第十話 祟りと恩寵
潮は、勝ち負けの言葉をまだ受け入れずにいた。
夜半の濁りはそのままに、波の皮膚だけが薄く張り替えられ、鳥居の脚にまとわりついた泡が、息を吐くたび白から灰へ、灰から透明へと色を変える。砂州はもう姿を消し、そこに残ったのは、足跡とも跡ともいえぬ、崩れかけのへこみばかりだ。雨は細くなったが、風が湿りを運び続け、社殿の檜皮は、濡れた夜をまだ手放さない。勝利は、どこにも置かれないまま、港の外れを漂っていた。
沖田静は、濁った潮を見ていた。
見ているといっても、目で追うのではない。指先で、波の縁の厚みを測る。厚いところでは血の匂いが残り、薄いところでは塩が先に来る。匂いは混ぜるほど純度を失う。純度を失った血は、嗜虐の舌には物足りない。物足りなさが、彼を長く生かしてきた。
「海に流れれば、たちまち薄まる」
飄々とした口調で誰にともなく言い、指先についた赤を水に解いた。解いた水は、小さな魚の鱗ほどにも光らず、ただ波の呼吸に紛れた。
彼の内側には、二つの声があった。
ひとつは、血を求める声だ。独りで歩いているとき、その声はよく笑った。笑う、というのは、刃の角度のことだ。切るべき場所が見えたとき、笑いは自然に出る。血が温かいほど冴え、冷めるほど穏やかになる。温度で制御できる嗜虐ほど、扱いやすいものはない。
もうひとつは、刃の理屈を確かめ続ける声だ。どこから入ってどこへ抜ければ、骨を避けて声だけ奪えるか。どのつぎ目を叩けば、呼吸だけ乱して相手の意志を奪えるか。刃を抜かずに済む手順の数を、雨の日に数え、晴れの日に忘れない。理は冷たく、嗜虐は熱い。二つの温度は、一枚の舌の上で混ざり合わず、並んで立つ。今朝の風は、その並びに小さく触れた。触れられたほうの声が、微かに震えた。
斥候頭が、足音を殺して近づいた。
「静さま」
呼び名は濁り、水の底の石に触れたかすかな音のように擦れた。彼は振り返らず、掌だけを後ろへ差し出した。そこへ薄い金が一枚、落ちる。斥候頭の指は、金を受けるのに慣れていない。躊躇が皮膚に残る。
「次の潮で、本土へ渡っていただけませんか」
沖田は、波と同じ調子で言った。
「ここで息を継いではなりません。潮は今朝、息を短くしました」
斥候頭は、海を見るでもなく頷いた。頷いた拍が早い。早い拍は、恐れの形だ。
「静さまは——」
「私は、よく死ぬ」
笑って言い、彼は金を指で押し戻す代わりに、斥候頭の手の甲を軽く叩いた。叩いた場所の血が、温度を少し上げた。温度が上がると、人は動く。
「いまは、生きる」
付け足しは、誰に向けたものでもない。潮の縁が、その言葉を受け取るふりをして、すぐに薄めた。
金を渡した手が、わずかに震えた。
おかしかった。刃を抜くときに、震えたことはない。刃を鞘に戻すときにも、震えはない。金を渡すとき、震えた。震えの出どころを辿れば、評定の間の湿りを思い出す。名を記すに足らず、いや、記してはならぬ——誰かがそう言った。誰かが、ではない。島が言ったのだ。島の口は、老練な武の口ぶりで、人の骨に言葉を刻むことを知っている。抹消。軽い言葉ほど、重い。
視界の端で、山の匂いと海の匂いが交互に動いた。
山の匂いは、苔の湿りと、松の皮の苦味の混じったもの。海の匂いは、縄の塩と、舟板の古い血の匂い。どちらも、息が浅い。浅い息は、追う者の癖だ。彼はため息を飲み込み、笑って、石の上から立ち上がった。立ち上がる動作が海に記録される前に、足を向ける。向けた足は、濡れた小石を踏み、音を持たない。
「味方は、一番恐ろしい」
