県大会まで、もう一週間を切った。
 守矢高校の空気は、どこか浮き立っている。
 廊下でも教室でも、耳に入ってくるのは陸上部の話題ばかりだ。

「虹又、また自己ベスト出したらしいぞ」
「今度の県大会、きっと上位に食い込むな」

 そんな声が自然と飛び交う。
 みんなの口の端に、アメリの名前がのぼる。

 グラウンドの端から彼女を眺めると、確かにその期待は当然だと思えた。
 アメリは連日、驚くような走りを見せている。
 フォームは無駄がなく、地面を蹴る一歩一歩に力がこもっていて、以前よりも身体全体が軽やかに見える。
 そして走り終えたあとも、笑顔で後輩にアドバイスを送る余裕すらあった。

 (すごいな……アメリは、どんどん前に進んでる)

 胸の奥がじんわり熱くなる。
 誇らしい。けれど、同時に遠くなってしまったような気がした。
 いや、以前から遠い存在であったのを、ここ最近になって急に距離が縮まったような気がして、僕の身の置き方を誤っているだけなのかもしれない。

 朝練に出るようになってから、毎朝の“儀式”────靴紐を結んであげる時間は一時休止になった。
 けれど、部活中であってもひとたび靴ひもがほどければ「お願い」と連絡がくる。そう言われるたび、ふたりして物陰に隠れて、僕は膝をついて蝶結びを作るのが僕の任務だ。
 煩わしくなんてない。むしろ不思議な安堵を覚えている。

 でも、彼女の走る背中を目で追っているうちに、別の感情がせり上がってくる。
 (僕は……どうして、こんなにアメリばかり見てしまうんだろう)

 その問いはまだ答えにならずに胸の奥に沈んでいた。
 というより、答えを出してはいけない。それが本音なのかもしれない。
 だって僕は……どこまで行っても所詮“観客”でしかないのだから。


 *


 アメリが小学生の時に転校してきて以来、僕とアメリは小中高と同じ学校に通っているけれど、不思議と同じクラスになったことは一度もない。
 だからこそ、廊下ですれ違う時や、校庭のグラウンドを横切ったときに彼女の姿を見つけると、つい目で追ってしまうのは僕のクセみたいなものになっていた。
 汗を拭いながら笑って仲間と話す声。跳ねるように軽い足取り。遠くからでも眩しいと思えるほどの笑顔。アメリは昔から目を引く。太陽の下であっても決して色褪せない南国の鳥のようで、羽を広げていても止まり木で佇んでいても、その鮮やかな色味は隠しようがない。

 観客として割り振られたこの座席に、彼女がゆらりと飛んできては象牙の器に注いだ水を啄んでまた飛んでゆく。触れるでもない、囁くのでもない、ただ眺めるだけ。
 それがルールだ。
 知った上で────僕はそれ以上を望んでしまっている。そのことが……どうしようもなく怖い。

 マドカさんに向けていた気持ちとは、どこか違うと気付いている。
 あのときは静かな憧れに似ていた。けれどアメリに対しては、それでは足りない。
 もっと生々しくて、胸の奥をざわつかせる。

 でも、それを「好き」という一言に変えてしまうのが、どうしても飲み込めない。
 彼女は陸上部のエース。毎日のように自己ベストを更新し、誰もが期待を寄せる存在だ。
 光の中を走る彼女に比べて、僕は美術部の片隅で足踏みをしているだけ。

 (僕なんかが……アメリと並んで立てるはずがない)

 想いが形になりかけては、劣等感がそれを押し潰す。
 言葉にならないまま、ぐるぐると回り続ける様はコインランドリーに放り込んだ洗濯物みたいだ。

 それでも、目を逸らすことはできなかった。
 どんなに遠くにいても、気づけば視線は彼女を探してしまう。
 困るな……と僕は今日もため息をつく。


 *


 その日の放課後。
 美術室へ向かう途中の廊下でひそひそと囁かれる声が耳に入った。

「雲座レンジが自殺したらしい」

 最初は冗談か、尾ひれのついた噂話だと思った。
 けれど、美術部でも他部でもあちこちで複数の生徒が同じことを口にしているのだ。
 その言葉は鉛のように重く、胸の奥に沈んでいった。

 (……そんな馬鹿なこと)

 脳裏に、ゆら祭りの夜が蘇る。
 雨の中、レンジくんはひとりヴァイオリンを弾き続けていた。
 誰もが傘を忘れたように立ち尽くし、その音に聞き入っていて。頬を濡らしていたのは雨粒だけじゃない。観客の多くが涙を流していた。

 あのときの演奏は、確かに心を震わせる力を持っていたはずだ。
 (あんな音を奏でられる人が……自殺なんて!)

