第九話 勝利の影、存在しなかった者」
評定の間は、雨の音を借りて沈黙を保っていた。
濡れた畳はわずかに膨らみ、障子紙は水気を吸って重く垂れ、柱の木目には塩の白が薄く浮いている。鳥居の朱はここから見えない。けれど、海がどの拍で吸い、どの拍で吐いているかは、この場にいる誰の骨にも伝わっていた。勝った、という言葉はまだどこにも置かれていない。置かれぬうちは、勝利は誰のものでもなく、ただ湿りとして場に漂う。
報告は簡潔で、数字は少なかった。
「……砂州の陥没により、敵は多く溺死。残敵は山の端へ散り、追撃は――」
そこまでで、使番の声は一度切れた。切れた声を、別の声が拾う。
「追えば潮に足を取られ、夜明けを越す。ここで追うのは悪手」
木札に筆を走らせていた小者が、墨の重さを和らげるように、筆先で紙の端を掬い直した。掬い直すたび、数字は雨の中で輪郭を失い、意味だけが畳の上に残った。
毛利元就は、端座していた。
顔に疲れがないのではない。疲れを置く場所を知っている顔だった。そこに集まる目配せの総体を、彼は直接は見ず、柱の節の位置を数えているかのように、視線をわずかに移した。節の数が整えば、言葉が降りる。
「功は、祀るべきか。祟りは、祓うべきか」
問いは、ひとつずつ置かれた。置いた途端、部屋の湿りが少しだけ動いた。動いた湿りに、年長の家臣が咳をひとつ落とし、若い者は膝の重心をわずかに変えた。
「白装束のこと、にござりまする」
口火を切ったのは、吉川元春の側に控える者だった。太めの声は雨に向いている。
「白の者、夜のうちに敵の首級を重ね、伝令線を寸断、わが側の暴挙をも刃で抑え、火の橋を壊して雨の梯子をかけ、ここへ導いた功」
言葉の途中で、紙の上の墨が少し滲んだ。滲んだ分だけ、声に重さが足された。
「されど、同時に、兵に恐れを走らせ、神域を穢したと囁かれ、味方に刃を向けたと触れ回られてもおります。功と祟り、背中合わせ。秤にかけるとすれば――」
「秤にかけるほどのものか」
小早川隆景が、柔らかな声で遮った。柔らかさは、刃を鈍らせるためのものだ。
「秤は二つまで。三つ目が載れば、器が割れる。功も、祟りも、そして風聞も、三ついっぺんには量れませぬ」
彼は筆を持たぬ手で畳の目を撫で、目の一筋が逆立っているところを押さえた。押さえるだけで、空気が整う。整った空気には、言葉がよく沈む。
「風聞をどう扱う」
元就の声は低い。低いが、湿りに負けない。
「『白き影』、『夜の祟り』。そう呼んだ者は、生きておるか」
「生きておりまする。人は恐ろしいものほど長く語ろうとしまするゆえ」
即答したのは、評定の場に珍しく呼ばれた記録方の若い侍だった。彼の前には濡れた木札が並び、そこに、今日の責が、やがての功が、薄い墨で書かれてゆく。
「ならばいよいよ、功は祟りの器に入れて祀ってはならぬ」
隆景が言葉を継ぎ、元春は眉をわずかに動かした。
「祟りは祓うべき、と」
「祓ってもよい。だが、祓いかたが肝要」
元就が、初めて目を上げた。
「この者は名を記すに足らず――否、記してはならぬ」
静かな声は、墨より黒く、雨より長く場に残った。
「存在の抹消。恩賞は、それで足りる」
たったそれだけで、木札の一本が、きしりと音を立てたかに見えた。音は出ていない。出ていないのに、誰もが聞いた。
恩賞。
それを与えるときに、金と米と地と名とを用いるのが常だ。名を与えぬことを恩賞と呼ぶ、その逆転は、この場にいた誰にとっても初めてだった。初めての言葉は、畳を通じて骨へ降り、骨は、判断のかわりに沈黙を選ぶ。沈黙は、命令に向く。
「記録方」
元就が筆の音を呼ぶ。
「白装束の者について、記すこと一切、無し。先の働きも、今の所在も、以後の出入りも、無いと記せ」
若い侍は、筆を紙から離した。離してなお、手に墨の重さが残る。
「は……」
返事の末に、彼は紙の端を折り込み、書かれたばかりの数行を、革の小刀で薄く削いだ。削がれた墨は、雨に似た匂いを立て、畳の目に入ってゆく。入ってゆくたび、文字は砂のように輪郭を失った。
