松脂の匂いがこもった合奏室で、俺────雲座レンジは肩にヴァイオリンを構えた。
管弦の譜面台がずらりと並び、指揮台の前で「組曲・傘ゆら」の通しが始まる。
第一楽章。ユラ姫と若者が湖のほとりで出会うシーン……ヴィオラが地を這い、チェロが湿った空気を敷き、木管が薄く光を足す。指揮棒が俺の小節番号でふわりと止まり、次の瞬間、先端がまっすぐ俺を射抜いた。
──── ソロ
弓を落とす。
弦は正確に振動し、音程は針の先みたいに狂いなく立つ。ポジション移動は指板の上を水が走るように滑り、ヴィブラートは指定通りの幅と速さで揺らいだ。
音は生き物だ。こっちが迷えば揺らぎ、決めれば牙を剥く。
この瞬間だけは俺は“空っぽ”じゃない。俺自身が音になれる。
「止め」
棒が空中で止まる。合奏がほどけた。
教員が眼鏡を押し上げ、俺を見る。
「雲座。音は正確だ。だが“心”がない」
────また、それかよ
「心ってなんすか?」
「雲座、ユラ姫の物語は知っているだろ?」
「はぁ……傘に和歌を書いてどうたらこうたらってやつっすよね?」
「そうだ。じゃあお前の担当はなんだ?言ってみろ」
「ユラ姫の恋のお相手でしょ。貧乏な若い男っすよね。違うんすか?」
「そうだ。お前は主役の一人なんだ。若者の恋、憧れ、焦がれ、未練……そうと知っていながら、お前の音は何も語っていない。何度言ったらわかる?」
背中に視線が集まる。
あざけるような笑みを浮かべる奴。うんざりした顔で首を振る奴。
空気が一気にざらつく。
湿った練習室が、急に針の山みたいになった。
舌打ち。
「じゃあ、俺の代わりに弾けよ。できやしねぇくせに」
合奏室全体が凍った。
空調の音すらやけに大きく響く。
教員の顔がひきつる。
「口を慎め、雲座!」
「“恋を込めろ”だ、“心がない”だ。できるもんなら、誰かやってみせてくれって。なぁ、お前らは恋を知ってんだろ?」
後列の女子が小さく笑った。すぐに目を伏せた。
他の奴らは息をひそめ、冷えた視線を俺に突き刺したまま。
全員まとめて敵に回した気分だった。実際そうか。
俺はヴァイオリンを下ろし、弦を拭き、弓をしまう。
カチリと金具を閉める音がやけに大きい。
「やってらんねぇ」
吐き捨てて扉を開けた。
ダルい心持ちで歩く廊下に湿った風が通り過ぎてゆく。見れば窓の外のアスファルトが濡れていた。
恋?笑わせんな。
人が人に狂う音なんて、ガキの時分に家の中で散々聞いた。あれのどこに“心”がある?