 そう強く否定しながらも、別の記憶が胸をかすめた。
 あの日、レンジのアパートで一緒にピザを食べた夜のこと。
 「俺に母親はいねえよ」と吐き捨てるように言ったレンジの横顔。
 その時の、どうしようもない影の色を帯びた瞳。

 (……もしも、あの影が今も消えていないとしたら)

 胸がざわつき、イカリを下ろした船のように身動きが取れない。
 いてもたってもいられず、スマホを取り出してレンジにメッセージを送った。
「……生きてるよね?」

 返信はない。既読すらつかない。
 画面を握る手にじわりと汗がにじむ。

 それでも、その日の夕方、雨が降り出すとアプリに通知があり、傘に和歌が浮かんだ。
 レンジくんからの贈歌だった。

 
 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
 心ぐさ 憂ひをしのぶも うれしきに
 今はしばしの 時をこそ待て

「心配してくれて、嬉しいよ。
 だけど、すまない。いまはもう少しだけ時間が欲しい」
 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
 
 
「……やっぱり生きてる……そうだよね?」

 そうだ。そうに決まってる。
 けれど同時に、傘を通じてしか繋がれないこの状況に、不気味さを拭えないのも正直なところだった。


 *


 レンジの噂の真相を知りたくて、放課後、僕はマドカさんを探した。
 けれど教室にも、いつもの昇降口にもその可憐な姿はなかった。

 僕は記憶を頼りに、取り巻きのように彼女の周りにいたであろう女子生徒に何度か尋ねてみた。
「時雨マドカ?あー、どっかにいるでしょ。知らんけど」
 答えはみな同じ。だが、その口調は思ったよりも冷ややかで、人気者であるはずの彼女に向けられたものとはとても思えなかった。

 中には、鼻で笑いながら話す女子もいた。
「どうせまた男と会ってんだわ。ほら、パパ活だって有名なのあの子」

 胸がざわついた。
 マドカさんがそんなことをしているわけがない。
 けれど、彼女を語るその声には嫉妬ややっかみが混じっていて、明らかな敵意がある。

 (……マドカさんは、本当は寂しい人だったんだ)

 華やかに見える彼女の周りに、実は深い孤独が広がっていた。
 初めてそれ目の当たりにした僕は、胸の痛みを抑えきれなかった。
 そして、あぁと腑に落ちた。
 だから僕は……彼女に……マドカさんに惹かれたのだなと。

 ────そんなとき、スマホに短い通知が届いた。
 《いま大丈夫?》
 送り主はアメリだった。

 指定された校舎裏に足を運ぶと、壁際にアメリが立っていた。
 ランニングシューズの靴紐がするりと解けている。
「ごめん、急いでて……」
 汗ばんだ頬に笑みを浮かべながら差し出される足。

 僕はしゃがみこみ、指先で紐を拾い上げる。蝶結びを作る動作は、もう何百回も繰り返したもの。
 アメリは少し息を整えながら、じっとその手元を見つめていた。
 このふたりだけの秘密の時間だけは、昔と変わらない距離感の中にある。そうおもうと、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 結び終えた瞬間、思わず口を開いてしまった。
 「……アメリ。レンジくんのこと、何か知ってる?」

 その言葉に、彼女の表情が一瞬だけ固まった。
 瞳が泳ぎ、頬がぎこちなく引きつる。
 アメリは嘘をつけない。何かを隠している時は、決まって顔に出る。
 すると、彼女は強引に笑顔を作って言った。
 
 「さ、さぁ……私も詳しくは。ごめん、練習戻らなきゃ!」

 声は明るいのに、その目の奥に影が差しているように見えた。

 「……アメリ」

 呼び止める間もなく、彼女は校庭へ駆け戻っていった。
 取り残された僕の胸に残ったのは、彼女の作り笑いと、その裏にあった一瞬の陰り。
 (やっぱり……アメリは何か知ってる。でも、僕には言ってくれないのか)
 疑念と寂しさが胸の中で渦を巻く。
 グラウンドに戻っていく彼女の背中は、光の中へ走り去るようで、僕はただ影の中にひとり取り残されていた。