氷野は絵を描くだけでなく、創作全般に興味を持っている。
だから、修学旅行1日目で行く『アマカゼツインビル』で絵になる写真を撮りまくるのだと公言していた。
本当は自宅から高性能なカメラを持っていきたかったらしいけど、校外学習の携行品として許可は出なかった。
それならスマホをハイスペックなものにしてしまえと一眼レフ並みのカメラ性能を誇る最新モデルに機種変したらしい。
それほど期待していた訪れた展望タワーで、オレの動向を追う余裕なんてなかったのは当然である。
クラスでの写真撮影の時、ギリギリで皆の中に混じってはいたが、オレが高所でテンパってたことなんて気づかなくても仕方ない。
集合時間より早くバスに戻っていた氷野は、独特の視点で撮られた写真を自慢気に見せてくれる。
下から見上げた定番ショット、オレには絶対撮れない構図の画像。
スクロールで切り替わっていく写真はどれも芸術家のこだわりみたいなものが感じられた。
氷野のスマホのロック画は、名前しか知らないインフルエンサーのものだし、書き味にこだわった文具の良さを熱弁されてもオレにはあまり響かない。
互いの興味の範囲は全然かぶってないのに、会話が続くのは不思議だった。
マイペースなのに、空気を読めて状況判断が早い氷野は、どこにいても周りになじめるだろう。
自然体でいられる関係を築いてくれる相手と出席番号が近かったことに感謝しかない。
家族や親戚へのみやげにどれを買いたいとか、自由時間は何から食べようかとか、何気ない話が一段落した後、氷野は口元に手を添え声をひそめる。
「……埴谷って、生徒会の鈴ヶ峰と付き合ってんの?」
周りに聞かれないように配慮しつつ、放り込まれたストレートの威力は半端なかった。
「え、……っと、付き合ってるとかじゃなくて」
高所恐怖症対策に、疑似恋愛させてもらってると言ったら、氷野の理解が追いつかないだろう。
オレが鈴ヶ峰に望んでいることは、常識的に考えておかしいと自分でもわかっている。
「ふうん? でも、鈴ヶ峰はお前のこと好きでたまらないって感じだった。拒否らないってことは、なんかイイ感じにまとまってんのかなって」
何も知らない他人からの言葉は、バイアスがかかってない分、真をついている。
「……あいつは」
関係性をうまく言葉に出来なくて、眉間にシワがよっていく。
鈴ヶ峰の一方的な片思いだなんて、突き放したことを言いたくはなかった。
「いいヤツなんだ。すごく…」
氷野はそれ以上追求することはせず、朗らかに笑ってくれた。
「単独行動したい時は、おれに一言声かけてからな。急に姿が消えたら、グループのみんなも心配するだろ」
「どこに行っても人目がありそうだし、向こうもそこは考えてくれると思う」
「ん〜? 誰もいないとこなら、大胆にイチャつきたいってコト?」
「ちが……っ!!」
はっきり否定しようとしたけれど、前列から割引券付き散策マップが回ってきたことで質問タイムは中断する。
「埴谷って、そういう顔もするんだな」
からかってるのではなく、他人の幸せを心から喜んでくれる氷野は100%善意で出来ている。
こいつに彼女がいるというのも納得だった。
「そういえば、お前の彼女の学校も関西方面に修学旅行だって言ってなかったか?」
「出発日が1日ズレてるし、あっちは奈良にも行くらしいから、すれ違ったままだけどな」
向こうは私立の女子高で、問題を起こしそうにない名門校だ。
オレの記憶にある限り、悪い評判を聞いたことがない。
車での送迎を推奨していて広々した敷地内にロータリーがあると聞いた。
正門前には警備員が常時待機していることも知られている。
両校が観光地で遭遇しないように、色々と調整するのは大変そうだ。
「でも、なんか近くにいるって思うとうれしくなるんだ。単純だろ?」
本物の恋をナチュラルに見せつけられて、オレは苦笑した。
鈴ヶ峰の気持ちを迷惑だと思わないし、特別扱いしてもらうのを鬱陶しいとは感じない。
