び方の拍をあえて崩す。崩し方は、刃の角度と同じだけ難しい。
沖田は、嗜虐の舌を唇の裏で折りたたみ、理の声を骨の奥で頷かせた。
「蓮」
短く返す。呼ばれた名の音が、矢野の胸の紙と護符の紙の間を滑った。
板戸の外の影が、ひとつ増えた。
砂利が小さく弾け、息を殺す音が、海の吸う拍と少しずれた。ずれは、訓(く)れた者のしるしだ。影は、名を持たない。名を持たぬ足音は、近くまで来る。
尼が、火箸を置いた。
「灯を、消そうか」
問いではない。確認でもない。合図だ。
矢野は、沖田を見ずに頷いた。沖田は、尼を見ずに頷いた。
火は、音を立てずに消えた。
灰の中に埋めた炭が、まだ赤く生きている。赤は外へ出ない。出ない赤は、一番長く温かい。温かさは、場を守る。暗闇は、目よりも先に耳の形を変える。人の呼吸が、海の拍へ自然に合わせられていく。
外の足音が、板戸の前で止まった。
誰かが、指で戸の板目をなぞる。節の位置を確かめている。節の多い板は乾きやすい。乾いた板は、音をよく通す。
矢野は、帯のところへ手をやり、槍に触らず、空を握った。握るというより、握らないために指を揃える。握らない手は、言葉を持つ手だ。
闇の中で、会話が続いた。
声は、板戸の向こうへ漏れない。洩らさないよう、骨で制御する。
「俺は、今日、ひとりを救った」
矢野が言う。見張りの男のことだ。
「救ったものは、のちの夜に祟るかもしれませんよ」
「祟られてよい」
「なら、私はあなたに借りを増やしたことになります」
「借りは、借りを呼ぶ」
「借りを返す場は、ここではないと」
「ここじゃ似合わない」
二人の言葉は、刃の打ち合いの代わりに、火の残り香の上で交差した。交差の角度は、今朝の輪舞と同じだった。背中合わせに立てば、言葉は敵味方の線を消す。
外から、低い声がした。
「開けよ。祓いに来た」
祓い、という言葉を使う者は、祓いを信じていない。祓いを名乗ることで、人は祟りの形を自らに写す。写された形は、刃に似る。
尼は答えない。尼の無言は祈りだ。祈りは、ほとんどの場合、時間を稼ぐ。
矢野が、沖田に顔を寄せずに言った。
「ここで、死なせない」
返された言葉は、骨まで響く。
沖田は、笑わずに頷いた。
「ここで、死にません」
嗜虐の舌が、暗闇の中で短く笑い、理の声が「では」と囁く。
板戸の隙から、塩の匂いが強く入った。
潮が、少し満ちに向いたのだ。海の拍が変わると、人の拍も変わる。変化の瞬間に動く者が勝つ。勝ち負けという語を使うなら、今夜はそれに近い。
矢野は、床板の節の位置を右足の指で確かめ、音の出にくいところへ重心を移した。槍はまだ取らない。
沖田は、刀の柄に手を置き、鞘の口の角度を半寸だけ斜めにして、抜かずに撃つ準備をした。抜かずに撃つ。会話は続いている。相手は聞こえない。聞かせない。聞かせない会話こそ、戦の中心に近い。
「静」
暗闇で、矢野が呼んだ。
「蓮」
沖田が返した。
それだけの音が、二人の位置を世界に仮留めする。仮留めは、抹消の反対の技だ。名を記すのではない。今この拍だけ、ここにいると、互いの骨に印を押す。
板戸の外で、鉤縄が低く鳴った。
山の影。
同時に、砂の擦れる音がした。
海の影。
二つの影が、交互に息を合わせようとして、わずかにずれた。ずれは、隙だ。隙の幅は、紙一枚。背中の紙一枚。
矢野と沖田は、同時に立った。
灯は消えている。
火は生きている。
声は使わない。
背中の紙一枚を、湿りがすり合わせ、きしみは起きない。起きないことが、ここでの礼だ。
尼が、火の灰を指で撫でた。
「名は、置かぬこと」
