フィレンツェの市街をしばらく走ったあと、狭い路地にある古ぼけた建物の前でサンドロが車を止めた。夜の8時を過ぎていたが、まだ明るかった。日没まであと30分ほどあるとのことだったが、そんなことはどうでもいいという感じで、「旧市街のホテルは高いから、一番安いところにしてもらったんだ」とアンドレアが言い訳をするような口調になった。そして、「サンドロさんはシングルだけど、俺たちはツインにしたから」とまた言い訳のようなことを言ってから、「狭くてかび臭かっても文句は言うなよ」と付け加えた。

「まあまあ。それよりも早く飯を食いに行こう」

 時計を指差すサンドロに促されるままチェックインを済ませた。そして、部屋に荷物を放り込んでホテルの前にあるピッツェリアに飛び込むと、幸運にも奥の薄暗いテーブルが空いていた。なんとか座ることができた。
 サンドロはビールとマリナーラを、アンドレアはコークとカプレーゼを、弦はコークとマルゲリータを頼んだ。

「お疲れさん」

 サンドロの発声で乾杯すると、彼は一気にビールを飲み干し、お代わりを頼んだ。

「君たちは真面目だね」

 コークを飲む二人に信じられないというような視線を向けたサンドロは、16歳の時からお酒を飲み始めたことを当たり前のように言ってから、「今は法律が変わって18歳になったけどね」と誘い水のようなものを投げてきた。

「うん、それは知ってるけど……」

 アンドレアは少し躊躇った様子だったが、サンドロの誘いには乗らなかった。イタリアの法律では問題ないにしても、酒の味を覚えてニューヨークに帰ったら大変だからというのが理由だった。ニューヨークの飲酒可能年齢は21歳だと言って、きっぱり断った。

「弦はどうする?」

「どうするって……」

 アンドレアに付き合うしかなかった。自分だけビールを飲むわけにはいかなかった。日本ではなくニューヨークでもなくイタリアなのだから少々羽目を外したいという気持ちはあったが、ぐっと堪えた。

「まあ、無理強いはしないけどね」

 運ばれてきたビールをうまそうに飲んで、プハーと息を吐いた。

        *

 翌朝、ホテルで遅い朝食を済まして、世界最古の薬局に向かった。サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局。アンドレアが母親へのお土産を買うためだ。

「ママはハーブの香りが大好きなんだ」

 アントニオにはため口(・・・)を叩くアンドレアだったが、母親には頭が上がらないようだった。

「ユズルも日本のママに何か買ってあげれば?」

 弦は頷いたが、買う気はまったくなかった。父親の会社のスキンケア製品しか使わないことがわかっているからだ。だから店内をぶらぶら歩いて時間を潰していると、「日本の方ですか?」と日本語が耳に届いた。

「えっ⁉」

 声の方に向くと、そこにいたのは日本人ではなかった。

「あっ、はい」

 自分でも信じられないくらい目が開いたが、それは、女優のような美しい顔に対してだけでなく、流暢な日本語に対してでもあった。

「何かお探しですか?」

「あっ、いえ。あっ、はい」

 声が上ずった。完全にどぎまぎしていて、目が落ち着きなく動き続けているのが自分でもわかるほどだった。心臓が暴発するのではないかと思うほどの初めての経験に狼狽えていると、「ごゆっくりなさってください。何かありましたらいつでもご用命ください」とその人が笑みを浮かべたまま軽く頭を下げた。弦は慌てて下げ返したが、視線は胸の名札に注がれていた。

 フローラ、

 思わず呟いていた。しかし、その呟きが届かなかったのか、その美しい人は背を向けて、カウンターの方へ歩き去った。

「いい女だな。美人だしスタイルも抜群だし」

 サンドロがいつの間にか横に立っていた。その目は美しい人の後姿を追っていたが、完全にいやらしさで満たされていた。

「一目惚れか?」

「そんなんじゃありません」

 即座に否定すると、「俺が口説いてもいいか?」と悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「口説くって……、サンドロさんには婚約者がいるじゃないですか」