────ブルッ
バイブレーション。メッセージ受信の知らせ。
俺はスマホを取り出して画面を眺める。
そして舌打ち。
「なにが傘ゆらだよ。ふざけやがって……」
バナー表示だけで開く気が失せた。そこには毎日のように通知されるアプリの文面が踊っていたからだ。
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【傘ゆら実行委員会】 警告。返歌をしてください
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読まずに削除した。どうせ内容は知れてる。
傘ゆらに選ばれたからなんだって言うんだ。ちゃんと和歌を詠まないとペナルティを〜とかいう脅迫めいたメッセージだろうが、やれるもんならやってみればいい。
ふと、赤い自販機が目についた。校舎の各階に等間隔で配置されているジュースの自販機だが、この芸術棟に置かれているヤツは無駄にマニアックな品揃えで腹立たしい。
それでも、この喉につかえたイラつきを甘い飲み物で流したいと思い、自販機の前に立ったが……
「……ナメてんのか?」
水以外、全部青汁だ。
しかも“ゴーヤ青汁”を除いて軒並み完売。誰が買ってんだよこれ。
「おやおや、お金無い民〜?」
背後からかけられた声。俺は顔だけを横に向けると、彼女が視界に映った。
虹又さんだ。虹又アメリ。マドカの親友。
「可哀想だから、貴族の私が恵んであげるね?はい、ゴーヤ青汁」
「いや、ガチでいらねえ」
虹又さんは、こともあろうにゴーヤ青汁を3パックも手に持っていた。その内の一つを俺にくれるのだと言う。まぁ、1ミリも嬉しくない。
「遠慮しなくていいじゃんね。一本サービスで当たったヤツだから。雲座くん不機嫌そうだし、野菜足りて無いっぽいからあげる〜」
「……んじゃ、もらっとく。あぁ、レンジでいいよ。名字で呼ばれんの嫌いなんだわ」
「りょーかいです。はいどうぞ、レンジくん」
そう言って、青汁を俺の手のひらに乗せる虹又さん。
健康的に日焼けした肌が艶やかだ。ショートパンツ姿なのを見るに陸上部の練習中だと思われるが、なんでまた芸術棟なんて陰気臭いところにいるのか。
────その答えはすぐにわかった。
「アメリ、お待たせ」
「オミトー!めっちゃ待ったんだがー!?」
美術室から出てきたひとりの男子生徒。そいつに呼ばれて、虹又さんはまるで子犬みたいにすっ飛んでいった。はち切れんばかりに尻尾を振って。
ふと、ほどけたままの靴紐が目につく。陸上部のくせに随分“抜けてる”な……。
「顧問の北川先生に怒られてた」
「あっははっ。いつも怒られてるじゃんね〜」
「僕が好きなんだよきっと。さ、早くいこうっ」
軽口を挟みながら、男子生徒と虹又さんは仲良さげに連れ立って何処かへ消えていった。
────あれって付き合ってんのか?
じゃあ、恋ってことだよな。
恋……ああいうのを音に……恋を音に込めろ……か。くだらねえ。
けど、せっかくだ。俺は虹又さんにもらったゴーヤ青汁に口をつけた。
「……まずい」
きっと、恋ってやつもこういう味がするんだろうなと、俺は思った。
*
アパートの階段を上がる。鉄の手すりは錆びていて、触れると赤茶けた粉が指につく。二階の端の部屋。ドアを押すと、狭い一室に湿った空気がまとわりついた。
ヴァイオリンケースを床に投げ出す。畳は擦り切れ、壁紙は黄ばんで剥がれている。隣のテレビの音が筒抜けだ。
椅子に腰をおろし天井を睨む。
「心がない」もう聞き飽きた。じゃあ“心”ってなんだ。
思い出す。
父親はいない。物心ついたときから母と二人きりだった。
最初は優しかった。膝にのせてヴァイオリンを教えてくれた。
でもある日から、違った。母は“女”の顔になった。男の前では笑い、俺の前では牙をむいた。罵倒。暴力。あの家は地獄になった。
小学校のある日。帰ったら、母はいなかった。
テーブルの上には、酒の空き瓶と、一本のヴァイオリンだけ。
「男を選んだんだろ」
子どもでもわかった。俺は捨てられたのだ。
それでも、ガキだった俺にとって、母親は何にも代え難い存在だったんだろう。あんなクソ女を……どれだけ殴られても、焼けたタバコを押し付けられても、飯を与えられなくても……俺は母親が大好きだったんだろう……バカなガキだった。だからひとりでずっと待ってた。いつか帰ってくるんじゃないかって。
そのうち空腹に耐えかねて、俺はふらりと駅前に立った。昭和の名作アニメで見るようなヴァイオリン弾きの少年の真似事をしてみたんだ。実際、うまくいった。
弓を引けば、人が立ち止まり、小銭を落とす。雨の日も雪の日も。指先はひび割れて血が滲んだ。楽器も傷だらけになった。
それでも、音は裏切らなかった。出せば返ってくる。唯一の救いだった。
やがて児童相談所に保護された。施設に入れられ、その後は遠縁の親戚の家をたらい回しだ。
「面倒見てやってる」そんな目で見られ続けた。家族なんて呼べるもんじゃなかった。
今はこの古びたアパートで一人暮らし。といっても家賃は払っていない。こいつは、いま未成年後見人になってる親戚が所有してる物件のひとつだからだ。
食い扶持の方は、ヴァイオリンの特待生としてシガクから奨学金を受け取っているのと、子ども相手のヴァイオリン教室で講師のバイトを週に4日。それでなんとかやれてる。
……恋?
