控室の扉が半開きになっていて、そこから灯りが漏れていた。
 そっと覗くと、レンジくんが鏡の前に立っていた。
 演奏会用に誂えられた装束────質素な木綿の直垂に袴。下級武士を模したような姿は、普段の制服や私服の彼とはまるで別人に見えた。

 思わず息をのむ。
 (……やはり、絵になる)

 派手さはないのに、立ち姿だけで一枚の絵画のようだった。
 装束に馴染もうとする肩の緊張、真っ直ぐな背筋。
 粗削りなのに、舞台の光を浴びたら誰よりも映える────そう確信できる。

「……よく似合ってるよ、レンジくん」

 声をかけると、レンジくんは肩越しにこちらを振り返り、少し気まずそうに視線を逸らした。

「……悪かったな、マドカ。金はちゃんと返すから」

 やっぱりそう言うと思った。
 この衣装は演奏者の自費負担だったけれど、彼にとっては大きすぎる出費だった。
 困り果てていたところに、私が手を差し伸べた────いや、差し出さずにはいられなかった。

「ううん、気にしないで」
 私は首を横に振った。
「その代わり……時間、いいよね?」

 レンジくんは眉をひそめ、少しの間黙り込む。

「……あぁ。演奏会までまだ余裕あるからな」

 承諾の言葉を聞いた瞬間、胸がじんわりと熱くなった。
 (よかった。これで、計画は進められる)

 私は唇の内側を噛みながら、心の奥で小さく呟いた。
 ────私が橋渡しをする。龍神のように。
 この手で、きっとレンジくんを救ってみせる。


 *


 露店の並ぶ通りは、人の波でごった返していた。
 提灯の明かりが頭上で揺れ、金魚すくいの声や射的の破裂音が夜気に弾む。綿菓子の甘い匂いが鼻をくすぐる。

 私はレンジくんと肩を並べて歩いていた。
 彼は「衣装の借りがあるから仕方なく」といった様子で、ぶっきらぼうに歩を進める。
 でも、それでよかった。大切なのは、この時間をつなぎとめておくこと。私の計画のために。

 ────ふと。

 雑踏の向こうで、見慣れた後ろ姿が目に入った。さっきまでチギリさんの握手会で一緒にいた彼。
 オミトくん。
 彼は浴衣の袖を引き、隣の少女を人混みから導いていた。
 アメリだ。

 アメリは恥ずかしそうに笑い、オミトくんはどこか誇らしげな表情をしている。
 群衆のざわめきの中で、ふたりだけが光を放っているように見えた。
 胸の奥を、冷たい棘が突き刺した。

 ────和歌。
 君ととも 祭りの夜を 歩む夢 灯の下に咲く わが恋心

 数日前に届いた贈歌が脳裏によみがえる。
 思えば、以前から気づいていた。
 選ぶ比喩の素朴さ。言葉に滲む風や走りのイメージ。そしてどこかで聞いたことのある、彼女らしい勢いのある言葉遣い。
 (あなたの特徴が、あの歌には確かに見えていた)

 今、その確信が決定的になる。
 (やっぱり……私の傘は、アメリの手元にある。あの子はオミトくんへの想いを詠んでいたんだ)

 苦く笑みを浮かべながら、小さく呟く。
「……私も、レンジくんと向き合わなきゃ」

 今夜、母子を会わせる。その橋渡しがうまくいけば、レンジくんは私を見てくれるかもしれない。
 でも、もし彼が私を拒むのなら────

 胸の奥で、ひとつの覚悟が固まる。
 (そのときは、今度こそ……オミトくんに本気になる)

 私は振り返り、レンジくんの歩調に合わせた。
 人混みを抜け、会場裏手へ向かう。
 龍神の橋渡し役を果たすのは、もうすぐだと信じながら。


 *


 裏手の通路に差しかかったところで、私は立ち止まった。
 レンジくんが怪訝そうにこちらを見る。

「……レンジくん、ちょっと待っててくれる?」

 彼は眉をひそめたが、すぐに肩をすくめる。
「わかったよ」
 ぶっきらぼうな声。けれど「衣装の借り」があるからか、強くは拒まなかった。

 私は小走りでその場を離れた。
 祭りの喧騒が遠のき、提灯の灯りもまばらになる。
 ひんやりとした夜気の中、通路の先にひとりの中年女性が立っていた。

 落ち着かない様子でハンカチを握りしめ、視線を右へ左へと彷徨わせている。
 ────レンジくんのお母さん。

 私は息を整え、そっと近づいた。
「お待たせしました。……もうすぐですから」

 女性ははっと顔を上げる。
 目尻にはすでに涙の跡がにじんでいた。
「本当に……本当に会ってくれるのかしら」
 震える声。期待と不安がないまぜになったような響きだった。

