第十一話 追手、島影より

 追手の足音は、雨の止む音に似ていた。
 降りやんだあとの静けさは、音が消えたのではなく、別の場所へ移ったせいで生まれる。山の影が湿りを手放しはじめ、針葉の先から落ちる最後の水が、土の脈の上で小さく弾ける。その弾けにまぎれて、柔い草を踏む足、籐の甲冑が鳴らす微かな擦過、綱を引く手の節の乾いた音――吉川配下の斬り手は、音を持たぬように訓じられた身のまま、それでも物理という嘘つかぬ習慣に従って、到来の痕跡を残していた。
 沖田静は、岩の陰で片膝を立て、潮の匂いを薄く吸った。
 雨はとうにやみ、海面は風に撫でられて白い鱗を見せ、鳥居の朱は夜のあいだに内側へ引き取った色を、明け方の薄光へと少しずつ返しつつあった。潮は下がり、砂州はすでに消え、入江の喉は朝のために広がっている。彼は、鞘の口へ指を置き、柄に添えた親指を半刻だけ浮かせては戻し、重心の位置を手の内で測った。嗜虐の舌が目を覚まし、理の声が「まだだ」と囁く。二つの声音は、いつものように隣り合い、互いに触れず、互いの存在だけを肯定していた。
「味方は、一番恐ろしい」
 飄々と、誰にともなく言う。言葉は潮風へ融け、鳥居の脚を撫でて、消えた。
 山の影が、視界の縁を斜めに切った。
 現れたのは、三の列。先頭は短槍を逆手に持ち、二列目が小太刀、三列目が鉤縄。兜の緒は堅く、目の下には煤を薄く引いてある。見られることを嫌う者の身だしなみだ。吉川の山の衆。寡黙で迅速、風上と風下の区別を骨で嗅ぎ、足が地を離れる寸前に膝を緩め、踏む音を土に渡す術を持つ。
 先頭の男が、指を二度、弾いた。
 合図に応じ、二列目の左右が開き、三列目の鉤縄が岩の角へ立つ。縄の先の鉤は、雨で鈍った鉄の匂いを残している。沖田は、唇の片端を上げる。挑発の笑み。嗜虐は、獣より先に笑う。
「探し物は、白ですか、無ですか」
 声は静かに、しかし足元の湿りを震わせて、相手の膝へ届く高さに落ちた。
 返事は、刃だった。
 短槍の穂先が、風を一枚だけ剥ぎ、沖田の頬の皮を一枚、薄く削った。血は出ない。皮膚の記憶だけが熱を持つ。刃はその熱へ集まる。集まった刃を、彼は半身で受け流し、鞘で槍の石突きをこじり、地面の小石を一つ、槍の木に噛ませた。石は黙って割れる。割れた音が、山の衆の耳をわずかに叱り、前進の拍を半分崩した。
 左から小太刀。
 低い。良い高さだ。彼は刃を出さない。鞘の角で手首の腱を撫でる。切らない。撫でるだけ。撫でられた腱は、次の一合で自ら弱る。弱るものを待つのは簡単だ。簡単は退屈だ。退屈は、生を延ばす。
 右の鉤縄が、背にくるりと回る。縄の繊維に塩が残り、滑りが悪い。悪い滑りは、殺意の速度を鈍らせる。鈍りは、刃の友だ。彼は足を半歩後ろへ払って、縄を自らの腰に流し、締めを待つ間もなく逆手で縄を掴み、引くのではなく、持ち主の体の軸を一寸だけ捻った。捻られた男は、倒れない。倒れないところが良い。倒れねば、殺さずに済む。
「白!」
 誰かが呼んだ。名は呼ばれぬ島だが、異名は別だ。異名は、祓いの道具にもなる。呼ばれた瞬間、山の衆の間に、うっすらとした安堵が流れた。対象が輪郭を持つ安堵。輪郭は、刃のために用意された入口だ。沖田は入口を素通りし、槍の柄の節の不揃いを指で探り、節の高いところへ鞘の角を軽く当てた。木が鳴る。鳴いた木の振動が穂先へ伝わり、手の平をくすぐる。人はくすぐられると、力を均等に入れ損なう。損なった瞬間、彼は体を半身から四分の三身へ、影のように滑らせ、刃を出した。
