夜の雨は、絶え間なく屋根を叩き、広い家の中に低い響きを残していた。
 ここは時雨邸。私──── 時雨マドカの家。
 高台の住宅街でもひときわ目を引く屋敷で、門を抜けると石畳のアプローチが長く続き、玄関の扉は二人がかりでやっと開くほど重厚だ。

 だが、その中に入れば入るほど、広さは寂しさを増幅させる。
 絵画や花瓶が整然と飾られ、磨き抜かれた床は人の影をほとんど映さない。
 豪奢さを誇るための空間。誰かに見せるための家。
 そこに「暮らし」の匂いはほとんどなかった。

 長いダイニングテーブルの中央にポツンと置かれていたのは、紙容器に収まったデリバリーの料理だけ。
 白いクロスが張られた立派なテーブルの広さが、かえって空虚を際立たせる。
 父は会社経営に追われ、母もまた仕事に没頭している。同居していた祖母が施設に入ってからは、温かい手料理が並ぶ食卓など一度も見ていない。

 私は容器の蓋を外し、冷めきった料理をそのまま口に運んだ。
 レンジ……電子レンジにかければ温まるのだろうが、味まで変わるわけではない。温め直す手間さえ、虚しい。

 ────この大きな家は、人に見せるためのもの。
 中身はこんなにも空っぽだ。まるで、私みたいに。

 食事を終えると、静まり返った廊下を渡り、自室へと戻る。
 廊下は長く、足音だけがやけに響く。灯りは暖色なのに、どこか冷たい。
 扉を開けば、そこは整然と整えられた部屋。
 壁際には高い書棚が並び、革張りの本の背表紙が規則正しく揃っている。机の上には読みかけの和歌集とノート。
 柔らかなシャンデリアの光が天井に揺れ、外の雨音を淡く映していた。

 私はノートにしたためた一首を見つめ、そっと息を吐いた。
 やがて椅子から立ち上がり、傘と専用のペンを手に取る。
 窓を開けると、ひんやりとした夜気が流れ込み、街の灯りは雨に溶けて滲んでいる。

 バルコニーに出る。
 傘を開けば、雨粒が膜を叩き、まるで胸の奥を震わせるように響いた。
 私は傘地に和歌を綴る。

 
 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
 待ち人を 雨に紛らし 立ちぬれば
 声なき恋は 傘に宿らむ

「待つ人を、雨に紛らせて立ち尽くしています。
声にならぬ恋は、きっと傘に宿るのでしょうね」
 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼

 
 その瞬間、雨粒に触れた文字が赤く光り、夜気の中にひとひらの炎のように浮かび上がった。
 ────やがて、儚く消えてゆく。

 「……届いて」

 声にはならない祈りが、唇の裏で震えた。
 残光が完全に消えるまで、私は呼吸さえ忘れて立ち尽くす。

 傘を閉じ、室内へ戻る。
 窓ガラスに映る自分の顔は、雨に濡れたように冷たく見えたが、
 それでも唇の端には、かすかな笑みが浮かんでいた。

 (これで繋がれる。きっと────)

 そう自分に言い聞かせ、傘を机に立て掛ける。
 広すぎる部屋に、雨音だけが絶え間なく響き、
 私の胸の奥の空虚を埋めるように鳴り続けていた。


 *


 机の端に立てかけた傘を、私はじっと見つめていた。
 部屋の中は静まり返り、聞こえるのは雨の滴る音ばかり。
 それはまるで、胸の奥に溜まった言葉にならない感情を代弁するようだった。

 ────この傘は、雲座(くもざ)レンジのもの。
 
 私は知っている。
 あの日、昇降口で“わざと”選んで持ち帰ったのだから。

 レンジくんの傘には、持ち手に紫色の『弦』が巻きつけられている。
 それはヴァイオリンの弦。
 楽器と共に生きる彼らしい印だ。だからこそ、間違えようがなかった。

 あの日の放課後、私はいつものように彼を待っていたのだ。
 けれど長い影が伸びる時間になっても、レンジくんは現れなかった。
 苛立ちと寂しさがないまぜになり、私は衝動に任せて彼の傘を手に取った。
「困ればいい」「少しは私を思い出すだろう」────子どもじみた、拗ねた心。今思えば恥ずかしいほど浅はかで、弱々しい行為。

 けれど、それがまさか「傘ゆら」に選ばれるきっかけになるなんて思いもしなくて……。
 最初は後悔でいっぱいだった。
 けれど、今は違う。
 むしろ、これは運命なのだと信じたい。いや、もうとっくに信じている。

