「虹又!本番は明日だぞ?それくらいにして体を休めろ」

 はい!と息を切らしながらコーチに返事をした。
 じっとしてなんていられない。こんなにもカラダが軽いのははじめてだから。
 今の私なら、千里を駆ける馬よりも遥か遠くまでいける────そんな気がしていた。
 
 県大会を明日に控えた放課後。
 曇天の空の下、私はトラックを駆け抜けていた。
 湿った風が頬を叩き、靴底が地面を蹴るたびに、胸の奥がすっと軽くなる。

 自己ベスト。今日もそれを更新した。
「すごい!」「本番も絶対ゼッタイいけるよ!」
 仲間たちの声が飛ぶ。
 プレッシャーはまるでない。期待を背負うはずなのに、不思議と怖くなかった。

 重力から解き放たれたように、体は驚くほど軽快だった。
 足が地面に吸い付くように伸び、跳ねるように前へ進む。呼吸は乱れず、肺の奥まで澄んだ空気が満ち満ちてゆく。心臓は規則正しく鼓動を刻み、明日の本番ですら日常の一コマに組み入れてしまいそうなほど平常心でいられる。

 それはきっと“取り戻す”ことができたからだ。
 
 あの夜、マドカと向き合って、また親友に戻れた。
 「応援してるから」って笑ってくれた顔を思い出すと、胸が熱くなる。
 私はもうひとりじゃない。

 そしてオミト。
 靴ひもを結んでくれる人。私だけの特別な人。
 彼はもうどこにもいかない。だから私は、この大会のゴールを彼に捧げると決めていた。

「よしっ。帰ろう」

 汗を拭いながら見上げた空は、どんよりとした雲に覆われていた。
 けれど私には、その隙間から光が差しているように見えた。

 私は大丈夫。絶対に勝てる。
 そう心の中で呟いて、深く息を吐く。

 ────体も心も。私史上、いまがいちばん最強だ。
 もう何も怖くない。
 後顧の憂いは、一切ない。

「んっ!?」

 遠くで雷鳴が聞こえた。それに呼応するかのように、私は右足に違和感を覚えた。
 目線を落とすと────靴ひもだ。
 シューズの靴ひもが蝶結びのリボンを2つに割るようにして千切れていた。

「あちゃー、私の走りに耐えられなかったかぁ。最強でごめんね〜」

 おどけて見せた。
 “縁起が悪い”そんな不穏な気配を、無理にでも払拭したかったからだ。
 本当はわかっていた。どんなに取り繕ったところで、ほんの小さなバランスの傾きで、私の心は砂の城みたいに崩れてしまうことを。

 ────だからこそ

「オミト……」

 私にちいさな勇気をくれる。そんな彼の“おまじない”を、いまの私はなによりも求めていた。

 
 *

 
「私さ、何気に夜の月島城ってはじめてかも」
「僕もだなぁ。なんか幽霊とか出そうだし」

 ゆっくり休んだ方がいいよ。と、私の誘いを躱そうとしたオミトを無理矢理連れてきて、私たちは夜の湖畔を散歩している。
 目的は月島城に行くことだ。そして、そこでオミトに“おまじない”をかけてもらう。
 靴ひもを結んでもらうという。私にだけ効くおまじないを────

「ん〜、涼しいじゃんねっ」
 
 夜の守矢湖は、昼間の顔を忘れてしまったのだろうか。
 湖面は墨を流したようにヴェールを被り、ところどころに揺らめく月明かりだけが、息をしているように波紋を描いている。
 その湖上に、月島城の石垣が暗く浮かんでいた。
 かつて城郭がそびえ、灯が湖一面を照らしていたという伝承は、今となっては残酷なほどに遠い。
 焼け落ちた城の名残は、苔むした石垣の段だけだ。

 橋を渡り、月島城の石垣に腰を下ろすと、眼下には守矢湖が広がっていた。
 湖に突き出すように組まれた石舞台は、まるで能舞台を思わせる造りだ。
 正方形に切り揃えられた平石が隙間なく敷き詰められ、四隅は高く積まれた石垣で縁取られている。中央は一段わずかに高くなり、そこに立てば湖と月を背にした姿が際立つ。
 欄干も装飾もなく、ただ石だけでできた簡素な造形。けれどその簡素さがかえって荘厳で、舞台そのものが神事の場のように見えた。

