あめ ときどき うた


 湯上がりの髪から、水滴がぽたりと落ちた。
 僕────露木オミトはいま、リビングのソファに腰を沈め、何となくつけたテレビの天気予報をぼんやり眺めているところだ。
 明日も晴れ、明後日も晴れ……キャスターの明るい声が、やけに遠く聞こえる。
 
「ずっと晴れの予報だ……梅雨はもう明けちゃったのかな」
 
 ひとりごとのように口にした。
 スマホを手に取り、無意識に傘ゆらアプリを開く。画面には、もう見慣れた表示が浮かんでいた。

 
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 【通知:メンバーの違反行為につき、傘ゆらを一時停止します】
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 最初に見たときの驚きは、もうない。
 ただ、心の奥にじわじわとした不安が広がるだけだ。

 いつ解除されるんだろう。このまま梅雨が明けてしまったら……。

 テレビの音を消して、部屋に戻った。
 布団に潜り込んだものの、目を閉じても眠気は一向に訪れる気配はない。

 ────これ、アメリに似てるよ?

 昨日のマドカさんの声が、ピンポン玉のように暗闇に反響している。
 耳の奥で繰り返されるたびに、胸がざわついて眠れない……悪循環だ。
 
 諦めて、ベッド脇のスタンドライトを点けた。
 淡い光に照らされながら、机からスケッチブックを手に取る。

 ページをめくると、そこには”あの絵“。
 マドカさんを描いたはずなのに……浮かび上がっているのはアメリの面影。
 強がるときの口元。靴紐を結ぶときの伏し目。
 そのどれもが、薄暗い灯りの下でいっそう鮮明に浮き上がっていた。

 違う……僕はマドカさんを描いたんだ。
 なのに、どうして……。

 ページを閉じても、脳裏に浮かんでくるのはアメリの笑顔ばかりだった。

 いや、そもそも僕はアメリの顔を真っ直ぐに見れなくなって久しかったのに……。
 見ていたのか?気づかぬうちにアメリのことを……わからない……僕はいったい……誰を見ているんだろう……。

 答えの出ない問いを抱えたまま、ライトを消す。
 深い闇の中。太陽のように眩しい”あの子“が確かにそこにいるような気がした。


 *


「お兄ちゃーん!彼女さん待ってるよー!早く行かないとー!」

 今日も今日とて、妹の杏樹によるコケコッコーだ。毎朝これがないとはじまらない……ということはないが、肖像画の件で眠れぬ夜を過ごした僕にとってはありがたい。
 今朝も、いつもの場所にアメリがいるという合図なのだから。

「彼女じゃなーい!」

 いつもの軽口の返事をし、僕は寝癖がついたまま階段を降り、勢いよく玄関ドアを開けた。
 ────だが

「あれ……アメリ……?」

 いない。
 いつもなら、玄関前で腕を後ろ手に組んで立っているアメリが。
 解けた靴紐を見せびらかしてイタズラっぽい笑顔を浮かべているアメリが……。

 ────いない。

 僕は小走りで裏口へ回った。曲がり角にある自販機に……いない。
 アメリの姿が……どこにもない。

「……風邪。そうだ、風邪でもひいたのかな」
 
 ふいに靴先に視線を落とした。
 いつもなら解けているアメリの靴紐を、僕が結ぶことで一日が始まる。
 儀式のようなその時間が今日はない。それだけで、胸の奥にポッカリと穴が空いた気がした。

 仕方なくひとりで歩き出す。
 商店街のアーケードも、今日はやけに広くて静かに感じられる。
 顔馴染みの八百屋のおばちゃんが声をかけてきた。

「おや、今日は一人かい?珍しいねぇ」

 僕は曖昧に笑ってうなずくだけだった。
 僕らは周りからも“いつも一緒”に見られてるんだ。
 そう思うと、余計に足取りが重くなる。

 思えば、アメリが小学校の時に僕とご近所になってから、ずっと一緒に登校している。
 毎朝、靴ひもを結んで、周りから揶揄われても決して変えることのなかった日常だったのに。
 どうしてだろう。きっと風邪か何かだ。そうに決まっている。そう思っているはずのに……妙に胸騒ぎがする。

 ────僕の言葉にできない”悪い予感“は、的中してしまった。
 
 赤レンガの校舎が視界に入ったときだった。
 正門へ続く道で……見知った後ろ姿が並んでいるのに気づいたのだ。

「アメリ……?」

 そして、そのすぐ隣にいたのは
 
 ────レンジくん。

 アメリが小さく笑っている。レンジくんと連れ立って歩きながら。時折、彼の顔を横から覗き込んだりして。
 ほんのそれだけの光景なのに、視界がセピア色になったように錯覚する。

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。心臓を素手で掴まれたみたいに。
 いつもは僕と歩くはずの道を、別の誰かと並んでいる。
 ただそれだけのことが、呼吸を忘れるほどの衝撃になって襲いかかったのだ。

 なんで。どうしてレンジくんと?