それが、この宿の掟だった。
掟は、場に巣を作る。巣は、外から見えない。見えない巣ほど強い。
沖田の唇が、暗闇でわずかに動き、矢野の肩の筋が、わずかに緩んだ。緩みは、走る前の合図ではない。斬る前でもない。言葉を畳む合図だ。畳まれた言葉は、刃の下に敷かれ、衝撃を吸う。吸った分だけ、生が延びる。
板戸に、軽い打音。
節と節の間を確かめる指先の、礼儀正しい合図だ。
矢野は、槍を取らず、空気を押した。
沖田は、刃を抜かず、柄で受けた。
会話は、ここでいったん終わった。
終わったというより、次の場面へ引き出される形で畳まれた。畳まれたものは、長く残る。残るものだけが、祟りにならず、恩寵へ変わる。
外で海が、鳥居の見えない場所で一度だけ高く鳴った。
太鼓の一打に似ていた。
道が、空きかけている。
空く前に、影が入ってくる。
二人は、その狭間の拍で、灯のない廊を滑るように進み、板戸の内側に位置を取った。
背中合わせの輪舞の“型”が、暗闇でしか見えない文字となって、廃寺の梁に薄く記された。
記すな。けれど、忘れるな。
荒れ寺は、名を隠す宿として、その文字を知らぬふりをした。
海沿いの荒れ寺は、潮に洗われた木の匂いと、古い灯心油の酸い匂いを同じだけ抱いていた。
山門はとうに外され、柱だけが骨のように立って、風の通り道を作っている。鐘楼は傾き、梵鐘は別の寺へ売られたのか、縄だけが梁からぶら下がり、縄の撚り目に白い塩が結晶していた。大きな本堂は半分を板で囲い、そこを宿に改めたらしい。朱の剥げた欄間に、粗末な簾と藁の寝具、歪んだ火鉢に小さな火。寺だった頃の名は、どこにも見当たらない。名を剥がされた建物は、たいてい静かだ。静かさは、祓いより効く。
矢野蓮は、入口の板戸を肩で押し、湿った空気をいったん外へ追い出してから入った。
沖田静が、後に続く。白装束は黒い外套の下で色を見せず、濡れた裾だけが床板に小さな水紋を作った。板は海の塩を吸い、足音を柔らげる。火は弱く、灰に半ば沈んだ炭が、ときおり鳴る。鍛えの甘い鉄を軽く叩いたような、乾いた音。音は、戦の余韻に似ていた。
宿の主は老いた尼だった。
頭は剃らず、白い髪を布で後ろに束ね、粗末な法衣の袖を肘まで捲り上げている。目は海の色を少し残して、よく眠れない夜の色も少し混ぜていた。尼は二人を見ると、名を問わず、手で火のそばを示した。
「名帳はない。金は、前に」
矢野が懐から銭を出す。尼は数えず、手のひらで重さだけ確かめ、柱の隙に滑らせた。滑らせるというのは、祈りの一種だ。目に見えぬところへ重さを移すことで、この場に名を置かぬ処し方が成立する。
火のそばで、二人は武具を外す順を互いに観た。
矢野は槍を壁に立てかけ、石突きに布を巻いて音を殺した。脛当ての紐をほどく手は無駄がない。沖田は刀を膝に置き、鞘の口に指を触れてから、半刻だけ遠くを見る癖を出した。刃を眠らせる前の、小さな礼だ。礼に礼は要らない。要らない沈黙が、火の上に薄く張る。
尼が湯を運んだ。
茗荷と塩の匂いがほんの少し。茶ではない。草を湯に通しただけのものだ。矢野は両手で碗を受け取り、沖田の前へ置く。沖田は飄々と笑い、碗の縁に口をつけず、湯気だけ吸った。熱の形を測るみたいに、薄い煙を舌で追って、目を細める。
尼は眉を動かさず、火へ新しい炭を足す。
最初の言葉は、矢野から出た。
「名を、聞いておきたい」
矢野の口の中は、塩の味がまだ薄く残っている。鳥居の脚の飛沫が乾き、唇の端に白い粉となっていた。名を問う声は、祈りではない。構えだ。構えの良し悪しは、最初の一言に現れる。
