翌日の昼前、日本食品の扱いが多いスーパーマーケットへ寄ってから、ルチオの家に向かった。夢の中で授けてくれた祖父の言葉を伝えに行くためだ。うまくいくかどうか不安だったが、胸ポケットに忍ばせた祖父の写真に手を当てて、心を落ち着かせた。

 ドアチャイムを押すと、今日は1回でドアが開いた。

「昨日の話なら聞く気はないぞ」

 顔を見るなり不機嫌そうな声を出したが、「おいしいものを作りに来たよ」と話をすり替えて家の中に入り、「どうせ何も食べていないんでしょ」と探りを入れた。 

 返事はなかった。しかし、図星のようだった。

「チャーハンオムレツを作るからね」

 買い物袋から卵と冷凍食品を取り出すと、「なんて書いてあるんだい?」と興味深そうに覗き込んできた。弦は冷凍食品に印刷された日本語を指差した。

「鳥五目チャーハン」

「ふ~ん」

 わかったような、わからないような顔のルチオが口をすぼめた。

「椅子に座って、待ってて」

 ルチオが素直に応じて腰を掛けたので、台所に行き、冷凍食品を電子レンジで解凍した。そして、チンという音を聞くと同時にフライパンを火にかけ、ボウルに卵を二個割って、塩、コショウを振ってから卵白を切るようにかきまぜた。それから、取り出した鳥五目チャーハンをフライパンに移して、さっと炒め、それを二つの皿に移して、こんもりとした形に整えた。それから、フライパンにバターを溶かして、卵を流し込み、箸で混ぜながら半熟状になったのを確認して半月状に形を整え、フライ返しでひっくり返して、軽く焼いてからチャーハンの上に乗せた。そして、同じことをもう1回繰り返して、二つの皿を完成させた。

「できたよ」

 ルチオの前に皿とスプーンとケチャップを置いたが、「でも、まだだよ」と制して、盛り上がった卵の中央をスプーンで切り裂いた。すると、左右に割れて、半熟の部分が溢れ出した。

「うゎっ」

 初めて見たせいなのか、ルチオの目が真ん丸になった。

「召し上がれ」

 新しいスプーンを渡すと、口に入れた途端、頬が緩んだ。

「おいしいね」

 もう一口食べると更に頬が緩んだので、「ケチャップを付けても美味しいよ」と味変(あじへん)を促した。

「これもいけるね」

 左手の親指を立てて、一粒残らず食べ終えた。

「ユズルは器用だね。だし巻き玉子もオムレツもとても美味しかったよ」

 今までにない笑みがこぼれたので、チャンスと思って、さり気なく話を変えた。

「パンも上手に作るでしょ」

 するとルチオは、ん? というような表情になったが、すぐに笑みが戻った。

「まあね。まあ、師匠が素晴らしいからね」

 冗談ぽく自画自賛したが、弦はその流れを逃さなかった。

「もっとうまくなりたいと思っています」

 ルチオを真剣に見つめると、頷きが返ってきた。

「大丈夫だよ。ユズルだったら上手にパンを焼くことができると思うよ」

「じゃあ」

 しかし、本題を切り出す前にぴしゃりと止められた。

「それとこれとは別だ。ユズルの人生を巻き込むことはできない」

 険しい表情に戻ってしまった。頑として意見を曲げないという決意が漲っているように思えた。それでもその反応は予想の範囲内だったので、「僕は自分を犠牲にしているんじゃないんです」と居ずまいを正して、ルチオを正視した。

「本気でパン職人になりたいと思っています」

「違う。アントニオの病気を見かねて言っているだけだ」

「そんなことはありません。本気でなりたいんです」

 父親の敷いたレールの上を走るのではなく、自らの気持ちに正直に人生を歩みたいと訴えた。しかし、「いや、そんなことはないはずだ。ユズルは嘘をついている」と即座に否定された。それでも、一歩も引かなかった。

「嘘はついていません。ハーバードで勉強するより、跡を継いで社長になるより、パン職人になる方がよっぽど幸せなんです」 

「なんでそんなことがわかる」

「お客さんです」

「客?」

「そうです。お店に買いにくるお客さんはみんな幸せそうな顔をしています。それを見ていると、こちらまで幸せになるんです」

「でも、それはスキンケア製品だって同じだろ」

「確かにそうです。製品を気に入っていただいたお客さんは笑顔になってくれます。でも、スキンケア製品を作るのも売るのも僕ではないのです。僕は経営をするだけなのです」

 するとルチオがウッというような感じになって、声が出てこなくなった。

「ここでアルバイトをするようになって、自分が作ったパンが店頭に並んで、それをお客さんが買ってくれて、おいしいと言ってくれて、ありがとうと言ってくれて、いっぱい笑顔を貰えるようになりました。これ以上幸せなことはないと思いました。これこそ自分が求めているものだと思うようになったんです」

 ルチオは黙って聞いていたが、話を止めようとする気はないように思えた。更に一歩、踏み込んだ。

「それに、パン職人になるのは運命だと思うんです」

「運命?」

「そうです。すべては運命という名の手によって導かれているように思うんです」

 同時多発テロの10年後に911メモリアルミュージアムでルチオと出会ったこと、そして再び出会いがあって、ベーカリーを訪れたこと、パン職人にはなんの関心もなかったのにアルバイトを始めてみるとはまっていったこと、今ではルチオをアメリカの祖父、アントニオと奥さんをアメリカの両親、アンドレアをアメリカの兄弟と思うようになったこと、そのすべてが運命によって導かれているように感じていることを伝えた。

「この広い世界の中で、800万人を超える大都市ニューヨークの中で、語学学校に通う日本人と移住してベーカリーを営むイタリア人が出会ったんですよ。これを運命と言わずしてなんと言えますか」

 弦は胸に手を当てて祖父の写真を確かめた。すると、〈大丈夫だ〉という声が聞こえたような気がした。身を乗り出して、ルチオに迫った。

「それに僕には日本人の魂があります。それは武士道といってもいいかもしれません」

「武士道?」

「そうです、武士道です」

 それが実際どういったものかよくわかってはいなかったが、それでも、これから伝える言葉に最もふさわしいと信じ込んでいた。

「こんな言葉を知っていますか?」

 ルチオの目を真っすぐに見つめた。

()を見てせざるは(ゆう)無きなり」

 しかし、ルチオに日本語がわかるはずもないので、英語で繰り返した。すると、ルチオの口がそれをなぞるように動いたので、「人として為すべきことと知りながら、それを実行しないのは勇気がないからである」と敢えて日本語で言い、英語で繰り返した。 

「目の前に困っている人がいるのに、それを放っておくことはできません」

 自分でも驚くほど腹の座った声が出たと思ったら、一瞬にしてルチオの顔が崩れた。それはダムが決壊した時のような崩れようで、張り詰めていた神経が一気に弛緩したような感じだった。

「支え合うのが家族です」

 今度も驚くほど落ち着いた声が出たので、「おじいちゃんと両親が困っているのに見捨てるわけにはいきません」と断固として言い切ろうとしたが、語尾が不意に揺れた。

「僕は……」

 言いかけて嗚咽が覆った。その瞬間、ルチオ以上に顔が崩れたと思った。それにつられるようにルチオの顔が崩れた。その手に触れると、感極まったものが弦の指先に落ちた。もう、言葉はいらなかった。ルチオも何も言わなかった。静かな時の流れだけが二人を包み込んだ。