県大会の当日の昼下がり。天気は雨。
本来ならスタンドに座り、トラックを走るアメリを見ているはずだった。
けれど僕────露木オミトは、守矢神社の拝殿で箒を握っている。
巫女服姿で石畳を掃きながらも、頭の中は昨夜の月島城から一歩も動けずじまいだ。
────もう僕が結ばなくてもいいだろ
アメリにかけた言葉が、まだ胸をえぐり続けていた。
幼馴染の関係すらも、僕自身が終わらせてしまったのだと自分に言い聞かせる。
拝殿の軒下では、チギリ叔父さんが子供たちを集めていつものように講釈をしていた。
「ほな、今日もいくでぇ。恋とはなんぞや〜?」
丸い瞳がいっせいに輝き、子供たちが首をかしげる。
すると突然、叔父さんの指がビシッと僕の方を向いた。
「そこの巫女見習い!答えてみぃ。恋とはなんぞや!?」
子供たちの視線が一斉に僕に突き刺さる。
いつもなら慌てふためいて逃げ出すところだが、今日は不思議と動じなかった。
落ち込みすぎて、逆に冷静になっていたのかもしれない。
僕は箒を立てかけ、うつむいたままぽつりと答えた。
「恋とは……苦しみ……かな」
ざわ、と子供たちがどよめく。
叔父さんは「あー」と口をぽかんと開け、眉をひそめていた。
けれど、僕の口からこぼれたのはそれだけだった。
そのとき。
ポケットの中のスマホが震えた。
取り出すと、画面には傘ゆらアプリの通知が表示されている。
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【傘ゆら実行委員会】 返歌を受け取りました
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「……え?」
昨夜、喧嘩別れのあとで僕はアメリに贈歌をした。
「明日、頑張って」という内容の歌。
もちろんのこと返事はなかった。それなのに、今になって……?
僕は慌てて傘を開いた。
雨の降る境内に出て、傘を晒す。雨粒が布地を打ち、白い光の文字が浮かび上がる。
✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
走ること もはや叶はず 涙して
出づる道より 身を退きけり
「私はもう走ることもできません。
だから大会は辞退しました」
✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
「────ッ!?」
息が詰まり、足が止まった。
今まさに大会の最中のはずなのに?ありえない矛盾に、胸騒ぎが込み上げる。
まさか……僕のせいで?
「アメリ……!」
箒を投げ出し、僕は社務所に駆け込んだ。
大急ぎで支度し、神社を飛び出して雨の中を一目散に走った。
迷うことはない。向かう先はただ一つ
────県大会の会場だった。
*
タクシーに乗り、まっすぐに会場まで来た。
かつて製糸業で財をなした実業家たちが資金を出し合って建設された守矢市の陸上競技場で、100年近い歴史があるスタジアムだ。
数年前に大規模な改修が施されてからは、陸上競技のみならず、サッカー日本代表の試合や、有名アーティストの興業まで行われるなど、その用途は多岐にわたる。
息を切らして会場入りした僕の耳に、やけに饒舌な場内アナウンスが飛び込んできた。
《さぁ、いよいよその時の訪れを待ちます、第66回長野県陸上競技大会・女子10000m決勝。いまかいまかと息を潜める美しき猛獣たちが、その健脚を刃のように研ぎ澄ましては、ふとため息をつく真夏の昼下がりでございます!》
なんか競馬実況みたいだなと思いつつも、僕は観戦席を上へ上へと登っていき、ようやく陸上トラックを眼下に収めることができた。
視線を走らせると、スタートラインにアメリの姿が見える。
ゼッケンをつけ、殺気立った真剣な表情で前を見据えていた。
「アメリ……いるじゃないか。じゃあ、あの歌はいったい……」
胸の奥がざわつく。混乱と安堵が入り混じる。
「オミトくん」