沖田は、火を覗きこみ、炭の角の崩れ具合を見てから、答えた。
「沖田、静」
短く。名の後に、何も置かない。呼吸ひとつ分だけ、わざと空白を残し、そこへ微笑を置いた。
「ただ、名はたびたび変わる」
矢野の眉がわずかに動く。
「変えるのか」
「変わる」
飄々と、言い直さない。能動も受動も捨て、事実の側へ身を置く。
「名は、他人が呼ぶ音です。他人が変えれば、変わります。私は耳がよくて。呼ばれた音をそのまま、今夜の名にするんです」
「今夜の名、か」
「今夜の名。明日の名は、あれば明日また聞けばいい」
理の声がそう言わせ、嗜虐の舌が退屈そうに欠伸をした。
矢野は頷き、小さな間を挟んで、自分の名を出した。
「矢野、蓮」
それだけ。姓と名の間に、薄い刃物のような沈黙を挟む。「蓮」という音の涼しさが、この荒れ寺の湿り気に似合わないほど清澄に響く。名は場に水脈を作る。作った水脈に、火がわずかに反応して音を立てた。
沖田は、その音へ目線だけを投げ、口の端を少し上げた。
「蓮。水を吸っても折れない草の名です。あなたには似合う」
「似合う、か」
矢野は自らの掌を見た。掌の小さな擦過は、今日の砂州の名残だ。皮膚の地形が、名の音を受け入れる場所を探す。
矢野は懐から護符を取り出した。
老女から受けた、小さな紙片。潮除けの細い藁を巻き、結び目がひとつ。紙には見えない墨が走っている。火にかざせば、墨は立つのかもしれないが、彼はそれをしない。護符は、火の試しを嫌う。
「これを、返す」
矢野は、紙を沖田の前へ差し出した。指先は震えない。震えないが、力が入っていない。返し方の礼を選んでいる。
沖田は、受け取りの礼を取らなかった。掌を出す代わりに、護符と矢野の手ごと、そっと押し戻した。
「持っていてください。あなたには似合う」
「お前にこそ、必要だ」
「私には、名の代わりにできるものが幾つかある。紙より古く、紙より薄く、紙より燃えにくいものが」
「何だ」
「骨に書いた掟です」
沖田は飄々と笑い、火の上で軽く手を振った。火花がひとつ、灰の上で弾けて消える。
「記すな。けれど、忘れるな」
その音律だけが、護符のかわりに場へ置かれた。
会話は、ここから手合わせになった。
矢野は姿勢を変えず、血の匂いの薄い呼気を保ったまま、問いを敵の懐へ打ち込むように出した。
「なぜ、俺を殺さなかった」
火の上をすべる刃。刃先を出さず、相手の間合いだけ測る問いだ。
沖田は、すぐには受けない。受けず、火鉢の灰を指で崩し、崩れた灰の温度で間合いをずらした。
「ここでは、似合いませんでしたから」
「似合わない、とは、何の尺度だ」
「死ぬ場所の品格、というやつですね。死はどこでも同じ色になるようでいて、やはり場との相性がある。鳥居の脚は、祓いの色が強すぎます。そこであなたを斬れば、死は祓いに食われる。祓いに食われた死は、早く薄まる。薄まる死が私は嫌いです」
矢野は目を細めた。
「俺は、死に薄まってほしい者を、薄まらせたくて戦ってきた」
「それも、倫理です。私のは、嗜好に近い」
沖田は嗜虐の舌を指で押さえるように、唇の端を軽く噛んだ。
「ですが、嗜好の理を、ずっと鞘で囲っています。そこが、あなたには見えにくいところでしょうね」
「見えにくい、が、見えないわけではない」
矢野の言葉が、刃の背で打つ一撃のように静かに落ちた。
沈黙が、火の上で形になる。
言葉を重ねれば、意志は磨耗する。磨耗は鈍さと同義だが、鈍い刃ほど深く入る場所もある。二人は、沈黙の輪郭を拡げたり狭めたりしながら、互いの呼吸を測った。
