どうしたらいいんだ……、
部屋に戻った弦はベッドに寝転がりながら何度も同じ言葉を呟いた。もう既に父親には「受験を止める」と告げているので、ルチオに反対されたからといって元に戻すことはできない。「やっぱり受験します」とは口が裂けても言えるはずがなかった。
それに、ベーカリーの窮状を黙って見ているわけにはいかなかった。親しい人が困っている時に傍観するなんてできるはずがなかった。しかも、アントニオの病状は軽いものではない。回復が遅れれば廃業という最悪のケースも考えられる。そんなことになったら彼らはどうなるのだろう。今までの蓄えで生活はなんとかできるかもしれないが、アンドレアはジュリアードを退学せざるを得なくなるだろう。そうなったら彼の夢は一瞬にして閉ざされてしまう。当然、自暴自棄に陥るだろうし、それを見たアントニオは罪の意識が強くなるに違いない。奥さんの精神状態も普通ではなくなるだろう。
ダメだ、ダメだ、ダメだ!
強く首を振った。
そんなことがあってはならない。なんとしても彼らの力にならなくてはならない。
気合を入れて心に火を点けた。
それでも、ルチオの厳しい表情が浮かんできた途端、その火は呆気なく消えてしまった。
ルチオさんが受け入れてくれない限りどうしようもない……、
大きなため息をつき、ごろんと半回転してうつ伏せになって、両手で枕を抱いた。すると、ルチオの顔が、そして、アントニオ、奥さん、アンドレアの顔が瞼の裏に次々と現れた。しかし、いつもの優しい顔ではなかった。睨みつけるような目をしていた。それは拒絶するような厳しいもので、先程のルチオの目と違いはなかった。
それを消そうとまた半回転すると、彼らの顔が消え、入れ替わるように大好きなあの人の顔が浮かんできた。名前を呼ぶと、その人は穏やかな笑みを浮かべて、こっちにおいで、と手を差し伸べた。
すぐにその手を掴んだ。すると、静かに引っ張られてどこかへ連れていかれた。夢の世界に入るのに時間はかからなかった。
*
「ゆずる」
懐かしい声が耳に届いた。
「おじいちゃん?」
しかし、姿はどこにもなかった。
「どこにいるの?」
耳を澄ませたが、返事はなかった。それでもその存在は感じることができた。
「おじいちゃん?」
もう一度呼びかけると、今度は穏やかな声が聞こえてきた。
「目を瞑りなさい」
言われるまま瞼を閉じると、「今から言うことをよく聞きなさい」という声に続いて、「お前の下した判断は正しい。人の道に沿った素晴らしい結論を導き出したと思う。流石に私の孫だけのことはある。しかし、ルチオさんの言うことももっともだ。ゆずるのことを本当の孫のように思い、心から愛しているからあの言葉が出たのだ。ありがたいと思わなければならない」と諭すような声が届いた。
本当の孫……、
そんなことを考えたことはなかったが、言われてみればその通りかもしれないと思った。運命に導かれるように彼と出会い、彼の元で修行し、彼の故郷へ一緒に行った。まるで家族そのものだと思った。しかも、単身渡米した日本人とイタリアからの移民パン職人がこのようになったのだ。これを奇跡と呼ばずしてなんと呼べようか。ましてや、彼は最愛の孫をテロで亡くしたあともずっと隙間を埋めきれないでいたのだ。新たな孫が現れたと思ったとしても不思議ではないだろう。
「ルチオさんは嬉しかったと思うよ。ゆずるがあんなことを言うとは思っていなかったはずだからね。でもね、自分たちの犠牲になるような形で仕事をさせるわけにはいかないと思っているんだよ。ゆずるにはハーバードへ行って、2代目社長になるという道が約束されているわけだからね」
それはその通りだった。ルチオだけでなく、アントニオも奥さんも同じだった。家族みんなで自分の行く末に思いを寄せ、応援してくれているのだ。
「だから、ルチオさんがゆずるの言い分を聞き入れるのは簡単ではないんだ。可愛い孫の人生を狂わせたくはないからね。もし私がルチオさんの立場だったとしても同じことを言うと思うよ」
弦は頷かざるを得なかったが、そこで間が空いた。すると、腕組みをするような声に変った。
「さて、どうするか、ゆずるの言うことも正しい。ルチオさんの言うことも正しい。どちらも正しい。だから……」
う~ん、というような声が聞こえたような気がしたが、それ以降は沈黙が続いた。まるで弦もよく考えなさいというようにそれは続いたが、頭の中には何も思い浮かばなかった。沈黙にひたすら耐えるしかなかった。
それが永遠に続くかと思われた時、突然、自嘲気味な声が聞こえてきた。
「だいたい老人は頑固ときているからね。一度言ったことを取り消すのはとても難しいんだよ」
確かに断固として断られたし、その考えを変える気はまったくないというのが口調に現れていた。いつもはとても優しいのに、昨日のつっけんどんな言い方は今まで経験したことのないものだった。なんと言われても態度を変えるつもりがないという強い意志の表れに違いなかった。
「ただね、情に脆いんだよ。私がゆずるだったらそこを突くね」
そして、今まで一度も聞いたことがない言葉を告げられた。それは日本の古い諺のようだった。
「これを試してごらん」
「これって」
どういう意味か訊こうとしたが、そこで声は消え、存在も消えた。
「おじいちゃん!」
叫んだ瞬間、自分の声で目が覚めた。枕を抱いたまま眠っていたようだ。視線の先には天井しかなかった。優しい顔を探しても、見つけることはできなかった。それでも心の中には温かい何かが残っているような気がした。
「おじいちゃん、ありがとう」
天国へ向けて両手を合わせた。