 私がレンジの傘を持っているのなら、彼もまた私の傘を手にしているはず。
 だからこうして歌を交わすことができる。
 それは偶然ではなく、必然。
 龍神に導かれた縁────そう思えば、この胸の渇きもほんの少し和らぐ気がした。

 (今度こそ、向き合ってほしい。仮初めの優しさではなく、私をちゃんと見てほしい)

 机の上の傘に指先をそっと這わせる。
 赤く光っていた文字はすでに消え、ただ濡れた布地の感触だけが残る。

 ────どうか気づいて。
 レンジくん。

 雨音が、答えのない祈りを優しく覆い隠していた。


 *


「レンジくんは、返歌だけはしないって決めてるの?」

 そうぼやいたのは、起床と同時に、私はアプリの通知がないかチェックをした時のこと。
 返歌の知らせはない。
 傘ゆらに選ばれてからずっとそうだ。レンジくんは、私の贈歌に返歌をしたことは一度としてない。
 それでも、向こうからの贈歌は毎日きちんと送られてくるのだから不思議だ。

「重すぎるか……私の贈歌……」

 あからさまに“恋”を歌っているのがマズいのだよ。そう諭すかのように、彼からの贈歌は“運動靴”を新調したとか、幼馴染が浮かれててムカツクとか。随分と牧歌的な内容が多い。
 ……レンジくんに、幼馴染なんていたっけ?
 と、和歌の内容を思い出しながら、私は制服を纏い髪を整えた。
 学校へ行く。そう思っただけで勝手にため息が漏れてしまうけれど。

 玄関を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
 広すぎるエントランスホールには、誰の足音も響かない。磨かれた大理石の床、壁にかかる大きな鏡、重厚な扉。どれも立派で、外から見ればきっと羨まれる光景なのだろう。
 けれど私にとっては、ただ冷えきった静けさの象徴でしかなかった。

 扉を閉めると、屋敷の中に漂う無音が背中にまとわりつく。
 (この家は、広さも美しさも、私に何も与えてはくれない)
 そう胸の奥で呟きながら、石畳の坂道を下りていく。

 すれ違う近所の人は「おはようございます、マドカさん」と微笑んでくれる。
 私は自然に、完璧な笑みを浮かべて返した。
 もう癖になっている。心からの笑みでなくても、誰も気づかない。

 校門をくぐるころには、表情も姿勢も整えられていた。
 「時雨マドカ」という仮面を、今日もきっちり被った顔で。

 昇降口を抜け、教室に入った途端、声が重なった。

「マドカ、おはよう!」
「髪ツヤツヤだね、今日も」
「この前の英語の課題、またA評価だったんでしょ?今度一緒にやろうよ」

 笑顔を向ける。頷く。小さな冗談を返す。
 それだけで、教室は少し明るくなる。
 私がそういう役割を担っているのだと、みんなが信じて疑わないから。

 ────でも、本当の私は誰も見ていない。

 唇が勝手に微笑みの形を覚えてしまったように、私は笑っている。
 返す言葉は習慣のようなもの。そこに心は宿していない。

 “絵に描いたような女の子”であること。
 それが、私に与えられた仮面。
 外さなければ誰も困らない。けれど、外してしまえば誰も私を見なくなる。
 だから、私は今日も仮面を被る。

 ふと窓の外に視線を移した。
 雨に濡れた校庭が広がっている。
 広いのに、誰もいない。
 空っぽの景色。
 それはまるで、胸の奥の空虚を映しているようだった。

 ────本当の私は、何もない人間だ。
 頭も、成績も、家柄も。全部「与えられたもの」でしかない。
 自分自身の中には、誇れるような何かはひとつもない。

 私は空っぽ。
 ただ形だけ整えられた、平凡で退屈な人間。
 だからこそ、彼に惹かれたのだろう。誰よりも音楽という才能に愛されたレンジくんに。

 ────今日も、あの人の返歌を待っている。

 そう思い出した途端、胸の奥がわずかに疼いた。
 (きっと、レンジくんだけは……私を見てくれるはずだ)
 そうでなければ、この笑顔を続ける意味なんてない。


 *


 3限目の体育館の二階観覧席は、しんと静まり返っていた。
 下からは笛の音や掛け声、ボールが弾む軽快な響きが絶え間なく届いてくる。けれどこの高い場所は、まるで世界から切り離された小さな避難所のようだった。

 私はベンチの隅に腰を下ろし、両膝を抱えて小さく息を吐いた。朝から仮面をかぶり続けていると、顔も心もこわばっていく。
「皮膚だって弛んでしまうのだから、心も同じ」そんな言い訳を胸の奥に忍ばせながら。