沖田は、刃を出さない手で机上の湯碗を半寸ずらす。矢野は、それを視線で追わず、火の音をひとつ数える。手合わせの初合は、互いの「見ない」を確認するところから始まる。
尼が、さらに炭を足した。
「夜分、騒がしゅうしてはならぬ」
言いながら、尼は二人の刃を見もせず、足の向きを見た。宿の主は、刃を見ない。足の向きだけで客の結末を見分ける。
沖田が尼へ一礼する。飄々として、畳の目をなぞるようなうやうやしさ。尼は礼を受けず、火へ視線を落とした。火は礼を吸う。
矢野が、もうひとつ踏み込んだ。
「お前のいう品格は、俺の側に立つのか。お前自身の側に立つのか」
刃を捻る問いだ。
沖田は、刃の角度を変えず、答えをずらした。
「品格は、残される者の側に立ちます。死ぬ当人にとっては、どうでもいいんです。死んだものは、死後の礼に加わりません」
「残される者に、俺も入るのか」
「入ります」
「敵でも」
「今夜の名簿では、敵味方という欄が消えていましたから」
沖田の口調に笑いが混ざる。
「名簿はいつも、濡れてにじみます。にじんだ行は拾い読みするのにちょうどいい。あなたの行は、墨がよく滲みます」
「悪筆か」
「長生きする筆です」
矢野が、湯をひと口含んだ。
苦くはない。塩気も薄い。草の香りが舌の端を撫で、眠りの前の静けさを作る。静けさは罠になりうる。罠の真ん中で、彼は護符を懐に戻した。戻す位置は胸の左。心臓の前。
沖田が、その動作を視線の角で拾った。拾って、どこへも置かない。拾った重みを、ただ骨に預ける。
「返さないんですね」
「返さない」
「返さなかったことは、のちに祟ります」
「祟るなら、俺が受ける。受けるべきだ」
矢野の声は、火の高さと同じだった。
火が、いっとき高くなり、すぐに低くなった。
外で、海が息を吸い、吐いた。潮の音の拍に、誰かの足音がひとつ乗る。板戸の外の敷石が、微かに軋む。山の湿りと海の湿りが交互に来る。吉川の影と小早川の影。
尼は、火箸を握り直し、灰を静かに均した。均し方が祈りに似ている。
矢野と沖田は、同時に顔を上げなかった。上げないのは、最初の礼だ。礼を先に交わす者ほど、刃は鈍る。
沖田が、手合わせの最後の問いを出した。
「今夜の名で、呼びますか」
「呼ぶなら、どう呼べばいい」
「静、と。字は要りません。音だけでいい」
「静」
矢野の声が、火の上で一度だけ揺れた。音の重さが、場の柱に記録される。名を呼ぶことが、契りにならないよう、呼び方の拍をあえて崩す。崩し方は、刃の角度と同じだけ難しい。
沖田は、嗜虐の舌を唇の裏で折りたたみ、理の声を骨の奥で頷かせた。
「蓮」
短く返す。呼ばれた名の音が、矢野の胸の紙と護符の紙の間を滑った。
板戸の外の影が、ひとつ増えた。
砂利が小さく弾け、息を殺す音が、海の吸う拍と少しずれた。ずれは、訓(く)れた者のしるしだ。影は、名を持たない。名を持たぬ足音は、近くまで来る。
尼が、火箸を置いた。
「灯を、消そうか」
問いではない。確認でもない。合図だ。
矢野は、沖田を見ずに頷いた。沖田は、尼を見ずに頷いた。
火は、音を立てずに消えた。
灰の中に埋めた炭が、まだ赤く生きている。赤は外へ出ない。出ない赤は、一番長く温かい。温かさは、場を守る。暗闇は、目よりも先に耳の形を変える。人の呼吸が、海の拍へ自然に合わせられていく。
外の足音が、板戸の前で止まった。
誰かが、指で戸の板目をなぞる。節の位置を確かめている。節の多い板は乾きやすい。乾いた板は、音をよく通す。
矢野は、帯のところへ手をやり、槍に触らず、空を握った。握るというより、握らないために指を揃える。握らない手は、言葉を持つ手だ。
