守矢湖の湖畔は、ゆら祭りの熱気に包まれていた。
 屋台の提灯がずらりと並び、焼きそばや綿菓子の匂いが入り混じって漂ってくる。
 湖面には灯りが映り込み、ゆらゆらと揺れる光が波に砕けては消えていく。
 どこを見ても浴衣姿の人であふれ、子どもたちの笑い声やカップルのはしゃぐ声が夜気に弾んでいた。

 その雑踏の中で、私────虹又アメリは立ち尽くしている。
 新調した黒を基調とした浴衣。父に「よく似合ってるぞ」と送り出されたときは、少し誇らしい気分だった。
 でも今は、人の波に押されるようにして、不安がじわじわと胸に広がっていく。

 腕時計に目を落とす。
 (……早く来すぎた)

 わかってはいるけれど、どうにも落ち着かない。
 花火が打ち上がる時刻はまだ先なのに、オミトを探す気持ちが逸ってしまった。
 その姿が見えないだけで、胸の奥に不安が膨らんでいく。


 *


 湖畔を行き交う人波は、浴衣姿の女の子たちやカップルであふれていた。
 白い肌に涼やかな色合いの浴衣、髪をきれいにアップにして、鈴の音のように笑い合う声。
 その姿を横目にするたび、胸の奥がひりつく。

 (……やっぱり比べちゃう。私なんか、日焼けしてるし、髪もまとまらないし)
 せっかく新調した浴衣だって、他の子に比べたら地味に思えてしまう。

「おー、アメリちゃんやないか」

 唐突に聞こえた関西訛りの声に振り返ると、提灯の明かりに浮かび上がったのはチギリちゃんだった。
 相変わらず巫女服姿で、けれど美少女にしか見えないその顔立ちも相変わらず。
「こないなとこ突っ立っとったら、すぐナンパされてまうで?」

 私は思わず苦笑して、首を横に振った。
「私なんて、されないですよー」

「わはは!せやなぁ」
 チギリちゃんがイタズラっぽく笑う。
「わてのような美少女がおるもんやさかい、基準上がってもうたんやろ?えろうすんまへん」

 軽やかに笑い飛ばすチギリの調子に、心が少しだけ軽くなる。

「ところで、暇なんか?」
「え?」
「暇やったら、わてらの握手会。手伝ってや」

 差し出されたのは、スタッフ用の腕章。
 そうして導かれるままについていくと、広場の一角に異様な熱気が渦巻いていた。
 どこから引っ張ってきたのか、立てかけられた黄金の屏風の前にずらりと並んだ13人の美少女……いや違う。彼らこそ音に聞こえし「モリヤ美人」である。
 噂程度で耳にしたことがある。この街には13人の「見た目美少女のおじ……お兄さん」たちが存在すると。それこそが彼らなのだ…!

 そして対角線上。
 大きなカメラを抱えた人々が「かわいい!」「耽美じゃん!」「こっち向いて!」とシャッターを連写していた。
 グッズを抱えて走るファン、長蛇の列を整理するスタッフの声。
 熱気と喧騒で圧倒される空気に、思わず「まるでコミケ会場みたい……」と呟いてしまった。

「ほな、列整理頼むで」
 チギリに背中を押され、私は慌てて腕章を付ける。
「……ちょっとだけなら」

 こうして私は、舞台裏で照明や列整理を手伝うことになった。
 賑やかな掛け声や笑い声に包まれて、さっきまで胸を占めていた劣等感が、ほんの少しだけ遠のいていく気がした。


 *


 撮影会の喧騒を背にして、舞台裏に回る。
 そこは提灯の明かりも届かず、照明器具の熱気と、慌ただしく行き交うスタッフの掛け声でごった返していた。
 私はというと、列整理の仕事を終え、少し涼しい場所を探して奥へ進んだ。
 すると、機材の陰に見慣れた横顔があった。