自分に言い、雨の名残に肩を貸した。
道の端では、敗残兵の収容が続いていた。
矢野蓮は、泥の上に片膝をつき、濡れた布で若い兵の額を拭いていた。布は灰色で、端に小さな裂け目がある。裂け目から覗く白が、ほんのわずかに塩の匂いを持っていた。
「起きるな。起きると、立ちたくなる」
矢野は、声を低く、短く落とした。
「立ちたくなったら、立つ前に息を吸え。吸うと、やめたくなる」
若い兵は、言うとおりにした。息を吸い、やめた。やめることのほうが、勇気を要する夜がある。夜はもう上がったが、泥はまだ夜を抱いている。
矢野の周りでは、声が増えつつあった。
「敗残者の処分をどうする」「傷病者に口を割らせよ」「砂州で見失った者の名を記せ」「矢野殿の隊は退路を優先したと聞くが」
責め口は、非難というほど硬くはない。硬くない分、長く続く。長く続けば、士気は疲れる。疲れの前に、手を動かす。矢野は、負傷の位置を指で探り、布をあて、骨の段差を避けるように包み直した。包帯は濡れ、冷たい。冷たさに、兵の呼吸が均される。
「俺たちは、まだ息をしている」
矢野は、誰にともなく言った。言葉は自分の肋骨へ落ちた。
そこへ、先日救った敵兵——あの見張りが、担がれて運ばれてきた。
足首の腱は断たれたままで、しかし命は失われていない。呻き声が、雨の名残のように低く続く。矢野は、その声を嫌わなかった。嫌悪は判断を鈍らせる。
「水を」
彼は水袋を受け取り、見張りの口の端に当てた。血の塩がまだ残っている。水は塩を薄め、声の震えを少し柔らげた。
「名は」
問うても、答は要らない。ここは名を呼ばれぬ島だ。名は、後で敵になる。
「喉が動けばそれでいい」
矢野は、布を新しく当て直し、見張りの眼を見た。眼は彼を見ない。見ないというのは、信頼の一種だ。敵同士だからこそ、見ないまま礼が通う。
「矢野殿」
背後から、年嵩の者の声が落ちた。
「おぬしは、臆したのではないか」
言葉は湿っていた。湿っている言葉は、火には燃えづらいが、人の耳に粘りつく。矢野は立ち上がって、声の主の方へ半歩だけ向き直った。
「臆した。だから、生き残った。だから、彼らも」
短い返答に、場がわずかに揺れた。揺れはすぐに収まる。収まったあと、残るのは手の動作だけだ。彼は再び膝をつき、布を押さえ、傷口の縁を指で平らにした。
「責は、あとで受ける」
それでいい、と彼は思った。責は乾いてから受けねば、重さの分配が歪む。
午後、雲が裂け、濁りの上に斜めの光が落ちた。
光は何も温めない。温めない光は、標になる。矢野は、部下に短く指示して、敗残の者たちを光のないほうへ寄せた。名簿の木札には、まだ空白が多い。空白は祟りではない。恩寵とも違う。空白のまま残しておくことは、時に祈りに似る。
見張りの男が、浅く目を開け、唇が微かに動いた。
「お前は、ここで死なせない」
矢野は、自分に向けて言った言葉を、男へ貸した。貸した言葉の利息は、のちに自分が払うのだろう。借りは、借りへの返答でもある。
夕刻、風がひとつ向きを変え、港の外れの水面がわずかに撫でられた。
沖田は、鳥居の片足の影へ身を寄せ、濡れた縄を指で弾いた。弾いた縄は鳴らず、鳴らない音が、耳の奥に薄く響く。
「記すな。けれど、忘れるな」
評定の場で落ちた言葉が、縄の繊維に残っている。残っているものは、祓いの対象になる。祓いが山から降りれば、海もまた応じる。応じるというのは、追手が現れるという意味だ。
