土曜の午後。
街角のカフェの窓際で、私────時雨マドカは、ひとりカップを手にしていた。
外は小雨。硝子越しに行き交う傘の色が揺れている。
店内は休日らしくざわめいているのに、私の心は落ち着かなかった。
────昨日のこと。
美術室で、オミトくんに真正面から言われた。
「モデルになってください」
その声が、まだ胸に響いている。
戸惑いと、少しの喜びと、よくわからない苛立ちがごちゃまぜになって、甘く苦い残響を残している。
それはきっと、彼の態度がいつも煮え切らないからだと思う。
まっすぐ私を見ているようで、その瞳はどこか遠くに向かっている気がする。
(オミトくん……あなたは、本当に私を見ているの?それとも──)
頭をよぎるのはアメリの顔だった。
親友であるはずの彼女が、曖昧な笑みを浮かべてオミトくんの隣に立っている。
その光景を想像しただけで、胸の奥がざわつく。
私はため息をつき、冷めかけたコーヒーをひと口すする。
そのとき、カフェのドアが開き、軽やかなベルの音が響いた。傘を閉じたアメリが店内に入ってきたのだ。
*
アメリが笑顔で手を振りながら店内に入ってきた。雨粒に濡れた髪が少し額に張りついている。
「お待たせ〜!」
そう言って向かいの椅子に腰を下ろし、ストローをくわえてアイスティーを一息に吸った。
「部活お疲れ様」
「さんきゅ。さすがにクタクタだよー。おまけに雨で湿気がすごいし。髪まとまらなくて最悪」
「でも似合ってる。その癖っ毛、可愛いよ」
「ありがとよっ」
ふたりで笑い合う。親友らしい気安さ。
しばらく他愛ない話題が続く。学校でのちょっとした出来事、共通の友人の噂話。
けれど、笑いが落ち着いたところで、私はさりげなく話題を切り替えた。
「ねえ、オミトくんとアメリって、付き合ってるの?」
アメリの瞳が一瞬泳ぎ、すぐに冗談めかした笑顔が浮かんだ。
「え、そんなふうに見える?ただの幼馴染じゃんね。小さい頃から一緒だったし」
「そう。でも、昔と今じゃ違うもんじゃないの?」
「……どうだろうね」
彼女はストローをくわえ直し、わざとらしく視線を逸らす。
私はカップを指先でなぞりながら、さらに問いを重ねる。
「じゃあ……オミトくんのこと、どう思ってるの?」
アメリは一瞬言葉を探すように口を開きかけ、それから小さく笑って肩をすくめた。
「別に。普通、かな」
「普通?」
「うん。なんていうか……一緒にいるのが当たり前すぎて、特別とか考えたことない」
「でもそれって、特別ってことじゃなくて?」
「そういうのとは違うってば」
アメリは笑いながら答えるけれど、頬の筋肉が少し引きつっているのを私は見逃さなかった。
(やっぱり。この子は素直にならない)
胸の奥で苛立ちがふつふつと沸いた。
だからだろう。言葉が口をついて出た。
「……取られちゃってもいいの?」
アメリの目が大きく見開かれる。
「な、なにそれ。マドカ、怖いよ」
「怖い?」
私はわざと笑みを浮かべる。
「だってそんなこと急に言われたら……」
アメリの笑ってごまかそうとする声はわずかに震えていた。
その瞬間の仕草を、私は見逃さなかった。
テーブルの下で揺れる足首。
ストローを持つ指が白くなるほど力んでいるのに、口元は笑顔を崩さない。
視線はまっすぐ私を捉えられず、窓の外とテーブルの隅を行き来していた。
店内のざわめきがふっと遠のき、テーブルの上の空気がぴんと張りつめる。
氷の溶ける音さえ鋭く耳に刺さった。
*
張りつめた空気がまだ胸に残っている。
アメリが無理に笑ってストローを弄る音が、氷をかき混ぜるみたいに耳に刺さっていた。
そのとき、テーブルの上でスマホが小さく震えた。
私は思わず手を伸ばす。画面には、見慣れぬ通知。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.· ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.·
【傘ゆら実行委員会】 返歌が届きました
┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.· ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.·
目が見開かれ、心臓が跳ね上がる。
(……返ってきた。ついに!)