振り向くと、マドカさんが立っていた。学校指定のジャージ姿だ。その落ち着き払った瞳は僕をじっと見据え、なにか諭すかのような雰囲気を帯びていた。
「返歌……私が送ったの」
「えっ?」
「アメリのフリをしてね。オミトくんを呼ぶために」
耳を疑った。マドカさんの口からさらに言葉が続く。
「私も、傘ゆらに選ばれてる。オミトくんもその一員だってことも知ってる。そして……あなたの手元にあるのが、アメリの傘だってこともね」
視線を逸らすことができなかった。秘密を知られたのだから。
「もっと言えば、私はレンジ君の傘を持ってる」
「……彼が持ってるのは、僕の傘だよ」
「うん。知ってるよ。昨日教えてもらった。かなり抵抗してたけどね」
「はは……みんな仲間なんだね。やっぱり……君たちはみんな主役だから気が合うんだ。僕とは違って」
から笑いをする僕を、マドカさんは怪訝な顔で見ていた。
それでも一歩踏み出して、彼女は少し低いトーンで諭すように言った。
「アメリの手を離しちゃダメ。あの子にはオミトくんが必要なの」
「……それはないよ」
「なんでそんなこと言うの?オミトくんだって────」
「僕は観客なんだよ」
「えっ?」
────会場が沸く。
選手の紹介が行われているようだ。競馬実況みたいなアナウンスによって出場選手の名前が読み気られる度、声援があちこちから打ち上がった。
「マドカさんも、レンジくんも……アメリも。輝いていて、かっこよくて……みんな主役だよ、人生という舞台の。でも僕だけが違う。だからね、マドカさん。僕はアメリの隣に立つ資格なんて、最初からなかったんだよ。アメリに僕は……必要ないんだよ」
アナウンスが耳に馴染みのある名前を呼んだ。
《続きましては、ゼッケン7番。門倉私学館高校2年、虹又アメリ選手!》
僕もマドカさんも、顔をあげてトラックを見やった。
大勢の選手の中で、アメリは直立したまま腕だけをまっすぐに挙げた。観戦しているシガクの生徒たちから歓声が飛ぶ。
「やっぱり。アメリはすごいな」
僕は、そっと背を向けた。そして歩き出す。スタジアムを後にするのだ。
「オミトくん!」
背中から引き止めるマドカさんの声は、この喧騒の中にあって尚、凛として響いた。
「ここにいて。あなたは逃げちゃダメ」
「……僕はアメリを傷つけたんだ。大事な大会の前だっていうのに、自分を抑えることもできなくて。だから僕は、きっと観客でいることすら許されないんだと思う。もう席を立って、劇場を後にするべきなんだ」
ふっとマドカさんが小さく笑った。僕は顔だけを横に向ける。
「やっぱり……私たち似てるね。私もね、大好きな人を傷つけたの。苦しめたの……でも、だからこそ分かり合うことができた。だからきっとアメリだって────」
僕はマドカさんの言葉を遮るようにして歩き出した。今度はもう、立ち止まるつもりはない。
「オミトくん────!」
マドカさんの声は痛いほどに胸に届いた。それでも僕は振り返ることはない。
蝉しぐれのような歓声と、その隙間をすり抜ける風鈴のようなマドカさんの声が聞こえなくなった時、気づけば僕はスタジアムの外で、ひとり雨に打たれていた。
ここでようやく振り返る。
さっき、トラックの上で手を挙げたアメリの姿が瞼に焼き付いている。
その勇壮なはずの後ろ姿が、僕には切ないくらいに寂しそうに見えたのを思い出して……雨の中、ほんの少しだけ僕は泣いた。
*
「オミトぉ、なにを辛気くさい顔しとんねん。世界が終わってもうたんか?」
「けけけっ。ありゃー、女だぜオンナ。ガキのくせに一丁前に女で悩んでやがんのよ」
スタジアムからの帰り、市民バスが大会専用の特別ダイヤにより、運行が夕方からとなっていた。そのため、僕はタクシーに乗ろうとしたのだが、所持金が73円しかなかったため、到底無理であった。
そんなわけで、仕方なく叔父さんに迎えに来てもらえないかと電話したところ、なぜかやってきたのはデカいアメ車に乗った御射口神社の神主・ヤクモさんだった。そして叔父さんは助手席にちょこんと座っていた。
無論、ふたりとも巫女服姿である。