山の影は、地面に馴染む。海の影は、目に馴染まない。二つの影が交互に出入りし、彼の周囲の湿りが薄くなったり濃くなったりする。薄いときは嗜虐が笑い、濃いときは理が笑う。二人の笑いは交わらない。交わらないまま、彼を立たせる。
斥候の少年が、控えめに近づいた。
「静さま、船が——」
言いかけて、少年は口を噤んだ。沖田の手が、わずかに震えたのを見たからだ。
「お行きなさい」
沖田は、その震えを自分で認めるように、わずかに頷いた。
「今夜は、船でなく、足で渡ります」
少年は意味を取れず、しかし頷いた。頷きだけが伝わればよい。言葉は、多いときほど失敗する。彼は少年の肩を軽く押し、背を向けた。押す手が、埋葬の手に似ていた。
山の影が完全に夜へ溶け、海の影が港の端でほどけ、鳥居の朱が内側の光を取り戻すころ、矢野はひとり、鳥居の下に立った。
雨は止んだが、縄はまだ湿っている。風が、塩の匂いを戻す。
足下で、小さな白が揺れた。
布の切れ端。白装束の裾のようでいて、波に揉まれ、海塩が沁み込み、血の痕が蜘蛛の巣のように広がっている。
彼はしゃがみ、指先でそれを摘み上げた。布は重くない。重くないものほど、記憶に残る。布の端には、糸が一本、長く出ている。糸を引けば、夜がほつれる気がした。引かない。引かず、掌に置く。置いた掌に、塩の冷たさが移る。
「ここで死ぬな」
彼は小さく言い、布を懐へしまった。しまう場所は、護符の隣だ。紙と布が触れ合い、ざらり、と音を立てた気がした。
その夜、矢野は火のそばに座らず、誰とも酒を交わさず、ただ、見張りの男の側にいた。男は眠りと醒めの境を漂い、呻きはもう声の形を取らない。呼吸の数だけ、夜が長くなる。長くなった夜は、彼の骨の書付を読み返させる。
——ここで死ぬな。
——ここではない。
——借りは返す。
言葉は、骨に書かれるとき、形を変える。命令ではなく、姿勢になる。姿勢は、誰にも見えない。見えないのに、周りを整える。整った場は、追及の声を柔らげる。
「矢野殿」
昼の声の主が、夜になって来た。
「先ほどは……悪く言った」
矢野は首を振った。謝罪は水に似て、火を消すが、泥は洗わない。
「人は、生かされると屈辱を覚える。屈辱は、朝には消える」
彼は、布を少しきつく巻き直し、見張りの額の汗を拭いた。汗は雨より温かい。温かさが、彼の指先に戻る。
沖田は、同じ夜、社殿の裏でひとり、刃の重心を確かめていた。
刃を抜き、鞘に戻し、戻し切らずにかすかに止める。止めた瞬間の重みの偏りが、彼の身体の傾きと一致するかどうか。一致しなければ、明日、どの方向へ歩けばよいかが決まらない。
指先の震えは、まだ少し残っていた。残っていることが、彼を笑わせた。笑いは嗜虐ではなく、理の側から出た。
「死にに行くときに震えたことはない」
飄々と言い、刃の背を指で撫でた。
「生きにくくなると、震える」
生きにくさが、祟りに似てくる。祟りは、追うべき影を呼ぶ。影が来る前に、彼は足を決める。足は、山へではない。海へでもない。
「道は、黒いほうに出る」
黒い道。夜の死角が連なってできる、あの細い通路。彼のためにではない。矢野蓮のためでもない。道そのもののために、そこを選ぶ。道は、選ばれなければ死ぬ。死なせないという選択が、自分に似合う夜がある。
港の外れで、山の影と海の影が、互いに気配を確かめ合っていた。
山の者は、滑るように地を移り、足跡を残さない。海の者は、舟板の節に耳を当て、波の数を数え、数の間の沈黙の長さで相手の息を読む。どちらも、名を持たない。名を持たぬ者同士は、互いを見失いやすい。見失いやすさが、唯一の恩寵だ。