 足が地面に縫いつけられたみたいに動かない。
 次の瞬間、全身に熱がのぼる。
 嫉妬とも違う、言葉にならない感情が刹那に駆け抜け、僕を置き去りにしてアメリの元へ走っていってしまった。


 *


 放課後の美術室。
 窓から射し込む西日が石膏像の輪郭を朱色に染めている。
 今日の課題は肖像画。部員どうしで向かい合って描き合う練習だ。

 僕は鉛筆を握りしめ、目の前に座る相手の顔を見ようとした。
 けれど、瞼の裏から離れない光景があった。

 ────朝、正門前で見たふたり。
 アメリとレンジくんが並んで歩いていた姿。
 ほんの一瞬のやりとり。レンジくんの隣で、アメリが小さく笑っていた。ただそれだけの場面が、刃のように胸の奥に刺さり続けている。

「……」

 目の前の部員の顔に視線を向けても、すぐに焦点がぶれる。線を引いても迷って消し、また迷って消す。紙の上に残るのは、弱々しい痕跡ばかり。

「露木ぃぃぃぃ〜」
 
 背後から僕に声をかけてきたのは、美術顧問の北川先生。プロレスラーみたいな体躯を屈めて、スクワットに移行しようとしている。つまり怒っているということだ。
 
「人を見るんだ人をなぁ。形を掴めないなら、心の目で見つめるんだ露木ぃぃぃぃ〜」
「で、できません……」
 
 声は自分のものとは思えないほどかすれていた。
 結局一枚も描けないまま、部員が帰ると同時に僕は掃除を命じられた。

 ほうきと雑巾を手に、美術室を片づけ終える。
 机に腰掛け、スケッチブックを開く。そこにあるのは、マドカさんを描いたはずなのにアメリの顔に似てしまった絵。ページを閉じても、今朝の光景が脳裏に浮かび上がる。

 僕はいったい……何を見てるんだ。

 そのときだった。
 ────音が流れてきた。
 芸術棟の隣、合奏室からだ。
 ヴァイオリンかな?

 吸い寄せられるように廊下を歩き、音が流れてくる合奏室の扉の隙間を覗き込んだ。
 中では、管弦楽部の通し練習が行われていた。
 やがて合奏がすっと弱まり、空気が静まり返る。その間を埋めるように、一人の旋律が立ち上がった。

 ────レンジくん。
 彼のソロパートがはじまったのだ。

 その音色は細い糸のように澄んでいて、次の瞬間には力強い弧を描いて空気を震わせる。

 あれ?なにか目に浮かぶ。

 旋律の中に、一人の人間がいた。
 音だけの世界なのに、そこにはたしかに物語があった。切ない恋の話が、ありありと形を持って流れていく。

 孤独に耐える心。
 伝えられない焦り。
 それでも手を伸ばそうとする、みっともないくらいまっすぐな気持ち。

 胸が焼けるみたいに熱くなって、呼吸を忘れる。

 絵じゃない。
 文章でもない。
 音だけで、ここまで描けるなんて。

 最後の一音が消えたあとも、余韻は胸の奥でまだ震えていた。
 抑えきれなくなって、気づけば手を叩いていた。

 ぱん、と響いた拍手。
 合奏室の視線が一斉にこちらを向いた。
 あっ!やってしまった……顔が真っ赤になる。逃げ出そうとしたそのとき────

「露木!待ってくれ!」

 ヴァイオリンを下ろしたレンジくんが、こちらに駆け寄ってきていた。
 その顔は少し上気してほんのりと赤みを帯びている。

「聴いててくれたのか?」
「ごめん。空気読まずに拍手しちゃって……もう帰るよ。お騒がせして……」
 
 逃げ出そうとする僕の腕を、レンジくんが掴んだ。
 そして、気恥ずかしそうにこう言った。
 
「待てって。なぁ……一緒に帰ろうぜ。感想聞かせてくれよ」


 *


 夕暮れの街を、レンジくんと肩を並べて歩いていた。
 沈みかけの陽がガラス張りのビルを赤く染め、舗道のタイルに長い影を落としている。
 湿った風が頬を撫で、通りの並木がざわりと揺れた。
 さっきまで合奏室に満ちていた旋律の余韻が、まだ胸の奥で震えていたので、僕はたどたどしい感想を出来るだけの熱意でもってレンジくんに伝えた。

