湿った風が、グラウンドを横切っていく。
 六月の空は重たく曇っていて、雲間からかすかな光がこぼれている。紫陽花がグラウンドの端で色づき始め、風に揺れていた。

 シューズの音がトラックを叩く。一定のリズムで走っているはずなのに、胸の奥では静かなざわめきが広がっていた。
 ────結局、この競技は一人だ。
 仲間が掛け声を上げ、監督が声を飛ばしていても、走るのは私自身の足。どんなに並んでいても、ゴールに向かうのは一人きり。

 呼吸が苦しくなるにつれて、思い出したくない記憶がよみがえる。
 母がこの世から消えてしまった日のこと。
 小学校に上がる少し前、病院のベッドの上で母は弱々しく笑って「アメリは元気でいなきゃだめよ」と言った。
 あの日の言葉が呪いみたいに胸に張り付いている。
 私は父を泣かせたくなかったし、周りに心配をかけたくなかった。
 だから、明るい顔を作った。みんなに「虹又アメリは元気印」って思わせるように。

 本当は、あの日からずっと、空っぽみたいに寂しかったのに。
 「強くて明るい私」を演じるのに疲れて、走るときだけは心が裸になる。だから長距離が好きだった。
 それでも、時折こうしてフタをした感情が顔を覗かせるのを、どうしても誤魔化すことが出来ずにいる。

 「はぁっ……!」息が乱れ、スピードを緩めたときだった。
 足元で嫌な感触がした。地面に埋められた悪霊に足を掴まれたみたいな。見ると、靴紐がほどけかけている。
 慌てて立ち止まり、しゃがみ込んで結ぼうとする。けれど、いつも通り指はぎこちなく動くだけ。結べない。どうやってもできない。まるで噛み合うことのないルービックキューブをぐるぐると回しているかのようだ。
 
「……はぁ、またか」
 
 苦笑してため息をついた。こんなとき、思い出すのは決まっている。
 ────オミト。
 小さいころから、ずっと彼が結んでくれていた。
 誰にも言えない私の秘密を、彼だけが知っている。ふたりだけの秘密だ。

 靴紐はもうやりようがないので、靴の中に無理やり押し込めてトラックの外に出た。
 夕暮れが近づき、空はいまにも泣き出しそうだ。額の汗を拭いながら見上げたその色は、どこか私の心に似ていた。


 *


 部活が終わるころには、曇天の隙間に紅を差したかのように朱が浮かんでいた。
 走り込みの途中で解けてしまった靴紐をどうにも結べず、私は仕方なくスマホを取り出してメッセージを送った。
 ────ごめん、オミト。帰り待っててくれる?
 返信は短く「了解」の一文字。それだけで、少し安心する。

 商店街の自販機の前に行くと、彼はちゃんとそこにいた。
 スケッチブックを抱えて、所在なさげに立っている。
 
「遅かったな」
「ごめん、部活が長引いちゃって」
 
 額の汗を拭いながら答えると、私は迷わず片足を突き出した。

「これ、解けちゃった。替えの靴、今日は忘れちゃってさ」
 
 オミトは小さくため息をついて、しゃがみ込む。
 手際よく紐を扱う指先を見下ろしながら、私は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じていた。
 
「ほんと、子どもの頃から変わんないなアメリは」
「ふーん。できないものは、できないじゃんねー」
 
 結ばれていく靴紐を眺めながら、私は小さな声で言い訳した。

 彼が立ち上がり、埃を払う。その仕草は昔と何も変わらない。
 こんな当たり前のやり取りが、誰にも言えない秘密みたいで──特別に思える。

 二人で歩き出すと、商店街には夕飯の匂いが漂ってきた。焼き魚の香りや、揚げ物の油の音。人々のざわめきにまぎれて、私たちの足音は小さく続いていく。

「で、美術部は? また顧問に何か言われた?」
 
 からかうように尋ねると、オミトは苦笑しながら肩をすくめた。
 
「肖像画描けってさ。僕に人なんか描けるわけないのに」
「えー、おあつらえ向きじゃんね!モデルならここにいるし。走ってる間ならタダで貸してあげるよ」
「……走ってるのを描けるわけないだろ」
 
