梅雨が明けて、ひと月が経った。
 8月の中旬。高校は夏休みだ。

 この日。蝉しぐれの中、私────時雨マドカは守矢神社に足を運んでいた。
 連日のように記録的な猛暑を更新する日々にあっては、長野県の避暑地としてのご威光もいまや影を潜めていたが、神社の静謐な境内だけは例外だった。大木の陰となっていて、ここならクーラーもいらない。涼やかな風がどこからか吹き抜けては、私は大きく深呼吸をする。白いワンピースの裾が風でふわりと浮き上がろうと手で抑えずに、なるように任せるくらいがちょうどいい。

 さて────と、ひと息ついて、私は社務所へ向かった。
 
「ごめんください。えっと、大祝(おおほうり)さまは何処(いずこ)に?」

 社務所には、ちょっとガラの悪い金髪おかっぱヘアの美少女が巫女服のまま足を組んで座っていた。
 いや、この神社のことだから、きっと“見た目美少女のお兄さん”なのだろう。

「あん?大祝?あぁ、チギリのことか。あいつなら拝殿にいるぜ。おう、それよか軍神のお守り買ってけや。おひとつ600円じゃ」
「ゴミになるので、けっこうです。教えてくださり、ありがとうございます」

 私は笑顔で礼を述べて、社務所を後にした。
 去り際にものすごい勢いでメンチを切られたけれど、なぜだろう。
 とにかく、チギリさんの居場所がわかったので、あとは向かうだけ。私は拝殿を目指して涼やかな境内をゆっくりと歩いた。こちらは部活にも所属していない身の上だ。急いで得をすることはなにもない。観光客に写真を頼まれれば対応し、猫が昼寝をしていればこっそり撫でて、思う存分道草をしながら悠々と歩く。

 ふと、傘を手にした中学生くらいの女の子二人組が目に入った。
 この神社で傘を持っているということは……アレだろうなと、私はちいさく微笑む。

 私自身、守矢神社に来たのはひと月ぶりだ。
 最後に訪れたのは、傘ゆらの終わり。それは同時に梅雨が明ける日でもあった。

 ────私は、アメリと共にその日を迎えた。

 県大会から2日後のこと。
 全てを出し切ったアメリは、それはそれは消耗し切っていて、半分眠ったような状態の彼女を背負いながら神社にやってきたのを覚えている。
 無理もないと思った。県大会での“あの走り”を目にした以上は。

 あの後。
 競技に復帰したアメリは最後尾から猛烈な追い上げをかけた。
 その様は、先頭集団との距離を縮めるため必死に追いかける……というよりも、サバンナでライオンに追われるシマウマの群れ。といった感じで、飢えた捕食者のアメリが獲物を追い回しているようにさえ見えた。
 事実、アメリはあの劣勢から5位入賞を果たしたのだからほんとうに凄まじい。全国への切符も手に入れ、10月に開かれる本番に向けて、いまも日々練習に励んでいる。

 そして、もうひとり。陰の立役者がいたことを、私は知っている。
 観客のくせに、空気を読まずに舞台に上がり込んだ無礼者。でも彼がいなければ、アメリはゴールすることも叶わなかっただろう。そして、いまある笑顔も失われてしまっていたかもしれない。

 私はこれから、そんな日陰者の”絵“を見せてもらいに行くのだ。
 全国高校美術展に出品予定の作品は、東京での審査を受ける前に地元の特設ギャラリーにて展示される運びとなっている。
 今回、守矢神社は指定された展示場のひとつに数えられており、我らが門倉私学館高校をはじめとした該当エリアの高校生の作品を預かっているのだという。

「恋とはなんぞや?」

 拝殿に近づくにつれ、ハスキーボイスな女性の声が耳に届いてきた。いや、女性の声ではない。男性の、チギリさんの声だ。

「愛とはなんぞ……男女とは……恋とはなんぞや?」

 やってるやってる。
 今日も今日とて、拝殿に集まった子どもたちに講釈を行うチギリさんの姿があった。
 絹のような白い肌に、腰まである豊かな長い黒髪。凛とした巫女服に、息を呑む美少女フェイス。その姿をひと目見れば、彼が男性だとは誰も思わない。13人いるという”守矢美人“の筆頭こそが彼……雨十(あめと)チギリその人である。

 講釈が終わり、チギリさんが手を叩いて子ども達を解散させるのを待ってから、私は拝殿へとお邪魔した。侵入者を知らせるアラームのように、一斉に蝉が鳴いた。

「お久しぶりです、チギリさん。傘ゆら以来ですね」
「おー、マドカやないか。なんや、レンジと一緒ちゃうんか?」
「彼は後から来ますよ。数少ない友人の絵を見るのを楽しみにしてるから」
「ほーん、別れたんかと思って期待しとったんやけど」
「ふふ。残念でした。順調です。まあ、歩みはだいぶ遅いですけどー?」
「へぇへぇ、ごちそーさん。恋とはなんぞや〜?」

 ほな、ついてきぃ。と、チギリさんについて行って拝殿を抜け、70mはあろうかという長廊を進む。
 その先にあったのは、近代的なハコモノ。照明や空調設備も完備した宝物館だ。ここで、高校生たちの作品を展示・保管するのだろう。

「ほな、好きに見てき。肖像画の展示に関しては完了しとるから、お目当ての絵もそう苦労せんと見つけられるはずや。ま、親戚のよしみでまぁまぁええポジションくれてやったしな」

 そう言ってチギリさんは、私を置いて再び拝殿の方へ歩いていった。
 空調の効いた快適な空間の中、整然と飾られた肖像画たちにひとり息を呑む。

「さすが美術部。みんな上手ね……」

 手を後ろに組み、ゆったりと歩く。
 あえて作者の名前は見ないようにしている。なぜって、私はお目当ての“絵のモデル”を知っているからだ。きっとその絵の前を通れば自動でカラダが停止する。そう確信している。

 ────ピタリ

 ほら、やっぱり。
 私はゆっくりとその場でカラダの向きを変え、肖像画と向かい合った。

「……この絵、アメリに似てるよ?オミトくん」

 いつか、彼に……オミトくんに言ったセリフを使ってみた。
 やっと作者の名前を見る。やっぱり合ってた。

 ────露木 オミト

「タイトルは……」
「わりぃ、遅れた」

 ぶっきらぼうな声が割り込んできた。でも嫌な気はしない。むしろ心が跳ね上がる。

「おはよう、レンジくん」
「おはよう。昼前だけどな」

 レンジくんだ。
 ヴァイオリンの収められたケースを肩にかけ、管弦楽部の部活帰りだとひと目でわかる。

「いい絵だな。これがそうだろ?」
「うん。オミトくんの絵。ね、誰かに似てると思わない?」
「……あぁ。わかるよ。つーかタイトルがそのまんまだな」

 腕を後ろに組んで、はにかんだ笑顔を向ける少女の肖像画。
 癖っ毛の髪に、少し日焼けした肌。その絵が放つ瑞々しさは、まるで生きているかのようで目を奪われてしまう。

 ────『太陽』

「ピッタリのタイトルだと思う。あの子のイメージそのものだし」
「……ノロケっていうのか?こういうのも」
「あー、そうか。そうだなぁ……そうかもねぇ!?」
「なんで鼻息荒いんだよ」
「私たちも負けてられないって!ね、海いこ海。青春しようよ青春!」
「はぁ……しゃーねぇな」

 そう言って。面倒そうに、レンジくんは笑った。