熱が一気に喉元までこみ上げ、呼吸が苦しくなる。
ここで開くわけにはいかない。アメリに気づかれる。
「ごめん、ちょっと用事思い出した」
「え、マドカ?」
カップを置いて立ち上がり、笑顔を作って私は店の外へ出る。
ドアを押し開けると、冷たい雨音が全身に降り注いだ。
軒先で傘を広げ、深呼吸をひとつ。
次の瞬間、布地の内側に文字が淡く浮かび上がっていく。白く光る筆致。レンジくんからの返歌だ。
短い言葉。素っ気ない響き。けれど、間違いなく私への「返事」だった。
「……!」
声が漏れそうになり、唇を噛みしめる。胸の奥で炎が弾ける。
(彼は私を見てくれている。私の歌に答えてくれた!)
雨の冷たさも忘れていた。
傘の骨を強く握りしめ、私は立ち尽くした。この衝動を抑えられない。今すぐ会いたい────そう思った。
*
返歌の余韻がまだ胸の奥で燃えていた。
雨の匂いに濡れた風が頬を撫でる。
(今すぐ会いたい……レンジくんに、直接伝えたい)
衝動に突き動かされ、私は足を速めた。
知っている。
彼がどこに暮らしているか────本当なら知らないはずのことを。
気になって、何度かあとをつけてしまったあの日々。後ろめたいとわかっていても、抑えられなかった。
古びた二階建てのアパートに着いたとき、胸が高鳴っていた。
錆びた鉄階段は踏むたびにぎしぎしと軋み、湿った廊下には雨のしみが広がっている。
(こんな場所に、レンジくんは住んでいるんだ……)
彼の部屋の前に近づいた瞬間、足が止まった。
────人影。
薄暗い廊下に二人の姿があった。
一人は背広姿の中年の男性。どこか管理人めいた雰囲気。
もう一人は見知らぬ女性。四十代くらい、疲れた表情。けれど目元に、どこかレンジくんの面影があった。
私は思わず壁の影に身を潜めた。
ふたりはドアの前で小声を交わしている。
「レンジは……会いたがってない。裁判所からも止められてますし、無理なんですよ」
男性が困ったように言う。
「でも……母親なんですよ?せめて顔だけでも見たい……だって私の息子だもの」
女性の声は震えていた。
胸の奥に電流が走った。
(この人……レンジくんのお母さん!)
女性はしばらく戸口を見つめていたが、男性に諭されるようにして廊下を離れていった。
後ろ姿が、雨に滲んで小さくなる。
私は立ち尽くし、拳を握りしめる。
(レンジくんのお母さん……別居してる……ってことか)
気づけば、私は二人の後を追って歩き出していた。
女の人と親戚らしき男性の後ろ姿が、雨に滲んで遠ざかっていく。
私は気づけば傘を握り直し、早足でその背中を追っていた。
(放っておけない……あの人は、きっとレンジくんのお母さん)
通りの角を曲がったところで、私は思い切って声をかけた。
「あの、すみません!」
*
温かな灯りに包まれたレストランの片隅。
目の前の女の人……レンジくんのお母さんは、ハンカチを握りしめながら涙をこぼしていた。
「嫌われてしまったの……。あの子、昔はあんなに可愛かったのに」
「でも私だって母親なのよ。どんなに拒まれても、息子は息子。顔だけでも見たい」
言葉はどこか自己弁護めいていた。けれど、私には必死の叫びにしか聞こえなかった。
(やっぱり……子供が嫌いなお母さんなんていない。きっと誤解さえ解ければ)
「レンジくんだって、本当はお母さんに会いたいはずです」
気づけば私はそう口にしていた。
女性は涙ぐみながら、私の手を強く握る。
「お願い……あなた、友達なんでしょう? どうか橋渡しをしてちょうだい」
私は頷いた。胸の奥で熱が膨らんでいく。
(そうすればレンジくんは救われる。私が力になれば、彼はきっと私を見直してくれる)
雨上がりの夜道を歩きながら、私は傘を高く掲げた。
雲間から覗く月の光が、濡れた石畳に淡く反射している。
────ゆら祭り。そうだ、ゆら祭り。
伝説のように、私が龍神になってふたりを繋ぐんだ。
胸の奥に灯ったその決意は、善意に包まれたまま、危ういほどまっすぐに燃え上がっていた。


