殺風景な部屋のテーブルの上には未開封の『牛たん弁当』が置かれていた。会社が長期契約したワンルームマンションに帰ってからもフローラに食欲が戻ることはなかった。そんな状態だから、テレビを見る気も起きなかった。しかし、音のない世界に長くいると、心が折れそうだった。CDコンポのリモコンを手に取って、パワーボタンをONにした。
 CDをセットして再生ボタンを押すと、厳かなトランペットの音が流れてきた。弦からプレゼントされたCDだった。『ITALIA』。純白のシャツにネイビーの上着を(まと)ったクリス・ボッティの涼やかな目がフローラを見つめていた。

 世界で最も美しいトランぺッター、

 間違いなくその評判通りだと思ったが、フローラが惹かれることはなかった。

 ユズルの方が若くてハンサムだわ、

 突然、そんな言葉が心の奥から湧き出てきて、思わず手を口に当てた。ユズルのことをそんなふうに思ったのは初めてだった。いままでは可愛い弟としか思っていなかったのだ。心が揺れているせいだと思った。掴まる何かが欲しかった。

 ユズルが日本に居てくれたら……、

 そんなことはあり得ないのに、すがるような思いでユズルを呼んだ。

 今すぐ来て、

 しかし、クリス・ボッティの物悲しい音色しか寄り添ってくれるものはなかった。

 4曲目になった。慈しむような音色が部屋を包み込み、トランペットと入れ替わるように女性の歌声が聞こえてきた。ポーラ・コールだった。『THE VERY THOUGHT OF YOU』。しっとりと落ち着いた声がフローラを包み込むと、弦の手書き文字が蘇ってきて、「この曲が一番好きなんです」と書いてあったことを思い出した。それですぐにタイトルを日本語に訳そうとしたが、うまい言葉が浮かんでこなかった。仕方がないので自動翻訳に頼ると、『あなたへの想い』というのが一番近いような気がした。でも、しっくりこなかった。なんか違うのだ。すとんと落ちてこないのだ。そのあともネットで検索を続けたが、ピッタリくるものを見つけることはできなかった。
 そうしているうちに曲が変わった。『ミッション』という映画のテーマ曲『ガブリエルのオーボエ』だった。しみじみとしたトランペットの音色がフローラの心を無にしていくと、どこからともなくふっと言葉が舞い降りてきた。

 あなたのことを想うだけで。

 フローラは頷いた。やっとしっくりくる言葉に巡り合った。

 あなたのことを想うだけで……、

 声に出すと、弦の顔が浮かんできた。フィレンツェで出会った時の顔だった。すると、ウェスタの店でパンを焼いた時の姿や一緒に食事をした時のことが思い出された。次々と曲が変わる中、彼の表情や言葉を思い浮かべた。
 ボーナストラックになった。ふと、写真が見たくなった。机の引き出しから取り出すと、焼き上がったパンを棚に並べている弦が少し緊張したような面持ちで写っていた。最初に送ってくれた写真だった。まだ幼さが残っていて、可愛い弟のように思ったことが蘇ってきた。2枚目は色変わりの帽子とエプロンを身に着けた弦が両手にパンを持ってこちらを見ている写真だった。ポーズを付けていたが、どことなくぎこちなかった。しかし、3枚目以降になると写るコツをつかんだのか、笑顔がサマになっていた。
 最後の写真になった。東京の住所に届いた最新の写真だった。それまでとは顔つきが変わったように感じられた。なんとなく凛々しくなっているように見えた。少なくとも弟のような可愛い顔ではなかった。

 一人前の男になろうとしているのだろうか……、

 呟きを右手の人差し指に乗せて弦の鼻をチョンと突くと、まるでそれを待っていたかのように曲が変わった。『IF I LOVED YOU』

 もしもあなたを愛したら……、

 ポーラ・コールのセクシーな歌声が流れてきた。

 もしもあなたを愛したら……、

 フローラの歌声が重なった。

 もしもユズルを愛したら……、

 凛々しい表情で写る弦がフローラの胸に抱かれた。