 ふぅ。とわざとらしくため息をついてから、私は携帯を取り出した。
 タップして開いたのはSNSのアプリ。すぐに見慣れたアイコンが私を出迎える。
 
 ────これは立派な校則違反だ。
 うちの高校ではSNSの登録は禁止されているから。
 理由としては、SNSによって縛り付けられる“人間関係”が、生徒に悪影響を及ぼすと考えた結果とのことだ。フォローするしない、いいねしたとかしないとか、ただ一言のつぶやきが過剰に炎上してしまったり……結局は誰も本当のことを言わなくなって、嘘で塗り固めた仮面を被っては夜が明けるまでポーカーを続ける。それがネット上の付き合いというやつだ。現実とてそうかもしれないが。
 いずれにせよ、くだらなくて肩が凝る。禁止したのは正解。大正解。
 それなのに私がSNSのアカウントを……いわゆる裏アカというやつを持っているのは、これまたバカげた理由で笑ってしまう。インフルエンサーをフォローするのためである。
 それも、クラスメイトの子たちが「マドカに似ている」と言っていたアイドルやら芸能人やらモデルやらを、片っ端からフォローしては彼女たちのつぶやきを、ただただ眺めている。すると、私まで特別になったような気になるのだ。一歩間違えば、私も彼女たちみたいに特別になれるのかも……そんな馬鹿げた妄想に浸るのが密かな楽しみになってしまっている。
 本当に私は、他人を基準にして生きているんだなと……ほとほと嫌になりながらも。

「やっぱり、ここにいた」

 それ聞き覚えのある声だった。
 だが関係ない。私は慌てて携帯をポケットにつっこんだ。

 階段を上がる軽快な足音と共に、アメリが顔を出した。
 セーラー服の襟をぱたぱたと仰ぎ、汗で少し額が濡れている。彼女は迷いなく私の隣に腰を下ろすと、笑顔で覗き込んできた。

「おやおや、マドカくん。サボりはいかんですな〜」
「そっちこそ。単位危なくないの?」
「まー、数学なんていつも寝てるしさ。んで、どうしたの?なんかあったって顔してる」
「……ちょっと疲れただけ」
「マドカが疲れるなんて珍しいじゃんね。いつも“完璧優等生”なのに」
「やめてよ、その呼び方。全然完璧じゃないんだから」

 思わず素直な言葉が口をつくのは、彼女が相手だからだ。
 アメリの前では、私は取り繕わなくてもいい。それだけで随分と楽になる。
 
「今日は朝から疲れちゃったんだ。仮面を被り続ければ、皮膚だって弛んでくる。心も同じね」
「えー、なにそれ、マドカらしい例えじゃんね」
「仮面女子なのでね」
「んふふ、でもそうだなぁ……」
 
 アメリは一度笑ってから、少し真顔でこちらを見据える。
 
「私は、その仮面の下のマドカの方が好きだけど」

 そのイタズラっぽい笑顔に、胸の奥がわずかに熱くなる。
 ……アメリは“女の子にモテる”らしいが、こういうことか。と私は妙に納得した。
 そして気恥ずかしさをごまかすように、視線を下のコートへ逸らした。
 赤いボールが床を滑り、誰かが追いかける。その軽やかさを目で追いながら、私はふと思い出したように口を開いた。

「そういえば、最近ね。オミトくんと話すようになったの」

 アメリの横顔が、わずかに揺れた。
 ほんの一瞬の沈黙のあと、彼女は笑顔を作って「へぇ、そうなんだ」と軽く返す。
 けれど、その瞳の奥に波紋が広がるのを私は見逃さなかった。
 なるほどね……地図にも載らないほどの隅っこに隠れていた“私”がほくそ笑んだ。この予感を確かなものにしたい。だから続けろと私に命じた。

「彼、ちょっとキョドったりもするけど。でも静かで、それでいて時々すごく真剣な目をするんだなって」
「……そうだね。真面目っていうか、不器用っていうか」
「不器用……ふふ、そういうの、悪くないと思う」
「……ふーん」

 アメリは笑ってみせたが、その声はほんの少し硬かった。
 私たちは並んで座り、しばし無言になった。体育館の下から響く掛け声とボールの音だけが、この場を膨らめて埋めていく。

