世の中には2種類の人間がいる。
 主役と、脇役。そのふたつ。
 ……いや、もうひとつあった。
 『観客』だ。

 僕──── 露木(ろき) オミトは、まさに観客としての人生を齢16歳にして受け入れている。
 座席は後ろ側の左から4番目といったところ。ちょっぴり見づらいこの席に座って、キャストたちが織りなす青春という名の舞台を眺めるのだ。
 モブにすらなれない。なるつもりもない。痛い目をみるのはごめんだから。
 
 
 ────そんないつもの朝を、今日も迎えていた。

「出る杭は打たれる……なのになぜ寝癖は引っ込まないのか……!」
 
 鏡の前で、ため息が漏れた。
 湿気を吸った黒髪が、見事に寝癖を主張していた。手ぐしで押さえても、一本だけ意地のように跳ね返ってくる。
 
「……はぁ」
 
 鏡に映る自分の顔は、今日もいつも通りの平凡、平々凡々。特別でも、何かを持っているようにも見えない。実際、持ってもいない。
 その分、寝癖(コイツ)が自己主張を強めている。ということだろうか。

 階下から、小学生の妹の杏樹(あんじゅ)が大声で僕を呼ぶ声が響いた。
 
 「お兄ちゃーん!早く行かないと、彼女さん待ってるよー!」

 彼女。なんて当然いない。
 誰のことかはわかっている。
 
 ──── 虹又(にじまた)アメリ
 
 幼馴染の女の子で、クラスも違うし部活も別。それでも毎朝のように一緒に登校するのは、ただ家が近いからだ。
 ……それと“彼女のとある事情”も関係あるのだが。

 「彼女じゃなーい!」
 
 わざわざ声に出しても、妹の含み笑いは止まらない。
 
 「アメリには悪いけど、今日はひとりで登校してもらおうかな」
 
 小声で呟き、鞄を手に階段を下りた。
 玄関を避け、台所横の勝手口から外へ出る。
 湖から吹く湿った風が頬をなでた。裏通りはまだ静かで、遠くで鳥の鳴き声が小さく響く。
 
 (よし。いないいない。ひとりの朝を勝ち取ったぞ)
 
 僕はほくそ笑み、角を曲がった────そのときだった。

「靴紐、結ばせてあげる」

 ふいに耳に入った声に、足が止まる。ギクリとして呼吸も止まる。
 声の方に目をやると、自動販売機にもたれかかり、スポーツバッグを背負ったセーラー服姿の少女がひとり。彼女は缶ジュースを片手にこちらをじっと見据えていた。
 ────アメリだ。
 くせっ毛のショートヘアに、陸上部で日焼けした肌と、カモシカみたいに引き締まった脚。口角を上げる笑みは、昔から変わらず挑発的だ。

 自然と視線が足元に落ちる。
 スニーカーの”ほどけた“靴紐がひらりと垂れ、濡れたアスファルトの上で揺れていた。

「靴紐、結ばせてあげる。聞こえなかった?」
「……断る」

 不意打ちのカウンターパンチだ。きょとんとするアメリ。効果はあったようだな。
 と思ったのも束の間。アメリはニヤリと口角を上げて口上を述べた。
 
「へぇーえぇーそぉーかぁー。オミトは約束を破るんだ?自分で言ったじゃんね?あれは小学生時代だったかなぁ……これからは僕が毎日、キミの靴紐を結んであげるって────」
「ぐあっ!あぁー、わかったよ。やりますよ、結びますって」
 
 いひひっ、くるしゅーない。と、アメリは缶ジュースを一口飲み、悪戯っぽく首を傾ける。
 今日の”読み合い“は僕の負けだ。というか勝てたことはない。裏口のルートも当分使えないな……。

「じゃあ、お願い。いつもので」

 したり顔で言うアメリを前にして、僕はため息をつき、しゃがみ込んだ。指先で紐を拾い、慣れた手つきで蝶結びを作る。
 
 ──── アメリは靴紐が結べない。
 
 ご近所になった小学生時代からずっとだ。
 脳の病気だとかそういった類ではなく、シンプルに結べないだけらしい。それでも本人は直そうとしないから、彼女の代わりに靴紐を結んであげるのは、自然と僕の役目になった。
 いや、僕が自分で申し出た……という側面もあるのは確かだ。
 そんなわけで高校2年生の思春期真っ只中にあっても、それは特別でも何でもない日常の一コマとなっているのだ。

