またここに来てしまった。
 レンジくんのアパートの前。玄関のコンクリートに体育座りして、私────時雨マドカは、膝を抱えてうずくまる。

 何日目だろう。もう数えるのもやめた。
 放課後になると、体が勝手にここへ向かってしまう。ドアが開くのを待つためだけに。

 でも、彼が私を中に入れてくれたことは一度もない。
 今日も、ただ静かな扉の前で時間が過ぎていく。
 学校も、だんだん行けなくなってしまった。「完璧なお嬢様」なんて呼ばれてた頃の私は、もうどこにもいない。背筋を張って笑うふりをしていたあの仮面は、全部はがれ落ちたから。

 今ここにいるのは、ただの女の子。
 ひとりの男の子のことだけを考えて、扉の前に座り込んでいる────それだけの私。


 *


 今日もまた、玄関の前にしゃがみ込んだ。
 顔を膝に埋めていると、時間の感覚なんてすぐに曖昧になる。
 ただ、ドアが開くのを待っているだけ。

 とはいえ、連日の疲れがでてきたようだ。気づけばまぶたが重くなって、うとうとと眠ってしまった。
 頬に冷たいものが落ちてきて、はっとする。
 雨だ。
 風に煽られて、肩や髪まで濡れていく。

「……おい」

 不意に声がして顔を上げると、玄関のドアが少し開いていた。
 そこにレンジくんが立っていた。
 疲れた顔で眉をひそめながらも、声は思ったよりも優しかった。

「風邪ひくぞ。病人が増えちまうじゃねえか」

 その言葉を聞いた瞬間、張りつめていたものが一気に切れた。
 もう我慢できなかった。
「レ、レンジく……レンジくん……!」
 子どものみたいに声を上げて泣いてしまった。

 近くの部屋から「何事?」と隣人が顔を出す気配がする。
 レンジは舌打ちして、小さくため息をついた。
 そして観念したように、私の腕をぐいっと引っ張った。

「……入れよ」
 その一言で、私は初めてこの扉の向こうへ足を踏み入れたのだった。
 

 *


「ごめん……ごめんなさい……!私が……私が、お母さんを……!」

 私の第一声は謝罪からはじまった。ずっと考えていたことだ。それでも涙に濡れてしゃくり上げながらでは上手く言えるはずもない。

「もういいって。いつの話してんだよ。つーか泣くなよ、うるせーから」

 レンジくんはため息混じりに言った。
 その声は力がなく、顔色も悪い。頬はこけ、目の下には濃い影。
「大丈夫」なんて言葉が嘘だとすぐにわかる。

「体調、崩してたって……」

 問いかけると、レンジは少し肩をすくめただけだった。
「風邪はとっくに治ってる。ただ……疲れてるだけだ」

 部屋の中を見回すと、片付けられていない食器、飲みかけのペットボトル、そして楽譜が散らばっていた。窓のカーテンは閉じきられ、空気は重く淀んでいる。
 この数日間、まともに動けていないことは一目でわかった。

 普通なら、居心地の悪さに逃げたくなるような空気。けれど、私は不思議とその逆だった。ここでこそ、自分が必要とされる気がした。

「じゃあ、私が……」

 涙を拭い、息を整える。
 そして、できるだけ大きな声で言った。

「私が、世話をするから!」

 レンジくんが驚いたように目を瞬いたのを横目に、私はすぐに立ち上がった。
 傘も差さずに玄関を飛び出す。
 次の瞬間には、私はスーパーへ向かって走っていた。


 *


 スーパーで両腕いっぱいに食材を抱えて、息を切らしながらアパートに戻った。
 雨に濡れた紙袋が破れそうになって、胸の前で必死に抱きしめる。
 これで少しは元気になってもらえるはず!そう思うと、体の疲れなんて気にならなかった。

 台所に立つのは、たぶん初めてに近い。
 包丁を握る手はぎこちなくて、野菜を切るたびに変な音がする。調味料の分量もよくわからないから、全部“なんとなく”で入れた。それでも鍋の中で湯気が立ちのぼると、胸が熱くなった。
「私でも、役に立てる」そう信じたかったのだ。

 大鍋いっぱいのカレーが完成した……はずだった。
 なぜか買い物袋に入っていたみかんを「合うかも」と思って入れてしまったのだ(皮ごと)。
 味見をすると……んん……カレーとは別のグロテスクな食べ物になっていた。

「まさかカレーに蜜柑入ってるとは思わなかったよ」
「お、お、欧風……カレーなので……」
「……まー、そういうことにしとくか」

 レンジくんはしばらく黙ってスプーンを動かしていたけれど、最後には苦笑して皿を空にした。
 胸がいっぱいになった。
 ちゃんと食べてくれた。それだけで泣きたくなるほど嬉しかった。

 次の日も、その次の日も、私は学校を休んでレンジくんの部屋に来た。
 また料理に挑戦しては、また失敗した。
 焦げた卵焼き、しょっぱい味噌汁、苦いハンバーグ。
 レンジくんは文句を言いながらも、いつも残さず食べてくれた。