 しょうもないやり取りに、思わず声を立てて笑った。彼もつられて笑って、ほんの一瞬だけ、空気がふわりと軽くなる。

 雲の合間を縫って夕陽がさし、並んで歩く影が長く伸びていった。
 私は横目で彼の横顔を見ながら、胸の奥で言葉を飲み込んだ。
 
 ────私にとってオミトは、ただの幼馴染じゃない。

 けれど、それを口に出すことはできなかった。たぶん、この先もできそうもないけれど。
 それでも、この胸が静かに高鳴っているのを、私だけは知っている。

 赤く染まる空の下で、私は自分の鼓動の速さを隠すように、わざと大きな声で「今日の晩ごはん何かなー」と独り言をもらした。

 
 *


「ねぇ、アメリ。時雨マドカさんと仲いいよね?」

 オミトが唐突にそう言った。私は面食らってしまい、数秒硬直した。

「え、あぁ、うん。そうだけど、なんで?」
「いや……なんか最近、変わったことがあったとか……言ってなかった?」
「変わったこと?例えば?」

 オミトは立ち止まって、しばらく地面を睨みつけたのち、意を決したようにして言った。
 
「……実は、僕。傘ゆらに選ばれたんだ」

 その言葉と同時に、空が裂けるように雨が降り出した。
 大粒の雨がアスファルトを叩き、商店街の灯りをにじませる。私とオミトは顔を見合わせ、慌てて駄菓子屋の軒下へ駆け込んだ。
 狭い軒下に二人きり。湿った空気の中で、心臓の音がやけに大きく響く。

 オミトは抱えていた傘を少し持ち上げて見せた。
 
「この傘……マドカさんのなんだ」
 
 そう言って、持ち手に結ばれた小さなリボンを指でなぞる。その仕草は、まるで宝物を扱うみたいに優しかった。

 ────その顔。
 私には一度も向けられたことがない。憧れの色を帯びた笑み。

「似合うよね、あの人。こういう可愛いの」
 
 オミトの声が雨音に溶け、胸に突き刺さった。

 (……やっぱり、オミトはマドカのことが特別なんだ)

 思い返せば、日常の中にも兆しはあった。
 廊下でマドカとすれ違うとき、オミトの視線は必ず彼女を追っていた。
 階段の踊り場から校庭に出ていく後ろ姿を、息を潜めるように眺めていたこともあった。
 「ただの憧れ」だと自分に言い聞かせてきたけれど────本当は気づいていた。
 オミトの瞳に映っているのは、私じゃない。

 けれど、そのリボンは私とマドカがお揃いでつけたもの。
 いつだったか放課後にコンビニで買ったのだ。
 「せっかくだから、お互いの傘につけようよ」
 親友同士だからと。そう言って笑い合った日の記憶が蘇る。

 ただ、私はそれだけでは足りなかった。
 マドカと同じにしながらも、自分だけがわかるように────リボンの下に三色の虹を描き込んでいた。
 私しか知らない、ちっぽけな印。

 胸のざわめきを隠すため、私はとっさに笑顔を作る。
 
「ねえ、アイス買ってきてよ。このお店でいちばん高いやつ」
「……え、今?」
「お願い!」
 
 強引に背中を押すと、オミトは首をかしげながら駄菓子屋の中へ入っていった。

 残された私は、震える手で傘のリボンをそっと外す。
 ────そして、そこに三色の虹が浮かんでいるのを見て、息を呑んだ。
 やっぱり。これは、私の傘だ。
 
「……なんで…………」
 
 声にならない声が唇からこぼれる。

 ポケットからスマホを取り出す。
 画面には、二日前に届いた通知が光っていた。

 
 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.· ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.·
 【傘ゆら実行委員会】傘ゆら当選のお知らせ
 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.· ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.·