「世辞もほどほどじゃねーと嫌味になるぞ?」
「え、ひどいな。感想聞かせてくれって言ったのはレンジくんなのに」

 ありがとな。と、レンジくんは不器用に笑って言った。
 
「話は変わるんだけど。この前さ、チギリの野郎から五千円もらったんだ。手伝いの礼だってよ」
「……え、僕はいつもタダ働きなのに」
「まあ、アイツの機嫌がよかったんだろ。んで、ピザ屋のチラシ見て思い出した。持ち帰りだと半額で、Lサイズ頼むともう一枚タダらしい」
「ピザ……?」
「そう。だから一緒に食おうぜ……俺んちで」

 唐突な誘いに思わず足が止まる。
 
「え、僕……?」
「他に誰がいんだよ」
 
 夕暮れの赤がレンジくんの横顔を照らしていた。ぶっきらぼうな声なのに、どこか照れているように聞こえる。胸の奥がじんと温かくなり、僕は小さく頷いた。

 アメリのことも……聞いてみようかな。そんな下心が見え隠れしているのを、僕は見て見ぬふりをした。

 
 *


  レンジくんのアパートは、駅から少し外れた路地にあった。
 古い二階建てで、壁はくすみ、鉄の外階段は赤茶けて錆びている。足を乗せるたび、ぎしぎしと心細い音がした。

「……ここが?」

 思わず声が漏れる。
 レンジくんは肩をすくめただけだった。

「文句あんのか。ほら、入れよ」

 靴を脱いで、中へ入る。
 ワンルームの狭い部屋には、家具らしい家具がほとんどなかった。

 薄いマットレスが床へそのまま敷かれていて、横に小さな折り畳み机がひとつ。
 窓際には譜面台と散らかった楽譜。短くなった鉛筆と、赤ペン。隅には古いヴァイオリンケースが立てかけられていて、革はひび割れ、金具は黒ずんでいる。

 カーテンもだいぶ色褪せていた。端のほうはほつれて、糸が垂れている。

 生活の匂い、というより、誰も住んでいない部屋みたいな乾いた空気があった。
 けれど、床へ散らばった楽譜だけが、この部屋にたしかに生きている人がいるのだと主張していた。

「そんじゃ、開けようか」

 レンジくんが机の上へピザの箱を並べる。
 蓋を開けたとたん、熱と一緒に濃いチーズの匂いが広がった。

 黄金色のチーズが糸を引いて、ソーセージからは肉汁がにじむ。
 焦げ目のついたペパロニが油をきらめかせていて、トマトソースの酸味とスパイスの匂いが鼻へ届く。狭い部屋が、一瞬で食欲のある場所になった。

「さぁ、露木」

 レンジくんが一切れ差し出してくる。
 僕も手を伸ばして、油を含んだ生地のあたたかさを指先で受けながら口へ運んだ。

 熱い。
 でも、それ以上に濃い。

 舌の上でチーズがとろけて、肉の旨みが一気に広がる。そこへトマトの酸味が追いかけてきて、最後にスパイスが喉の奥を少しだけ刺激した。

「ん……おいしいっ!」

 思わず声が出る。

「やっぱ正解だったな。こういうのは王道が一番だわ」

 レンジくんは笑って、大きな口で二切れ目を頬張った。

 食べ進めるうちに、チーズの油の匂いと、楽譜の紙とインクの匂いが混ざる。
 それがこの部屋だけの匂いになっていた。

 僕らは黙って食べた。
 でも不思議と居心地は悪くなかった。

 やがてレンジくんが炭酸を一息に飲み干して、ぽつりとこぼす。

「……俺さ、誰かと飯食うの、久しぶりなんだ」

 顔を上げる。
 レンジくんはピザの切れ端を見ながら、できるだけ軽く言った、みたいな声をしていた。

 *

 
 ピザの箱はすっかり空になっていた。
 チーズの油が染みた紙の跡が机に広がり、炭酸のボトルは空になりそうだ。
 レンジくんは背もたれに体を預け、缶を弄びながら小さく息を吐いた。
 ほんのひととき、友達と食事をした温かさが部屋に残っていた。

「ご馳走様。美味しかったよレンジくん。ありがとうね」
「いーっていーって。なんなら、たまにこうやって集まらね?金できた時、またなんか食おうぜ」
「いや、奢らせるのはこれっきりにするよ。今度は僕も払うから」
「遠慮すんなよ。俺たぶん奢るの好きなタイプな気がする」
「あはは。じゃあその時は、僕も何か持ち寄るようにするよ」

 いずれ会話が途切れる予感はあった。
 僕はそもそも口が達者な方ではないし、レンジくんも見ての通りだ。それゆえに訪れてしまった沈黙も想定できたのだが、いかんせん僕らは知り合った期間が短すぎるせいか、どのタイミングで打開を図ればいいのかわからず二の足を踏んでいた。