笑わせる。あんなもんは毒だ。それは母が証明した。
俺には音だけでいい。
音さえあれば、生きていける。
*
じめじめした部屋、エアコンの効きが悪い。家賃を払ってない以上、文句は言えないが。
外は土砂降りだ。窓ガラスを叩く雨粒の音が、心臓の鼓動と重なってうるさい。
どうにも手持ち無沙汰になり、床に放ったヴァイオリンケースを開けようとしたとき、スマホが震えた。
画面には「時雨マドカ」。
一瞬ためらう。切れば楽だ。けど、指は勝手に応答を押していた。
「レンジくん、元気にしてる?」
柔らかな声。変わらない。
胸の奥がざらついた。
「まあまあかな」
返す声が思ったよりも低く出た。
沈黙が流れる。雨の音ばかりがうるさい。
「……ごめん。忙しかった?」
マドカの声はか細かった。謝られる筋合いなんてない。謝るのは俺の方だ。わかってる。
────俺たちは恋人だった
といっても、ただの恋愛ごっこだ。
“恋を教えてくれ”なんて言って、仮初めの恋人をやらせた。遊びみたいに。
ほんの短い期間だったが、マドカは本気で笑って、本気で拗ねて、本気で傷ついた。
俺は全部“ごっこ”で済ませた。卑怯者だ。
……けど。
あいつは裕福な家に育って、何不自由なく暮らしてきた。そう思うと、喉がつまる。
捨てられた俺と違って、温かい食卓で、優しい親に囲まれて。
俺には一生手に入らないもんを当たり前に持ってる。
そんな“お嬢様”に、俺の何がわかる。
「別に忙しくないよ。ただエアコンが調子悪くてさ、じめじめしてんの。それだけ」
「ふふっ、じゃあ新しくしてもらわないとね。ご両親にお願いしてみれば?」
なんの悪意もなく踏み抜かれた地雷。
マドカは知らない。俺に親がいないこと、一人暮らしをしていることも。何も話してないからだ。
「マドカの家と違って、欲しいと言えば何でも買ってもらえるわけじゃないんでね。マドカはどうせエアコンの値段も知らないだろ?」
イヤミな言葉が勝手に口をついた。
電話の向こうで、短い沈黙。
「そんなこと……ないよ」
それ以上は言わなかった。俺もそれ以上は聞けなかった。
そのとき、スマホの画面が不意に切り替わった。
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【傘ゆら実行委員会】
【重要】 ペナルティ付与のお知らせ
返歌の怠慢を確認しました。
龍神はペナルティとして、
あなたの“ヴァイオリン”を一時的に
封印するとのことです。
以上
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メッセージにはそう書かれている。
「は?」
「え、レンジくん?何か言った?」
「あ、いや……あぁ悪い。ちょっと用事ができた。また今度な」
「レンジくん────」
俺は一方的にマドカとの通話を切った。
ざわつく心臓を押さえつけるように、ヴァイオリンを乱暴に取り出し、弓を落とす。
「えっ」
……音が出ない。
弦が震えない。振動が指に返ってこない。空気が沈黙する。
「嘘だろ……」
胸の奥が冷える。
これまで何度だって、ひとりでも生き延びられたのは音があったからだ。
雨の日も雪の日も、駅前に立てたのは音が返ってきたから。母に捨てられても、この弓と弦だけは裏切らなかった。その音が消えた瞬間、足元から世界が崩れ落ちてゆく。
喉が締めつけられる。
音が出ないだけで、体の芯まで空っぽになる。
「俺から……音を奪う気か」恐怖で震える声が、自分のものじゃないみたいに響いた。