 結び目を整え、軽く引いて確かめる。
 
「……はい、できたよ」
「ん、ありがと」

 にぃっとイタズラっぽい笑みを向けるアメリ。
 彼女は”主役“のひとりだ。この人生という名の舞台の。
 陸上部のエースで、社交的で明るくて、男子よりも女子からモテるタイプで。
 いずれにせよ、僕みたいな陰の者からすれば、のびのびと青春を謳歌しているアメリの舞台(人生)を眺めているだけでも十二分に楽しい。
 というより、それが”観客“たる僕としては正しい生き方なのだろう。

 空を見上げれば、鼻先をくすぐる湿った風の匂い。
 まもなく梅雨がくる。
 傘を新調しないとな。と、僕は思った。


 *


 湖畔の道は、まだ朝靄の中にあった。
 灰色を含んだ空が水面に映り、波紋を揺らすたびに色がわずかに変わる。遠くでは小舟がゆっくりと漕ぎ出し、櫂の音が水を切る柔らかな響きとなって耳に届く。
 湖面にはカモの群れが泳ぎ、きらめく水滴を背に跳ね上がる。近くの柳の枝が湖風で揺れ、しなやかに葉先を震わせていた。

 僕らが住む、守矢(もりや)市────長野県の真ん中にある、人口5万人ほどの小さな湖の街。
 山々に囲まれ、中心に広がる広大な湖・守矢湖は市の象徴だ。春は桜並木、夏は花火大会、冬は一面氷結した守矢湖に舞い降りる白鳥たちが観光客を呼び込む。かつては製糸業で大いに栄えた歴史があり、大正時代に建てられた赤レンガの校舎や宿場町の古い木造建築が、いまも現役で使われている。
 僕とアメリが通うのは、湖を望む高台にある私立の門倉私学館高校────通称シガク。昔はそれこそ、裕福な家系の子弟ばかりだったらしいが、いまは僕みたいな普通の家の子どもがほとんどだ。

 アメリが歩きながら、両手で空を掴むようにして背伸びをした。夏服のセーラー服が風に揺れ、日焼けした肌が朝の光を受けて艶やかに彩られていた。
 チラリと見えたアメリのお腹。僕は何も見ていない風を装って鼻をかいた。無防備だな……と心の中で舌打ちをする。まぁ、僕が人畜無害だからこそなのだろうけど。

 湖を離れると、古い商店街へ入ってゆく。
 石畳の隙間からは苔がのぞき、雨の匂いを含んだ空気が鼻腔をくすぐる。八百屋の前では段ボールから野菜を出す音が響き、魚屋の店先では氷を砕く金属音が涼やかに鳴っている。
 パン屋の扉が開くたび、焼きたての香りがふわりと通りへ広がった。
 
「んー……いい匂い」
 
 アメリが鼻をくんくんさせる。

 道端の紫陽花は、昨夜の雨粒をたっぷり抱え、重たそうに頭を垂れている。青や紫の花弁の隙間から、水滴が一粒ずつ滑り落ち、石畳に丸いしみを作っていた。

「おやまぁアメリちゃん、今日も一緒かい?」

 八百屋のおばさんが手を止めて声をかけてきた。

「オミトのやつが一人で学校いけないって言うもんだからさー」
「やめろ、誤解されるだろっ」
 
 アメリが笑いながら答えると、おばさんは「あはは、困ったもんだねぇ」と笑い返した。ほら言わんこっちゃない……僕はきゅっと身を縮めた。

「そういえば、アメリ。県大会はかなり期待されてるみたいじゃん。10000mなら虹又だろうって先生たちも盛り上がってたよ」
「はい、長距離女子です。でもね、けっこう調子良くてさ。ほんといけそうな気がするんだ」
「すごいよな、アメリは。緊張もしないんだろ?ちょっと分けてほしいよ、その胆力」
「するよー!でも、私はホラ。おまじないあるからさっ」
「おまじない?」
「オミトに靴ひも結んでもらうの。すると、きゅっと身が引き締まるんだぁ」
「僕……今年も、会場まで行かなきゃダメ?」
「ダメに決まってるじゃんね!靴ひも解けたまま走れっていうの!?」
 