 しかし、彼は平気な顔をしていた。

「独身最後のアバンチュールというのも悪くないだろ」

 弦にはその考えが信じられなかった。独身だから浮気とは言わないかもしれないが、婚約者に対する裏切りに違いないからだ。ところが、そんなことは関係ないというふうに、「為せば成る」と意味不明な言葉を発して、サンドロが美しい人に近づいていった。

        *

「猿も木から落ちる」

 試みが失敗して体よくあしらわれたサンドロは苦笑いのようなものを浮かべたが、諦めきれないのか、「よく似てたんだよな~」と昔付き合った人を懐かしむような目になった。

「誰もが羨む、ですか?」

 勘のいいアンドレアが興味津々の表情を浮かべると、「まあな」とサンドロは半分ほどになっているビールを一気に喉に流し込んでから、赤ワインをボトルで頼んだ。

 昨夜入ったピッツェリアの横にあるオステリアで3人は夕食を取っていたが、周りのテーブルはすべて埋まっていたので、サンドロは辺りを伺うようにしながら小声で話し始めた。

「ヴァイオリン奏者だった。才色兼備を絵に描いたような女だった。ステージでの立ち姿は見惚れるほどだった。そんなマドンナが俺の彼女だった。信じられるか? この俺が最高の女と付き合っていたなんて」

 両手を広げて肩を少し上げた。そして、トリッパのトマト煮込みをフォークですくって口に入れた。

「俺はまだ修行中だったが、いつか彼女に最高のヴァイオリンをプレゼントしようと思っていた。それが実現した暁にはプロポーズするつもりでいた」

 赤ワインを流し込むように飲んだのでボトルを見ると、首の部分にD.O.C.Gと表示されていた。トスカーナの有名なワインのようで、CHIANTI(キアンティ) CLASSICO(クラシッコ)と書かれたラベルを目で追ったが、耳はサンドロの次の言葉を待っていた。

「ツアー中に妻も子もいるオペラ歌手にさらわれた。手が早いことで有名な男だった。彼女はそのことを隠していたが、人の口に戸は立てられない。狭い世界だけに噂が耳に届くのに時間はかからなかった」

 ワインを一気に呷ると、空になったグラスにアンドレアが慎重に注ぎ足した。

「俺が追及すると、彼女は泣いて謝った。もう二度とあの男に近づかないと言った。それを信じて許そうと思った。もう一度やり直そうと思った。でも、ダメだった。彼女とセックスしようとすると、あのスケベなオペラ歌手の顔が思い浮かんで消すことができなかった。彼女の裸を見ても反応しない自分に愕然とした。その時、終わりだと思った。オペラ歌手を夜の公園に呼び出して、彼女の目の前で思い切り殴った。彼女も殴ろうとしたが、それはできなかった。顔に唾を吐いて、終わりにした」

 そこでまたワインを一気に呷った。そして、「でもな、彼女も被害者だったんだよな。無理矢理やられたに違いないんだから、被害者なんだよな」と若気の至りで彼女を恨むことしかできなかったと後悔を口にした。

「もっと心の広い男だったら違うことになっていたかもしれないのに」

 自嘲するように吐き捨てて、またワインを呷った。するとまたアンドレアがワインを注いだ。サンドロが飲み潰れたら背負って帰る覚悟でいるように思えた。
 弦も止めなかった。いや、止められなかった。止められるはずはなかった。飲み続けるのを見守るしかなかった。でも、すぐに体が揺れ出して、目が虚ろになってきた。限界のようだった。

「サンドロさん」

 連れて帰ろうとして声をかけると、いきなり揺れが止まった。

「ユツル!」

 大きな声だった。その上、飲み過ぎたようで、呂律(ろれつ)がまわっていなかった。

「当たってくらけろだぞ!」

 更に大きな声だった。弦は慌てて立ち上がって、サンドロの腕を取った。その時、アンドレアの視線を感じた。その目は〈どういうこと?〉と追究しているみたいだった。とっさに笑ってごまかしたが、探るような視線は弦から離れなかった。それは、大事なことは絶対に見逃さないぞ、というような鋭い視線のように思えた。