「ふざけんな……!」
俺は火事場から逃れるようにして、家を飛び出した。
足元の水たまりを蹴り散らしながら、一目散に駆けて行く────守矢神社へと。
*
境内に飛び込んだ瞬間、強い雨が顔に叩きつけられた。提灯の灯りはぼやけ、石畳は鏡みたいに濡れている。
スマホを握りしめた手が震えていた。寒さじゃない。あの通知のせいだ。俺の音が消えたあの瞬間から、胸の奥に巣食ってる恐怖。
社務所の軒下に、人影。
白い巫女服の少女……いや、男だ────雨十チギリ。相変わらず女みたいな顔して、雨に打たれながら祭りの準備をしてやがる。
「おい……!」
声が勝手に荒くなる。
チギリが振り向いた瞬間、俺は距離を詰めていた。
「てめぇか!?俺の音を奪ったのは!」
「お?サボり魔やないけ。なんやねん、そない詰め寄ってきてからに。この近さは恋の距離やで〜?」
「ふざけんな!返歌だの怠慢だの、くだらねぇルールで……俺からヴァイオリンを奪いやがって!」
胸が詰まる。言葉が震える。
チギリが眉を吊り上げ、口を開いた。
「お前なぁ、龍神をナメ腐っとるから祟りが────」
「うるせぇ!」
俺は気付けば、チギリの胸ぐらを掴み叫んでいた。
「イカれたおっさんの道楽に、俺の音を巻き込むんじゃねぇ!」
その瞬間だった。
チギリの表情が凍りついた。血走った目は爬虫類の如く上下に引き裂いたように見開かれている。その異形に俺は戦慄し、掴んだ胸ぐらを離した。
「……おっ……さん?おっさん……お……おぉ……」
掠れた声を残し、胸を押さえる。顔色が真っ青になり、膝から崩れ落ちる。
「ちょ……お、おい……どうしたんだよ?」
思わず声が漏れる。俺のせいか?冗談じゃねぇ。
すると境内の奥から駆けてくる足音がした。
「おじ……チーちゃん!?」
傘を投げ出して飛び込んできたのは、一人の少年。どこかで見覚えのある……そうだ。虹又さんと仲良さげにしてた男子生徒だ。
そいつは必死でチギリの肩を揺さぶり、狼狽しながらもスマホを取り出して叫んだ。
「お願いします!すぐに救急車をよこしてください!なんかもう……死んでるかもですッ!」
俺はその場に立ち尽くした。
サイレンが近づき、赤い光が雨ににじむ。秒で到着した救急隊員が担架を運び、チギリを乗せていく。
傘も差さず濡れ鼠になりながら、そのチギリの親戚だという男子生徒は唇を噛んで立ち尽くしている。
「どうしよう。神社、僕ひとりじゃ……」
その声を横目で聞いた俺は、顔を背けて明後日の方向を見やった。
「……知るかよ」
吐き捨てて背を向ける。
雨音に紛れて足音を消し、濡れた参道を歩き去った。
背中に残るのは、サイレンの残響と、胸の奥でまだ鳴らないヴァイオリンの音だけだった。
*
せっかくの休日だってのに、最悪の夢見で目が覚めた。
昨夜、あの美少女みたいな男の神主が倒れた光景が、何度も頭に蘇る。胸の奥に、ざらついた鉛みたいなものがへばりついて、眠りを削ってやがる。
枕元のスマホが光っていた。
嫌な予感がした。画面を開く。
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【傘ゆら実行委員会】
代表(雨十チギリ)の失神が長引いているため、
傘ゆらは一時停止となります。
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「……は?」
思わず声が漏れた。
ふざけてんのか。昨夜の一件のせいか? 俺が……あの言葉を吐いたせいで?