 ────奉納演奏会では、この石舞台がそのまま演者たちの舞台となる。
 音楽の響きは湖に反射し、波紋のように広がって観客を包み込む。
 
 そして伝承では、この場所でユラ姫が和歌を傘に書きつけ、恋を託したのだという。
 つまり、傘ゆらはここからはじまったのだ。

 今夜は観光客もいない。
 月明かりに照らされた石舞台は、ただ静かに湖と語らっていた。
 私とオミトだけが、その中心に座っていた。

「……やっぱり、きれいだね」
 
 思わず口にすると、隣のオミトが顔を上げた。
 けれどその横顔には笑みはなく、月明かりに照らされても影が濃かった。
 ────あれ?なんか変だな
 私は好調な心身の余韻をまだ引きずっていた。
 でもオミトの横顔は、どこか元気がない。
 それが胸の奥に小さな棘のように刺さる。けれど、私はそれを深く考えずに、湖面を渡る風の心地よさに身を委ね、彼に語りかけた。

「ここで毎年、奉納演奏会やるじゃんね」
 
 指先で石の縁をなぞる。そこに残る冷たさは、幾度となく音楽や人の熱を受けてきたはずなのに、不思議と澄んでいた。
 
「素敵だったなぁ」

 隣のオミトが、かすかに目を伏せる。
 
「……レンジくんのこと?」

 その声音は、石舞台に流れる風と同じくらい冷たくて硬かった。
 私は一瞬、言葉を詰まらせて、慌てて笑い声をつくる。
 
「いやいやいや、違う違う!演奏会そのもののことだよ。雰囲気とか、音が湖に溶けていく感じとかさー!」
 
 オミトは何も言わず、ただ湖の闇を見つめていた。
 その沈黙に胸がざわついた。明らかに何か……いや、そんなこと。気のせいだろう。
 私は振り切るように、バッグからシューズを取り出した。
 白いシューズの靴ひもは、わざと緩めてある。

「ねぇ、オミト」
 シューズを抱きしめるように両手で持ち、言葉を探す。

 靴ひもを結んでもらう、それだけのこと。
 でも私にとっては、勝利のお守りであり、ふたりの絆を確かめる儀式。
 月島城という特別な舞台で、それをしてもらうことが────誓いになると信じていた。

 オミトに向き直し、正面から目を見つめて言う。

「ねぇ、オミト。明日の県大会。絶対に勝つから。だから……おまじないをお願い。そうしたら私きっと────」

 オミトが言葉を遮って言った。

「……それ、必要?」

 低く落ちた声に、心臓が凍りついた。
「え……?」
 
 慌てて笑みをつくる。
「な、なに?必要かって……あたりまえじゃんね。知ってるでしょ?これがないと私────」
「僕じゃなくてもいいだろ」

 再び遮られた言葉。オミトの瞳が、私を見ていなかった。
 
「アメリには……特別な人がいるだろ?僕じゃなくて」
「なに……言ってるの?意味わかんないよ」
 
 声が震えた。
 胸の奥に嫌な予感が広がる。

「昨日さ、僕もレンジくんのアパートに出向いたんだ。そこでね」
 オミトの言葉が、石舞台の冷気よりも冷たく響いた。
「出てくるアメリを、見た」

 ────よかった。あぁ、なんだそういうことか。
 この時はそう思った。嫉妬してるんだって。可愛いところあるじゃんね……って。

「あぁ……あっはは!ちょっとオミトぉ〜、なんか勘違いしてるって。変なこと考えないでよね?あれはさー」
 笑い飛ばしてやれ。そう思ったけれど、オミトの目は揺らぐことはなかった。

「髪が濡れてた。上着も……あれはレンジくんの服だろ?」
 
 言葉が喉に詰まる。
 トマトスープを浴びて、レンジくんに借りたあのTシャツ。
 あぁ、まずいな……とここにきてようやく、私は事の深刻さに気づいた。

「それが何を意味するのか……僕だってわかるよ。子どもじゃないんだ」
 静かな声が突き刺さる。
 
「あぁ、そういうことなんだって。ただ、そう思っただけだよ」
「そういうこと……って?ちょっと、オミト。やめてよ、違うって。信じてよオミト!」
「別に責めてないよ。責めてない。ただ……もう僕じゃなくていいだろって。そう思っただけだ」
「なにが言いたいの……?」
 
