■まえがき
 歴史の頁には、記されぬ者たちがいる。
 戦の勝者や名を残した将に隠れて、ただ血と潮にまみれ、影のように消えていった者たち。その存在は、噂や風聞のかたちで人の記憶をかすめ、やがては誰の口にも上らなくなる。
 本書に綴られるのは、弘治元年(1555年)、厳島の戦において「存在しなかった」とされた一人の剣士と、敵陣に立ちながら彼を“生かす”選択をした若き指揮官の物語である。
 血を愛し、殺戮に悦びを覚える残虐さを抱えながらも、どこか飄々とした知性を併せ持つ白装束の剣――沖田静。
 そして、兵を生かすため己を削り、最後まで「名を残さぬ生」を選んだ矢野蓮。
 彼らは敵味方として出会い、刃を交え、奇妙な停刀の瞬間を共有する。殺し合うべき二人が、やがては背を預け、そして共に歴史の表舞台から姿を消していく――その過程は、史実の片隅に生まれた虚構の裂け目でありながら、確かに「人と人との孤独な共鳴」を伝えている。
 名を記されぬ者の物語は、いつも静かに、波音に紛れて消えてゆく。だが、ここに描かれる二人の“孤”は、潮騒とともに確かに響き合い、今もどこかで息づいているのかもしれない。


■目次

まえがき・目次

第一章 潮騒の予兆(起) ― 厳島へ、血と潮の匂い
 第一話 潮目に立つ
 第二話 朱の鳥居、黒い道
 第三話 雨幕の中の名もなき声
 第四話 島の心臓(みなもと)

第二章 嵐の刃(承) ― 出会いと不可思議な停刀
 第五話 潮闇の潜入
 第六話 朱と白の初対峙
 第七話 火の橋、雨の梯子
 第八話 潮が反転する刻

第三章 勝者なき勝利(転) ― 抹消、追跡、共闘
 第九話 勝利の影、存在しなかった者
 第十話 祟りと恩寵
 第十一話 追手、島影より
 第十二話 名を隠す宿

第四章 潮の向こうへ(結) ― 消えるための生
 第十三話 夜舟
 第十四話 島の声、名を呼ばぬ神
 第十五話 白い布の行方
 第十六話 潮の外(そと)へ

巻末資料・年表・あとがき