 
 その一文を見つめながら、胸がざわめいて止まらなかった。

「あれ、虹又さん?」

 男の子の声、背後からだ。私は思わずスマホを隠した。
 振り返ると、そこに立っていたのはオミトではなかった。駄菓子屋から出てきたのは────
 
「雲座くん……」

 雲座レンジ。マドカの親しい友人だ。私とは挨拶を交わす程度の仲。
 
「こんなとこで会うなんて珍しいな。雨宿り?」
「うん。部活の帰りで……」

 軽い挨拶を交わすと、雲座くんはふと口元に笑みを浮かべた。
 
「この前、マドカと話してたよ。虹又さんは陸上部の希望の星だってさ。すごい子だって」
「……そう、なんだ。マドカだって、すごいよ」
 
 口元は笑ったつもりだったけれど、声はわずかに震えていた。
 雲座くんは続ける。
 
「それな。マドカはよく他人を褒めるけど、あいつもすごいよな。何でも器用にこなすし、落ち着いてるし……やっぱり“憧れられる側”って感じがする」

 ────憧れ。
 その言葉が胸に突き刺さる。
 オミトがマドカのリボンをなぞりながら浮かべた、あの表情と重なった。
 (オミトの“憧れ”は、私には一度も向けられなかった……)

「……うん。そうだね」
 
 親友を否定することなんてできない。だから、私は曖昧に笑ってみせるしかなかった。
 そこへ、オミトがアイスを二本抱えて戻ってくる。
 すると雲座くんはオミトを一瞥し、私にだけ軽く会釈して駄菓子屋を後にした。
 
「……あれ、あの人ってたしかマドカさんの友達?」
 
 オミトの問いに、私は曖昧にうなずく。
 
「……そうだね」

 心ここにあらずのまま、私はオミトの横顔を見つめた。
 真実を知っているのは、この胸の奥に秘められた私だけ。
 雨音が叫ぶようにその勢いを増す。それはまるで秘密を覆い隠そうとしているかのようで、今の私にとっては、ただこの騒音だけがこの世界で唯一の味方だった。


 *


「アメリ、おかえり」
 
 マンションのドアを開けると、エプロン姿のお父さんが笑顔で出迎えてくれた。
 料理好きのお父さんの手料理は、いつもなら心から楽しみで、帰り道から胸を弾ませるのに。

「……ごめん、お父さん。私、ちょっと食欲なくって」
 
 視線を合わせられないまま、靴を脱ぎ、抱えていた傘をぎゅっと握りしめて自室へ駆け込む。
 ベッドに腰を下ろし、膝に置いた傘を握りしめた。
 いま、私の手元にあるのは────

 ──── マドカの傘

 親友とお揃いで選んだリボンが、まだそこに揺れている。
 (……どうして、今これが私の手元にあるんだろう)
 親友の大切な傘を握っている。この事実が胸をざわつかせる。
 奪ってしまったみたいで苦しい。けれど同時に、胸の奥で小さな火が灯る。
 ────オミトと繋がっているのは、マドカじゃなくて、今の私なんだ。

 ブルッ。
 スマホが震えた。画面に浮かぶ通知。

 
 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.· ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.·
 【傘ゆら実行委員会】──和歌が届きました。
 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.· ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.·
 

「きた……!」
 
 でも、部屋の中では何も起きない。
 (そうだ……傘は雨に触れないと歌が出ないんだった)
 私は傘を抱きかかえたまま立ち上がり、再び玄関へ向かう。

 夜の空気は冷たく、外に出ると雨の匂いが肌にまとわりついた。
 街灯に照らされた駐輪場の横で傘を開き、差し出す。
 雨粒が透明な生地を打ち、やがて淡い光となって広がり、文字が浮かび上がった。

 
 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
 もし願ひ 叶ふものなら 絵筆とり
 その姿こそ 影に留めむ

 「もし願いが叶うなら、絵筆をとって、あなたの姿を描き留めたい」
 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼


「……オミト」
 
 筆跡を見ただけでわかる。この和歌は、彼のもの。

 でも内容を読んで、息が詰まった。
 肖像画────顧問に課題を出されて悩んでいたのに、オミトは心の底で「もし描けるなら、その姿を描き留めたい」と願っていた。
 けれどそれは、私のことではない。マドカのことだ。

 「……っ!」
 胸の奥がズキンと痛んだ。

 (どうして……どうして私じゃないの。小さい頃からずっと一緒にいて、靴紐だって、毎朝オミトが結んでくれたのに。私の顔は、描きたいと思ったこともないんだ……)

 頭の中に、オミトがスケッチブックに向かう姿が浮かぶ。
 そこに描かれるのは、長い黒髪をなびかせるマドカの横顔。
 鉛筆の線が優しく彼女の輪郭をなぞる。
「似合うよね、あの人。こういう可愛いの」────そう笑ったオミトの表情が重なって、喉の奥が熱くなる。

 (……私じゃ、駄目なんだ)
 罪悪感と嫉妬がないまぜになり、胸が押し潰されそうになる。
 けれど、同時に、どうしようもなくオミトの心に触れていたいと願ってしまう自分がいる。

 傘に滲む文字を見つめながら、思わず心の中でつぶやく。
 (……このまま返さなければ、どうなるんだろう。龍神の加護が消えちゃうのかな。
 そうしたら、もうオミトの心の内を知ることもできなくなる……)

 それは嫌だった。
 たとえ彼がマドカに宛てたつもりの歌でも、オミトの心に触れられるのは今だけ。
 それを手放す勇気なんて、私にはなかった。

 「……返さなきゃ」
 ペンを取り出し、雨に濡れた傘地に文字を走らせる。


 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
 雨しずく 窓をなぞれば 静けさに
 心かくして 夜を過ごしぬ

 「降る雨が窓をなぞる静けさのなかで、心を隠したまま夜を過ごしました」
 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼

 
 必死に取り繕った不器用な歌。
 ペン先からにじんだ言葉に雨粒が触れると、淡い光が走り、すっと消えていった。

「……届いた、のかな」
 
 罪悪感と高鳴りが同時に胸を満たす。
 たとえオミトが、これをマドカ宛てだと思っていても。

 マンションに戻ると、父の声が台所から聞こえてきた。
 
「スープ温めてあるからな。あとで少しでも飲みな」
「……うん。ありがとう」
 
 私は短く返事をして部屋に入り、布団に潜り込んだ。
 暗い天井を見上げると、枕元のスマホを手に取る。
 タップしたのは傘ゆらアプリ。そして二日前に届いた通知。
 
 【おめでとうございます。あなたは傘ゆらに選ばれました】
 
 胸の奥がざわついて仕方がない。
 私は大きくため息つくと、スマホ画面を伏せるように胸の上に置いた。そしてしばらくしてまた、件の通知画面を見つめるのだった。

 
 *

 
 朝の空は、どんよりとした鉛色の雲に覆われていた。梅雨らしい、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。
 私はいつものように、オミトの家の前で立ち止まっていた。ほどけた靴紐を見下ろしながら、胸のざわつきを抑えようとする。

 (昨日の返歌……ちゃんと届いたかな。オミト、どんな顔して読んだんだろ)

 考えるだけで鼓動が早まる。傘に文字を書きつけたときの、あの微かな震えがまだ残っていた。

 玄関のドアが開き、眠たげな顔のオミトが現れた。
 私は精一杯背伸びした笑顔で迎える。

「おはよう、オミト」
「おはよう〜」
「んふふ。靴ひも、結ばせてあげる」
「はいはい」

 私は片足を差し出す。オミトは渋い顔をしながらもしゃがみ込み、手慣れた動作で靴紐を結んでくれる。その指先を見ていると、どうしようもなく胸が熱くなった。
 (オミトの心に触れられるのは、傘ゆらだけじゃない。私には、ずっとこうして……)
 けれどすぐに、昨夜浮かび上がった和歌が頭をよぎる────描きたいのは、私ではないのだ。