 その繰り返しが、私にとっては救いだった。
 ひたすらに平凡な私が“役に立てている”と信じられる時間が、ここにだけはあったからだ。


 *


 スーパーの店内、冷蔵ケースの前で私は立ち止まっていた。
 今日は何を作ろう。昨日のミラノ風カツレツは……失敗だった。というかトンカツとカツレツの違いがわからない。
 ……でも諦めない。少しでもレンジくんの力になりたいから。
 真剣に考えすぎて、肩にかけた買い物かごがやけに重く感じる。

「マドカ?」

 背後から声をかけられて振り返ると、そこにアメリがいた。
 セーラー服の上に薄手のジャージを羽織り、手には菓子パンや栄養ゼリーの入った袋を持っている。
 午前授業の日で、昼からの部活に備えて軽食を買いに来たのだろう。

「なにしてんの?」
 不思議そうに首をかしげられて、胸の奥がどきんと跳ねた。

 逃げても仕方ない。私は深呼吸をしてから、ゆっくりと口を開いた。

「……レンジくんが、学校に来てないのは知ってる?」
 アメリの目がわずかに揺れる。
「体調を崩してて……風邪は治ったみたいだけど、まだ元気がなくて。だから、私が……」

 言葉を探すように、買い物かごの取っ手を強く握りしめる。
「私が、世話をしてるの」

 アメリは驚いたように目を見開いた。
「……マドカが?」
 小さく繰り返す声に、戸惑いと驚きが入り混じっていた。

 私は視線を逸らさずにうなずいた。
「私があの人を傷つけた。だから今度は、私がその傷を癒したい。いまは……そう思ってる」

 アメリはしばらく黙って私を見ていた。
 やがてふっと息を吐き、「……なんか、変わったね」と呟いた。
 声は驚き混じりだったけど、なに一つ馬鹿にした口調ではなかった。

 やっと見せることができた。飾らない私を。それが……こんなにも嬉しいなんて。

 
 *

 
 アメリの出場する県大会まで、もう二日。
 
 気づけば私は、この小さなアパートを「自分でいられる場所」だと感じていた。
 学校では仮面をかぶり、家では居場所なんてなくて。でもここでは、泣いても、失敗しても、許される気でいる。

「練習は、今日もう休みなんだ」
 アメリがそう言ったのを思い出して、私は思い切ってレンジくんに提案した。
「ここで壮行会をしてもいい?」

 レンジくんは少し面倒そうな顔をしたけど、最終的には肩をすくめて「なんかデリバリーでも頼もうぜ」と言ってくれた。

 夕方、アメリが訪ねてきた。
 玄関に立つ彼女を迎え入れると、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。
 ピザやチキンをテーブルに並べて、三人で囲む。
 最初はぎこちなかったけど、次第に笑い声が重なって、質素な壮行会は和やかに幕を降ろそうとしていた。

 ────だがしかし

「やっぱり、私の料理も食べてもらいたい」

 そう宣言して台所に行くと、私を待っていたのは特製のトマトスープ。事前に用意しておいたのだ。
 これは冷めた方が美味しい(はず)
 この自慢のスープを是非アメリに。意気揚々とテーブルに置こうとしたその瞬間。

 ぐらり、とお皿が傾いて。
「あっ……!」
 真っ赤なスープがアメリのセーラー服に派手にこぼれた。白い布地が一瞬で赤に染まり、部屋の空気がラードのように固まる。

「ご、ごめん!本当にごめん!弁償するから!」
「あぁ、いいって。大丈夫、ダイジョブ〜」
「そんな……髪の毛まで飛んじゃってる……んっ」

 ────私は思いついた
 というより、そうすべきだと何かが私にささやいた気がした。
 
「……ねぇ、アメリ。一緒にお風呂入ろ」


 *


 狭い浴室に、二人で肩を並べて座る。
 小さな湯船だから、お互いの膝が少し触れるくらい近い。湯気で曇った鏡に、赤い頬の自分たちが映っていた。
 ハダカの付き合い。これが必要だと思った。身も心もさらけ出してアメリと会話したかったのだ。それゆえのお風呂タイムである。

「……なんか、久しぶりだね。こうやって一緒に入るの」
 
 アメリがぽつりと言った。
 私はうなずいて、小さく笑った。

 それからは、しばらく私の独壇場。
 クラスの女子からパパ活疑惑の噂を垂れ流れているなど、実際の私はこうも嫌われていたのだと愚痴りに愚痴った。
 それをアメリは、隣で笑いながら聞いてくれていた。

 少しの沈黙。
 心臓が早鐘を打っているのが自分でもわかる。ここで言わなきゃ、と思った。

「アメリも、傘ゆらに選ばれたんだよね?」
「え……」
「そして私の傘を持ってる。そうでしょ?」

 ピチョン。
 狭い浴室に、水音が木霊した。

「……ごめん。黙ってて」
「違うよ。責めてるんじゃない。むしろ悪いのは私だよ。だって……マドカの恋心を覗いちゃったんだから。オミトくんへの」

 アメリは湯の中でびくりと肩を震わせ、こちらを見た。
 言葉にはしなかったけど、顔に出る性格だから、答えは明らかだった。

「ここからは、私の勝手な推測。五分五分かなって、でもたぶん当たってると思うから言ってもいい?」
「いいよ、マドカ」
「オミトくんが持ってる傘は、アメリの傘。違う?」

