照りつける七月の陽射しが、グラウンドの白線を揺らしていた。
 陸上部の掛け声が響く中、私はトラックを蹴って走る。
 足元はいつものシューズではなく、新しく買った“紐のない”もの。

「アメリ先輩、靴変えたんですか?」
 
 後ろから追いついてきた後輩が声をかけてくる。
 
「もう県大会まで十日ちょっとですよ? 足に馴染まなくないですか?」

 私は軽く息を吐き、笑って返した。
 
「大丈夫。使ってれば、そのうち馴染むから」

 そう言いながらも、走るリズムは自分でも分かるほどぎこちなかった。
 脚が前に出ない。地面を蹴るたびに、胸の奥にざらりとした違和感が広がる。

「虹又!」
 鋭い声に振り返ると、コーチが腕を組んで立っていた。
「シューズを戻せ!タイムが明らかに落ちているし、走り方までガタついているぞ!」

 私は一瞬だけ唇を噛み、それから小さくうなずいた。
「……はい」

 従順な返事をしたけれど、心の中では叫んでいた。
 (戻さない。絶対に)

 私は決めたのだ。
 もう、靴紐をオミトに委ねるのはやめると。
 あの時間を切り捨てなければ、前に進めないと思ったから。

 だけど────
 もう一週間、オミトと顔を合わせていない。
 放課後も、登校の朝も、互いに避けるようにして過ごしてきた。

 (会わなければ楽になれるって思ってたのに……)
 トラックを駆ける風の中で、胸の奥がきゅっと痛む。
 (なんで、こんなに苦しいの……?)


 *


 部活を終えて校門を出ると、むわりとした熱気が頬を撫でた。
 夕暮れの街は乾いた匂いを帯び、紫陽花の花弁もどこか色褪せて見える。

 傘ゆらが停止して以来、この街から雨の匂いはしなくなった。
 私のせいだ……胸の奥に小さな棘のような罪悪感が刺さる。

 夕陽に照らされた街並みを抜け、家に帰り着く。
 玄関で靴を脱ぐと、台所からいい匂いが漂ってきた。
 奥から父の声が響く。
 
「おかえり」

 リビングに入ると、父はエプロン姿でフライパンを振っていた。
 父子家庭の我が家では、夕食当番は日によって変わる。今日は父の番。
 
「すぐできるから、手洗ってこい」
「うん」

 テーブルに並べられたのは、肉じゃがと味噌汁、青物のおひたし、トマトの浅漬け。そしてスペイン風オムレツ。
 料理好きな父が腕を振るった温かい手料理。私の大好きな家庭の味。
 いただきます。と静かに手を合わせ、ふたりで向かい合って箸をとった。

 特別これといった会話もなかったが、しばらく黙って食べていた父が、ふと思い出したように口を開いた。
「明日は母さんの月命日だな」

 その一言に、箸を持つ手が止まる。
 胸の奥がちくりと痛んだ。

「……うん、行くよ。ちゃんと」
 できるだけ普通の声で答える。

 父は小さく頷いて、味噌汁をすすった。
「無理しなくていいんだぞ。でも……お前が行ってくれたら、母さんも安心するだろうな」

 私は視線を落とし、茶碗の中で光る白いご飯を見つめる。
 (母さんの前でなら……素直になれるのかな)

 そう思うと、明日のお墓参りが、少し怖くて、でもどこか待ち遠しく感じられた。


 *


 7月2日。お母さんの月命日。
 今日は高校は午前で終わったため、このタイミングでお墓参りに来た。私は花とタオルを手に、坂道を上っていく。
 夏の日差しが照りつけ、石段の隙間から草の匂いが立ちのぼっていた。

 墓地に着くと、目の前に日本庭園が広がっている。お墓の管理をしている仏教法人が設営したもので、綺麗に整備された庭園は訪れる人の心をそっと慰めてくれる。
 私は静謐に並び立つ墓石の前を歩き、お母さんの墓前で立ち止まった。そして借りた水桶から柄杓を手にとって墓石にさっと水をかけた。
 次いでタオルで丁寧に磨き、埃や苔を落としていく。
 花立てにカーネーションを挿し、線香に火をつけて手を合わせる。

