見渡す限りの草原が広がっていた。二つの大河に挟まれた肥沃な土地には実を付けた草が生い茂っていたが、それが野性の麦だと知っている者は誰もいなかった。だから、それが食料になるとは露ほどにも思わなかった。そんな物よりも血の滴る肉の方が大事だった。まだ農耕を知らない彼らはティグリス川とユーフラテス川に挟まれた三日月地帯で狩猟に明け暮れていた。
お腹を空かせた女が野性の麦の実をいくつか取って、口に入れた。でも、硬くて食べられなかった。すぐにペッと吐き出すと、それを鳥が啄んだ。女は目を疑ったが、実がすべてなくなったのを見て、鳥にとってはおいしいものだと気がついた。
それで今度は多くの実をばら撒いた。すると、鳥が舞い降りてきて、瞬く間に啄み尽くした。それを見て、お腹が鳴った。もう限界だった。穂からしごいた実を噛まずに飲み込んだ。しかし、なんの味もしなかった。腹も膨れなかった。興味を失って立ち去ろうとしたが、何故か後ろ髪をひかれた。それがどうしてなのかわからなかったが、このまま手ぶらで帰るのがはばかられた。もう一度穂からしごいて、両手いっぱいにして、住まいに持ち帰った。
ほとんど同時に狩りに出ていた男が帰ってきたが、手ぶらだった。獲物を取り逃がしたらしく、不機嫌極まりない表情で女に当たり散らした。恐れ戦いた女が麦の実を放り出して逃げると、男はその実に当たり散らした。地面に散らばった実を足で踏みつぶし、平たい石の上にあった実を尖った石で力任せに叩き潰した。顔を真っ赤にして何度も潰した。でも、そんなことをしても、うっ憤は晴れなかった。叫び声を上げながら、どこかに消えた。
男の姿が見えなくなったことを確認した女は地面に落ちている実を拾い集めた。ところが、持ち帰った時より少ないことに気がついた。辺りを見回すと、平たい石の上に白い粉のような物が見えた。見たことのない物だったが、余りにもお腹が空いていたので恐る恐る舐めてみた。おいしいとは感じなかったが、まずくはなかった。だから、残りを摘まんで口の中に入れた。すると、少し味がしたような気がした。それで他にないかと探していると、尖った石に粉がついているのが見えた。
舐めると、さっきと同じ味がした。それで気がついた。この粉は持ち帰った実を潰した物であることを。すると、実を啄む鳥のことが頭に浮かんできた。それを思い出していると、ふと閃いた。鳥は実のままで食べられるが、鳥ではない自分は潰して白い粉にしないと食べられないということを。
さっそく石の上にある実を尖った石で潰して口に入れた。でも、混ざっていた茶色い皮がもさもさとして口の中に違和感を残した。これは食べられないと知った女は、皮の残骸を取り除いてから口に入れた。すると、ほのかな甘みを感じた。残りを全部口に入れると、木の実のように甘くはなかったが、不味くもなく、食べ物になりそうだと直感した。
女はすぐに草原に走り戻り、両手いっぱいにして住まいに向かった。それを何度も繰り返して、持ち帰った実をすべて潰し始めた。でも、尖った石ではうまく潰せなかった。少しずつしか潰せないし、狙いをつけることも難しかった。
そこで女は考えた。すると、尖っていない石で潰した方がいいのではないかと思いついた。辺りを見回すと、長方形の石が目に入った。それを握って実の上から叩きつけると、尖った石より多くの実が潰せた。思った通りだった。しかし、叩き潰す度に実が周囲に散ったので、いちいち拾わなければならなかった。
面倒くさくなった女は他の方法を考えた。平らな石を持ったまま考えた。すると、また閃いた。ゴリゴリすればいいのではないかと。
すぐにやってみた。うまくいった。飛び散ることなく、きれいにすり潰すことができた。思わず声が出た。嬉しくて仕方なかった。
得意満面になった女はそれを何回も繰り返して、すべての実をすり潰してから皮を取り除いた。白い粉だけになると、お腹がグ~ッと鳴った。すぐさま一塊を口に入れて飲み込もうとしたが、運悪く男が帰ってきた。
機嫌は直っていなかった。咄嗟に女は白い粉を差し出し、食べるように目で合図した。男は訝し気な表情を浮かべたが、それでも女の手から直接白い粉を食べた。すると、男の表情が柔らかくなり、もっとくれと催促した。女が残りの白い粉をすべて差し出すと、すぐに食べてしまい、もっと欲しいと催促された。