 ひと振り目は、喉ではない。
 喉を切れば、声は消える。声が消えると、残りの者の判断は速くなる。速くなった判断は、いちどきに襲う。襲われれば、刃は飽きる。飽きた刃は、誤る。
 彼は、肩を斜めに切った。皮と布と筋の境を、紙を裂くほどの浅さで。痛みは走るが、致命ではない。痛みは、群れの背骨へ伝わり、背骨は一瞬だけ弓なりになって、列の間へ空隙を作る。その空隙が、黒い道の起点だ。
「囲め」
 低い命令。
 左右の小太刀が入る。
 沖田は、笑う。嗜虐の舌が、鉄の味を思い出し、理の声が「そこは空(す)」と告げる。
 鞘で左の小太刀の背を打ち、刃を自らの外へ追い出す。右は、柄で受けず、肘で受け、骨で角度を逸らす。骨に触れさせると、相手の腕の骨も同時にこちらへ触れる。触れた骨同士が、音もなく礼を交わす。礼は、一瞬だけ殺意を鈍らせる。鈍った隙に、沖田は前へ踏み、槍の男と鼻が触れる距離へ入った。入ってから、刃を動かす。
 切りつけない。
 刃の背で、喉の皮膚を少しだけ押し、気道を塞がぬ程度に浅く、しかし咳を誘う角度で、線を置く。咳は出ない。出ない咳ほど苦しい。苦しみは、殺意を散らす。散るものの上に、彼は足を置いた。
 鉤縄が、ふたたび腰を狙う。
 縄の主は、先ほどの捻りを学んで、今度は締めを早くした。賢い。賢い手は、殺意も賢い。賢い殺意には、愉悦がある。愉悦に礼を返すのは、鈍い刃だけだ。沖田は、刃の腹を縄の上に置き、滑らせ、繊維を一本ずつほどくように、微細な振動を与えた。縄は切れない。切れないが、締まりを失う。失った縄の向こうで、山の衆は初めて「この者は殺さない」という事実に触れ、わずかに戸惑った。戸惑いは、刃の味方だ。
 その戸惑いに、別の刃が斜めから入ってきた。
 涼しい風のような踏み込み。
 裾の泥が細く跳ね、木札が肩口で鳴り、声はまだ発せられない。
 矢野蓮だった。
 彼は、己の槍を長く持たなかった。
 半柄で詰める。鞘は帯に残し、柄と鞘のかわりに、掌と肘を武器にした。掌は握らない。握れば固い。固い動きは、朝の湿りに向かぬ。彼は走りながら、捕らえかけていた山の衆の腕を逆に取り、肩で押し、地面に転がすのではなく、膝で座らせるように落とした。座らされた男の喉に刃を置かず、背に膝を当てて、視界を遮った。遮られた視界は、殺意の半分を盗まれる。
「ここでは死なせない」
 矢野は、沖田に向けてだけ、短く言った。
 その言葉は、先日の夜、社殿裏で囁かれた言の反転だった。返された言葉が骨に入る。骨に入った言葉は、すぐに動作へ変わる。
 沖田は、笑って頷いた。
 頷きは一度だけ。足の向きが、矢野の肩の角度に合わさる。これで、背中を合わせる準備ができた。
 二人の間に、短い空白が生まれる。空白は、輪舞のための中心だ。
 山の衆が、速さを取り戻した。
 数では勝る。寡黙は強さだ。彼らは声を持たず、符丁だけで円を縮める。縮んだ円の内側で、沖田と矢野が、互いの背を一点で合わせた。背骨と背骨のあいだに、薄い紙一枚分の余白を残し、呼吸を同期させる。吸えば、相手が吐く。吐けば、相手が半歩ずれる。