 ────アメリの隣にいると、私は仮面を外せるんだ。
 いい意味でも、悪い意味でも。


 *


 昇降口に立つと、窓ガラスを叩く雨粒が大きくなっているのがわかった。
 灰色の空。靴箱の列。放課後のざわめきは遠ざかり、人影はもうまばらだった。

 ────今日もまた、私はここにいる。
 昇降口で、レンジくんを待つのが習慣になってしまった。
 彼が来るかどうかはわからない。けれど、来るかもしれない。
 その「かもしれない」に縋るために、私は毎日ここに立っている。

 ほんの数秒でもいい。
 同じ空気を吸って、同じ空の下に立っていると確かめたい。声をかけられなくても、視線が交わらなくても。それでも、ここで待っているときだけは、彼との距離がほんの少し縮まるような気がするのだ。

 ────滑稽だと思う。
 完璧な優等生を演じていながら、胸の奥ではただ一人の男の子を待つことしかできないなんて。
 「時雨マドカ」という仮面を被る自分と、臆病に立ち尽くす自分。
 その落差を、私は痛いほど自覚している。それでも、足は毎日ここへ向かってしまう。待つという行為そのものが、私の心を辛うじて繋ぎとめているからだ。

 窓ガラスに叩きつける雨粒の音が強まった。
 そのリズムに混じって、背後から小さな足音が聞こえた気がした。

 (……誰?)

 ぞわりと背筋に冷たいものが走る。
 校舎のざわめきはすでに遠く、昇降口は人影もまばらだ。
 この音は、私に向かって近づいてくる────そう直感した。

 私は鞄の中に手を忍ばせる。
 指先に触れたのは、小さなスプレー缶。
 ────あの日、不良に取り囲まれたときの恐怖が、まだ胸の奥にこびりついている。
 強がっていても、私は完璧じゃない。臆病な自分を隠すために、この缶をお守りみたいに持ち歩くようになった。
 昇降口で彼を待つこの習慣も、実は勇気がいるのだ。

 足音が一歩ごとに大きくなる。
 じり、じり、と床を踏む音が背後に近づいてきて、ついにすぐ背中の後ろまで迫った。

「……マドカさん」

 背後から低く名前を呼ばれた瞬間、反射的に体が跳ねた。
 私は振り向きざまに、スプレー缶を掴んで噴射していた。

「む゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ん゛ッ!」

 間の抜けた叫び。
 振り返ったその先にいたのは……目を押さえてうずくまる、オミトくんだった。


 *


 ──── やらかしてしまった

 保健室の流しに身をかがめ、オミトくんは必死に目を洗っていた。
 私はその後ろで、ハンカチを握りしめて立ち尽くしている。

 カーテンの隙間から差し込む午後の光が、白いリノリウムの床に淡く広がっている。養護教諭の姿はなかった。もう帰ってしまったのか、それとも巡回に出ているのか。
 この空間には、私とオミトくんの二人しかいなかった。

「ご、ごめんなさい!本当に……怪しい人かと思って」
「……はは。無理もないよ。僕は陰の者だからね」
「い、いえいえいえ、そういう問題じゃなくて!」

 自分でも何を言っているのかわからない。完璧な仮面をかぶるはずの私は、いまや平謝りするただの臆病者だ。
 もしも、誰かにこのことをバラされたら……私はどうすればいいのか。
 唇を噛んでうつむいた瞬間、オミトくんが顔を拭いながらふっと笑った。

「意外だな……マドカさんって、そういうの持ち歩いてるんだ」
「……小心者なの。笑っちゃうよね」
「全然。ちょっと意外だったけど。なんか、安心した」

 胸がどくんと鳴った。
 安心?どうしてこんな失態を晒した私に、そんなことを言えるのだろう。
 彼の声音には嘲りも皮肉もなかった。ただ、不思議と柔らかかった。

 沈黙が降りた。
 窓を打つ雨音が、しんしんと空気を満たす。
 広いはずの保健室は、二人きりだと不思議なくらい狭く思えた。私の胸の奥に小さな熱が生まれ、どうしようもなく落ち着かない。
 何かが、オミトくんの口から飛び出してきそうな気がして……少し怖い。

「マドカさん……」

 オミトくんが、ぎゅっと拳を握った。
 決意を宿した眼差しが、正面から私を射抜く。

「聞いてほしいことがあるんだ。マドカさんに……」

 切ないほどに純粋な、真剣な声色。
 私は無意識に背筋を伸ばしていた。

「僕の……肖像画の……モデルになってください!」

 思わず息が止まる。
 保健室の静けさの中、雨音だけが規則正しく窓を叩き続けていた。
 その音が、妙な緊張と、ほんの少しのときめきを孕んだ沈黙を際立たせていた。