「……うるさいな、関係ないだろ」
僕の小さな反抗に、2人は顔を見合わせて笑った……仲悪いんじゃなかったのかよ。
「けけけっ。いまの聞いたかよおい!」
「聞いた聞いた。みっともないやっちゃでほんまにぃ〜」
怖いくらい飛ばしていた車が急に止まった。油断していた僕は、顔をシートにぶつけてしまった。
鼻を抑える僕の方を、叔父さんが振り向いて見ていた。
「さて、オミト。どや?答えは出たんか?」
「なんのこと……?」
「恋とはなんぞや?その答えや。お前なりの答え、見つけてみいって言うたやろ?」
恋とはなんぞや?叔父さんの口癖みたいなもの。
傘ゆらの講釈には必ず登場するワードだ。特別意識したことはなかったけれど、いまの叔父さんが纏う空気は、普段とは違って少し背筋が寒くなる。
「おめー以外はみんな見つけてんぜ?メシマズなお嬢様も、ヴァイオリニストのイケメンも、あとは……陸上の天パ娘もなぁ」
ヤクモさんが、金髪のおかっぱ頭に櫛を通しながら言った。
「アメリも……?」
「せやで。お前だけがまだ向き合うてへん。自分でもわかっとるはずやけどな」
お見通しか……傘ゆらを通じて、この人たちには全てが。
「じゃあ知ってるでしょ?僕はどうしようもないダメなやつだってこと。他のみんなみたいに────」
「主役じゃないから。そうやろ、オミト?」
「……そうだよ。わかってるならもういいだろ。傘ゆらなんかに選ばれたせいで、僕はひどい迷惑を被ったよ。龍神なんて……大嫌いだ」
僕は俯いて、そう吐き捨てた。でも本心だ。
傘ゆらさえ無ければ、僕もアメリも……ずっとあのままでいられたのに。朝起きて、アメリがいて、靴ひもを結んで……それなのに……!
「オミト。ほんまはルール違反やけどな、今回だけは見逃したるわ」
そう言うと、叔父さんは手にしたスマホの画面をタップした。間をおかずして、僕の携帯が振動した。
「さっさと見ろよ。これが最後のチャンスだぜ?」
ヤクモさんもまた、運転席から僕の方を振り向いて言った。
僕は怪訝な顔を浮かべながらも、スマホを取り出して画面を見た。
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【傘ゆら実行委員会】 和歌が届きました
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「え?和歌って……これは……レンジくんからの贈歌?」
なんで今?それに、これがなんでルール違反なのか。
「レンジのアホは言葉足らず過ぎるやろ。電話なりメッセージアプリなりで伝えとかな、ただ送っただけじゃわからへんのになぁ……」
「えと……どういうこと?」
叔父さんが肩をすくめて言った。
「その歌は、アメリちゃんが昨夜、マドカに送ったものや。せやけど、その中身は……オミト。お前のためだけに詠まれた歌やで」
心臓が跳ねた。小さく、けれど強く。
「だからルール違反なのさ。他人の歌をコピペして送ったわけだからな」
「せや。それもマドカに言われて送ったんやから、二重になぁ。というか、あのムッツリ令嬢は今日だけで2回もルール違反しとるぞ?ほんまナメとるで」
アメリが……あの夜に、僕に向けて詠んだ歌。
なんだろう。詠むのが怖い。強い拒絶の歌なのか、決別を宣言したもなのか……。
それでも僕は────
僕は勢いよく後部座席のドアを開けて、雨の中に飛び出た。
ここは湖畔だったのか。
目の前に、水墨画のような守矢湖が広がっていた。湖面には大きな黒い渦がぐるりとうねっている。
傘を開けば、雨粒が布地を叩き、じわりと赤い光の文字が浮かび上がった。
僕は目を見開く。
「────ッ!」
……思い出した。
その歌を読んだとき、僕は思い出した。
昔のこと。いつしか忘れてしまっていたこと。
それが彼女にとっては、こんなにも大きなことだったのだと……僕は知った。
いつの間にか、叔父さんが朱傘をさして、僕の隣に立っていた。
「さて、オミト。聞かせてもらうで」
────恋とはなんぞや?