「無いものとして残る」
小声で、彼は自分に言った。それは記録の術における最も難しい配剤だ。無いことを記す。記してはならぬものを、記さぬように記す。紙の上では、存在しなかった者が最も確かに残る。
元春が、膝を寄せ、低く言った。
「父上。祓い切れぬものも、世にはござる。刃を手放せぬ者を野に放てば、いずれ祟り返す。遠からず首を取られる、という声も、すでに……」
彼が言葉を続ける前に、隆景がひとつ瞬きをした。兄弟の間で、瞬きは合図だ。
「声の主は?」
「吉川の中にも、小早川の中にも。口伝は速い」
「口伝は波だ。波は、風が鎮める」
隆景は、そこで初めて元就を見る。
「風を、どちらから当てまする」
元就はすぐには答えなかった。答えの代わりに、雨の音の種類をひとつ数え、障子の向こうの暗さの濃さをひとつ測り、畳の冷たさを膝で確かめた。確かめたあとで、彼は言った。
「吉川に三、隆景に二。影を放て」
「影、にございますか」
「名を持たぬ者には、名を持たぬ追手が似合う。祓いの仕方は、祀りと同じく、見えぬほど良い」
その場に、わずかな呼気が走った。吉川の側の者が深く頭を垂れ、小早川の側の者が目を伏せる。影――それは吉川元春配下の山の衆、小早川隆景の海の衆、それぞれが抱える隠密の呼び名だった。山は足を忍ばせ、海は息を殺す。いずれも、記録に残らぬための術を持つ。記録に残らぬものを追うには、記録に残らぬ手が要る。
「白装束の者が、もし、こちらへ刃を返すなら」
元春が言い、元就は頷いた。
「その刻には、『祟り返し』と名をつけよ。名をつけた祟りは祓いやすい」
言葉は、どこか祈りに似ていた。祈りと命令のあいだには、細い橋がかかっている。橋を渡るのは言葉ではなく、重さの差配だ。元就が差配を決めた瞬間、場の湿りは別の場所へ移動した。移った湿りの跡に、乾いた空気が残る。乾いた空気は、命令の居場所だ。
「――では、恩賞の件」
ひとりの家臣が恐る恐る切り出した。
「兵の士気に関わり申す。白の者については抹消として、他の働きへの褒賞を早々に」
元就は、わずかに笑った。笑いというより、唇の端が短く動いただけだった。
「恩賞は速く、記録は遅く。速いものは群れに効き、遅いものは歴に効く。両方を使え」
言葉が落ちたのち、場は一度だけ軽くなり、すぐに元の湿りへ戻った。戻った湿りは、先ほどよりも均されていた。均されるほど、勝利は個人の手から離れ、島のものになる。島のものとなった勝利は、人の名を嫌う。
評定が解かれ、襖が開くと、外の湿りが一挙に流れ込んだ。
記録方の若い侍は木札を重ね直し、ひとつを懐に、ひとつを袖に、ひとつを帯に挟んだ。白装束の者に関する札は、どこにも挟まれない。挟まれない札は、畳の下に入れられた。畳の下は、湿りが長く残る。残る湿りが、墨の残り香をやがて土へ還す。土に還った記録は、記録でなくなる。記録でないものを、彼は確かに書いた。
外では、兵たちが火を囲んでいた。
火は燃えない。燃えるふりをして、湿りをほんの少し和らげるだけだ。和らいだ分だけ、笑いがいくつか生まれ、すぐに消えた。消えた笑いの間に、噂がすべり込む。
「白は、神の使いだと、社家が言った」
「いや、祟りだ。あれを見た者は、夜に名を呼ばれなくなる」
「味方の手も斬ったとか」
「斬った手が、今もぴくぴく動いていると」
誰も、真実を問わない。真実は夜に向かない。向かないものは、湿りの中で重く沈み、翌朝には別の形で浮かび上がる。
沖田静は、その重さの底にいた。
評定の間を離れたあと、彼はどこへも入らなかった。入らない代わりに、海の端の濡れた石に腰をかけ、指先で鳥居の根の水を撫でた。撫でるたび、指の血が薄くなる。薄くなった血は、潮の味を少しだけ思い出させる。思い出すことは、彼にとって恩賞ではない。刃の腹を雨に当て、鞘に戻し、戻し切らずにまた出し、そんな無駄を二度ほど繰り返した。無駄は、夜のあとでしかできない贅沢だ。
兵がひとり、彼の近くを通りかけて、足を止めた。