沖田は、その恩寵に寄りかからない。寄りかかれば、それはすぐ祟りに変わる。祟りは、返される。返された祟りは、刃の重さを増やす。重くなった刃は、彼の手に合わない。
「近いな」
風に向かって言い、肩の力を抜いた。力を抜くほど、刃はよく働く。働くというのは、切ることではない。切らずに済ませる方向へ、世界の重さをずらすことだ。
矢野は、火の消えたあとの灰を指で崩し、匂いを嗅いだ。
灰は、昨日の木の匂いと、今日の血の匂いを混ぜ、どちらでもない温度を持つ。温度が中途のとき、人は語りやすい。語らせてはならない。語らずに済ませるには、誰かの身体が側に要る。彼は見張りの男の呼吸に耳を寄せ、拍を数えた。拍は、先ほどより少し長い。長い拍は、夜を延ばす。延びた夜が、祟りを薄める。
懐の布が、護符の紙と擦れて、また音を立てた。蜘蛛の巣のような血の痕が、布に残っている。血は、乾くと軽い。軽いものが、彼の胸で重さを持つ。
「名を呼ばれぬ島」
老女の言葉が、骨に帰ってくる。名を呼ばれぬことが、救いになる夜。救いは、恩寵に似ている。似ているものは、いちばん長く効く。
夜更け、鳥居の朱が、わずかに内側から灯るように見えた。
沖田は、その脚に手を当て、木の冷たさで現在を確かめた。確かめることで、過去が薄くなる。薄くなった過去は、祟りになりにくい。
「記すな。けれど、忘れるな」
もう一度だけ言い、彼は鳥居から離れた。離れる前に、白装束の裾を指で裂いた。小さな切れ端が、風に揺れ、どこかへ行った。行き先は、彼が決めるものではない。布は布で、行くべき場所を知っている。
刃を鞘に戻し、戻し切って、彼は歩き出した。歩みは音を持たない。音のない歩みだけが、追手の耳に入らない。入らないものが、彼の恩寵だ。
矢野は、灰が静かに冷えるのを見届けてから、立ち上がった。
背が軋まない。軋まない背は、借りを正しく持っている。借りは、軽く扱えば呪いに変わる。重く持てば、いつか返し方が現れる。
「ここではない」
彼は、鳥居のほうへ視線だけをやり、声にせずに頷いた。頷きは誰にも見えない。見えないまま、礼が通う。礼が通う夜だけが、戦の続きに橋を架ける。
夜の底で、祟りと恩寵は、まるで同じ形をしていた。
どちらも名を持たず、どちらも湿りを好み、どちらも人の骨の内側へ静かに染み入る。違いは、触れたあとに残す重さの配分だけだ。祟りは、刃を重くする。恩寵は、刃を鈍らせる。鈍った刃が、今夜は美しい。
沖田は鈍い刃を携え、矢野は布と紙の擦れる音を胸に、別々の闇へ入っていった。足音は、どちらも、水に向いている。水は、すべてを薄める。薄められたものだけが、朝を越える。
朝は、まだ来ない。
鳥居の朱は、内側の光を隠した。隠しながら、木の肌がわずかに温かくなる。温かくなると、祟りは眠り、恩寵は形を変える。形を変えながら、二人の間の距離は、刃の間合いと同じ正確さで縮み、まだ交わらない。交わらないことが、いまは唯一の礼だ。礼は、長く効く。長く効くものだけが、物語を押しすすめる。
潮は、先ほどよりさらに静かに呼吸している。呼吸の端に、薄い白が浮かんで、すぐに消えた。消えたものだけが、長く残る。布の切れ端は、懐の紙に寄り添い、塩の匂いを伝えた。塩は、血の匂いをやさしくし、やさしさは、刃の理屈を眠らせた。眠りの中で、嗜虐の舌が短く笑い、理の声がうなずいた。
祟りと恩寵は、一本の縄のように撚(よ)り合わさり、ほどけそうでほどけないまま、夜の梁にかかっていた。
その下を、二人は素通りした。素通りすることが、今夜の勝ちだった。