「……お母さん」

 声に出した瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。
 私は俯き、墓石の前に膝をつく。

 (私、強くなれたつもりだったんだ。もうひとりでも走れるって。でも結局、オミトに頼ってばかりで……)

 靴紐を切ったことを思い出す。意地を張って彼と距離を置こうとした。
 けれど、その空白はむしろ彼のことを思い出させるばかりだった。

「会わなければ楽になれると思ったのに……」
 かすれた声が漏れる。

 そのとき、不意に“あの日”の自分の声が蘇った。
 
 ───レンジくん、私と付き合ってよ

 胸が凍りつき、両手で顔を覆った。
「違う……あれは……」


 *


「……レンジくん、私と付き合ってよ」

 あの日。チギリちゃんに直訴しに行った帰り道、駄菓子屋の軒下で私はレンジくんにそう言った。

 言った瞬間、自分でも信じられなかった。
 けれどもう取り消せない。
 レンジくんは一拍置いてこちらを見て、冷え切った声で答えた。
 
「俺さ、音に感情が篭ってないって言われるんだ。恋だの愛だの、とにかく無感情で、電子音みたいにサラっとしてんだとよ」
「……え、えっと?」
「いまのでわかったよ。感情の篭ってない音がどういうもんか」

 その目は、何の感情も映していなかった。
 背を向けて歩き去る彼を追いかけることもできず、私はただ立ち尽くしていた。
 顔の奥が熱くなり、足の震えを止められなかった。

 そして翌朝。
 まだ羞恥と惨めさでいっぱいの私は、わざとレンジくんの隣を歩いた。
 “彼”に見せつけるためだ。
 
「レンジくん、おはよう!ねー、ちょっと無視しないでよね?」

 校門前、視界の端にオミトの姿が映る。
 ほんの一瞬、彼の表情が曇ったのを見て、胸の奥がざわめいた。


 *


 あれから何度かレンジくんにダル絡みしたが、毎度冷たくあしらわれるだけだった。当然だ。
 笑っちゃうよね。と墓前での懺悔を終えた私は空を見上げる。
 夏空は雲ひとつなく澄みきっていて、雨の気配はどこにもない。
 ────いまは無性に雨が恋しい。

「……アメリ」

 背後から声がして、心臓が跳ね上がった。
 振り向くと、オミトが立っていた。シガクの夏服姿。彼もまた学校からここまで来たのだろう。
 
 一週間ぶりの顔。跳ねた寝癖。胸が痛むのに、なぜかほっとする。
 
「……オミト」
 
 名前を呼ぶと、彼は少しだけ目を細めた。

「元気……してた?」
「ん。まあまあじゃんね」
 
 返した声がどこか上ずる。気まずい沈黙を埋めたのは、上空を飛来する飛行機の風を切る音。

「……学校でも全然顔合わさなかったな」
「……そっちこそ」
 互いに責めているわけでもないのに、言葉がぎこちなくなる。

 オミトは少し歩み寄り、墓石に視線を落とし、両手を合わせた。

「お墓参り。昔さ、一緒に来たこと覚えてる?小学生のとき、雨の日で……」
「……覚えてる。傘、ふたりで持った」
 互いの記憶が重なり、ほんの少し空気が和らいだ。

 気づけば、墓地にも庭園にも人の気配がぱったりと消えていた。
 そのせいか、私たちふたりを取り巻く沈黙がより深く根を下ろしているように感じる。
 強い日差しに耐えかねて、汗が頬を伝うと同時、オミトが私に語りかけた。
 
「今日は、ローファーなんだね」

 私の足下。学校指定の革のローファーだ。
 セーラー服にはこっちの方が似合うけれど、私はスニーカーの方が好きだからほとんど履いたことはない。それ以上に……ローファーには“靴ひもがない”から。それが一番の理由だ……理由だった。
 
