県大会は、もう二日後に迫っていた。
レンジくんの噂も、マドカさんの不在も、アメリの曖昧な笑顔も────すべてが胸の中で渦を巻き、落ち着く暇がない。
(僕にできることなんて、限られてる……せめて、お守りでも)
そう思って。放課後、軍神を祀る神社へ足を運んだ。
────御射口神社
かつては、蝦夷のアテルイ討伐や元寇にも兵を送ったという好戦的な武士団によって建立された神社であるが、奉じている神は元を辿れば縄文に至るほど太古の名もない神とのこと。
その境内はたいへん綺麗に整備されているが薄暗く、人影もない。
少しビクつきながら、そろそろと社務所の戸を開けると、背後から尖った口調の声が僕に飛びかかってきた。
「おぅ、オミトじゃねえか。久しぶりだな」
振り返った僕の目に飛び込んできたのは、巫女服に身を包んだ金髪のおかっぱ頭。
ぱっと見は人形のような美少女────だが、口を開けばドスのきいたヤンキー声。
「ヤ、ヤクモさん……!」
思わず声が裏返った。
────甕雷ヤクモ。
幼いころから顔を知っている古馴染みの神主。チギリ叔父さんとは同業仲間で、昔から何かと世話を焼いてくれた人だ。
美少女にしか見えないが、無論男性である。
「なんだぁ?チギリのアホに似てきたなぁ。ぶん殴っていいか?」
「だ、だめに決まってるでしょ……」
「けけけっ。おめえ、傘ゆらに選ばれたんだってな?随分と苦労したろ」
にやりと笑って、ずばり核心を突いてくる。僕は面食らった。
「やっぱり……知ってたんだ」
「あったりめぇよ。なんせ龍神をフルボッコにして湖に沈めたのは、うちの神様なんだぜ?こっちのがつえーんだからよ、ダダ漏れよダダ漏れ」
肩をすくめたヤクモさんは乱暴に引き出しを開け、布袋を放り投げてよこした。
「ほら、勝利祈願のお守りだ。女の子のためだろ? 顔に書いてあんだよ」
「ち、違……そんなんじゃないよ」
反射的に否定したものの、舌がもつれて声にならない。
図星を突かれたのは、痛いほどわかっていた。
ヤクモさんはニヤリと笑い、ぶっきらぼうに言い放つ。
「なーに、うじうじしてんだよ。恋は気合いだおめぇ。その頼りねぇ肩に止まってくれてるうちに口説き落とさねえと、すぐに飛んでっちまうぜ?」
お守りを両手で受け取りながら、胸の奥で思いがあふれる。
(飛んでいってしまう……そうだ。そうだけど……)
「好き」と断言できないまま。
けれど確かに、アメリを中心に自分が動いていることを僕は十二分に悟っていた。
「また迷ったら来いよ」
背を向けたヤクモさんが、軽く手を振る。
「あぁ、そうだ。きょう、これからお前にイイコトが起きるぜ?神託ってやつだ。よかったな、おい」
僕の頬に一雫の雨粒が落ちた。
降ってきそうだ。僕はせっかくのお守りが濡れないように、カバンの奥にそっとしまった。
*
神社を出た途端、雨は本降りになった。
傘を開けば、透明な天井を細かな粒が叩き始める。そのリズムは、胸のざわめきと同じように早く、急かされているようで落ち着かない。
────飛んでっちまうぞ?
ヤクモさんのぶっきらぼうな声が耳に残っている。
(飛んでいってしまう……もう手の届かないところまで……でも……)
そう繰り返しながら坂を下る。
街は梅雨の色に包まれていた。舗道に咲く紫陽花は雨粒を弾きながら鈍く光り、商店街のシャッターは早々に降りて、店先には雨宿りする人の姿がちらほら。アスファルトの水溜まりに街灯が揺れ、足を踏み入れるたびに形を崩していく。
人影のまばらな通りを歩く僕の傘に、ただ雨の音だけが重く響いた。
「あれ、ここってたしか……」
ふと思い出した。この道を少し進めば、レンジくんのアパートがあるのだ。
噂の真相を確かめたい。そして「生きている」と自分の目で確かめたい。そんな興味とも取れる邪な衝動に突き動かされ、傘を傾けながら気づけば僕は足を進めていた。
やがて、古びた二階建てのアパートが見えてきた。
トタン屋根を打つ雨音と、傘を震わせる無数の粒が胸の鼓動を増幅させる。
握りしめた傘の持ち手が滑る。じっとりと手のひらに汗をかいているようだ。
(大丈夫だ。きっと生きてる。だって、和歌は……届いているんだから)
玄関が見えてきた。あとは、ひと言めに何を喋りかけようか……と脳裏によぎった。
その時だった。
ギィ、と扉が開く音がした。
そして、出てきた人影に、僕は息を呑んだ。
タオルで濡れた髪を押さえ、買い物袋を提げた少女。
見間違えるはずがない。
────アメリだった。
雨の中、傘をさして小走りで去ってゆくその後ろ姿。スカートを履いているが、その上着はセーラー服ではなく、男性用サイズの半袖のTシャツだ。
「……え」
声にならない声が漏れる。
強く握りしめていた傘が滑り落ちそうになる。
(なんで……アメリが……レンジくんの部屋から……?)
傘を叩く雨音。胸の奥には返しのついた針が深く刺さって、僕の心臓を掻き回している。
僕はもう……息をすることもできなくなっていた。