止めた足は、戻る。戻りかけて、別の手に袖を引かれて、また進む。彼のすぐそばを、視線だけが避ける。避けられた視線の端に、笑いがあるわけではない。恐怖でもない。名を呼ばれぬ何かが、そこへ薄く垂れている。
「……白殿」
勇気を搾って呼ばれたその呼称が、雨に砕けた。彼は振り向かず、海を見た。海は、彼を見ない。見ないもののほうが、彼をよく知っている。
飄々と、彼は笑った。
「名は、よく変わる」
雨に向かって言い、立ち上がった。立ち上がった動作が、水に記憶され、波の端で溶けた。
彼の居場所は、味方にさえ消えつつあった。
寝藁は、別の者のもとへ運ばれ、囲炉裏の端の空きは、背の骨の曲がった古参に与えられた。膳は、数が合わぬまま配られ、箸が一本、誰の手にも渡らないで火に落ちた。粗末な小屋の梁に吊るされた灯りは、彼が通るときだけ、風に揺れるでもないのに、わずかに陰りを増した。陰りの中で、彼は軽く肩をすくめた。肩をすくめると、「存在しなかった者」の衣に、体がさらに馴染んだ。
その夜、畳の下の記録がひとつ、風でめくれた。
めくれたというのは譬えで、実際には誰かの指が畳の目に差し入れられ、紙の角に触れ、確かめたのだ。指の主は、吉川元春配下の影の者。山の匂いがする。苔と土と湿った松の皮の匂い。肩の線が斜めに落ち、足の運びが柔らかい。記録が無いことを確認し、彼は畳を元に戻した。戻したときの指の温度は、雨より冷たい。
同じ頃、海の端では、小早川隆景配下の影の者が、濡れた舟板に耳を当てていた。耳は波の数を数え、波のない時間の長さを測る。測った値は、「いない」を示した。「いない」ことを確かめに来る者ほど、よく嗅ぐ。水の下の、薄い鉄の匂い。舟板の節に残る古い血の塩。耳を板から離し、彼は舟縁に指を置いた。指の跡が残らぬように、爪の角で。影は、痕跡を持たない。
評定の翌朝、元春は各所へ手を回した。
「祓いの名手、呼べ」
口にしたのは祓いであって、祀りではない。呼ばれたのは、山伏と僧と社家の端くれ、それに、紙と墨を持った書役だ。彼らは火を焚かず、塩を撒かず、鈴を鳴らさず、ただ、紙に「無し」と書いた。書かれた「無し」は、やがて水に浸され、紙は解かれ、解かれた繊維は、畳の下へ戻された。儀式は、見えないところで済まされた。済まされた分だけ、兵の噂は鎮まった。鎮まるというより、別の形になった。
「白は、どこにもいなかった」
その言い方のほうが、恐ろしくなかった。
隆景は、子細を語らなかった。語らない代わりに、海の地図を前に置き、潮の癖の書き付けを端から焼いてゆく。焼く火は小さく、煙は出ない。煙を出さずに燃やす術を知っている男の動作は、いつ見ても美しかった。美しさは、戦に向かない。向かないものを、彼は好んだ。
「影には、顔を見せるな」
念のために、ひとことだけ付け足す。
「顔を奪う者に、顔を覚えられるな」
沖田は、その間に、海辺で小さな支度をした。
合羽の裾を短く裂き、白装束の帯の一端を結び直し、刀の柄巻のほつれを歯で押さえて、雨で締めた。小さな金を一枚、斥候頭に渡し、「次の潮で本土へ渡ってもらえますか」と言う。斥候頭は頷く。頷き方が、昨日より重い。重くなった頷きは、別れの印に似る。似るだけが、今はよい。
背で、誰かの視線が一瞬だけ止まるのを感じた。振り向かない。振り向くという行為は、刃に直結する。刃は、いま鞘にいるべきだ。鞘の中の刃は、飽きている。飽きは、嗜虐の舌にとって、もっとも退屈な味だ。退屈は、彼を長く生かす。
昼過ぎ、雲がわずかに薄くなり、鳥居の朱が遠目にも濃く見えた頃、元就はひとりで社殿の裏へ回った。
「記すな。けれど、忘れるな」
小さく呟いた言葉は、彼自身の骨をも通過し、鳥居の脚へ吸われていった。老いてなお、彼は風の使い方を知っている。風は、人の噂よりも忠実で、雨よりも遅延が少ない。風に預けた言葉は、必ずどこかへ届く。届いた先で、誰かがそれを拾う。拾う者が誰かを、彼は選ばない。選ばぬことが、統べるということの中に含まれている。
夕刻、影の者たちが、それぞれ別の方角から戻り、何も告げず、何も受け取らずに散った。