「なぁ、露木」
「ひゃっ!」

 油断していた。レンジくんの急な声がけに僕は驚いて変な声が出てしまった。

「女みたいな声だったぞいま……そういうのは巫女服着てる時だけにしとけよ」
「ご、ごめん……」

 どちらともなく笑みが溢れた。
 レンジくんは飲み物の封を開け、僕に渡してくれた。

「それで、どうかしたのレンジくん」
「あぁ。傘ゆらって梅雨が終わるまでなんだよな?」
「そうだと思うよ」
「……ん。だよな」

 少し、レンジくんの声のトーンが落ちた。
 何か含みがあるような雰囲気を察し、僕は彼に問うた。

「なにか、心配なことでもあるの?」

 レンジくんは落ち着かないそぶりで飲み物を何度か傾け、ひとつ息を吐いてから僕を見据えて言った。

「傘ゆらが終わったら……お前は俺と話さなくなったりするのかな?」
「え?」
「いや、なんつーか。傘ゆらで繋がってるから、こうしてツルんでくれてんのかなって。だから……梅雨が過ぎたら……その、話しかけたら悪いかな、とか……」

 あぁ、そうか。僕はなんとなくレンジくんのことが理解できた気がした。
 彼は紛れもなく天才だ。でも一人の人間としての彼は、僕なんかよりずっと不器用で、それでいて寂しがり屋なのかもしれない。
 そして、今どき珍しいほどに純朴だ。彼はそんな少年なんだ。

「ピザ。また奢ってくれるんでしょ?」

 僕はできる限りの軽口を言った。
 それがレンジくんの気持ちを和らげるのに最適解だと思ったからだ。

「夏も秋も冬も。限定メニューは続々やってくるからね〜。友達でいないとね〜」
「……ピザが目的かよ。ったく」
「ふふ……あははっ」

 もう奢んねー!とレンジくんは明後日の方向を向いて笑った。
 僕はそんな彼を見て思う。
 レンジくんみたいな人だったら……アメリのこともきっと大事にしてくれる。

「ねぇ、レンジくん。アメリ────」

 ようやく切り出せた僕の“下心”の中身。けれどそれは、唐突に鳴り響いた甲高いインターホンに遮られた。
 古びたブザーが、狭い部屋に不釣り合いなほどけたたましく鳴き、僕の背筋はそっと寒くなった。

 ふとレンジくんを見やる。彼の口元から笑みがすっと消え、目の奥に冷たい光が宿っていた。
 
「……ちょっと待ってろ」

 低く言い残し、無造作に立ち上がる。その背中は先ほどまでの軽さをすっかり失っていた。

 ドアの隙間から聞こえたのは、中年の男の声だった。

「レンジ、いたか。あの話を、もう考えてくれたか?」
 
 レンジくんは黙ったまま、視線を落とし、唇を強く結んでいるのが遠目にも分かった。
 
「会うつもりはねぇ」

 吐き出すように低く答える。
 男は苛立ち混じりに続けた。

「はぁ……あのな。正直、困ってるんだ。裁判所からも接近は禁止されてるのを知ってるだろうに……でもな、あの人はお前の母親だぞ。だから一目だけでも会ってくれって、そう言ってるんだ。それで納得して帰ってくれるさ」

 レンジくんはほんの一瞬、目を閉じた。
 次に見たとき、その瞳は氷のように無機質だった。
 
「母親はいねぇ……俺には」

 次の瞬間、乱暴にドアが閉まる音が響いた。外から、男の怒鳴り声が廊下を震わせる。

 レンジくんはしばらく玄関に立ち尽くしていた。
 肩が微かに震えていたのを、僕は見逃さなかった。

 だが、彼は深く息を吐くと、何事もなかったように表情を整え、机に戻ってきた。
 頬に浮かんでいた強張りはもう消えていたけれど、声は僅かに震えていた。
 
「……わりぃ。水差しちまって」

 その瞳は感情を閉ざしているのに、どこか痛々しく光っていた。


 *


 夜。
 自室に戻った僕は、机に突っ伏すようにして深く息を吐いた。
 レンジくんと過ごした時間の温かさが胸に残っている一方で、彼が吐き捨てた言葉──「母親はいねぇ」が、耳から離れなかった。

「アメリのことも聞けたらなんて……無理だよあれじゃぁ……」

 僕は嫌な人間だな。懐に隠した下心なんてどちらでもいいじゃないか。

 そんなことより……レンジくんが、あんな孤独を抱えていたなんて。
 お母さんがいない。でも生きてはいるみたいだ。
 アメリとは違う。あぁ、そうだった。もうそろそろじゃないか?

 僕がカレンダーを見やった。
 6月はもう終わる。翌月、7月の2日。
 その日はアメリの母親の月命日だ。

「アメリは……今年はいくのかな?」