舌打ちし、ベッドから立ち上がる。窓を開けると、目に飛び込んできたのは────青空。
つい昨日まで滝みたいに降っていた雨が、嘘みたいに消えていた。
濡れたアスファルトがぎらつき、光を反射して目に痛い。
「……傘ゆらと一緒に、雨まで止めんのかよ」
独り言ちた声が、やけに虚しい。
ヴァイオリンケースを開け、震える手で弓を構えた。
弦に走らせる……が、当然のように音は出ず、空気が凍りついたみたいに沈黙だけが広がってゆく。
「……クソッ!」
弓を投げ、壁に背を預ける。ヴァイオリンを抱きしめるようにして座り込む。
唯一残された俺の”心“すら、簡単に奪われていく。母に捨てられてからも、これだけは手放さなかったのに。
「奪われる……このままじゃ」
かすれた声が、自分のものとは思えなかった。
アパートの部屋は静かだ。箸をつけずにいた冷めた弁当が机に置かれたままだ。
「知るかよ……俺は関係ねぇ」そう吐き捨てたはずなのに、脳裏には昨夜の光景が焼きついて離れなかった。
必死で倒れたチギリにすがっていた、あの男子生徒。名前は知らない。どこかで見た顔だ。
でも、雨に打たれながら震えていた姿は……妙に、心をざわつかせた。
「……チッ。なんで気にしてんだよ、俺」
舌打ちとともに立ち上がる。スマホを掴んで玄関まで行き、ドアを開ける。
外はやっぱり青空だった。憎たらしいくらいに。
寝癖のついたまま。照りつける陽射しに目を細めながら、俺は参道の石畳を踏みしめている。
気にする必要なんてないはずだ……なのに足は、守矢神社へ向かっていた。
*
参道を上がりきったとき、思わず足が止まった。
……なんだ、あれは。
境内の真ん中で、巫女服を着た女の子……いや、この神社のことだから、きっと男……が右往左往していた。
赤い袴の裾を持て余しながら、竹箒を手に参拝客に会釈し、慌てて落ちた賽銭を拾い、説明書きを棒読みしている。
子供に「ねぇ、お姉さん」と声をかけられ、耳まで真っ赤にして否定している姿が、あまりにも滑稽だった。
俺は木陰に立ち、しばらくそれを眺めていた。
「……馬鹿みてぇだな」
そう呟きながらも、胸の奥に小さな熱が灯るのを誤魔化せない。
(なんで男なのに巫女服……でも……必死にやってんだな)
そのとき、巫女服の男子が裾を踏んで派手に転びそうになった。
俺は咄嗟に手を伸ばし、腕をつかんで引き留める。
巫女男子は、キョトンとしながも、俺に礼を言った。
「あ、ありがとう……」
間近で見て、思い出す。昨夜、チギリのために救急車を呼んでいたあの男子生徒だ。
こうしてると女に見えてきた……この神社にはなんかヤバイものが漂ってそうな気がする。
「貸せよ」
俺は竹箒を乱暴に取り上げ、そのまま境内を掃き始めた。
「え……」と驚く顔を無視し、無言で動き続ける。結局そいつも隣に並んで掃き始めた。
「お前……チギリの甥なんだろ?」
「う、うん。まあ……」
「なら、その格好も……血筋ってやつか?」
「い、いや!これはその……叔父さんの代わりってことで……」
「ははっ、ヤベぇ一族だな」
彼は苦笑して、少しだけ肩の力が抜けたようだった。
そこへ親子連れが参拝に来た。
子供が「お姉さん、鈴鳴らしていい?」と尋ねる。
「えっ……ぼ、僕……」真っ赤になってうろたえる姿に、ため息を吐き、俺が前に出る。
「このロープ引けばいいんだ。ほら」
子供が嬉しそうにガラガラと鈴を鳴らす。
「……ありがとう」
礼を言う声は素直だった。
「別に。目障りだっただけだ」
俺はぶっきらぼうに返す。
それでも、二人で並んで掃き掃除を続ける時間は、不思議と心地よかった。
人と肩を並べて何かをするなんて、俺には縁のないことだったのに。
ひと通り作業を終えて、額に汗を光らせていた巫女服姿のアイツが、晴れ渡った空の下でふうっと息を吐いた。
