「遅れてごめんなさい」

 待ち合わせをしたオステリア(庶民的な食堂)に駆け込むなり、フローラは頭を下げた。

「大丈夫、私も今来たところだから」

 本当は20分ほど待っていたはずだが、ウェスタはそんなことをおくびにも出さずにニッコリと笑った。

 席に着くと、店のスタッフがフランチャコルタを運んできた。フローラはロンバルディア州で造られるこのスパークリングワインが大好きなので自分でもわかるほど頬が緩んだが、それが合図になったかのようにオーナーが近づいてきた。

「いらっしゃいませ」

 日本語だった。笑みを浮かべているのは日本人男性だった。

「お久しぶりです」

 フローラが日本語で返すと、「お待ちしておりました」とボトルを開けて、二人のグラスに優雅な手つきで注いだ。そして、「ごゆっくりお楽しみください」と笑みを残して、厨房に戻っていった。

「Salute(サルーテ)!」

 二人はグラスを合わせて、互いの健康と幸福に感謝した。

「待ち遠しくてたまらなかったの」

 朝からワインを飲みたくて仕方なかったと言うと、「明日はお互い休みだから、しっかり楽しみましょ」とウェスタがもう一度グラスを掲げた。

 ベーカリーは日曜日が休みだったが、薬局は年中無休な上に土日に来店客が多いので、フローラの休みは月曜日と火曜日に限られていた。しかし、それではウェスタとゆっくり食事もできないので、月に一度は日曜日に休みを取ることにしていた。

「もう頼んだ?」

 もちろん、というふうにウェスタが頷いた。

「何が出て来るか楽しみだわ」

 フランチャコルタを一口飲んで厨房の方に視線を向けると、呼ばれたように料理が運ばれてきた。前菜の盛り合わせだ。

「ウヮ~、今日は一段と豪華ね」

 大きな皿の上には5種類のハムと3種類のソテーした野菜と6種類のブルスケッタと2種類のチーズが盛り付けられていた。

「どれにしようかな~」

 迷った末にソテーしたズッキーニとトマトを乗せたブルスケッタを小皿に取ると、ウェスタはソテーした人参と豚レバーペーストのパテが乗ったブルスケッタに手を伸ばした。そして、一口食べてグラスに手を伸ばし、「合うのよね~」と頬を緩ませた。

「これは何かしら?」

 フローラが見慣れないブルスケッタを手に取ると、すぐにオーナーの説明が始まった。マヨネーズベースのソースに魚が入っていて、『しめ(さば)』だという。口に入れると和の風味が広がった。

「う~ん、美味しい」

 一味違うブルスケッタに舌鼓を打つと、「私はこれを食べてみるわ」とウェスタが次のブルスケッタに手を伸ばした。チャンジャ(タラの内臓の塩辛)の上にクリームチーズが乗って、更にその上に黄色のツブツブが振りかけられていた。『からすみ』をすりおろしたものだという。

「最高!」

 満面に笑みを浮かべたウェスタがオーナーに向けて指を立てた。
 それを見て、フローラも見慣れぬブルスケッタに手を伸ばした。それはパン生地ではなくリンゴで、その上にマヨネーズで和えたサラダが乗っていた。

「可愛すぎる」

 ニンマリとして頬張ると、酸味と甘みのコラボレーションが味蕾を刺激して、口の中が至福で満たされた。

 ウェスタが最後のブルスケッタに手を伸ばした。クリームチーズの上にイチゴが乗って、その上にメープルシロップがかかっていた。もうこれはスイーツと言っても過言ではないだろうと思いながら見つめていると、ウェスタの頬が緩んで、「パーフェクト!」と声が出た。
 すると、オーナーがボウ&スクレイプ(貴族風のお辞儀)で応えた。それが余りにも決まっていたので、ウェスタに続いてフローラも音を立てずに拍手をする振りをした。

「前菜なのにフルコースを食べたような感じだわ」

「本当ね。それに、イタリア人シェフだったら絶対に発想しないレシピよね」

「確かに。でも、だからここが好きなのよ」

 二人の賛辞合戦がしばらく続いたが、チーズを食べ終わった頃、フランチャコルタのボトルが空いた。すると、それを見計らったように赤ワインのボトルが運ばれてきた。トスカーナ地方を代表するワイン、フレスコバルディだった。700年間、30世代に渡って受け継がれてきたワイナリーが生み出す特別なワイン。それも、当たり年と言われている2007年のものだった。鮮やかな手つきでオーナーがコルクを抜いてグラスに注いだ。