 アメリは小さく首を縦に振った。

「仲良しだから、傘におそろいの印を〜なんて言ってリボン巻いちゃったもんね。オミトくん……勘違いしちゃってた……よね?」
「ん。ガッツリと」

 私たちは顔を見合わせ、声をひそめて笑い合った。
 イタズラをした子どもみたいに。ふたりだけの秘密を共有したつもりで。

「そっか……そうなんだ」
 私は目を細めて言った。
「私ね……オミトくんには似た匂いを感じてたの。だから惹かれたのは、本当なんだ」
 
 アメリが目を見開く。
 私は続けた。
「でも、オミトくんが本当に見てるのは、アメリ……あなたなんだよ」

 沈黙が落ちる。湯気がゆらゆらと漂って、目の奥が熱くなった。

 ふと、あの肖像画のことが口をついて出そうになった。
 『モデルにしたはずなのに、描かれていたのはアメリに似た顔だった』
 あのときの敗北にも似た衝撃。
 でも、それは私が言うべきことじゃない。
 
「……あとは本人から聞いて」

 アメリは俯いたまま、小さな声で私の名前を呼んだ。
 
「……マドカ」
「親友なんだもん。応援してるよ、アメリ」
 
 アメリの目が潤んで、私も一瞬泣きそうになった。
 きっとこの子も、苦しかったんだろうな。それが痛いほど伝わってきたからだ。

 アメリが私の肩に頭を預けた。私もまたそれに応えるように、彼女の癖っ毛な髪にそっと顔を(うず)めた。

 
 *

 
 アメリを玄関で見送ったあと、静けさが残った。
「頑張ってね」その言葉を最後に、彼女は濡れた髪のまま笑って去っていった。
 ────きっと、もう大丈夫。あの子は自分の道を走っていける。

 部屋を片づけ終えて、私も帰ろうと荷物を手にしたとき、思いもよらぬ言葉がレンジくんから投げかけられた。

「……今日は、泊まってけよ」

 突き刺さった。その瞬間、体の芯が熱くなる。
 返事をしようとしても、喉がきゅっと塞がって声が出なかった。

 だって、男の子と夜を共にするわけで。
 それだけで頭の中が真っ白になって、どうしたらいいのかわからなくなる。
 逃げたいような、でも逃げたくないような。相反する気持ちが胸の奥でぐちゃぐちゃに絡まっていった。

 ────それでも
 怖さを抱えたままでも、この人の隣にいたい。そう思ってしまった。

 結局その夜、私たちは距離を空けて布団を並べた。
 電気を消すと、雨音だけが静かに響いていた。

「……なぁ」
 レンジがぽつりとつぶやく。
 
「お前、なんでそこまで俺に構うんだ」

 ひと息おいて、私は答えた。
 
「……あの時、レンジくんが心の傷を曝け出した時。私、思ったの。きっとこの先、レンジくんは誰にも明かすことはしないんだろうなって。だから……かな。うまく言えないけど」
 
 彼は何も言わなかった。
 でも否定もしなかった。

 沈黙の中で、私はそっと体を起こして、傘を手に取った。目的はひとつだ。
 
「ねぇ、今ここで……傘ゆらをやろうよ」

 私たちは、この生活の中で互いに傘ゆらで繋がっていることを明かしている。
 ただ、レンジくんが持っている傘は誰のものか。それだけは「秘密だ」と言って教えてくれなかった。女の子なのかと詰め寄ったけれど、相手は男の子らしいので見逃した。

「レンジくん、ダメ?」

 レンジくんはちらりと横目で見て「好きにしろ」とだけ言った。
 私は迷いなく筆を走らせる。


 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
 (ひと)りなる 君に寄り添ひ 千夜(ちよ)かけて
 共にぞ越えむ 契り絶えせじ

「孤独なあなたに寄り添って、
 千の夜を共に越えてゆきたいと思っています」
 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
 

 ベランダに出て、傘地に書いた歌を雨に当てると、赤く光って滲むように消えた。
 しばらくしてレンジくんの携帯にアプリから通知が来た。
 
 レンジくんはしばらく黙っていた。
 やがてぶっきらぼうに起き上がって玄関の傘立てまで歩いていき、傘を手にして戻ってきて、そのままベランダにいる私の隣に立った。
 私の見ている横で、さっと歌を書くレンジくん。そして傘に雨を当てると、返歌が白く光った。
 その光を見つめながら、私は小さく息を吸った。


 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
 声も音も 届かぬとして なお君の
 ぬくもりだけは 胸にしみゆく

「声も音も届かないほどに深かろうと、
 あなたの温もりだけは、きっと心に触れることでしょう。
 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼

 
 レンジくんの返歌を読んだ私は、一息おいてから彼を見て言った。

「これを私たちのはじまりにしよう。マイナスからだって構わない。ね、レンジくん」

 彼は返事をしなかった。
 けれどその口元がほんのり綻んだように、私には見えた。