アルバイト初日から鍛えられた。日本のパンを作るために手伝って欲しいと言われたから仕事はそれだけだと思っていたが、そうではなかった。パンを作るためのあらゆる工程に携わることを求められたのだ。それは完全に修行といえるようなもので、まるで本格的なパン職人を育成するかのようにルチオとアントニオに鍛えられた。それも、仕込み、発酵、形成、焼成という基本工程のみならず、原材料や添加物に関すること、ミキサーやホイロやオーブンなどの調理器具に関すること、更に、色々な栄養素の働きや食品衛生的なものまで教え込まれた。

 こんなのが続いたら体が持たない……、

 へとへとになって部屋に戻った弦は不満を天井に吐き出してブツブツと文句を言い続けたが、いつものようにひとしきり文句を言ったあとは、日本から送ってもらったパンに関する本を必ず手に取って、何度も読み返した。すると、その度にルチオやアントニオの言葉が蘇ってきて、彼らが言うことに対する理解が深まっていった。

 一口にパンと言っても奥が深いんだよな~、

 弦が独り言ちた時、スマホの呼び出し音が鳴った。アンドレアだった。出てこないかという誘いだった。

        *

 アンドレアが指定した待ち合わせ場所は、ワシントン・スクエア・パークの近くにある有名なジャズクラブだった。『ブルーノート』。ジャズファンなら知らない人はいないというジャズクラブの代名詞にもなっている店。弦は慌てて洋服を着替えて、髪を整えて、部屋を飛び出した。

        *

 約束の時間より少し早く着いた弦がブルーノートの入口で待っていると、時間丁度にアンドレアがやってきた。楽器ケースを持っていたので学校帰りのようだったが、彼はこちらに向かって手を上げただけで、ブルーノートには入ろうとせず、今来た道を戻り始めた。弦は慌てて追いかけた。

「ブルーノートは予約しないと入れないから無理なんだよ。ヴィレッジ・ヴァンガードやバードランドも一緒さ。しかも超有名なジャズクラブは料金が高いから、学生の身分では手が届かないしね」

 言い訳のようなことを口にしながらアンドレアは路地に入っていき、地下へ続く階段を下り始めた。階段の両脇には演奏するミュージシャンたちの写真が所狭しと貼られていた。

 ドアの前に立ったアンドレアが店名を指差した。『BIG』と書かれていた。ここで演奏する無名のミュージシャンが将来成功し、大物になって欲しいという願いを込めてオーナーが名づけたのだという。

「the biggest jazz starを目指せということなんだと思うよ」

 アンドレアが自らに言い聞かすように頷いてから、店についての説明を付け加えた。

「入場料が18ドルで、飲み物代は別になっている。頼んだら、その場で払うのが決まりだよ」

 アンドレアの説明に弦は頷いたが、関心は別のところにあった。

「どんな人が演奏するの?」

「先輩」

「先輩?」

「そう、ジュリアードの卒業生。でも、まだ有名じゃないからこんなところにしか出られないんだけどね」

 中に入り、入場料を払って、席を見ると、6割がた埋まっていた。

「先着順だから、空いているところならどこでも好きなところに座れるよ」

 弦が店内を見渡して前の方の席を指差すと、アンドレアは顎をしゃくって先に行くように促した。

 座ってステージを見ると、ドラムセットとウッドベースとエレキピアノが置かれていた。

「ピアノトリオ?」

「そう。結構うまいよ」

 アンドレアはトイレに行くと言って立ち上がったが、しばらくして戻ってきた時には両手に紙コップを持っていた。

「一番安いのがこれだから」

 コークだった。受け取って金を払おうとすると、手で制された。奢るというサインだと理解したので、素直に従った。