そこから好意に届くまで何歩あるのか、人によって違うだろう。
自分の気持ちがどのあたりにあるか可視化できたらいいのに。
なんて考えた時が始まりだったと後で気付いたりするのだろうか。
移動距離や他校の兼ね合いを考慮した日程では、初日に大阪、2日目が神戸、最終日が京都となっている。
香月舎先輩の妹さんから頼まれた『空模様ソーダレイン』の地域限定キーホルダーは、これからバスが向かう水族館のショップでしか入手できない。
鈴ヶ峰と氷野には事情を話してあるので、後はそれぞれが一つずつ購入してくれるだけでミッションコンプリート。
こちらはもう達成確実なのだが、香月舎先輩リクエストの『エラーリオスタ』のポップアップストアに立ち寄れるかは、道路の混雑具合で状況が変わってくる。
当初の予定では、嵐山で90分の自由散策時間を取っている。
秋の京都は観光客も多く、渋滞するのは目に見えているので、時間が短縮になる可能性も高いそうだ。
渡月橋からポップアップストアはそこまで遠くないし、迷うこともない。
けれど、通販予定が今のところない期間限定ショップに殺到する客の数は、それなりにいるはずだ。
集団行動を乱すようなことは極力避けたいオレとしては、先に香月舎先輩リクエストのアイテムをゲットしておきたい。
自由散策のスタート地点はトロッコ嵐山駅。
集合場所は渡月橋近くの店舗裏駐車場なので、移動距離を考えたらポップアップストアへの立ち寄りは後にした方が良さそうである。
関西出身の父と推しの全国遠征に勤しむ母からは、特にこれが欲しいというリクエストがなかった。
もちろん土産はいくつか買って帰るが、嵐山以外でも買い物は出来る。
竹林の小径以外にも映えるフォトスポットは多い場所だ。
グループ内で計画を立てた時もいくつか行きたい場所はあがっていた。
交通の状況で多少時間が短縮されても、集合場所付近でばらけた時にポップアップストアに駆け込めばいい。
楽観的にスケジュールを組み立てたオレは、次の目的地へ進むバスの揺れに誘われて寝入ってしまった。
たとえば水族館のガラスが砕けたらどうなるだろう。
起こるはずのない出来事を想像して、不安に襲われていたらきりがない。
高所の恐怖だって、ここは安全だと自分に言い聞かせれば平常心を保てるはずなのに動悸や震えを抑えられず、立ち眩みを起こしそうになる。
足元の強化ガラスが割れ、水槽の中に落ちてしまう確率はかなり低い。
それに比べると、高所からの落下はリアルに想像してしまえるところが厄介なのだ。勝手なことを思いながら、グループからあまり離れないように展示を見て回る。
鈴ヶ峰からのアドバイスを参考にして、別ルートから売店まで最短で突き進み、目当ての入館チケット風キーホルダーは購入済みだ。
人から頼まれたものを先に手に入れたいからと本当のことを言ったのに、鈴ヶ峰によろしくなと皆から変な気遣いをされてしまった。
一般の観光客が多い場所になると生徒達の監視も困難になる。
去年の失態を繰り返したくない学校側は、出発前からずっと警戒態勢を強めている。
生徒会役員として協力している鈴ヶ峰にオレと過ごすデートみたいな時間が余っているはずもない。
物わかりのいい恋人みたいなことを考えながら、なぐさめるみたいにこちらを見つめてくる肺魚をぼんやり眺めた。
古代魚と呼ばれる彼らについての説明がプレートにびっしりと書かれているけれど、素朴な感じの愛らしさ以外は頭に入ってこなかった。
ひらひら、キラキラした魚類は綺麗だけど、毎日一緒に過ごすなら、こういうおっとりした感じも良いんじゃないかと思う。
鈴ヶ峰がもしここにいたら、どんなことを話すんだろうか。
ネオケラトドゥスなんて、発音しにくい名前でもきっとサラッと呼べてしまう。
真面目で勤勉な鈴ヶ峰には、この子をゆったり眺めて過ごす癒しの時間が必要かもしれない。
隣に立つ、視線の位置がオレより少しだけ高い相手を正確に思い描いた。
『埴谷』