 輪舞が、始まった。
 最初の回転は、右。
 沖田が刃で右を押さえ、矢野が左の足を切る。切るといっても、皮一枚。皮が裂ければ、足は次の一合で自ら止まる。止まった足の上に、別の刃がある。刃に刃を載せず、柄で押さえ、肩で払う。払うと同時に、沖田の刃が背の向こうで喉元へ行き、喉ではなく、鎖骨の窪みに影を置く。影は切れずに、殺意だけを黙らせる。
 二回転目、左へ。
 矢野の槍が半柄から一寸だけ伸び、石突きが膝裏を叩く。叩くというより、触れる。触れられた膝は、地面の湿りに礼をして、わずかに沈む。沈むと、背後の沖田の鞘が肩甲骨の端を打ち、力が腕から抜ける。抜けた腕が落とした刃を、矢野は踏まない。踏めば折れる。折れた刃は、次の瞬間に凶器になる。彼は刃の平へ足の裏を柔く置き、滑らせ、泥の中へ返した。
 三回転目、右。
 鉤縄が二本、同時に飛ぶ。
 沖田は、一方を肩で受け、一方を刃の背で払い、矢野が縄の持ち手の手首を取って、逆へ捻る。捻られた手は、抵抗しない。抵抗せぬように捻ったからだ。捻り方が礼を含むと、相手の骨は素直だ。素直な骨の先に、沖田の刃が置いた影があって、その影が咳の代わりに呼吸を奪う。
 四回転目、左。
 短槍の穂先が、背の紙一枚に触れた。紙がわずかに動き、二人は同時に半歩ずつ、違う方向へ抜けた。抜けた先で、矢野が石突きで刃の根を抑え、沖田が柄で喉を押す。押すのは、切らないためだ。切らずに済む回数が増えるほど、嗜虐の舌は退屈を覚え、理の声は静かに喜ぶ。喜びは、刃を鈍らせる。鈍い刃が、今は良い。
 山の衆の輪が、わずかに緩む。
 緩みは、空気に出る。湿りが薄くなる。薄さは、波の高鳴りに似て、入江の喉の奥で低くうなった。海が、戦を嗤う。嗤いに乗るな。彼らの骨は、それを知っている。
 矢野は、斜め前の岩の上に、瞬間の逃げ道を見た。黒い道。雨の夜に沖田が置いた白い小石の経路が、今は目に見えぬまま地形の陰影に残り、その陰影が列の切れ目を誘う。彼は背でそれを示す。示し方は、呼吸の拍の変化。吸い終わる前に吐きはじめる。沖田は即座に理解した。
「先に抜ける。――十、八、六」
 矢野の言葉は、数であり、方向であり、礼である。
「四、二」
 沖田が数を終え、二人は同時に右へ回った。輪舞の円が、一瞬、楕円に歪み、その長軸が黒い道の入口へ向かう。そこへ短槍の男が躍り込み、穂先が白い喉元へ伸びた。
 嗜虐の舌が笑う。
 沖田は、刃を半寸だけ下げ、喉の前で穂先を受け、火花も血も出さずに角度をずらした。ずらした穂先は、後ろの男の肩へ流れ、その男は驚きに目を見開き、しかし刺さりはしない。刺さらぬよう、矢野の槍の柄が静かに受けている。二人の間で、刺すべき刃は刺さることを忘れ、刺さらぬことで自壊する。自壊の音は、湿りに向かぬ。向かぬ音は、戦を短くする。
「押せ」
 矢野が低く言った。
 押すのは、刃ではない。空気だ。二人が同時に半歩前へ押す。背の紙がきしむ。きしみが、山の衆の膝へ伝わる。膝は、湿りの上で礼をし、わずかに折れる。その折れの間に、二人は黒い道の起点を跨いだ。起点を越えれば、輪舞は移動する。移動する輪舞は、道の形を刻む。刻まれた形は、追手にとって、足場であり、罠でもある。