 私は力強く頷いた。
「大丈夫です。誤解が解ければ、きっとすべてうまくいきます」

 その言葉を口にした瞬間、胸が熱くなった。
 (私が橋渡しをする。龍神のように。私の手で、この親子を繋げてみせる)


 *


 私はレンジくんのお母さんを伴い戻ってきた。
 待っていたレンジくんは、見知らぬ女性を伴う私を訝しげに見つめる。

「……マドカ、これは?」

 胸を張って、私は言った。
「レンジくん。ほら……お母さんだよ」
 彼の肩がわずかに震えた。

「ふざけんな。俺に母親はいねえよ」
 
 レンジくんのお母さんは恐る恐る歩み寄り、バッグの中から小さな包みを取り出す。
 指先で解いたのは──紫色のヴァイオリンの弦。

「……傘を無くさないように、これを結んでおきなさいって。あなたにそう教えたのは、私よ。覚えてるでしょう?」

 その瞬間、レンジくんの目が大きく見開かれた。
 無表情を装っていた顔に、一気に血の気が差し、そして引いていく。
 拳を握りしめた手がわずかに震え、視線が床へと落ちる。
 強がりな仮面が、今にも剥がれ落ちそうに見えた。

「レンジ……元気にしてた?」
 母の声はかすかに震えていた。
「……まぁな」
 低く答えるレンジくん。声は掠れ、喉の奥で言葉が詰まりそうになる。

「ご飯は……ちゃんと食べてる?」
「……別に」

 短い。ぎこちない。
 それでも、確かに会話は繋がっていた。

 私は物陰からそのやりとりを見守り、胸を撫でおろした。
 (大丈夫。ふたりは話せている。……私の橋渡しは、成功したんだ)

 心臓がじんわりと熱を帯びる。
「……飲み物を買ってきてあげようかな」
 そう呟き、小さく微笑んでその場を離れた。

 胸の内は誇らしさでいっぱいだった。
 (私は善いことをした。これで、すべてがうまくいく)


 *


 アイスラテの入った紙コップを二つ、両手に抱えてふたりのいるところに戻ってきた。
 胸の奥は、じんわりと温かい。
 (よかった……私は橋渡しをしたんだ。生き別れた母子を再会させた。私は善いことをしたんだ)
 そんな思いが胸いっぱいに広がり、足取りさえ軽く感じられた。

 ふたりの元に近づいたとき、レンジくんのお母さんの声が耳に飛び込んできた。

「────お金。いくらなら用意できるの?」

 足が止まる。背筋を冷たいものが這い上がる。

「才能があるんでしょう? 音大に特待生で行けるくらいなんだから、稼げるでしょ?」
「いま、いくらあるの? 少しくらいなら出せるんじゃないの?」

 手にしていた紙コップから冷たい雫がこぼれ、指先を濡らした。
 鼓動が早まり、呼吸がうまくできない。

 (……え? いま、なんて……?)

 聞こえてくる母の声には、懐かしさも愛情もなく、ただ金を欲する鋭さだけがあった。

 (違う……これは和解の言葉じゃない。善意の物語なんかじゃない)