散るのが、報せだ。
「いない」
その二文字が、場の湿りの上に、目に見えぬ印を付けた。印は、沖田の肩にも、隆景の指にも、元春の眉にも、元就の言にさえ、薄く宿った。宿るほど、現実は「無し」に寄る。寄った現実に、やがて祟りが戻る。戻る前に、祓いを終えよ。そういう時間の使い方を、彼らはよく知っている。
夜。
沖田は、小さな社の軒先に立った。雨は細くなり、代わりに風が湿りの向きを変えた。社の扉は閉ざされ、鈴は古く、縄は硬い。祈る意図はない。ないのに、扉の前に立つと、言葉がひとつ口の中に生まれる。
「お前の死は、ここじゃ似合わない」
自分に言ったときには、もう、その言葉は別の誰かの骨に属していた。矢野蓮。名は呼ばない。呼ばなければ、返すべき借りの形だけが残る。借りの形は、刃の向きをわずかに変え、人の歩幅を半刻だけ遅らせ、雨の梯子の段をひとつ増やす。増えた段のぶん、人は生きる。
彼は笑い、笑いの端を、雨に差し出した。差し出した笑いは、海へ流れ、薄まり、魚の鱗のきらめきのようなものになって消えた。
同じ夜、吉川の陣屋では、小さな灯の下で、元春が短い文を三通書いた。
「山の衆へ。『名無(ななし)』一人、祓い候。潮の癖、尾根の雨、鳥居の朱、いずれにも近づくな。近づけば、祟らる」
文は命令ではない。戒めだ。戒めを置くことで、命令の速度を上げる。
小早川の陣では、隆景が舟板の節に墨で点を打ち、その数を奇数にした。奇数は、海を渡るときの守りであり、また、見えない目印でもある。
「海の衆へ。『名無』を見たら、見ないふりをせよ。見ないことが、最も速い追跡である」
追跡という語の奇妙な逆説が、墨の中で光った。
評定の結果は、翌日には全体の動きになって現れた。
白装束の噂は、薄くなった。薄くなったが、消えない。消えぬまま、別の名を付けられた。「誰も見なかった者」。誰も見なかった者が、夜の端を歩く。歩くたびに、兵は背の汗を薄く感じ、火は燃えずに暖かく、鈴は鳴らずに祓われた。
抹消、という恩賞は、沖田の肩に静かに掛けられた。外からは見えない。見えぬ恩賞は、いちばん重い。重さは、彼を沈めるのではなく、浮かせる。浮いた者は、影の手に掴まれやすい。掴むための指は、すでに用意されていた。
その指が、初めて彼に触れたのは、夜半を少し過ぎた頃だった。
触れたといっても、布の端が風に揺れ、彼の袖にそっと当たっただけだ。触れた布は、すぐに離れ、離れたあとに、湿りの向きがわずかに変わった。山の匂いと海の匂いが、順に来る。彼は目を閉じ、一拍のあいだに嗜虐の舌を折りたたみ、理性の刃を起こした。
「味方は、一番恐ろしい」
飄々と、呟く。
その言葉は、明日以降、別の場で別の形を取る。今夜は、ただ、存在しなかった者の肩に置かれて、雨に薄められた。
元就は、その頃、ひとりで文机に向かい、薄い紙に短い一行を書いていた。
「白を記さず。白を忘れず」
筆は乾かぬうちに火へくべられ、紙は煙にもならず、灰にもならないまま消えた。消えたものは、記録ではない。記録でないものほど、長く残る。
彼は目を閉じた。
勝者なき勝利。
この形を、島は選んだ。選ばれた者たちは、名を呼ばれない。名を呼ばれない者たちが、このあとに続く追跡と共闘の物語の上で、互いの骨にだけ言葉を刻む。刻まれた言葉は、祟りにも恩寵にも、どちらにも似ている。似ているからこそ、秤は割れずに済む。
夜明け前、雨はようやく上がった。
鳥居の朱は、すこしだけ濃くなったように見え、社殿の檜皮は水を手放し、入江は浅く息を吐いた。砂州の上の足跡は、半分だけ残り、半分は海へ去った。去った半分の上に、誰かの名があったのかどうか、もう分からない。分からないまま、島は静かになった。
その静けさの底で、「存在しなかった者」という新しい影が、最初の一歩を踏み出した。踏み出す音は、どこにも書かれない。書かれない音だけが、これからを動かす。
功と祟りの秤は、いま、空のまま、評定の間の隅に置かれている。誰も触れない。触れないものほど、長く効く。長く効くものだけが、物語を次へ連れてゆく。