闇の中で、会話が続いた。
声は、板戸の向こうへ漏れない。洩らさないよう、骨で制御する。
「俺は、今日、ひとりを救った」
矢野が言う。見張りの男のことだ。
「救ったものは、のちの夜に祟るかもしれませんよ」
「祟られてよい」
「なら、私はあなたに借りを増やしたことになります」
「借りは、借りを呼ぶ」
「借りを返す場は、ここではないと」
「ここじゃ似合わない」
二人の言葉は、刃の打ち合いの代わりに、火の残り香の上で交差した。交差の角度は、今朝の輪舞と同じだった。背中合わせに立てば、言葉は敵味方の線を消す。
外から、低い声がした。
「開けよ。祓いに来た」
祓い、という言葉を使う者は、祓いを信じていない。祓いを名乗ることで、人は祟りの形を自らに写す。写された形は、刃に似る。
尼は答えない。尼の無言は祈りだ。祈りは、ほとんどの場合、時間を稼ぐ。
矢野が、沖田に顔を寄せずに言った。
「ここで、死なせない」
返された言葉は、骨まで響く。
沖田は、笑わずに頷いた。
「ここで、死にません」
嗜虐の舌が、暗闇の中で短く笑い、理の声が「では」と囁く。
板戸の隙から、塩の匂いが強く入った。
潮が、少し満ちに向いたのだ。海の拍が変わると、人の拍も変わる。変化の瞬間に動く者が勝つ。勝ち負けという語を使うなら、今夜はそれに近い。
矢野は、床板の節の位置を右足の指で確かめ、音の出にくいところへ重心を移した。槍はまだ取らない。
沖田は、刀の柄に手を置き、鞘の口の角度を半寸だけ斜めにして、抜かずに撃つ準備をした。抜かずに撃つ。会話は続いている。相手は聞こえない。聞かせない。聞かせない会話こそ、戦の中心に近い。
「静」
暗闇で、矢野が呼んだ。
「蓮」
沖田が返した。
それだけの音が、二人の位置を世界に仮留めする。仮留めは、抹消の反対の技だ。名を記すのではない。今この拍だけ、ここにいると、互いの骨に印を押す。
板戸の外で、鉤縄が低く鳴った。
山の影。
同時に、砂の擦れる音がした。
海の影。
二つの影が、交互に息を合わせようとして、わずかにずれた。ずれは、隙だ。隙の幅は、紙一枚。背中の紙一枚。
矢野と沖田は、同時に立った。
灯は消えている。
火は生きている。
声は使わない。
背中の紙一枚を、湿りがすり合わせ、きしみは起きない。起きないことが、ここでの礼だ。
尼が、火の灰を指で撫でた。
「名は、置かぬこと」
それが、この宿の掟だった。
掟は、場に巣を作る。巣は、外から見えない。見えない巣ほど強い。
沖田の唇が、暗闇でわずかに動き、矢野の肩の筋が、わずかに緩んだ。緩みは、走る前の合図ではない。斬る前でもない。言葉を畳む合図だ。畳まれた言葉は、刃の下に敷かれ、衝撃を吸う。吸った分だけ、生が延びる。
板戸に、軽い打音。
節と節の間を確かめる指先の、礼儀正しい合図だ。
矢野は、槍を取らず、空気を押した。
沖田は、刃を抜かず、柄で受けた。
会話は、ここでいったん終わった。
終わったというより、次の場面へ引き出される形で畳まれた。畳まれたものは、長く残る。残るものだけが、祟りにならず、恩寵へ変わる。
外で海が、鳥居の見えない場所で一度だけ高く鳴った。
太鼓の一打に似ていた。
道が、空きかけている。
空く前に、影が入ってくる。
二人は、その狭間の拍で、灯のない廊を滑るように進み、板戸の内側に位置を取った。
背中合わせの輪舞の“型”が、暗闇でしか見えない文字となって、廃寺の梁に薄く記された。
記すな。けれど、忘れるな。
荒れ寺は、名を隠す宿として、その文字を知らぬふりをした。