 山の衆の中に、一人だけ笑った者がいた。
 笑いは短く、刃の端に乗り、刃が閃いて、矢野の耳の際を風が斜めに抜けた。髪が一筋だけ切れ、肌が冷える。痛みはない。ないが、血は薄く出て、耳の内側へ熱を置いた。熱は、判断を鋭くする。矢野は、笑った者の眼を見た。眼は、殺しに慣れている。慣れている者に対しては、礼を多くする。彼は、槍を半柄に戻し、相手の足の踏みしろを奪い、倒す代わりに座らせ、視界を奪い、呼吸の拍を乱し、刃の先端に「無駄」を与えた。無駄は、嗜虐の天敵だ。嗜虐は、無駄に飽きる。
「引け」
 誰かが、小さく言った。敵の側の声だ。
 輪が、後ろへ半足退いた。退いた輪は、崩れる直前に強くなる。最後の強さが、最後の刃を呼ぶ。呼ばれた刃は、正しく、彼らの背へ向かってきた。
 沖田は、背を離さない。
 矢野も、離さない。
 背の紙一枚が、湿りを含んで重くなり、二人の間の芯を強くする。芯の強さに合わせて、輪舞が回転を速める。速く回る輪は、中心の狂いを許さない。狂いがないほど、刃は鈍り、鈍るほど、生還線が太くなる。
 海が、鳴った。
 波の背が、鳥居の脚を叩いた音。
 その一撃が、太鼓の一打に似て、朝の空気の底へ沈んだ。
「いま」
 矢野の声は、風より低く、骨より速い。
 沖田は、返事をしなかった。しない返事が、一番速い。
 二人は、黒い道へ飛び込んだ。
 道は、雨の夜にできて、晴れの朝に見えない。見えないが、存在する。岩の角の向き、草の倒れ方、土の硬さ、湿りの重心――それらが、地図の余白のように示す「通ってよい」を、沖田は、指先ではなく背中で読み、矢野は、護符の紙のエッジで読んだ。読む速度は、刃の速度を上回る。刃は、読まれるものに追いつかない。
 背後で、鉤縄が鳴った。
 岩角にかかり、綱が張り、追手が道を塞ぐ。塞がれた入口を、二人は使わない。使わないのが、道を長生きさせる。彼らは斜面を斜めに降り、松の根を踏み、濡れた苔を避け、石と石の間の見えぬ隙間へ足を落とし、同時に半身を捻って、狭い岩間をすれ違う二本の矢のように、互いを傷つけずに通った。
 追手のひとりが、焦れた。
 焦りは、刃の友であり、敵でもある。
 男は、短槍の穂先に自らの焦りを載せ、距離を潰し、踏み込み、足を滑らせた。滑りは、礼だ。湿りは、戦場の唯一の公平。公平は、時に美しい。男の膝が土へ落ちる瞬間、矢野の石突きが彼の槍の根を押さえ、沖田の刃の腹が男の喉元に触れ、切らずに押した。押されることで、人は生かされる。生かされることで、人は屈辱を覚える。屈辱は、朝に溶ける。
 岩の陰を抜けると、空が広がった。
 海は近い。波は高鳴り、鳥居の朱は、また内側の光を吸い込んで、外へ色を返す準備をしている。浜には、倒れた舟板が一枚。節に塩が残り、古い血の匂いが薄い。沖田は、その板の節を指で弾いた。鳴らない。鳴らない音が、道の正しさを保証する。彼は矢野を見た。見たというより、背の皮膚で確認した。
 山の衆は、追うのをやめない。
 海の衆が、別の角度から現れる。舟板の陰、濡れた砂の上、白い波の端。鎖と重りを持った手、短い鉤を二つ持つ手、網を巻いた肩。海の者の足は、泥に向かない。向かないが、砂には速い。速いものは、刃を呼ぶ。二人は、輪舞をやめない。輪舞は、敵味方の線を消す所作だ。消えるからこそ、礼が通る。