「奮発したわね」

「たまにはね」

 ちょっとくらい贅沢してもいいんじゃない、というような表情を浮かべてスワリングしたあと、口に運ぶと、「おいしい……」とだけ言ってウェスタが笑みを浮かべた。

 そうなのだ、美味しいものに注釈はいらないのだ。

 同じくスワリングをして口に含んだフローラも黙ってワインを味わったが、それでも「フランチャコルタとフレスコバルディはトスカーナの宝だわ」という賛辞を忘れることはなかった。

「相変わらず忙しい?」

 ウェスタが訊いた。

「あなたほどではないけどね」

 肩をすくめたフローラが言葉を継いだ。

「それより、この前の続きを聞かせてよ」

「続きって……、あっ、わかった。パンの歴史ね。この前はどこまで話したかしら?」

「メソポタミアからエジプトに伝わって、パン生地を一晩寝かせたら美味しくなることを発見した女の人がパン屋さんを開業して、秘伝を守り続けたら代々繁盛したというところまでよ」

「そうだったわね、思い出した」

 ウェスタはフレスコバルディを一口味わって幸せそうな表情を浮かべたあと、グラスを置いて、続きを話し始めた。

「死後のパンって知ってる?」

 フローラは首を横に振った。

「古代のエジプトでは死後の世界があると信じられていてね、亡くなった王様が食べられるように(ひつぎ)の中にパンを入れたらしいの。だから、死後のパンと呼ばれているのよ」

 すると、ツタンカーメンの棺にパンが入れられている光景が思い浮かんだ。

「それって、あの時に見つかったの?」

 3000年以上の時を経て棺が発見された時に死後のパンが見つかったかどうか知りたくなったが、ウェスタは〈知らない〉というふうに肩をすくめて、「何もかも明らかになることがいいとは限らないからね」と悪戯っぽく笑った。

 確かにその通りかもしれないとフローラは思った。想像を膨らませる楽しみは格別だからだ。なので、死後のパンをツタンカーメンが頬張っている姿を思い描いて古の時代にタイムトリップしたが、「ところで」というウェスタの声で今に戻された。

肥沃(ひよく)なナイル川の流域では小麦がよく育ったから、パン造りが盛んになって、それを見た他国の人たちがエジプト人を『パンを食べる人』と呼ぶようになったのよ」

 それを聞いてツタンカーメンの姿が消え、代わって上半身裸で腰布だけを身に着けたエジプト人がパンをこねて焼いている姿が脳裏に浮かんだ。

「次にパン造りが盛んになったのはギリシアと言われているわ。今から2800年ほど前らしいんだけど、釜の改良など色々な工夫をしたらしくて、パンの製造技術が格段に向上したようなの。だから何十種類ものパンを焼いていたようよ」

 その中にはブドウやイチジクなどを入れた菓子パンや魚の形をしたパンなどがあったという。

「ギリシアでは水車による製粉も始まったのよ。確か、紀元前450年頃だったと思うわ。人の手では限界があった小麦粉の大量生産が始まったのよ。それから色々な工夫がされてきたんだけど、大きな変化が現れたのは12世紀になってからなの。風車が使われるようになったのよ。でも、それからしばらくは技術革新は起こらなかったのだけど、18世紀に入るととんでもないものが発明されたの。蒸気機関の登場ね。これによって更に大量の小麦粉が作られるようになったの」

 産業革命か~、とフローラが呟いた時、オーナーがメイン料理を運んできた。

「メディチ家ゆかりの料理をご用意しました」

 ソテーしてスライスされた鴨肉の上にオレンジピールが乗って、華やかな色合いを添えていた。

「カテリーナ・デ・メディチも召し上がっていた『鴨のオレンジソース』です」

 フランス国王アンリ2世に嫁いだカテリーナが最高の料理スタッフと共に持ち込んだ料理の一つがこの鴨料理だった。

「500年の時を経て私たちの口に入るなんて……」

 ウェスタが感慨深げに噛みしめたので、フローラは思わずグラスを上げた。

「ご先祖様に感謝!」

 ウェスタがそれにカチンと合わせて敬意を表するような笑みをオーナーに送ると、彼はまたボウ&スクレイプで応えて、厨房へ戻っていった。