「お墓参りだから」

 少し俯く。なんで私は意地を張っているのか。オミトの声色に敵意なんてないのに。

「靴ひも……大丈夫だった?部活とかでさ、ほどけたりしない?」
「あ……えっとね。靴ひものないシューズに変えたんだ。だから……大丈夫」

 言ってから後悔した。これではまるで決別の宣言みたいだ。
 オミトと私を繋いでいるものが“靴ひも”なのに……。私は自らの意思で、それをほどいてしまった。自分で結ぶことなど、できやしないのに。

「よかった」

 ────えっ?
 私は彼のあっけらかんとした反応に顔を上げた。

「他の人に……結んでもらってたんじゃないかって思ってたから……よかった」
「……へ?」
 
 にらめっこしてるみたいに、私の心を誰かがくすぐっている。
 堪えられない。私は吹き出してしまった。

「ふふ……あっはは!な……なにそれぇー!オミトさー、もう変態っぽいじゃんねー!」

 静謐な空間に私の笑い声が木霊する。

「しょうがないだろ。誰かさんに調教された結果なんだからさ」
「えー、誰ぇ〜?そんなプレイどこで覚えたのよー!?」
「虹又アメリっていうヤバイ女に仕込まれたんだ。その子のこと知ってる?」
「知らなぁーい」

 私はお腹を抱えて笑った。そのたび肩が軽くなってゆく。心のモヤが……次第に晴れてゆく。

「まあ、もう靴紐の結び方も忘れちゃったよ。僕もマジックテープでビリビリする靴に変えようかな」
「それはダメでしょ。あ、そうだっ」
 
 私はスクールバッグを膝に乗せ、ファスナーを開いた。

「じゃあさ……」
 
 中から陸上シューズを取り出す。片方の靴紐がだらりと解けているのを見せて、口元をゆるめた。

「えへへ……靴ひも。結ばせてあげるよ?」

 冗談だ。
 本気で言ったんじゃない。悪ノリして口から滑ったセリフでしかない。
 そのはずだったのに────オミトはこう答えた。

「うん。わかった」

 ぽつり、ぽつり……
 ひと粒、ふた粒と、私の顔に水滴が落ちてきた。
 次の刹那、まるで水桶をひっくり返したように雨が降り出した。


 *


 傘ゆら停止以来、はじめての雨は土砂降りだった。
 さっきまで真夏の陽射しに焼けていた庭が、一瞬でしっとりと色を変える。
 私とオミトは顔を見合わせ、慌てて日本庭園にある東屋に駆け込んだ。

 瓦屋根を叩く雨音がざあざあと響く。
 視界の先では、池に大粒の雫が落ちて波紋を広げ、青葉を伝った水滴がきらきらと弾けていた。
 石灯籠や濡れた苔が艶を帯び、庭全体がまるで別世界のように息づいている。

 私は肩で息をしながら、スクールバッグを膝に抱えた。

「アメリ」
「えっ?」
「ほら、靴ひも」
「え、ぁ……うん」
 
 バッグの中から陸上シューズを取り出すと、片方の靴紐がだらりと解けていた。

「……履かないの?」
「えっと……そ、そうだよね。履く。履くよ……」

 私はシューズを履いた。ふと目についたのは結んである片方の靴ひも。
 俯き加減でオミトをみれば、彼が”待っている“のがわかった。
 だから私は、心のわだかまりを溶かすように……靴ひもをほどいた。

 オミトの指が濡れた紐を拾い上げる。
 細い紐が雨で少し重たくなっているのに、オミトは迷いなく両手で形を整えていく。
 片方をくぐらせ、きゅっと引き寄せ、輪を作ってまた通す。
 それはまるで、オミトの指と靴ひもが手を取り合ってダンスを踊っているかのようで。結び目が締まるたび、きゅっ、きゅっと小さな音がして、雨音に溶けては淡く色づいていった。