掃き清められた境内に、雨上がりの紫陽花が光を浴びて揺れている。
「……一緒にやってくれて、助かったよ」
そう言うと、ヤツは拝殿脇の冷蔵庫から小さなクーラーボックスを取り出した。
「ほら、アイス。叔父さんの非常食みたいなもんだけど……食べる?」
差し出された棒アイス。
俺は一瞬だけ訝しんだが、断る理由もなく受け取る。
銀紙を剥がして口に含む。冷たさが喉を通り抜け、火照った体を少し鎮めていく。
アイツも隣でアイスをかじっている。
どこかぎこちない沈黙。けれど、不思議と嫌じゃなかった。
「……馬鹿みてぇだな」
つい口から漏れた。
「え?」アイツがきょとんと振り向く。
「こんな格好で働いて、アイスで慰労かよ。笑っちまうだろ」
アイツはちょっと拗ねたように笑った。
「そうかもしれない。でも、ありがとね。レンジ……くん?」
「……は?お前、俺を知ってんのかよ」
「えっ……あ、いや、その……たまたま学校で耳に入っただけ」
「ふーん……」
訝しげに目を細めたが、それ以上は突っ込まなかった。
溶けかけたアイスの甘さが胸の奥に広がる。
それが冷たさなのか温かさなのか……俺には、うまく言葉にできなかった。
*
夕方の境内は、やけに静かだった。遠くでカラスが鳴いてるだけで、人影もない。
石段の向こうには、守矢湖が赤く染まって広がっていた。
水面は鏡みたいに夕陽を映して、きらきら光の粒を散らしている。俺の胸のざわつきと同じくらい、落ち着かない景色だった。
気が緩んだせいか、つい口から出ちまった。
「なぁ、露木。傘ゆらって……辞退できるのか?」
途端に、隣のこいつがビクッと肩を震わせた。
「え……?」
あれ? 知らねぇのか。チギリの甥だし、運営に噛んでると思ったんだが。
俺は首を傾げながら続けた。
「お前さ、あの神主の身内だろ? だから詳しいんじゃねぇの?」
露木は困ったように黙り込む。
……まあいいや。どうせ隠してても無駄だ。
「ほら、嘘じゃねぇって」
ポケットからスマホを取り出して突き出した。画面には《あなたは傘ゆらに選ばれました》の通知が残っている。
「俺も選ばれたんだよ。気づいたらこんなもんが届いててさ」
露木は目を点にして呆然と画面を見つめていた。
俺はもう一つ、手元のビニール傘を持ち上げる。
「で、手元にあったのがこれだ。誰のか知らねぇけどな」
取っ手をなぞる。黒い獣のシルエット。
その瞬間、露木の表情が固まった。
「……それ」
声が震えていた。
「それ、僕の傘だ」
「は?」間抜けな声が出た。
「僕が描いたんだよ、その黒ヒョウ」
「は……え?」
「僕も……傘ゆらに選ばれてるから。繋がってるみたいだね……僕たち」
そう言うと、露木は懐からスマホを取り出して、俺に画面を向けた。
「傘ゆら参加のお知らせ」そう書かれたメッセージ。俺のと同じだ。
胸がざわつく。信じたくねぇけど、どうやらマジらしい。
黒ヒョウのマークはごまかしようがない。こいつが描いたって言うなら、そうなんだろう。
……ってことは。
「……じゃあさ」
俺は低く言った。
「俺がこの傘に歌を書けば、お前に届くってことか」
露木はぎこちなく頷いた。
「うん。傘ゆらの贈歌は……本来の持ち主に届くから」
湖面に映る夕焼けが滲んで見える。落ち着きたいのに、逆に心をかき乱される。
「それで、俺の贈歌対しての返歌は……露木からってことだよな?」
「そうなるね。嘘を書くと届かないらしいけど」
「はぁ……つまり、お前んとこに俺の傘があるってわけだな。それが傘ゆら伝説だろ?」
「いや、それが……僕のところにあるのは違う人の傘だよ」
「あぁ?俺のはヴァイオリンの弦が巻いてあるんだぜ?紫色の」
「うん。それなら絶対違うよ」
「……じゃあ俺の傘は誰が持ってんだ?毎日のように恋の歌なんて送ってきやがってよ」
しばらく沈黙して、俺はふっと息を吐いた。