 網が投げられた。
 重りが先に飛び、綱が空中で円を描き、光のない朝の空に、薄い輪を置く。輪は、落ちる前から罠の形をしている。矢野は、半歩だけ遅れて踏み込み、石突きで輪の下縁を持ち上げ、沖田の肩越しに返した。返された輪が、投げた男の膝を絡め、男は前のめりに砂へ落ちる。落ちた男の背へ、沖田は刃を置かなかった。置かず、砂を掴んでその頬へ少しだけ擦り付けた。砂の痛みは、人を目覚めさせる。起きた者は、次に刃を取らない。
 鎖が唸り、鉤が砂を掻く。
 沖田は、鎖の軌道の外側へ移り、矢野は内側へ入る。内と外の交錯。背中の紙がきしむ。きしみは、中心の正しさを告げる。鎖の手は、動きが正確だ。正確な手には、ほんのわずかの乱れが致命になる。沖田は、鎖の重りが最下点を過ぎる一刹那、刃の背でその重りを打った。打つというほど強くない。触れた。触れられた鉄は驚き、わずかに軌道を外し、砂へ突き、砂が鉄を飲んで、鎖の意志を奪った。
「退け」
 海の衆の誰かが叫び、声に従って二歩下がる。
 そこへ、山の衆の槍が重なった。互いの合図が混線する瞬間。混線は、刃の友だ。彼らの輪が勝手に崩れる。崩れる輪の外で、沖田と矢野は、背を合わせたまま、ゆっくりと角度を変え、黒い道の次の刻みへ、身体を滑らせていく。
 沖田は、矢野の間合いを一度で理解した。
 彼の槍は、突くためにあるのではない。道を指すためにある。指された道は、常に背のほうにある。背のほうにある道を、刃で守る。その役割は、噛み合う。噛み合ってしまえば、嗜虐の舌はやることを減らされる。減らされた舌は、飽きた、と告げる。
 飽きるのは、今に限って、良い兆候だ。
 海風が、二人の髪を逆向きに撫でた。
 同時に、鳥居の根元で波が立ち、飛沫が頬の傷に塩を置いた。痛みは、礼だ。生きていることへの短い礼。礼が通った瞬間、二人は足を前へ。
 生還線が、視界の端に現れた。
 岩と岩のあいだ、松の根の間隙、濡れた砂の色の濃い部分が一本に繋がる。そこを渡れば、追手は遅れる。遅れた追手は、別の入口を探して、勝手に時間を浪費する。
 最後の刃が、背へ来た。
 気配が、骨へ触れ、皮膚が警鐘を鳴らす。鐘の音は小さい。小さいほうが速い。矢野が前へ、沖田が後ろへ。二人の背の紙が、裂けぬ程度に強く張り合い、紙の緊張が刃の角度を変えさせる。沖田は振り返らず、柄を短く返し、刃を抜かず、柄頭で相手の口元を打った。歯が鳴る。鳴るが、折れない。折られた者は、次に祟る。祟らせないための鈍い打ち。
「行け」
 矢野の声が、風を割った。
 彼らは、走らない。
 走れば、音が増える。音が増えれば、黒い道が薄れる。薄れた道は、朝には消える。消えれば、次はない。二人は、歩幅を揃え、呼吸を計り、海の音を背に、鳥居の朱を横目に置いたまま、岩の陰から陰へ、影の梯子を上った。
 追手は、追わないことを選んだ。
 選ぶというのは、敗北ではない。賢い敗退だ。山の衆の隊長が短く指を振り、海の衆の長が顎で波を示す。波は高く、潮は変わり、鳥居の根元で渦が二度、同じ場所に生まれた。渦は吉兆ではない。戦には向かない縁起。
「祟り返す」
 誰かが小さく言い、その言葉を風が、礼として持っていった。
 岩陰を抜けた先に、小さな古い小径があった。