潮は、勝ち負けの言葉をまだ受け入れずにいた。
夜半の濁りはそのままに、波の皮膚だけが薄く張り替えられ、鳥居の脚にまとわりついた泡が、息を吐くたび白から灰へ、灰から透明へと色を変える。砂州はもう姿を消し、そこに残ったのは、足跡とも跡ともいえぬ、崩れかけのへこみばかりだ。雨は細くなったが、風が湿りを運び続け、社殿の檜皮は、濡れた夜をまだ手放さない。勝利は、どこにも置かれないまま、港の外れを漂っていた。
沖田静は、濁った潮を見ていた。
見ているといっても、目で追うのではない。指先で、波の縁の厚みを測る。厚いところでは血の匂いが残り、薄いところでは塩が先に来る。匂いは混ぜるほど純度を失う。純度を失った血は、嗜虐の舌には物足りない。物足りなさが、彼を長く生かしてきた。
「海に流れれば、たちまち薄まる」
飄々とした口調で誰にともなく言い、指先についた赤を水に解いた。解いた水は、小さな魚の鱗ほどにも光らず、ただ波の呼吸に紛れた。
彼の内側には、二つの声があった。
ひとつは、血を求める声だ。独りで歩いているとき、その声はよく笑った。笑う、というのは、刃の角度のことだ。切るべき場所が見えたとき、笑いは自然に出る。血が温かいほど冴え、冷めるほど穏やかになる。温度で制御できる嗜虐ほど、扱いやすいものはない。
もうひとつは、刃の理屈を確かめ続ける声だ。どこから入ってどこへ抜ければ、骨を避けて声だけ奪えるか。どのつぎ目を叩けば、呼吸だけ乱して相手の意志を奪えるか。刃を抜かずに済む手順の数を、雨の日に数え、晴れの日に忘れない。理は冷たく、嗜虐は熱い。二つの温度は、一枚の舌の上で混ざり合わず、並んで立つ。今朝の風は、その並びに小さく触れた。触れられたほうの声が、微かに震えた。
斥候頭が、足音を殺して近づいた。
「静さま」
呼び名は濁り、水の底の石に触れたかすかな音のように擦れた。彼は振り返らず、掌だけを後ろへ差し出した。そこへ薄い金が一枚、落ちる。斥候頭の指は、金を受けるのに慣れていない。躊躇が皮膚に残る。
「次の潮で、本土へ渡っていただけませんか」
沖田は、波と同じ調子で言った。
「ここで息を継いではなりません。潮は今朝、息を短くしました」
斥候頭は、海を見るでもなく頷いた。頷いた拍が早い。早い拍は、恐れの形だ。
「静さまは——」
「私は、よく死ぬ」
笑って言い、彼は金を指で押し戻す代わりに、斥候頭の手の甲を軽く叩いた。叩いた場所の血が、温度を少し上げた。温度が上がると、人は動く。
「いまは、生きる」
付け足しは、誰に向けたものでもない。潮の縁が、その言葉を受け取るふりをして、すぐに薄めた。
金を渡した手が、わずかに震えた。
おかしかった。刃を抜くときに、震えたことはない。刃を鞘に戻すときにも、震えはない。金を渡すとき、震えた。震えの出どころを辿れば、評定の間の湿りを思い出す。名を記すに足らず、いや、記してはならぬ——誰かがそう言った。誰かが、ではない。島が言ったのだ。島の口は、老練な武の口ぶりで、人の骨に言葉を刻むことを知っている。抹消。軽い言葉ほど、重い。
視界の端で、山の匂いと海の匂いが交互に動いた。
山の匂いは、苔の湿りと、松の皮の苦味の混じったもの。海の匂いは、縄の塩と、舟板の古い血の匂い。どちらも、息が浅い。浅い息は、追う者の癖だ。彼はため息を飲み込み、笑って、石の上から立ち上がった。立ち上がる動作が海に記録される前に、足を向ける。向けた足は、濡れた小石を踏み、音を持たない。
「味方は、一番恐ろしい」