 息を呑む。
 子どもの頃から何度も繰り返し目にしてきた光景。
 それなのに、いまは胸の奥をくすぐるように熱が広がっていく。

「……できたよ」
 
 蝶結びを整えたオミトが顔を上げる。
 蓮華の浮かぶ水面に揺れる光を背景に、その伏目がちな顔はなぜか遠く大人びて見えた。

 (やっぱり……この人じゃなきゃ、だめなんだ)

 二人で東屋の縁に並んで腰を下ろす。
 目の前には、雨に煙る庭園。池に広がる波紋、濡れて輝く石畳、滴をはじく若葉。すべてが静かな調べのように心に沁みてくる。

 言葉はもういらなかった。
 ただ隣にいるという事実が、胸を温かく満たしていた。

 
 *

 
 東屋を出るころには、雨脚はすこし弱まっていた。
 雨上がりの匂いが漂い、湿った空気を涼しい風がさらってゆく。

 オミトと並んで歩く。さっきまで重たかった沈黙はもうなく、ただ穏やかな安らぎだけが漂っていた。
 その空気に背中を押され、私は思い切って口を開いた。

「ねぇ、ゆら祭り。今週末だよ」
「うん。わかってる」
「……一緒にさ、回ろうよ」

 言い終えた途端、胸が熱くなった。
 オミトは少し驚いた顔をして目を丸くした。
 
「あ……えっと……」

 ────もしかして
 嫌な予感。まさか、マドカと……

「神社の留守番があってさ。その後でもよければ、一緒に回ろう?」
「……え?」
「アメリ?聞こえてた?」
「あ、あぁ!うん……うん!いいよ、大丈夫だよ。一緒に回る!一生一緒回る!」

 やった……!
 上気した顔色を悟られたくなくて、私は俯いて歩いた。
 
 オミトとお祭りに行ける。いつ以来だろうか。中学高校と、周囲の目が気になり出してからは祭りで顔を合わせたことさえなかったかもしれない。

 ────ブルッ

 そのとき、ポケットの中のスマホが震えた。
 反射的に取り出すと、画面に光る文字があった。

 
 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.· ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.·
 【傘ゆら実行委員会】傘ゆら再開のお知らせ
 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.· ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.·
 

 思わず息を呑む。
 雨と同じように、止まっていたものが再び動き出したのだと、このときの私はそう確信していた。


 *


 夜。
 珍しく残業してから帰ってきた父を出迎え、共に遅い夕食を摂ってから、私は自分の部屋へと向かった。
 足取りは軽い。部屋に着くと、まずカーテンを開けて窓の外を見やった。

「雨だ……」

 そう呟き、傍に置いた傘を手に取る。
 贈歌を書くのだ。これから書く歌が誰に届くのか、もちろんわかっている。それでも、傘ゆらのルールに則り”心の声“を嘘偽りなく。というのであれば是非もない。

 
 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
 君ととも 祭りの夜を 歩む夢
 灯の下に咲く わが恋心

「あなたと一緒に、宵の祭りを歩むことを夢みています。
 篝火の下で、私の恋心が花のように咲いているのですから」
 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼

 
 書き上げた和歌をじっと見て、一息おく。
 私は窓の外に傘を掲げ、傘地に雨粒を当てた。
 赤く光り出す文字。やがて滲むようにして闇に消えていった。

 この歌はオミトへの返歌として書くことだってできた。
 でも、そうすればきっと正体がバレてしまうだろう。
 彼の”憧れ“をこっそり覗いていたなんて知れたら……私は今度こそオミトを失ってしまうような気がして、指先が震えた。

「オミト……」

 部屋の明かりを消し、ベッドにしゃがみ込んで膝を抱き、私は足を撫でた。
 すると、浮かび上がってくる。彼の細長い指先、優雅に舞うように結ばれてゆく靴ひも。
 幾度となく足に手を重ねては、やがて微睡(まどろみ)に落ちてゆく意識に身を委ねて、私は夢の中へと誘われてゆくのだった。
 随分と久しぶりに……その夜、私は深くふかく眠った。