 木札が一つ、濡れて重く、しかし地面へよく噛んでいる。矢野が先に足を置き、沖田が後に続く。背中の紙は、いつのまにか乾きはじめ、きしみが消えた。消えた分だけ、二人は別々の身体に戻る。戻りながら、なお、同じ拍で歩く。
「借りを、ひとつ」
 矢野が、息と同じ速さで言った。
「返すのは、ここではありません」
 沖田が、笑って答えた。飄々と、しかし笑いの端に、わずかな疲れが混じる。疲れは、礼だ。礼は、戦のあいだしか通らない。
 小径は、海から離れ、山の腹へ巻き上がる。
 樹の根が段になり、苔が滑り、鳥の声がまだ戻らない。二人は言葉を使わず、足の置き場と、枝の払われ方と、風の曲がる角度だけで、互いの居場所を確かめあった。確かめるたび、輪舞の型が、身体に残ったまま形を変える。回る代わりに、揺れる。揺れる代わりに、息が合う。
 背後で、太鼓が一打、遠くで鳴った気がした。
 実際には、波が岩を叩いたのだろう。だが、意味は同じだ。道が空いた。
 沖田は、立ち止まり、鳥居の見えない空へ、片手を上げた。
「道を、貰います」
 小さく言って、肩の力を抜く。嗜虐の舌がまた眠り、理の声が静かに頷いた。
 小径の先に、廃れた寺の影が見えた。
 瓦は落ち、柱は細り、しかし、雨を凌ぐ程度の屋根は残っている。矢野は、その影へ視線を送り、沖田はわざと視線を外した。意図を合わせないまま合う。
「名を隠す宿」
 矢野が、声にせずに言い、沖田が、声にせずに答える。二人の間には、もう「敵味方」の線はない。線を消したのは、刃ではなく、礼だった。
 もう一度だけ、追手の気配が波のように寄せた。
 寄せて、引いた。
 引いた波は、砂に白い縁を残し、鳥居の朱へ静かに触れた。朱は、何も言わなかった。言わないものほど、長く効く。
 沖田は、背中の紙を指で撫で、目に見えないそれを、そっと剥いだ。剥がれた紙は、風に乗り、どこへも行かずに、その場で消えた。
「ここでは死なせない」
 矢野の言葉が、骨に残ったまま、道の湿りを軽くする。
「お前の死は、ここじゃ似合わない」
 かつての夜の囁きが、別の形で返された。返された言葉は、約束ではない。型だ。背中合わせの輪舞の“型”。
 型は、次の場面のために、いま、身体の深いところへしまわれた。
 風が、海の匂いを少し軽くし、山の匂いを少し濃くした。
 鳥居の見えない場所で、二人は同時に肩を落とし、同じ拍で息を吐いた。吐いた息は、白くならない。白くならない呼気だけが、今の季節に正しい。
「行こう」
 矢野が言い、沖田が頷く。
 背中の紙は、もう要らない。
 だが、背中の感覚は、消えなかった。
 消えぬまま、二人は廃寺の陰へ入り、短い静けさを選んだ。選ぶという行為は、戦の続きに必要な唯一の贅沢だ。
 砂の上には、輪舞の跡が、何も残っていなかった。
 残らぬものだけが、祟りにならず、恩寵になりうる。
 追手は、海と山の境で立ち止まり、互いに一度だけ目を合わせ、何も言わずに散った。散るという報せが、風の中でほどけ、鳥居の朱へ届き、朱は内側の光をわずかに強くした。
 勝者なき勝利の余白に、背中合わせの輪舞の“型”が、見えない墨で記された。
 記すな。けれど、忘れるな。
 その掟だけが、潮の音に紛れて、長く、薄く、残った。