 視界が揺れる。
 温かく満ちていた胸の中に、黒い亀裂が走るのを感じた。

 その瞬間、夜空に花火が打ち上がった。
 轟音と歓声が響き渡り、人々は笑っている。
 祝祭の喧騒と、ここに落ちた「金」という言葉の重苦しさ。

 私は立ち尽くし、指先からじわりと紙コップの水が滴り落ちていった。


 *


 母親の声は次第に熱を帯びていった。

「ね、レンジ。すぐに出せる額でいいから。お母さんのために、ね?」

 目を血走らせ、レンジくんに詰め寄る。

 レンジくんは無表情のまま、低く冷えた声を返した。
「金なんかあるわけねぇだろ。ボロいアパートで、その日暮らししてんだ。……知ってるだろ」

「嘘よ!」

 母は声を荒らげた。
「レッスンにだって通えてるじゃない。貯め込んでるに決まってる!」
 彼女の言葉には切羽詰まった鋭さがあった。

 次の瞬間、罵倒が雨のように降り注いだ。
「この親不孝者!」
「誰がヴァイオリンを教えてやったと思ってる!」
「私のおかげで生きてるんだろう!」

 レンジくんはただ黙って立ち尽くしていた。

 母の手が振り上がり、乾いた音が響く。
 レンジくんの頬に赤みが走った。

「や、やめてください!」

 思わず私は飛び出していた。飲み物の紙コップが地面に落ち、中身が跳ねる。
「暴力なんて……やめてください!」

「邪魔するんじゃない、このクソガキ!」
 母が怒声とともに、私に手を振り下ろそうとした。

 しかし、その手は途中で止められた。
 レンジくんが掴んでいたからだ。

 雨がポツリと落ち、次第に強くなる。
 レンジくんの声は、雨音の中でもはっきりと響いた。
「……よくわかった。俺に母親はいねえ。よくわかったよ」

「ち、違うのよ……」
 母の声は震え、次の瞬間にはレンジくんの腕にすがりついていた。ずぶ濡れのまま、爪を立てるように袖を掴み、必死の形相で泣き叫ぶ。
「お願いよレンジ!お母さん苦しいの。ね、助けて?それで一緒にやり直そう。私ね、あんただけが頼りなの……ねぇ、レンジ」
 涙と雨が入り混じり、顔はぐしゃぐしゃに崩れていた。

 レンジくんはその手を冷たく振り払った。
「今回だけは見逃してやる。だが次は許さねえ」

 母はその場に崩れ落ち、濡れた石畳に膝をついて、なおも声を絞り出す。
「レンジぃぃ……違うのよ……!」

 だが、彼はもう振り返らなかった。

 レンジくんは私の手を引き、背を向けた。
「行くぞ」

 私は引かれるままに歩きながら、振り返った。
 そこには、土砂降りの雨に打たれ、泥に濡れた膝で崩れ落ち、必死に腕を伸ばす母の姿。
 夜空を裂くように花火が弾け、祝祭の光と轟音の中で、その姿だけが取り残されていた。


 *


「レンジくん!ねぇ、聞いて!」

 土砂降りの雨の中、私はレンジくんに手を引かれて歩いていた。
 びしょ濡れになりながらも、声を張り上げる。

「レンジくん……誤解だよ。きっと誤解だよ。すれ違っちゃっただけで……ちゃんと話せば……」

 息が荒くなる。

「だって……だってお母さんだよ? 子供を愛してない母親なんて──」

 そのとき、レンジくんがふいに歩みを止めた。
 私の手を離し、ゆっくりと振り返る。
 その瞳は、暗い雨雲の底のように冷たくて、私を黙らせるには十分すぎた。

「……マドカ」

 雨がさらに強まる。

「親に殴られたことはあるか?」

 目を見開く私。
 雨粒が頬を打ち、鼓膜を叩く。

「タバコを押し付けられたことは?」
「熱湯をかけられたことは?」
「飯を与えられなかったことは?給食だけじゃ足りなくて……誰かの残した残飯まで食ったことは?」

 一つひとつの言葉が、刃のように胸に突き刺さった。
 唇が震える。けれど、何も言えない。
 雨音だけが、私の沈黙を覆い隠していた。

 レンジくんはしばし黙り、それから低く言った。
「……お前の気持ちも、知ってた」
 その声は雨に溶けるほど小さかった。

「なのに俺は、恋を教えてくれ、なんて……遊び半分で弄んだ。……本当に悪かった」

 目を逸らさずに、私を見据える。

「だからもう……これで許してくれるか?」

 その言葉を残し、レンジくんは背を向けた。
 雨を切り裂くように歩いていく背中。
 土砂降りの中に溶け込み、やがて見えなくなる。

 私は呆然と立ち尽くしていた。
 花火の光が夜空に散り、轟音と歓声が遠くに響く。
 けれど私の世界は、暗く、冷たい雨に沈んでいった。

 ────龍神になれると思っていた。
 ────善意が救いを生むと信じていた。

 その幻想が、音を立てて砕け散っていく。
 両膝が崩れ落ちそうになるのを必死に堪えながら、私はただ雨に打たれ続けた。