 息が乱れ、指先が震える。

「だから……靴ひもはもう、僕が結ばなくても────」
「やめてッ!」

 叫ぶと同時に、空から冷たい滴が落ちてきた。
 抱えていたはずのシューズは地面に落ちていた。いまは雨に打たれて泣いているかのようだ。

「言わないで……それだけは、言わないで……!」
 
 オミトにしがみつき、涙がにじむ視界で彼を見上げる。
 見なければよかった。彼の顔を。だって悟ってしまったから。「お前のことはもう信じていない」オミトは……そんな目をしていた。

 崩れてゆく。砂上の楼閣が音もなく崩れてゆく。
 必死に繋ぎ止めようとも、雨に打たれていまや泥となって溶け出しゆく。
 止めることなど……もはや出来はしなかった。

「なに……その目……オミトだって……オミトだって……」
 
 気づけば私は、オミトにあらん限りの敵意を向けていた。

「オミトだって!マドカのこと好きだって!そう言って舞い上がってたくせに!」
 
 声が裏返る。雨粒が石舞台に散り、乾いた夜を濡らしていく。

「私が知らないと思ってるんでしょ?私ね、ずっと見てたよ?だって、私も……傘ゆらに選ばれてたんだから!」

 オミトが目を見開いた。

「黒いリボンが結んであったでしょ?その傘はね、マドカのじゃない……私の傘だよ」

 雨はさらに勢いを増す。

「笑っちゃうよね。それなのにさ、オミトはマドカだと勘違いして歌を詠んでいたわけ!届くわけない歌を詠んでいたわけ!肖像画を描きたいだの、あなたはお月様みたいだの……雨の日にはいつもいつもさぁ……!」

 もう私はオミトを見ていなかった。私が見ていたのは自分自身だ。湖に映る歪みきった私を……ただじっと睨みつけていた。

「私……私は……そんなオミトの恋心に……返歌してたんだよ?じっと……耐えてたんだよ?わかるわけないよね。オミトには……私の……気持ちなんて……わかるわけない」

 オミトは雨に濡れたシューズを拾い上げた。そして穏やかな口調で言った。

「アメリ。僕は責めてるんじゃないんだ。そうじゃない」

 オミトはぽつりぽつりと語り出した。それは私がはじめて聞く、彼がずっと抱えていた心の声だった。

「みんなすごいなって思うんだ。マドカさんも、レンジくんも。アメリも……みんなこの舞台の主役だ。輝いていて、眩しくて。でも僕は違う……観客だよ。後ろの方の席に座って、そこからみんなを眺めてた」

 オミトが一歩、私に歩み寄った。

「自分の身の丈はわかってる。けど僕だって……羨ましいなって。脇役でもいいからって……キャストに加わってみたいって。そう思っても叶うわけもなくて」

 だから……と、彼は私をじっと見据えて言った。

「アメリには、わからないよ。僕の気持ちなんて……マドカさんだと思った。それがどれだけ嬉しかったか。舞台に上がることができたんだ。そう思えたことが、どんなに……」

 わかるわけない。それなのに胸が痛む。
 雨脚が強まり、石舞台の上を叩く水音が、心臓の鼓動と共鳴して重たく響く。

「ごめん、アメリ。言い過ぎた。僕が言いたかったのは、観客は観客席に戻るべきだって。そう気づいただけのことなんだ」

 オミトが屈んでいる私に手を差し出した。私の大好きだった細長い指。いつも靴ひもを結んでいてくれたその指が、いまは見知らぬ他人のものに見えた。

「だから、アメリの靴ひもを結んでくれる人が現れたのなら、それでいい。僕はもう────」

 私はオミトの言葉を遮って石舞台を飛び出し、土砂降りの中を走った。
 湖畔の道はぬかるみ、靴底が泥をはね上げる。髪は水を吸って重く、服も肌に貼りついて冷たい。それでも走った。涙と雨の区別もつかないまま。

 足が止まったのは、湖畔の街灯の下だった。
 気づけば、傘をさしていた。いつの間に?わからない。
 それどころか、傘地には赤く光る文字が短歌となって浮かび上がっていた。
 
 ────私は歌を詠んでいたのだ。
 
 文字は雨粒に溶けるように揺らめき、やがて滲んで消えていった。
 どんな歌を書いたのか。わかるはずもない。それがどこへ届くのかすら忘れてしまった。

 光る文字が消えると同時、膝が崩れ、私は石畳に座り込んだ。
 冷たい水が頬を伝い、声にならない嗚咽が喉を震わせる。

「どうして……」

 こんなはずじゃなかったのに……。
 雨音に溶けてゆく。世界も、私も、なにもかもが。