丸一日、自問自答したのち、弦は意を決して、日本にいる父親に電話をかけた。

「受験を止める? 何を言ってるんだ」

 ただならぬ声が弦の耳を襲った。

「すぐに帰ってこい!」

 物凄い剣幕だった。一瞬、スマホを耳から離さなければならないほどだった。

「無理だよ」

 アルバイト先が大変なことになっていることを必死になって説明したが、理解はしてもらえなかった。

「つべこべ言わずに早く帰ってこい!」

 それだけ言うと、電話を切られた。それは予想した通りの展開だったが、それでもかなり動揺してしまった。父親になんと言われても自らの意志を貫くつもりでいたのに、強い口調で反対されると平気ではいられなくなった。最悪のケースが頭に浮かんできたからだ。それを考えると、体が震え始め、それは夢の中まで続いた。親子の縁を切られる夢で、うなされて何度も目が覚めては背筋に冷たいものが走った。パン職人として自立できる自信はまだなかったし、このニューヨークで生き抜いていけるほどの強さを持ち合わせているとは言えないからだ。
 それでも、ベーカリーを見捨てるわけにはいかない。ルチオ一家を見捨てるわけにはいかないのだ。彼らに対して「受験があるので辞めます」とは口が裂けても言えなかった。

        *

 朝になっても恐怖は居残っていたが、強く首を振って父親の言葉を頭から消し、重い体を引きずりながら部屋を出て、店に向かった。

 シャッターは閉まったままだった。臨時休業の張り紙もそのままだった。賑やかだった店の面影はなく、どんよりと重たい空気に包まれているように感じた。

 店横の階段を上がって玄関の前に立ち、チャイムを押した。しかし、反応はなかった。もう一度押してしばらく待ったが、ドアが開く気配はなかった。病院に行ったのかもしれないと思って階段を下り始めると、ドアが開く音が聞こえた。見上げると、ルチオが顔を出していた。声をかけようとしたが、やつれた顔を見て、言葉が口の中で止まった。眠っていないような疲れた顔だった。
 もう一度、階段を上って、家の中に入ったが、奥さんとアンドレアはいなかった。救急治療室には入れないが、近くで見守るために院内に詰めているのだという。

「ルチオさんも少し休んだ方がいいですよ」

 促したが、力なく首を振った。

「横になっても眠れないんだ」

 アントニオのことが心配でたまらないと言った。

「何か食べましたか?」

 ルチオはまた首を振った。水以外は何も口にしていないという。

「何か作りますね」

 台所へ行って冷蔵庫を開けると、食材はいっぱい入っていた。棚には日本製の調味料も揃っていた。アルバイトをするようになってから奥さんがワサビやトウガラシや麺つゆや味醂(みりん)などを買い揃えてくれていたのだ。
 しかし、食欲のないルチオに何を食べさせればいいかわからなかった。牛乳を温めることを考えたが、それでは一時(いっとき)しか腹に溜まらない。それで、他にないかと考えると、卵に目がいった。その途端、メニューが決まった。パックから卵を3個取り出して、ボウルに割って入れ、箸でしっかり溶いた。そこに麺つゆとみりんを入れて、更にかき混ぜた。それから、小さなフライパンを火にかけると共に油をひき、卵液を流し込んだ。そして、半熟になった頃合いで手前に巻いたあと、奥にずらして、空いたスペースにまた卵液を流し込み、巻いた卵を持ち上げて、その下に更に卵液を流し込んで、手前に巻いた。それをもう一度、繰り返して、焼き上がるのを待った。

 少しすると、ふっくらと焼きあがった。形は歪だったが、それを皿に移して、小さなナイフで切り分けてから、ルチオの元に運んだ。

「これはなんだい?」

 見たこともないせいか、不思議そうな表情を浮かべていた。

「だし巻き玉子です」

「Japanese Omelete?」

 また不思議そうに黄色い塊を見つめたので、「ふわっとしてて美味しいですよ」と促すと、ルチオが口に入れた。すると、嚙んだ途端、表情が変わって、笑みが浮かんだ。

「柔らかくて、ふわっとしてて、ジュワッとしてて」

 それ以上何かを言うのがもどかしいように、もう一つ口に入れた。

「これならいくつでも食べられそうだね」

 そう言って、次々に口に入れた。

「もっと作りましょうか」

 しかし、ルチオは右手を立てて横に振った。もう十分という感じだった。食欲はゼロに近いのだろう。無理強いしてもいけないと思って、ミネラルウォーターを取りに行った。グラスに注いで渡すと、ゴクゴクと何口か飲んだ。

「こんなおいしいもの、どこで覚えたんだい?」

 弦の意外な才能に感心しているようだった。

「ニューヨークに来る前に母親から教わりました」

 日本ではきちんと出汁を取って作ることを説明した。

「お母さんは料理上手なんだろうね」

 弦は思い切り頷いた。

「母が作る料理はどれも美味しいです」

 胸を張ると、笑みを返してきたが、それがさっきまでのやつれた感じではなかったので本題を切り出した。

「ところで、バイトではなくフルタイムで働きます。そしてパン職人になります」

 すると、ルチオの表情が一変した。

「それはダメだ。ユズルはハーバードへ行かなければならない。そして会社を継がなければならない。こんなところで寄り道をしてはいけない」

「でも」

「でも、じゃない。自分の将来を大事にしなさい」

 ルチオはまったく聞く気がないようだった。それでも弦は一歩も引かなかった。

「もう決めたことなんです」

 しかし、ルチオが同意することはなかった。

「絶対に駄目だ。弦の将来を潰すわけにはいかない。それに、日本の両親からユズルを奪うわけにはいかない」

 断固とした口調だった。それでも言い返そうとすると、ルチオは手で制して、「疲れたから休みたい」と背を向けて、部屋から出て行った。

 喜んでくれると思ったのに……、

 全身から力が抜けてしまった弦は帰り道をとぼとぼと歩くしかなかった。すれ違う若い女性たちから華やかな笑い声が聞こえてきたが、それが自分の住む世界のものだとはまったく思えなかった。