女は男の手を取って草原に連れて行った。そして、穂をしごいて、男の両手の中に実を入れ、次に自分の両手も実でいっぱいにした。
家に戻った女は実をすり潰して皮を取り除いて白い粉だけにし、こういうふうにすれば食べられるようになることを男に教えた。すると男は素直に頷いて、女の言うとおりにやり始めた。それを見た女は草原に行って両手いっぱいの実を持ち帰り、それを何度も繰り返した。
大量の白い粉ができた。それを二人で分け合った。お腹いっぱいになった男は機嫌が直り、女を優しく抱いた。睦み合う二人を古の月が微笑むように見守っていた。
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秋が訪れた。女のお腹には子が宿っていた。それを知った男は猟に精を出した。何日も帰らない日があったが、帰ってきた時には必ず獲物を手にしていた。それでも、男並みに食べる女の食欲を満たすために男はまた狩りに出かけた。
一人になった女は食べ物を探しに草原へ向かったが、その途中であることに気がついた。何やら芽が出ているのだ。それが点々と続いていた。なんだろうと思ってそれを見ていたが、お腹が鳴って我に返り、食料を探すために草原の中に分け入った。
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年が明けた。女のお腹はかなり大きくなった。出産が近いことを悟った女がそれを告げると、男はかいがいしく世話をするようになった。女は幸せな気持ちで臨月を迎えた。
早春に子供が生まれた。かわいい男の子だった。元気な子でお乳をよく飲んだ。女はお乳を出すためによく食べた。その食欲を満たすために男は狩りに精を出し、持ち帰った獲物は真っ先に女に与えた。
それが嬉しかった。だから乳飲み子にかかりっきりになることなく、男に尽くした。男はそれに気を良くして、更に狩りに精を出した。
初夏になった。その日も男は狩りに出かけていた。赤子を抱いた女が食べ物を探しに草原に向かうと、道すがら草が伸びて、その先に穂が付いていることに気がついた。それは前の年に見た穂と同じで、それが点々と続いていた。住まいと草原を結ぶように草が生えて穂を付けていた。
それを見ているうちに気がついた。これは自分たちが住まいに持ち帰る時にこぼした実が芽を吹いて、大きくなり、穂を付けたのだと。そして、あの実は食べられるものであると同時に育てることができるものだと。
収穫の時を迎えた。女と男は草原の麦の実を大量に持ち帰り、石で潰して食べた。でも、全部は食べず、残した実を住まいの裏に撒いて、足の裏で踏み付けた。
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また年が明けた。住まいの裏では麦が芽を出していた。女はヨチヨチ歩きの幼子の世話をしながら、その成長を楽しみに見守った。そして、実りの時を待ち続けた。
好天に恵まれた春が過ぎ、待ちに待った初夏が訪れた。住まいの裏には数多くの麦が穂を付けていた。それを見せると、男は大喜びして飛び上がった。もう草原との間を何度も行き来する必要がなくなったからだ。これほど嬉しいことはなかった。女の知恵に恐れ入った男は更に女に優しくなった。
すると、女の腹に新たな命が芽生えた。その後も次々と新しい命を授かり、その命を養うために更に多くの麦の実を撒いた。
大家族になった住まいの周りは見渡す限り麦が生い茂るようになり、男は狩りをする傍ら、種撒きや収穫に精を出すと共に子育てを手伝うようになった。
女はそれが嬉しくて益々男に尽くした。その結果、女の腹にはまた新たな命が芽生えた。それでも、この家族が食料の心配をすることはなかった。住まいの周りの見渡す限りの土地に麦が生育していたからだ。
実りの季節になると、女と男は多くの子供と共に麦の実を収穫した。そして、住まいの一番大事なところに黄金の穂を祀り、来年も命の恵みを授かりますようにと家族全員で祈りを捧げた。