評定の間は、雨の音を借りて沈黙を保っていた。
濡れた畳はわずかに膨らみ、障子紙は水気を吸って重く垂れ、柱の木目には塩の白が薄く浮いている。鳥居の朱はここから見えない。けれど、海がどの拍で吸い、どの拍で吐いているかは、この場にいる誰の骨にも伝わっていた。勝った、という言葉はまだどこにも置かれていない。置かれぬうちは、勝利は誰のものでもなく、ただ湿りとして場に漂う。
報告は簡潔で、数字は少なかった。
「……砂州の陥没により、敵は多く溺死。残敵は山の端へ散り、追撃は――」
そこまでで、使番の声は一度切れた。切れた声を、別の声が拾う。
「追えば潮に足を取られ、夜明けを越す。ここで追うのは悪手」
木札に筆を走らせていた小者が、墨の重さを和らげるように、筆先で紙の端を掬い直した。掬い直すたび、数字は雨の中で輪郭を失い、意味だけが畳の上に残った。
毛利元就は、端座していた。
顔に疲れがないのではない。疲れを置く場所を知っている顔だった。そこに集まる目配せの総体を、彼は直接は見ず、柱の節の位置を数えているかのように、視線をわずかに移した。節の数が整えば、言葉が降りる。
「功は、祀るべきか。祟りは、祓うべきか」
問いは、ひとつずつ置かれた。置いた途端、部屋の湿りが少しだけ動いた。動いた湿りに、年長の家臣が咳をひとつ落とし、若い者は膝の重心をわずかに変えた。
「白装束のこと、にござりまする」
口火を切ったのは、吉川元春の側に控える者だった。太めの声は雨に向いている。
「白の者、夜のうちに敵の首級を重ね、伝令線を寸断、わが側の暴挙をも刃で抑え、火の橋を壊して雨の梯子をかけ、ここへ導いた功」
言葉の途中で、紙の上の墨が少し滲んだ。滲んだ分だけ、声に重さが足された。
「されど、同時に、兵に恐れを走らせ、神域を穢したと囁かれ、味方に刃を向けたと触れ回られてもおります。功と祟り、背中合わせ。秤にかけるとすれば――」
「秤にかけるほどのものか」
小早川隆景が、柔らかな声で遮った。柔らかさは、刃を鈍らせるためのものだ。
「秤は二つまで。三つ目が載れば、器が割れる。功も、祟りも、そして風聞も、三ついっぺんには量れませぬ」
彼は筆を持たぬ手で畳の目を撫で、目の一筋が逆立っているところを押さえた。押さえるだけで、空気が整う。整った空気には、言葉がよく沈む。
「風聞をどう扱う」
元就の声は低い。低いが、湿りに負けない。
「『白き影』、『夜の祟り』。そう呼んだ者は、生きておるか」
「生きておりまする。人は恐ろしいものほど長く語ろうとしまするゆえ」
即答したのは、評定の場に珍しく呼ばれた記録方の若い侍だった。彼の前には濡れた木札が並び、そこに、今日の責が、やがての功が、薄い墨で書かれてゆく。
「ならばいよいよ、功は祟りの器に入れて祀ってはならぬ」
隆景が言葉を継ぎ、元春は眉をわずかに動かした。
「祟りは祓うべき、と」
「祓ってもよい。だが、祓いかたが肝要」
元就が、初めて目を上げた。
「この者は名を記すに足らず――否、記してはならぬ」
静かな声は、墨より黒く、雨より長く場に残った。
「存在の抹消。恩賞は、それで足りる」
たったそれだけで、木札の一本が、きしりと音を立てたかに見えた。音は出ていない。出ていないのに、誰もが聞いた。
恩賞。
それを与えるときに、金と米と地と名とを用いるのが常だ。名を与えぬことを恩賞と呼ぶ、その逆転は、この場にいた誰にとっても初めてだった。初めての言葉は、畳を通じて骨へ降り、骨は、判断のかわりに沈黙を選ぶ。沈黙は、命令に向く。
「記録方」
元就が筆の音を呼ぶ。
「白装束の者について、記すこと一切、無し。先の働きも、今の所在も、以後の出入りも、無いと記せ」
若い侍は、筆を紙から離した。離してなお、手に墨の重さが残る。
「は……」
返事の末に、彼は紙の端を折り込み、書かれたばかりの数行を、革の小刀で薄く削いだ。削がれた墨は、雨に似た匂いを立て、畳の目に入ってゆく。入ってゆくたび、文字は砂のように輪郭を失った。
「無いものとして残る」