 二人並んで通学路を歩く。
 アスファルトの隙間からは小さな草が濡れそぼり、軒先の紫陽花は雨粒を抱いて重たげに揺れていた。
 世界の色がにじんで見えると思うほど、空気はしっとりと曇っている。
 私は視線を落としたまま歩くけれど、視界の端に映る横顔が気になって仕方がなかった。

 沈黙を破るように、オミトがぽつりとつぶやいた。
 
「……返ってきたんだ、昨日。マドカさんから」

 その一言で、心臓がぎゅっと掴まれた。
 (違うよ。返したのは、私なのに)
 言い出せない。真実を告げれば、すべてが壊れてしまう気がして。私は、ただ笑って誤魔化した。
 
「そ、そうなんだ。……よかったじゃん」

 やがて、赤レンガの外壁と校章の入った鉄門が視界に現れる。
 梅雨の湿気を孕んだ空気の中で、歴史ある校舎はどこか薄墨色に沈んで見えた。
 校舎の窓に映る空もまた灰色で、私の胸の中のもやもやと重なっているようだった。

 昇降口で靴を履き替えていると、鳥の囀りみたいな明るい声が響いた。
 
「おはよう、アメリ!」

 振り向けば、長い黒髪を揺らしながらマドカが小走りに近づいてくる。
 その笑顔は相変わらず眩しく、廊下に差す光を集めたみたいだった。
 
「露木くんも、おはよう」

 ふっと柔らかな微笑みを向けられたオミトの頬が、かすかに赤く染まる。
 その表情を見てしまった瞬間、胸の奥がざわりと波立った。
 (……やっぱり。オミトの心は、マドカに向かってるんだ)
 親友の笑顔と、幼馴染の頬の赤み。その二つの光景が、胸の中で絡まり合って痛みを増幅させていった。


 *


 授業が始まっても、私は上の空だった。窓を打つ雨粒を眺めながら、ペンを握ったまま考える。
 
 私はこう思ってた。
 “マドカの傘が私の手元にあるから、マドカの手元には私の傘があって、お互いを繋げている”って。だから傘ゆらに選ばれたんだって。
 でも違ったんだ。それは別に関係ない。事実、私の手元にはオミトの傘はないのに、彼と繋がっているわけだし。つまり…………

 私はノートを開き、無意識のうちにペンを走らせていた。
 簡単な矢印の図。

 
 ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━
 オミトの贈歌 → 私(アメリの返歌)→ オミト
 私(アメリの贈歌) → マドカ(返歌) → 私(アメリ)
 マドカの贈歌 → ?
 ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━

 
 たったこれだけの図。
 けれど見返した瞬間、胸の奥が冷たくなる。
 (……こういうことなんだ。届いてほしい人には届かない。傘ゆらって、そういう仕組み……)

 ペン先を止めたまま、さらに考えが広がっていく。
 (でもこの理屈でいくと……オミトの傘は誰が持っているんだろう。……やっぱりマドカなのかな)
 もしそうだとしたら。
 (マドカの心を……和歌として、オミトは知ることができる。繋がっている)
 その想像だけで、胸の奥がきしんだ。

 昨夜、自分が震える手で書きつけた返歌がよみがえる。

 雨しずく 窓をなぞれば 静けさに
 心かくして 夜を過ごしぬ

 (あの言葉を、オミトはマドカからの言葉だと思って読んでいる……)
 胸の奥がきしむ。真実を告げられないまま、私は親友と幼馴染の間に立ち尽くしている。

 チャイムが鳴った。小さく息を吐き、窓の外を見やる。
 雨はまだ静かに降り続いていた。
 (それでも……私はオミトの心を知りたい)
 机の下で握りしめた拳に力を込め、私は胸の奥でそっと決意を固めた。
 
 ────たとえその先に、痛みしか待っていなかったとしても