自分の名前がやわらかい音を響かせるのがコンプレックスだった。
はにやん、とかならまだマシで、はにゃんを崩して『にゃん』とか『はにーちゃん』とか好き勝手言う女子に本当は文句を言いたかった。
でも、鈴ヶ峰が発声する俺の名前はやさしくて人とはちょっと違う気がする。
耳に届く時、しゅわしゅわしてさわやかに溶けるのだ。
香月舎兄妹に強く勧められて自宅で見た空模様ソーダレイン特別編集にも似たようなシチュエーションがあったことを唐突に思い出す。
顔に熱がぶわっと集まってきて、ひんやりした館内だというのに、思考がオーバーヒートしそうになる。
氷野に声をかけて、ちょっと外の空気を吸いにでも行ってこようか。一歩踏み出そうとした時、トンと軽く肩を叩かれる。
戦利品が入った小さな袋を無言で手渡してくれた鈴ヶ峰は、まるでスパイみたいだった。
「なんか、あやしい取引みたいだな」
親しげに会話なんかしていたら、周りは色々勘ぐるのかもしれない。
「……回廊での俺の行動は軽率だった。公開告白予告をしたのは俺で、告られるのは埴谷じゃないかという噂が広まっている」
「もしかして全部、生徒会の計算通りだったりするのか?」
「いや、そうじゃない。埴谷を変に巻き込むような作戦なら、俺が真っ先に却下してる」
はっきりと否定してくれた鈴ヶ峰は、好感度をぐんぐんあげていく。
「本当は旅行のあとで渡そうと思ってた。でも、ここから動かない埴谷が見ているものが気になって……」
「ん、かわいいだろ? あ、そうだ。こいつらの名前、呼びにくそうだろ。ちょっと発音してほしいんだけど」
「ネオケラトドゥス・フォルステリ」
お手本のように綺麗な発音をした鈴ヶ峰に、オレは拍手をしてみせた。
「さすが! マイクに慣れてるだけあるよな」
「……俺が近くにいると埴谷にとって不愉快な噂が増えそうだ」
去っていこうとする鈴ヶ峰の袖をつかんでオレは聞いた。
「具体的にはどういうの?」
ちょっとした接触でも反応してくれる鈴ヶ峰はわかりやすい。
「一番ひどいものだと、やることはやってるセフレの距離感だとか」
「ふぅん。オレたちって、そういう風に見えたりするんだ」
わざと身を寄せて、ちらりと横をうかがうと鈴ヶ峰がため息をつく。
「俺は埴谷が邪な妄想されてると思うだけで、どうにかなりそうなんだ」
どうにかなりそうなわりには紳士的で、調子には乗らないところが満点だと思う。
「夢でおいしくいただいてます。みたいなメッセージと一緒に未使用のゴムが下駄箱に入ってたこともあったな」
「誰かに報告は?」
「封筒にパッケージをのせて、ごみ箱に捨てた。前にも言ったけど、オレは匿名で嫌がらせしてくるヤツにおびえて過ごすほど弱いわけじゃない。でも、気分は最悪だったし、この件は信頼できる人には伝えてある」
嫌がらせなのか、ねじ曲がった好意なのか判別できなかったオレは香月舎先輩に事実を話した。
証拠品はゴミ倉庫から回収され、犯人は設置された防犯用カメラに映ってなかったにも関わらず特定された。
屈折したラブレターを置いて逃げた相手は3年生の男子。オレが弱ったところにつけ込むつもりでいたらしいが、香月舎先輩の根回しで戦意は叩きのめされている。
「香月舎先輩ならスマートに解決してくれるんだろうな。噂になってる公開告白の件も」
自嘲気味な言い方をしてたけれど、鈴ヶ峰の怒りは静かに揺らめいていた。
旅先でこんな話をするべきじゃなかったなと後悔して、オレは水槽へと視線を戻した。
「鈴ヶ峰に助けられてばかりだから、オレにも何か出来ることがあれば相談してくれていいよ」
予防線を張られたと勘づいたのか、鈴ヶ峰は薄っすら笑った。
「俺は健全だから、して欲しいことがないわけでもない」
「言い方、なんかちょっとエロい」
正直な印象を口にしたオレに、鈴ヶ峰はささやかな願いを告げる。
「……」
誰かと噂になるのなら、こいつとがいい。
もしかしたら、あるかもしれない未来を想像しながら、オレは即答する。
「いいよ」