小声で、彼は自分に言った。それは記録の術における最も難しい配剤だ。無いことを記す。記してはならぬものを、記さぬように記す。紙の上では、存在しなかった者が最も確かに残る。
元春が、膝を寄せ、低く言った。
「父上。祓い切れぬものも、世にはござる。刃を手放せぬ者を野に放てば、いずれ祟り返す。遠からず首を取られる、という声も、すでに……」
彼が言葉を続ける前に、隆景がひとつ瞬きをした。兄弟の間で、瞬きは合図だ。
「声の主は?」
「吉川の中にも、小早川の中にも。口伝は速い」
「口伝は波だ。波は、風が鎮める」
隆景は、そこで初めて元就を見る。
「風を、どちらから当てまする」
元就はすぐには答えなかった。答えの代わりに、雨の音の種類をひとつ数え、障子の向こうの暗さの濃さをひとつ測り、畳の冷たさを膝で確かめた。確かめたあとで、彼は言った。
「吉川に三、隆景に二。影を放て」
「影、にございますか」
「名を持たぬ者には、名を持たぬ追手が似合う。祓いの仕方は、祀りと同じく、見えぬほど良い」
その場に、わずかな呼気が走った。吉川の側の者が深く頭を垂れ、小早川の側の者が目を伏せる。影――それは吉川元春配下の山の衆、小早川隆景の海の衆、それぞれが抱える隠密の呼び名だった。山は足を忍ばせ、海は息を殺す。いずれも、記録に残らぬための術を持つ。記録に残らぬものを追うには、記録に残らぬ手が要る。
「白装束の者が、もし、こちらへ刃を返すなら」
元春が言い、元就は頷いた。
「その刻には、『祟り返し』と名をつけよ。名をつけた祟りは祓いやすい」
言葉は、どこか祈りに似ていた。祈りと命令のあいだには、細い橋がかかっている。橋を渡るのは言葉ではなく、重さの差配だ。元就が差配を決めた瞬間、場の湿りは別の場所へ移動した。移った湿りの跡に、乾いた空気が残る。乾いた空気は、命令の居場所だ。
「――では、恩賞の件」
ひとりの家臣が恐る恐る切り出した。
「兵の士気に関わり申す。白の者については抹消として、他の働きへの褒賞を早々に」
元就は、わずかに笑った。笑いというより、唇の端が短く動いただけだった。
「恩賞は速く、記録は遅く。速いものは群れに効き、遅いものは歴に効く。両方を使え」
言葉が落ちたのち、場は一度だけ軽くなり、すぐに元の湿りへ戻った。戻った湿りは、先ほどよりも均されていた。均されるほど、勝利は個人の手から離れ、島のものになる。島のものとなった勝利は、人の名を嫌う。
評定が解かれ、襖が開くと、外の湿りが一挙に流れ込んだ。
記録方の若い侍は木札を重ね直し、ひとつを懐に、ひとつを袖に、ひとつを帯に挟んだ。白装束の者に関する札は、どこにも挟まれない。挟まれない札は、畳の下に入れられた。畳の下は、湿りが長く残る。残る湿りが、墨の残り香をやがて土へ還す。土に還った記録は、記録でなくなる。記録でないものを、彼は確かに書いた。
外では、兵たちが火を囲んでいた。
火は燃えない。燃えるふりをして、湿りをほんの少し和らげるだけだ。和らいだ分だけ、笑いがいくつか生まれ、すぐに消えた。消えた笑いの間に、噂がすべり込む。
「白は、神の使いだと、社家が言った」
「いや、祟りだ。あれを見た者は、夜に名を呼ばれなくなる」
「味方の手も斬ったとか」
「斬った手が、今もぴくぴく動いていると」
誰も、真実を問わない。真実は夜に向かない。向かないものは、湿りの中で重く沈み、翌朝には別の形で浮かび上がる。
沖田静は、その重さの底にいた。
評定の間を離れたあと、彼はどこへも入らなかった。入らない代わりに、海の端の濡れた石に腰をかけ、指先で鳥居の根の水を撫でた。撫でるたび、指の血が薄くなる。薄くなった血は、潮の味を少しだけ思い出させる。思い出すことは、彼にとって恩賞ではない。刃の腹を雨に当て、鞘に戻し、戻し切らずにまた出し、そんな無駄を二度ほど繰り返した。無駄は、夜のあとでしかできない贅沢だ。
兵がひとり、彼の近くを通りかけて、足を止めた。