自分に言い、雨の名残に肩を貸した。
道の端では、敗残兵の収容が続いていた。
矢野蓮は、泥の上に片膝をつき、濡れた布で若い兵の額を拭いていた。布は灰色で、端に小さな裂け目がある。裂け目から覗く白が、ほんのわずかに塩の匂いを持っていた。
「起きるな。起きると、立ちたくなる」
矢野は、声を低く、短く落とした。
「立ちたくなったら、立つ前に息を吸え。吸うと、やめたくなる」
若い兵は、言うとおりにした。息を吸い、やめた。やめることのほうが、勇気を要する夜がある。夜はもう上がったが、泥はまだ夜を抱いている。
矢野の周りでは、声が増えつつあった。
「敗残者の処分をどうする」「傷病者に口を割らせよ」「砂州で見失った者の名を記せ」「矢野殿の隊は退路を優先したと聞くが」
責め口は、非難というほど硬くはない。硬くない分、長く続く。長く続けば、士気は疲れる。疲れの前に、手を動かす。矢野は、負傷の位置を指で探り、布をあて、骨の段差を避けるように包み直した。包帯は濡れ、冷たい。冷たさに、兵の呼吸が均される。
「俺たちは、まだ息をしている」
矢野は、誰にともなく言った。言葉は自分の肋骨へ落ちた。
そこへ、先日救った敵兵——あの見張りが、担がれて運ばれてきた。
足首の腱は断たれたままで、しかし命は失われていない。呻き声が、雨の名残のように低く続く。矢野は、その声を嫌わなかった。嫌悪は判断を鈍らせる。
「水を」
彼は水袋を受け取り、見張りの口の端に当てた。血の塩がまだ残っている。水は塩を薄め、声の震えを少し柔らげた。
「名は」
問うても、答は要らない。ここは名を呼ばれぬ島だ。名は、後で敵になる。
「喉が動けばそれでいい」
矢野は、布を新しく当て直し、見張りの眼を見た。眼は彼を見ない。見ないというのは、信頼の一種だ。敵同士だからこそ、見ないまま礼が通う。
「矢野殿」
背後から、年嵩の者の声が落ちた。
「おぬしは、臆したのではないか」
言葉は湿っていた。湿っている言葉は、火には燃えづらいが、人の耳に粘りつく。矢野は立ち上がって、声の主の方へ半歩だけ向き直った。
「臆した。だから、生き残った。だから、彼らも」
短い返答に、場がわずかに揺れた。揺れはすぐに収まる。収まったあと、残るのは手の動作だけだ。彼は再び膝をつき、布を押さえ、傷口の縁を指で平らにした。
「責は、あとで受ける」
それでいい、と彼は思った。責は乾いてから受けねば、重さの分配が歪む。
午後、雲が裂け、濁りの上に斜めの光が落ちた。
光は何も温めない。温めない光は、標になる。矢野は、部下に短く指示して、敗残の者たちを光のないほうへ寄せた。名簿の木札には、まだ空白が多い。空白は祟りではない。恩寵とも違う。空白のまま残しておくことは、時に祈りに似る。
見張りの男が、浅く目を開け、唇が微かに動いた。
「お前は、ここで死なせない」
矢野は、自分に向けて言った言葉を、男へ貸した。貸した言葉の利息は、のちに自分が払うのだろう。借りは、借りへの返答でもある。
夕刻、風がひとつ向きを変え、港の外れの水面がわずかに撫でられた。
沖田は、鳥居の片足の影へ身を寄せ、濡れた縄を指で弾いた。弾いた縄は鳴らず、鳴らない音が、耳の奥に薄く響く。
「記すな。けれど、忘れるな」
評定の場で落ちた言葉が、縄の繊維に残っている。残っているものは、祓いの対象になる。祓いが山から降りれば、海もまた応じる。応じるというのは、追手が現れるという意味だ。