吐き出したのは溜息か、それとも諦めか。自分でもわからなかった。
「あー、でも……むしろ好都合だ」
「え?」
露木が目を瞬かせる。
「俺さ、和歌をサボってたから、大事なもんを龍神に奪われちまったんだ」
「大事なもの?」
「ヴァイオリン」
「さっきもヴァイオリンって……弾けるの?」
「まぁ……少しだけな」
口の端を歪めて誤魔化す。俺の“命綱”なんて言えるわけないから。
「まー、そんなわけでさ。これから毎日贈るから、和歌。笑うなよ?」
露木はきょとんとしたあと、ゆっくりと頷いた。
夕焼けの中で、その頷きがやけに穏やかに見えて、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。
*
湖畔の公園に腰を下ろし、一息ついた。
逢魔時を前にして、守矢湖が朱に染まっている。湖面に映し出された真っ直ぐに伸びる夕日は、まるで放たれた矢のようだった。
こういう景色を、昔の人間はささっと歌にして詠んだんだよな。と思い巡らす。
「……和歌を贈るって言ったけどさ」
思わず口に出す。
「今は止まってんだよな、傘ゆら。……俺のせいで」
馬鹿みたいだ。そう思った瞬間、空が裂けた。
ざぁっと叩きつける夕立。慌てて東屋の軒下へ駆け込む。
そのとき、ポケットのスマホが震えた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.· ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.·
【傘ゆら実行委員会】 運営再開のお知らせ
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「……タイミング良すぎだろ。チギリの野郎、どっかで見てやがんのか?」
ため息を吐きながらも、胸がざわつく。
傘を開き、ペンを握る。
本音……普段は心にしまい込んでいる心の声……つまり“ぼやき”だっていいんだよな?
✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
恋も知らず 優しさまでも 消えゆきて
諦めの風 胸を過ぎゆく
「恋もわからない。優しささえ、もう掴めない。
残ったのは諦めの風が胸を通り過ぎるだけだった」
✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
赤い光が走り、雨に濡れて文字は消えた。
「……バカみてぇ」吐き捨てるが、心臓の音は止まらない。
数分後。俺の傘が白く光った。
白く光る。つまり返歌だ。そしてこれは、露木からの言葉だ。
✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
かたちなく なおもやさしき しぐれかな
ともに過ごせば こころ和らぐ
「形がわからなくても、今日のひとときは優しかった。
君と共に過ごすと心が和らぐよ」
✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
思わず固まった。
「……俺と過ごせば、心が和らぐ?」
ふざけんな、そんなこと言われたの初めてだ。信じられるかよ。露木のやつテキトーに書きやがったな?
……けど。
胸ん中がじんわり熱い。息が詰まるくらいに。
誰かに必要とされたみたいで、体の芯が軽くなっていく。
弦を撫でた指先が思いがけず共鳴を拾ったみたいに、心臓が勝手に鳴り出す。
抑え込んできた感情が、雨音に紛れて滲み出してくる。
笑うつもりはなかったのに、口の端が勝手に緩んだ。
その直後、また赤い光。
今度は新しい和歌。贈歌ってことか────差出人はわからない。
「……今日こそ、返歌してみるか」
ペンを握り直す。雨音だけがやけに近くて、指先が汗で滑った。