止めた足は、戻る。戻りかけて、別の手に袖を引かれて、また進む。彼のすぐそばを、視線だけが避ける。避けられた視線の端に、笑いがあるわけではない。恐怖でもない。名を呼ばれぬ何かが、そこへ薄く垂れている。
「……白殿」
勇気を搾って呼ばれたその呼称が、雨に砕けた。彼は振り向かず、海を見た。海は、彼を見ない。見ないもののほうが、彼をよく知っている。
飄々と、彼は笑った。
「名は、よく変わる」
雨に向かって言い、立ち上がった。立ち上がった動作が、水に記憶され、波の端で溶けた。
彼の居場所は、味方にさえ消えつつあった。
寝藁は、別の者のもとへ運ばれ、囲炉裏の端の空きは、背の骨の曲がった古参に与えられた。膳は、数が合わぬまま配られ、箸が一本、誰の手にも渡らないで火に落ちた。粗末な小屋の梁に吊るされた灯りは、彼が通るときだけ、風に揺れるでもないのに、わずかに陰りを増した。陰りの中で、彼は軽く肩をすくめた。肩をすくめると、「存在しなかった者」の衣に、体がさらに馴染んだ。
その夜、畳の下の記録がひとつ、風でめくれた。
めくれたというのは譬えで、実際には誰かの指が畳の目に差し入れられ、紙の角に触れ、確かめたのだ。指の主は、吉川元春配下の影の者。山の匂いがする。苔と土と湿った松の皮の匂い。肩の線が斜めに落ち、足の運びが柔らかい。記録が無いことを確認し、彼は畳を元に戻した。戻したときの指の温度は、雨より冷たい。
同じ頃、海の端では、小早川隆景配下の影の者が、濡れた舟板に耳を当てていた。耳は波の数を数え、波のない時間の長さを測る。測った値は、「いない」を示した。「いない」ことを確かめに来る者ほど、よく嗅ぐ。水の下の、薄い鉄の匂い。舟板の節に残る古い血の塩。耳を板から離し、彼は舟縁に指を置いた。指の跡が残らぬように、爪の角で。影は、痕跡を持たない。
評定の翌朝、元春は各所へ手を回した。
「祓いの名手、呼べ」
口にしたのは祓いであって、祀りではない。呼ばれたのは、山伏と僧と社家の端くれ、それに、紙と墨を持った書役だ。彼らは火を焚かず、塩を撒かず、鈴を鳴らさず、ただ、紙に「無し」と書いた。書かれた「無し」は、やがて水に浸され、紙は解かれ、解かれた繊維は、畳の下へ戻された。儀式は、見えないところで済まされた。済まされた分だけ、兵の噂は鎮まった。鎮まるというより、別の形になった。
「白は、どこにもいなかった」
その言い方のほうが、恐ろしくなかった。
隆景は、子細を語らなかった。語らない代わりに、海の地図を前に置き、潮の癖の書き付けを端から焼いてゆく。焼く火は小さく、煙は出ない。煙を出さずに燃やす術を知っている男の動作は、いつ見ても美しかった。美しさは、戦に向かない。向かないものを、彼は好んだ。
「影には、顔を見せるな」
念のために、ひとことだけ付け足す。
「顔を奪う者に、顔を覚えられるな」
沖田は、その間に、海辺で小さな支度をした。
合羽の裾を短く裂き、白装束の帯の一端を結び直し、刀の柄巻のほつれを歯で押さえて、雨で締めた。小さな金を一枚、斥候頭に渡し、「次の潮で本土へ渡ってもらえますか」と言う。斥候頭は頷く。頷き方が、昨日より重い。重くなった頷きは、別れの印に似る。似るだけが、今はよい。
背で、誰かの視線が一瞬だけ止まるのを感じた。振り向かない。振り向くという行為は、刃に直結する。刃は、いま鞘にいるべきだ。鞘の中の刃は、飽きている。飽きは、嗜虐の舌にとって、もっとも退屈な味だ。退屈は、彼を長く生かす。
昼過ぎ、雲がわずかに薄くなり、鳥居の朱が遠目にも濃く見えた頃、元就はひとりで社殿の裏へ回った。
「記すな。けれど、忘れるな」
小さく呟いた言葉は、彼自身の骨をも通過し、鳥居の脚へ吸われていった。老いてなお、彼は風の使い方を知っている。風は、人の噂よりも忠実で、雨よりも遅延が少ない。風に預けた言葉は、必ずどこかへ届く。届いた先で、誰かがそれを拾う。拾う者が誰かを、彼は選ばない。選ばぬことが、統べるということの中に含まれている。
夕刻、影の者たちが、それぞれ別の方角から戻り、何も告げず、何も受け取らずに散った。
散るのが、報せだ。