山の影は、地面に馴染む。海の影は、目に馴染まない。二つの影が交互に出入りし、彼の周囲の湿りが薄くなったり濃くなったりする。薄いときは嗜虐が笑い、濃いときは理が笑う。二人の笑いは交わらない。交わらないまま、彼を立たせる。
斥候の少年が、控えめに近づいた。
「静さま、船が——」
言いかけて、少年は口を噤んだ。沖田の手が、わずかに震えたのを見たからだ。
「お行きなさい」
沖田は、その震えを自分で認めるように、わずかに頷いた。
「今夜は、船でなく、足で渡ります」
少年は意味を取れず、しかし頷いた。頷きだけが伝わればよい。言葉は、多いときほど失敗する。彼は少年の肩を軽く押し、背を向けた。押す手が、埋葬の手に似ていた。
山の影が完全に夜へ溶け、海の影が港の端でほどけ、鳥居の朱が内側の光を取り戻すころ、矢野はひとり、鳥居の下に立った。
雨は止んだが、縄はまだ湿っている。風が、塩の匂いを戻す。
足下で、小さな白が揺れた。
布の切れ端。白装束の裾のようでいて、波に揉まれ、海塩が沁み込み、血の痕が蜘蛛の巣のように広がっている。
彼はしゃがみ、指先でそれを摘み上げた。布は重くない。重くないものほど、記憶に残る。布の端には、糸が一本、長く出ている。糸を引けば、夜がほつれる気がした。引かない。引かず、掌に置く。置いた掌に、塩の冷たさが移る。
「ここで死ぬな」
彼は小さく言い、布を懐へしまった。しまう場所は、護符の隣だ。紙と布が触れ合い、ざらり、と音を立てた気がした。
その夜、矢野は火のそばに座らず、誰とも酒を交わさず、ただ、見張りの男の側にいた。男は眠りと醒めの境を漂い、呻きはもう声の形を取らない。呼吸の数だけ、夜が長くなる。長くなった夜は、彼の骨の書付を読み返させる。
——ここで死ぬな。
——ここではない。
——借りは返す。
言葉は、骨に書かれるとき、形を変える。命令ではなく、姿勢になる。姿勢は、誰にも見えない。見えないのに、周りを整える。整った場は、追及の声を柔らげる。
「矢野殿」
昼の声の主が、夜になって来た。
「先ほどは……悪く言った」
矢野は首を振った。謝罪は水に似て、火を消すが、泥は洗わない。
「人は、生かされると屈辱を覚える。屈辱は、朝には消える」
彼は、布を少しきつく巻き直し、見張りの額の汗を拭いた。汗は雨より温かい。温かさが、彼の指先に戻る。
沖田は、同じ夜、社殿の裏でひとり、刃の重心を確かめていた。
刃を抜き、鞘に戻し、戻し切らずにかすかに止める。止めた瞬間の重みの偏りが、彼の身体の傾きと一致するかどうか。一致しなければ、明日、どの方向へ歩けばよいかが決まらない。
指先の震えは、まだ少し残っていた。残っていることが、彼を笑わせた。笑いは嗜虐ではなく、理の側から出た。
「死にに行くときに震えたことはない」
飄々と言い、刃の背を指で撫でた。
「生きにくくなると、震える」
生きにくさが、祟りに似てくる。祟りは、追うべき影を呼ぶ。影が来る前に、彼は足を決める。足は、山へではない。海へでもない。
「道は、黒いほうに出る」
黒い道。夜の死角が連なってできる、あの細い通路。彼のためにではない。矢野蓮のためでもない。道そのもののために、そこを選ぶ。道は、選ばれなければ死ぬ。死なせないという選択が、自分に似合う夜がある。
港の外れで、山の影と海の影が、互いに気配を確かめ合っていた。
山の者は、滑るように地を移り、足跡を残さない。海の者は、舟板の節に耳を当て、波の数を数え、数の間の沈黙の長さで相手の息を読む。どちらも、名を持たない。名を持たぬ者同士は、互いを見失いやすい。見失いやすさが、唯一の恩寵だ。