 登校前の“靴ひも結び”は毎日のルーティンだが、中学高校とアメリが陸上部に入部してからは、僕も“靴ひも担当”として大会についていっている。
 とはいえ、アメリが靴ひもを結べないことは僕とアメリのふたりだけの秘密なので、靴ひもがひとたび解けたとみるや、アメリと共に物陰に退避して靴ひもを結んであげている。それは大会のみならず、日々の部活においてもそうだ。

「オミトは?美術部の出展あるんでしょ。また風景画?」
「……どうかな。今年もフリーテーマならいいんだけど」
「たまには人も描いたら?」
「モデルがいないよ」
「ここにいるじゃんね!健康的なJKがさ。ん……ハダカ……描きたいの?」
「やめれッ」
 
 あははっと、アメリは前を向いたまま笑う。
 危うく想像しかけた僕は、邪念を払うように小さく顔を振った。


 *


 商店街を抜けると、通学路は二手に分かれる。
 真っ直ぐ行けば学校へ、左に曲がれば石畳の坂道が鳥居の奥へと続いている。
 坂の上には、守矢(もりや)神社。高台にあり、そこから守矢湖が一望できる。

「……あぁ、そろそろなんだ」
 
 隣を歩くアメリが、ふいに顔を上げる。
 
「何が」
「ゆら祭り。今年も始まるじゃんね」
 
 見上げると、坂の上で紅白幕が結ばれ、提灯の束が担ぎ込まれている。湿った空気に紙と木の匂いが混じって、もうすぐ始まる賑わいを予感させた。
 
 『ゆら祭り』
 それは、400年前の戦国時代に実在した守矢のお姫様にまつわる地元の祭りだ。
 かつて守矢の地に攻め入った武田信玄の軍勢を、たったひとりで食い止め、最後には立ち往生したという伝説の戦乙女・ユラ姫の魂を慰める鎮魂の祭事でもある。
 
「せっかくだから、傘奉納していかない?」

 アメリが何でもないように言う。
 毎年、部活仲間と奉納に来ていたらしいが、今年は僕と行く気らしい。
 
「ダメです。学校に遅れます」
「余裕だって。走ればね」
「……ぼ、僕も走るんすか?」
 
 そう言って、アメリは勝手に鳥居の方へ向かってしまった。

 守矢神社は、僕にとって少し特別な場所だ。
 幼いころから遊び場のように通っていたし、神主は僕の叔父────雨十(あめと)チギリ。
 チギリ叔父さんは“叔父”なので当然男なのだが……そのルックスはあまりにも個性的だ。大人の成人男性のはずなのだが……どう見ても美少女なのだ。顔から骨格から声も仕草も何もかも。
 白い肌に切れ長の目、涼しげな黒髪は腰まで伸び、着物も巫女装束も似合いすぎる。初めて見た人間は、まず間違いなく女だと信じ込む。
 端的に言ってしまえば『見た目美少女のおじさん』である。
 しかも口を開けば、なぜかエセ関西弁。地元では見た目と喋りのギャップでまぁまぁ有名だ。

 そんな少し変わった叔父さんだが、彼は僕がまだ幼い頃から繰り返し「神社は龍神はんの家やさかい、粗相したらあかんで」なんて調子で、傘ゆらの話やゆら祭りの意味を話してくれた。

「まあ、ちょっと顔出していくか」
 小さく呟き、僕はアメリを追いかけて鳥居をくぐった。

 坂道の両脇には紫陽花が咲き、古い石灯籠が等間隔に並んでいる。雨上がりの苔むした石畳は朝日で濡れ光り、滑らないように一歩ずつ登るたび、視界の端に湖面が広がっていく。
 ここから見える街は、まだ眠っているように静かだ。
 その静けさを割るように、境内の方から子どもたちの笑い声が聞こえてきた。


 *


 坂道を登り切ると、境内はしっとりとした朝の空気に包まれていた。
 杉木立の間を抜ける風が、まだ濡れた土と苔の匂いを運んでくる。
 高台から見下ろせば、湖面が雲間の光を受けてゆるく揺れていた。祭りの提灯や幟、屋台の骨組みが境内の隅々に置かれ、木槌の音や資材を運ぶ掛け声が響く。