「いない」
その二文字が、場の湿りの上に、目に見えぬ印を付けた。印は、沖田の肩にも、隆景の指にも、元春の眉にも、元就の言にさえ、薄く宿った。宿るほど、現実は「無し」に寄る。寄った現実に、やがて祟りが戻る。戻る前に、祓いを終えよ。そういう時間の使い方を、彼らはよく知っている。
夜。
沖田は、小さな社の軒先に立った。雨は細くなり、代わりに風が湿りの向きを変えた。社の扉は閉ざされ、鈴は古く、縄は硬い。祈る意図はない。ないのに、扉の前に立つと、言葉がひとつ口の中に生まれる。
「お前の死は、ここじゃ似合わない」
自分に言ったときには、もう、その言葉は別の誰かの骨に属していた。矢野蓮。名は呼ばない。呼ばなければ、返すべき借りの形だけが残る。借りの形は、刃の向きをわずかに変え、人の歩幅を半刻だけ遅らせ、雨の梯子の段をひとつ増やす。増えた段のぶん、人は生きる。
彼は笑い、笑いの端を、雨に差し出した。差し出した笑いは、海へ流れ、薄まり、魚の鱗のきらめきのようなものになって消えた。
同じ夜、吉川の陣屋では、小さな灯の下で、元春が短い文を三通書いた。
「山の衆へ。『名無(ななし)』一人、祓い候。潮の癖、尾根の雨、鳥居の朱、いずれにも近づくな。近づけば、祟らる」
文は命令ではない。戒めだ。戒めを置くことで、命令の速度を上げる。
小早川の陣では、隆景が舟板の節に墨で点を打ち、その数を奇数にした。奇数は、海を渡るときの守りであり、また、見えない目印でもある。
「海の衆へ。『名無』を見たら、見ないふりをせよ。見ないことが、最も速い追跡である」
追跡という語の奇妙な逆説が、墨の中で光った。
評定の結果は、翌日には全体の動きになって現れた。
白装束の噂は、薄くなった。薄くなったが、消えない。消えぬまま、別の名を付けられた。「誰も見なかった者」。誰も見なかった者が、夜の端を歩く。歩くたびに、兵は背の汗を薄く感じ、火は燃えずに暖かく、鈴は鳴らずに祓われた。
抹消、という恩賞は、沖田の肩に静かに掛けられた。外からは見えない。見えぬ恩賞は、いちばん重い。重さは、彼を沈めるのではなく、浮かせる。浮いた者は、影の手に掴まれやすい。掴むための指は、すでに用意されていた。
その指が、初めて彼に触れたのは、夜半を少し過ぎた頃だった。
触れたといっても、布の端が風に揺れ、彼の袖にそっと当たっただけだ。触れた布は、すぐに離れ、離れたあとに、湿りの向きがわずかに変わった。山の匂いと海の匂いが、順に来る。彼は目を閉じ、一拍のあいだに嗜虐の舌を折りたたみ、理性の刃を起こした。
「味方は、一番恐ろしい」
飄々と、呟く。
その言葉は、明日以降、別の場で別の形を取る。今夜は、ただ、存在しなかった者の肩に置かれて、雨に薄められた。
元就は、その頃、ひとりで文机に向かい、薄い紙に短い一行を書いていた。
「白を記さず。白を忘れず」
筆は乾かぬうちに火へくべられ、紙は煙にもならず、灰にもならないまま消えた。消えたものは、記録ではない。記録でないものほど、長く残る。
彼は目を閉じた。
勝者なき勝利。
この形を、島は選んだ。選ばれた者たちは、名を呼ばれない。名を呼ばれない者たちが、このあとに続く追跡と共闘の物語の上で、互いの骨にだけ言葉を刻む。刻まれた言葉は、祟りにも恩寵にも、どちらにも似ている。似ているからこそ、秤は割れずに済む。
夜明け前、雨はようやく上がった。
鳥居の朱は、すこしだけ濃くなったように見え、社殿の檜皮は水を手放し、入江は浅く息を吐いた。砂州の上の足跡は、半分だけ残り、半分は海へ去った。去った半分の上に、誰かの名があったのかどうか、もう分からない。分からないまま、島は静かになった。
その静けさの底で、「存在しなかった者」という新しい影が、最初の一歩を踏み出した。踏み出す音は、どこにも書かれない。書かれない音だけが、これからを動かす。
功と祟りの秤は、いま、空のまま、評定の間の隅に置かれている。誰も触れない。触れないものほど、長く効く。長く効くものだけが、物語を次へ連れてゆく。