「……レンジくん?」

 思わず声をかけると、彼はタオルで額の汗を拭ってこちらを見た。やはりレンジくんだった。浴衣ではない私服姿だ。
 
「虹又?こんなとこで何してんの」
「それはこっちの台詞。奉納演奏会があるって聞いてたけど……」
 
 レンジは肩をすくめ、気怠そうに笑う。
 
「バイトだよバイト。このおっさん達の手伝いが、けっこういい稼ぎになるんだ」

 その答えに苦笑しながらも、私は一歩踏み出す。彼には言わなければならないことがあったからだ。
 
「……あの、この前はごめん。私、変なこと言っちゃって」
 
 言葉に出すと、胸の奥がちりちりと痛んだ。
 レンジくんは片手をひらひらと振った。
 
「いいって。気にしてねぇよ」
 
 本当に気にしていない様子で、それ以上何も追及しない。
 私は少しだけ肩の力が抜けた。

 けれど、すぐに別の違和感に気づく。
 ────レンジくんの呼吸が妙に荒いのだ。
 額には大粒の汗がにじみ、シャツの背中までぐっしょり濡れている。

「ねぇ……具合悪そうだけど、大丈夫?」
 
 思わず尋ねると、彼はタオルを首にかけ直して笑った。
 
「あぁ、どうってことねえよ。んじゃそろそろ行くわ……よかったら聴いてってくれよ」

 そう言って、バッグから一枚のパンフレットを取り出し、私に手渡して足早に去っていった。
 表紙には大きく《奉納演奏会/組曲「傘ゆら」》と印字されていた。


 *


 チギリちゃん達の握手会の手伝いを終えると、「助かったで」と肩を軽く叩かれ、私はようやく解放された。
 賑やかな掛け声とシャッター音の渦から抜け出し、腰を下ろした湖畔沿いのベンチで一息つく。
 手にしたフラペチーノを一口。冷たい甘さが喉を滑り落ちていくと、さっきまでの疲労が少し和らぐ気がした。

「思ったより時間経ってないな」

 まだオミトとの待ち合わせ時間まで余裕がある。
 手持ち無沙汰になった私は、ふと手元のパンフレットに目を落とした。

「奉納演奏会……か」

 守矢湖の水面に、ぼんやりと沈む石垣。
 そこがかつて「月島城」と呼ばれた場所だと、子どものころから聞かされてきた。

 湖に浮かぶその姿は、まるで月が水に落ちて島になったようだったと伝えられている。
 それはユラ姫が恋をした舞台。
 ────傘ゆらの舞台。
 けれど戦乱の炎に包まれて、城は跡形もなく消えた。残されたのは、苔むした石垣と、雨に濡れてきらめく湖面だけ。

 今では毎年、ここで奉納演奏会が行われる。
 強固に復元された石垣を舞台にして、音楽を湖に響かせる。
 水面に広がる音色はどこか儚くて、まるで過去の恋の残響が呼び覚まされるようだった。
 
 私はいま一度視線を落とし、レンジくんが渡してくれたパンフレットを開いた。すぐに目に入ったのは奉納演奏会のプログラム。今年は我らが門倉私学館高校の管弦楽部が担当することになっている。演目は毎年同じ。表紙書かれている通り、組曲「傘ゆら」だ。

 ページをめくると、五つの楽章名が並んでいた。
 ──第一楽章「ゆらりゆらり」
 ──第二楽章「ひそやかに恋」
 ──第三楽章「金色夜叉(こんじきやしゃ)
 ──第四楽章「雨をつづる」
 ──最終楽章「雨ときどき歌」

 それぞれに簡単な解説が添えられていた。
 戦国時代。守矢の地に実在した金髪碧眼の姫・ユラが、身分違いの若者とひそやかに和歌を交わし、雨の日に想いを託したという恋物語。
 禁忌の恋はやがて、ユラ姫の討ち死にという悲劇を迎える。その後、龍神は彷徨えるふたりの魂を掬い上げ、雨の日に再会できるようにしたという。

 ────昔から知っている。恋の御伽噺だ。

 和歌を介して想いを届け合う姫と若者。
 その姿が、いつのまにか自分たちと重なって見えてくる。

 フラペチーノの氷がカラン、と音を立てた。
 私は小さく息を吐き、腕時計を見つめる。
 次の瞬間には、どうしようもなく不安の影が胸を覆った。

 ユラ姫も、誰であっても。恋って、みんなこういうものなのかな……。
「恋とは、なんぞや?」チギリちゃんの言葉が脳裏をよぎった。
 わからない。でもきっとわからないからこそ、人は歌を詠むんだろうなと、私は思った。