 その喧騒の中に、よく通るハスキーボイスが木霊した。
 ……女性の声?いや、違う。僕は知っている。これは“叔父さん”の声だ。

「恋とは、なんぞや?」

 お決まりのフレーズだ。神主である叔父────雨十チギリは、毎年梅雨の時期になると子どもたちを集めて、こうして『傘ゆら』の講義をする。

 境内の端、樹齢八百年の欅の木。その幹は明治の落雷で派手に裂け、中央に玉座のような空洞ができている。
 そこに片膝を立てて座るのは、巫女服姿の美少女────にしか見えない男。叔父さんだ。
 白い肌に切れ長の瞳、腰まである黒髪が風に揺れ、朱の袴が鮮やかに映える。初対面なら誰もが美しい女性だと思い込むだろう。だが僕にとっては、物心ついたときから変わらない叔父さんの姿だ。

 玉座の下では、十人ほどの子どもたちが体育座りで目を丸くしている。
 
「愛とはなんぞ……男女とは…………恋とはなんぞや?」
 
 叔父さんの演技がかった喋り方に、子どもたちは小さく笑ったり、首をかしげたりしている。

 叔父さんはそのまま身振り手振りを交え『傘ゆら伝説』の話を始めた。
 
「昔々、戦国時代のことや。ここ守矢には綺麗なお姫さんと貧乏な若者がいてな。アカンことに、身分がちゃうもん同士やったけど、お互い惹かれ合うてしもたんや。せやけど、世間体ちゅうもんがあるもんやさかい、話したくても話されへんねん。ふたりはそら悲しい悲しい言うて泣いとったんや。可哀想やん?それを湖から見とった龍神はんは憐れんでな。ふたりに言うたんや────」

 これを見ていたアメリが、僕をチラリと見て言った。まるで叔父さんのお株を奪うかのように。

「傘に短歌を書きなさい。雨に乗せて送り届けてあげるから……だよね。覚えてるもん」
「静かにしないと怒られるぞ?」
 
 幸い、叔父さんには気づかれなかったようで。叔父さんは続けて、声のトーンを少し落とした。
 
 「せやけどな……浮かんだ歌を軽う扱うたらあかん。嘘の返歌や、人をからかうような真似をしたら、龍神はんの加護は消えてまう。それが昔からの言い伝えや」

 僕もまた横目でアメリを見る。こうして話を聞くのは久しぶりだが、内容はほぼ暗記している。
 それくらい、傘ゆら伝説はこの地に根付いており、守矢市では、小学校から国語や地域学習の中で和歌を学ぶ。
 簡単な一首くらいなら、大抵の高校生は頭の中で組み立てられる。僕も、そして横にいるアメリも同じだ。
 だから、この街の高校生にとって「和歌を書く」ことは、特別な才能じゃない。呼吸するみたいに、自然なことだ。

 子どもたちは「こわーい」「ほんとに?」と口々に声を上げる。叔父さんは満足そうに頷き、手を合わせて解散を告げた。
 
 やがて子どもたちが散っていき、欅の前に残ったのは叔父さんひとり。僕たちに気づくと、手を振りながら唇の端を上げて言った。
 
「なんやねん、朝からデートかいな?高校生しとるな〜」
「奉納しに来ただけだが?」
 
 僕がそう返すと、叔父さんはニヤリと笑った。
 
「アメリちゃんも元気そうやな。ほな、今年も龍神の加護にあずかりや〜」
「はいっ。今年もばっちり奉納するね、チギリちゃん」
 
 アメリが笑顔で答えると、叔父さんは「ほんなら急ぎや」と手で社務所の方を指した。
 僕たちは軽く会釈して奉納所へ向かう。背後で、欅の葉が湖風にざわめいた。
 

 *


 奉納を終えて、僕らが通う門倉私学館高校の正門へ向かうと、坂道の先に赤レンガ造りの旧校舎が姿を現した。
 大正時代に建てられた三階建てで、正面には白い漆喰の縁取りと円形の飾り窓。赤レンガはところどころ黒ずみ、長い年月の雨風を受けて鈍い光沢を帯びている。旧校舎の奥にはガラス張りの新校舎が連なり、朝日を受けて窓面が銀色に反射していた。煉瓦の温もりとガラスの冷たさ、その両方が一度に目に入る景色は、この街の歴史と今を象徴しているように見える。

 湿った空気に紫陽花の匂いが混ざり、グラウンドの端からは部活の掛け声が響いてくる。

「アメリって朝練とか行かないよな」
「まあね。その分、夜走ってるし。あー、でも誰かさんがもっと早起きしてくれたら朝練いけるのになー」
「ぐぅ……勘弁してくれ……」
「あっはは!あ、マドカだ!マドカー!」