沖田は、その恩寵に寄りかからない。寄りかかれば、それはすぐ祟りに変わる。祟りは、返される。返された祟りは、刃の重さを増やす。重くなった刃は、彼の手に合わない。
「近いな」
風に向かって言い、肩の力を抜いた。力を抜くほど、刃はよく働く。働くというのは、切ることではない。切らずに済ませる方向へ、世界の重さをずらすことだ。
矢野は、火の消えたあとの灰を指で崩し、匂いを嗅いだ。
灰は、昨日の木の匂いと、今日の血の匂いを混ぜ、どちらでもない温度を持つ。温度が中途のとき、人は語りやすい。語らせてはならない。語らずに済ませるには、誰かの身体が側に要る。彼は見張りの男の呼吸に耳を寄せ、拍を数えた。拍は、先ほどより少し長い。長い拍は、夜を延ばす。延びた夜が、祟りを薄める。
懐の布が、護符の紙と擦れて、また音を立てた。蜘蛛の巣のような血の痕が、布に残っている。血は、乾くと軽い。軽いものが、彼の胸で重さを持つ。
「名を呼ばれぬ島」
老女の言葉が、骨に帰ってくる。名を呼ばれぬことが、救いになる夜。救いは、恩寵に似ている。似ているものは、いちばん長く効く。
夜更け、鳥居の朱が、わずかに内側から灯るように見えた。
沖田は、その脚に手を当て、木の冷たさで現在を確かめた。確かめることで、過去が薄くなる。薄くなった過去は、祟りになりにくい。
「記すな。けれど、忘れるな」
もう一度だけ言い、彼は鳥居から離れた。離れる前に、白装束の裾を指で裂いた。小さな切れ端が、風に揺れ、どこかへ行った。行き先は、彼が決めるものではない。布は布で、行くべき場所を知っている。
刃を鞘に戻し、戻し切って、彼は歩き出した。歩みは音を持たない。音のない歩みだけが、追手の耳に入らない。入らないものが、彼の恩寵だ。
矢野は、灰が静かに冷えるのを見届けてから、立ち上がった。
背が軋まない。軋まない背は、借りを正しく持っている。借りは、軽く扱えば呪いに変わる。重く持てば、いつか返し方が現れる。
「ここではない」
彼は、鳥居のほうへ視線だけをやり、声にせずに頷いた。頷きは誰にも見えない。見えないまま、礼が通う。礼が通う夜だけが、戦の続きに橋を架ける。
夜の底で、祟りと恩寵は、まるで同じ形をしていた。
どちらも名を持たず、どちらも湿りを好み、どちらも人の骨の内側へ静かに染み入る。違いは、触れたあとに残す重さの配分だけだ。祟りは、刃を重くする。恩寵は、刃を鈍らせる。鈍った刃が、今夜は美しい。
沖田は鈍い刃を携え、矢野は布と紙の擦れる音を胸に、別々の闇へ入っていった。足音は、どちらも、水に向いている。水は、すべてを薄める。薄められたものだけが、朝を越える。
朝は、まだ来ない。
鳥居の朱は、内側の光を隠した。隠しながら、木の肌がわずかに温かくなる。温かくなると、祟りは眠り、恩寵は形を変える。形を変えながら、二人の間の距離は、刃の間合いと同じ正確さで縮み、まだ交わらない。交わらないことが、いまは唯一の礼だ。礼は、長く効く。長く効くものだけが、物語を押しすすめる。
潮は、先ほどよりさらに静かに呼吸している。呼吸の端に、薄い白が浮かんで、すぐに消えた。消えたものだけが、長く残る。布の切れ端は、懐の紙に寄り添い、塩の匂いを伝えた。塩は、血の匂いをやさしくし、やさしさは、刃の理屈を眠らせた。眠りの中で、嗜虐の舌が短く笑い、理の声がうなずいた。
祟りと恩寵は、一本の縄のように撚(よ)り合わさり、ほどけそうでほどけないまま、夜の梁にかかっていた。
その下を、二人は素通りした。素通りすることが、今夜の勝ちだった。