 ────ブルッ

 巾着バッグに忍ばせたスマホからの振動音。
 取り出して画面をのぞき込む。
 《もうすぐ着くのに、叔父さんに捕まっちゃった。ちょっとだけ待ってて》

 ────オミトからだった。

 その一文に、胸の奥がふっと軽くなる。
 (来てくれる……)
 安堵が広がるけれど、同時に落ち着かなくなった。

「……ダメだ、じっとなんてしてられない」

 私はフラペチーノを飲み干し、人混みへ足を踏み出した。
 会いたい。少しでも早く。

 辿り着いたのは、さっきチギリちゃんに手伝わされた握手会の広場。
 まだ大勢の人が集まっていて、歓声とシャッター音が飛び交っている。
 その人垣の間を縫うように進んで、目を凝らす。

 ────見つけた。

「オミ────」

 言葉が喉に詰まった。
 そこに立っていたのは、間違いなく彼。灰色の浴衣姿のオミトだった。
 けれど、その隣には……マドカがいた。

 淡い色の浴衣に身を包み、黒髪をきちんと結い上げたマドカ。
 白い肌は提灯の灯りを受けて、まるで光をまとっているみたいに映える。
 整った立ち姿。華やかな微笑み。周囲の視線すら引き寄せてしまう気配。

 思わず胸を押さえる。
 (……やっぱり、違う。私とは)

 私の肌は日焼けしていて浅黒くて、髪の毛はあっちこっち好き放題にうねっていて。品よく振る舞ってみても冗談にしか映らなくて……。
 
 ────やっぱり。ダメだな、私は。
 
 バッグの持ち手をぎゅっと握りしめる。
 浴衣の袖が小さく震えた。
 賑やかな歓声が遠のいて、マドカの後ろ姿だけが鮮やかに焼き付いていた。


 *


 喉が詰まりそうになり、気づけば背を向けていた。
 提灯の明かりも、人々のざわめきも背にして、ひたすら足を速める。
 下駄が石畳を叩く音がやけに大きく響く。浴衣の裾が乱れ、呼吸が荒くなる。

「もう……帰ろう」
 小さく呟いた声は、夜風に消えた。
 待ち合わせなんてもうどうでもいい。祭りからも、彼からも……全部から逃げてしまいたかった。

 人混みを抜けると、急に静けさが訪れた。
 湖畔の道。湖面に映る提灯の光が長く揺れ、夜風が水面をさざめかせている。
 遠くで「ドン」と花火の仕掛けが鳴り、胸の奥まで震わせた。
 それでも足を止めず、俯いたまま歩き続ける。

 ────そのとき

「アメリ!」

 背後から呼ぶ声がした。
 振り返らなくてもわかる。ずっと求めていた声、オミトの声だった。

 ────思わず立ち止まる。
 その瞬間、夜空に大輪の花火が咲いた。
 眩しい光が湖面を染め、世界を一瞬で照らし出した。

「よかった……待ち合わせの場所にいないから心配したよ。誘拐されたかと思った」
 
 少し息を弾ませた声に、私は俯いたまま答える。

「ごめん……」
「さ、行こうよアメリ。ここじゃ花火も見えにくいし」

 私は首を横に振って、彼への返事とした。

「アメリ?なんで……一緒に回ろうって。そう言ったじゃんか」
「ん……だってさ、私みっともなくない?」
「え?みっともない?」
「だってほら。肌だって白くないしさ、髪だってアップにもできないし。浴衣だって……」

 オミトは一瞬だけ黙り込み、それから真っ直ぐに言った。
「そんなことない……浴衣、すごく似合ってるよ。それに……全然自信もっていいって。ほんとに」

 胸の奥が揺れる。でも私は首を振った。
「嘘だよ。絶対嘘」

 するとオミトは、呆れたように息を吐き、私の浴衣の袖をぐいっと掴んだ。
「文句いうなよ?」

 そのまま人混みへと引っ張られる。
「ちょ、ちょっと……オミト!」

 屋台の明かりに照らされた通り。オミトはキョロキョロと周囲を見渡し、何かを見つけたかと思えば、私の浴衣の袖を引いていく。そこにいたのは高校生くらいの少年のグループ。
 気安く挨拶している所を見るに、シガクの生徒なのだろう。すると、彼らに向かってオミトは胸を張って言い放った。
 
「この子が僕の幼馴染。世界のバグって言ってたろ?僕にこんな素敵な幼馴染がいるのは。どうだみんな、羨ましいだろ?」

 ────何言ってんの!?