 アメリが飼い主を見つけた子犬みたいに駆け出した。その先に──“彼女”がいた。
 僕の心臓が静かに跳ねた。

「マドカー!今日も可愛いんだがー!」
 
 アメリは背後からマドカさんに抱きついた。
 少し驚いたように振り返ったマドカさんが、笑いながら「やめなさい」と返す。

 ────時雨(しぐれ)マドカ
 艶のある黒髪が肩にかかり、薄いピンク色の唇が柔らかく動く。セーラー服の襟元から覗く首筋は白く、細い。目元は切れ長だが、笑うとわずかに弧を描いて優しさを帯びる。
 二人はそのまま、部活やテストの話を弾ませ始める。やりとりのテンポは軽く、親友らしい遠慮のなさがあった。
 アメリとマドカさんは高校から同じ学校に通い出した仲なのだが、どういうわけか中学時代から知り合いで、親友の仲らしい。
 そんなおこぼれに預かることもなく、僕はいつも蚊帳の外だ。

 だからいつも、こうして僕はその横顔を、ただ眺めている。
 ……やけに目を引く。声も仕草も、どこか品があって。
 高嶺の花っていうのは、マドカさんみたいな人のことを言うんだろうな。

 そんな彼女も……マドカさんも紛れもなくこの舞台の主役の一人だ。
 観客の僕は多くを望んではいけない。こうして自分の席にすわって大人しくしているのがマナーなのだから。
 などと湿っぽく浸っていた僕に電撃が流れた。
 ────ふと、マドカさんがこちらを見たのだ。
 僕は、はっとして息を呑む。気づかれてしまったのか?この“気”が伝わってしまったのか?
 急いで目を逸らすなり、会釈するなりすればいいのに、僕は固まって動けなかった。

 すると、マドカさんがそっと微笑み、手を振ってきた。
 ────え、僕に手を振ってる!?
 なんてことだ……なんてことだ……!
 これまで積み重ねてきた善行(アメリの靴紐を結ぶこと)が、ついに報われたのか?
 まあ理由なんてどうでもいい。このチャンスを逃す手はない。

「ど、どうも……」
 
 ぎこちなく手を振り返す。
 すると、マドカさんはこう言った。

「レンジくん!」

 ……レンジくん? 僕はオミトくんだけど?
 嫌な予感がして、マドカさんの声の矢印に目を向けると、そこには少年がひとり。
 長身で均整のとれたスタイルに、清潔感のある短く整えられた黒髪。整った鼻筋と涼しげな目元が、少し近寄りがたい雰囲気をまとっている。制服の着こなしはきっちりしているのに、どこか力みのない歩き方だった。

 マドカさんは小走りでレンジくんに駆け寄ると、親げに話しかけた。無論、僕には目もくれない。

「もう傘奉納はすませた?」
「あー、昨日やったよ。なんかアプリ登録させられた」

 並び立って歩き、遠ざかってゆくふたり。
 
 そうか……僕じゃなかったのか。まぁ、そりゃそうか。
 わかってはいても、胸の中に小さな空洞がぽっかりと空いたような感覚が広がった。

 気を取り直して昇降口へ向かうと、傘立てには同じようなビニール傘がずらりと並んでいる。
 自分の傘を差し込むと、すぐ隣にマドカさんの傘があった。持ち手に小さなリボンが結ばれていて、ひと目で彼女のものだとわかる。
 ストーカーっぽく観察しているわけじゃない。前に一度、アメリが傘を間違えたことがあって、その時にアメリがぽつりと口にしたのだ。

 しかしまぁ……こうして見ると、同じ見た目の傘ばかりだ。
 ここ最近、雨の日に傘を間違えるケースが多発しているようだが無理もないだろう。

 ふと、ペンケースに入れっぱなしの油性マジックを思い出した。
 僕は鞄から取り出すと、持ち手の端に思いつくまま黒い線を走らせる。
 描き上がったのは、しなやかに跳ぶ黒豹のシルエット。
 特に理由はない……いや、強いて言えば、アメリがトラックを駆け抜ける姿を見たときに頭に浮かんだ形だった。
 スポーツブランドのロゴみたいで、ちょっと格好いい。これなら、もう間違えることはないだろう。

 下駄箱の外では、曇っていた空から小雨が降り出していた。梅雨入りの合図だ。
 
 ────この雨が、すべての始まりだった。
 
 この時の僕は……いや“僕ら“は、そんなことは露とも知らなかったが。