 ポカンとした私に降り注ぐ周囲の視線。
 オミトに向かっては、死刑だ!こいつを許すな!湖に沈めよう。などと不穏な罵声が飛び交っている。
「文句いうなよ」と言っていたオミトの意図を感じ取り、私はオミトを必死で制止する。

「オミトぉ……やめて……え、ちょっと!」

 再びぐいっと袖を引かれて別の人混みへ。
 今度は外国人観光客が目に入ると、オミトが片言の英語で叫ぶ。
 
「シーイズマイガール!ソーキュート!イエス?」
 
 外人さんがニカっと笑って親指を立て、私は顔を真っ赤にした。

 さらに焼きそば屋台に立ち寄れば、店主さんに向かって。
 
「この素敵な女の子、僕の幼馴染なんです。焼きそば無料になりますか?」
 
 するとプロレスラーのような体躯の店主さんが「ん〜?おやおやぁ?」と獰猛な笑みを浮かべてのっそりと振り返った。
 店主さんの顔を見たオミトは飛び跳ねるほど驚いていた。何事だろうとオミトの顔を覗き込むと、血の気の失せた表情でワナワナと震えている。

「あわわわ……き、北川先生……なぜここに……!?」
「露木ぃぃぃ〜。まぁたお前かぁ〜。可愛い幼馴染を使ってぇぇ〜。ゆすりたかりとはぁぁ……感心できんなぁぁ〜?」

 なぜかスクワットをはじめる店主さん。
 オミトが私の浴衣の袖をガシっと強く握った。

「アメリ、逃げるんだよッ────!」
「オミト!?ちょ……私、下駄なんだけど────」


 *


 息を切らして、ふたり膝に手をついている。
 結局、先ほどさほど変わらないような、人混みのない湖畔の道に落ち着いてしまった。

「はぁ……はぁ。もう……なんだったの?」
「ごめん、アメリ……僕の言葉だけじゃ信じられないって言うから。でも、これでわかったろ?」

 ────バカだなぁ、こいつ。

 不器用で、どっか抜けてて、なんかズレてて。
 でも……劣等感で曇っていた心が、少しずつ溶けていくのを感じる。彼の底抜けの優しさを、私はたしかに受け取っていた。
 
 ほんの一瞬、幼い頃の記憶がよぎった。
 靴紐が結べなくて泣いていた私に「僕が結んであげるから」と笑ったオミトの姿。

「ほら、アメリ。花火見ようよ」

 オミトの声を合図にしたかのように、夜空に咲いた大輪の花。
 赤、青、金色の光が次々と弾け、湖面に映り込んでは万華鏡のように移ろう。
 群衆の歓声が遠くでざわめき、私とオミトは並んで空を仰いでいた。
 喧騒は遠い。ここだけが世界から隠されたように静かだった。

 花火の光に照らされたオミトの横顔を、こっそりと盗み見る。
 優しげな目元、結ばれた唇。
 胸がぎゅっと鳴り、彼の右手を求めて、私の左手が引き寄せられてゆく。

 (いま、繋げたら────)

 浴衣の袖の内側で、指先が震える。
 けれど、ほんの数センチの距離を詰める勇気が出なかった。
 伸ばしかけた手は宙をさまよい、そのまま引っ込めてしまう。
 下駄の歯が石畳をかすかに鳴らした。怖気付いた私の心に舌打ちをしたかのように。

 花火の轟音にかき消されそうな声で、私は口を開いた。
 
「ねぇ、オミト……県大会、絶対見にきてね」

 オミトは一瞬だけこちらを見て、柔らかく笑う。
 
「うん、行くよ。僕は靴紐担当だもんな」
「それもあるけど……ううん、なんでもない」

 胸の奥にこみ上げる言葉を飲み込んで、花火を見上げる。
 
 (伝えよう。県大会を走り切って……そしたら、この想いをオミトに伝えよう)

 ポツリ。と一雫の雨粒がこぼれ落ちてきた。
 どこかで龍神が見ている。今夜も歌を詠まなくちゃ……彼の隣で、そう思った。