放課後の美術室は、しんと静まり返っていた。
 窓の外からはグラウンドの部活の掛け声が微かに聞こえるけれど、この部屋だけは別の世界みたいに息が詰まる。

 机の上にはスケッチブックと鉛筆。
 僕はそれを前に、深呼吸を繰り返していた。
 (やばい、心臓が喉から飛び出しそうだ。鉛筆持つ手も震えてる……)
 カタカタと音を立て、鉛筆が机に転がる。慌てて拾い上げ、またため息をひとつ。

 ガラリ、と扉が開いた。
「お待たせ」
 セーラー服のマドカさんが、すっと立ち止まる。その姿に、一瞬見惚れてしまった。

 慌てて立ち上がり、声を張る。
「じゃ、じゃあ……し、肖像画おねがいします!!」

 裏返った声に、マドカさんはぱちりと瞬きをした。
 次の瞬間、困ったように笑って、小首を傾げてこう言った。

「……ごめんなさい!」
 
「へっ!?」
 僕の顔から血の気が引いていく。
 (断られた!?え、OKって……え、今までのアレやコレはいったい……!?)
 心臓が喉に詰まり、何も言えなくなる。

 マドカさんは小さく肩を揺らし、笑いをこらえながら言った。
「だってさ、いきなり二人きりで、じっとして、面と向かうなんて……緊張しちゃうでしょ?私も、オミトくんも」

「……え」
 言葉が出ない僕に、彼女は軽やかに続ける。
「だからね、まずは“二人の時間に慣れる”ところから始めよ?」

 (……な、な、慣れる!?それって……ま、まさかデ、デートなのでは……?」
 耳まで熱くなっていく。

 マドカさんは微笑みながら、さらりと言った。
「せっかくだし、街を少し歩かない? お茶でもしながら」

 僕はこくこくとうなずくことしかできなかった。
 赤面したまま、胸が破裂しそうな鼓動を抱えて。


 *


 マドカさんに導かれるまま、僕は守矢市の街へ足を踏み出した。
 誰かが“やらかした”せいで傘ゆらが停止している街では、雨の気配が消え去ってカンカン照りの日々が続いている。そんな真夏の面影を和らげようと、アーケード商店街では軒先に風鈴が吊るされ、ちりん、と涼やかな音が心地よく響いていた。
 
 ゆら祭りの準備も始まっていた。
 木枠を組む大工の音、提灯に灯りを試し入れる人々。
 子どもたちは紙の仮面をぶら下げて走り回っていて、街全体が少しずつ祭り色を帯びていく。
 (……すごい。こんなふうに歩くの、いつ以来だろう。いや、それよりも──)
 隣を歩くマドカさんが自然すぎて……僕の鼓動は収まらない。

「こっち、入ってみよ?」
 商店街の端にある小さな茶屋を指さして、マドカさんが言った。
 店先ののれんをくぐると、かすかに焙じ茶の香りが鼻をくすぐった。

 窓辺の席に二人で腰掛け、僕らは同じかき氷を頼んだ。
 やがて目の前に運ばれてきたかき氷は、山のように盛られた氷の上に鮮やかなイチゴシロップがかかっていて、今すぐにでも口に含みたい誘惑に駆られる。
 ────なのに、僕の手はスプーンを持ったまま固まっていた。
 (何か話さなきゃ……でも、何を……?)
 頭の中で言葉がぐるぐる回るだけで、手も口も動かせない。

 マドカは落ち着いた様子で、スプーンを手に氷を口に運んでいた。
 店内に飾られた紫陽花を眺めながら、まるで何気ない日常を過ごしているみたいに。
 その自然体の空気が、逆に僕の心臓を締めつけた。

「魔法が解けたみたいだなって。ここのところそう思うんだ」
 
 マドカさんが、ゆら祭りのパンフレットをめくりながら言った。

「急にピタっと雨が止んじゃったでしょ。だからね……つまんないなって。ね、オミトくんもそう思わない?」

 ドキっとする。
 魔法に雨……きっとマドカさんが言っているのは、傘ゆらのことだ。
 レンジくんの一件で、お互いがお互いの傘を間違えて持っているわけではないと判明したものの、僕とマドカさんが傘ゆらで繋がっているのは確かだ。なんせ僕の手元にはマドカさんの傘があるわけだし。
 ────だからこそ、傘ゆらで歌を贈り合えないのは歯がゆい。嘘偽りのない彼女の心を知ることができる貴重な機会だからだ。
 
「うん。僕も雨が好きになってきたから……もっと梅雨が続いてほしいよ」
「オミトくんも?同じだね。私も梅雨が好きになったの。なんでかは……言えないけどね」

 マドカさんがかき氷を大きく削り取って口に含んだ。次の刹那には、彼女は硬直して頭を抑えた。キーンというやつだろう。
 子どもみたい……とつぶやいてマドカさんは笑った。僕もつられて笑う。
 
「ねえ、どうオミトくん。こうやって普通に話して慣れておけば、モデルをするのもやりやすくなると思うんだ」
「そうだね。たしかに……うん、そうだと思う」
 
 調子良く合わせてみたが、僕の心中は相変わらずの大騒ぎだ。
 (これは……やっぱりデートじゃないのか?いやでも、二人でお茶してるし……いやでも違う、でも……!)
 頭の中が真っ白になる。かき氷の冷たさでさえ、頬の熱を鎮めてくれなかった。

「私、肖像画なんて描いてもらうの初めてだから。ちょっと楽しみなんだ」
 氷を崩しながら、マドカはさらりと言った。

「……楽しみ?」
 思わず問い返してしまう。

「うん。だって、自分がどんなふうに見られてるのか、知れるんでしょ?」
 
 マドカさんは目を細め、窓の外の景色に視線を向ける。その横顔は、静かに光を帯びているように見えた。
 茶屋の窓から見える守矢湖。
 陽射しに輝く水面、揺れる百日紅の花。彼女はその景色を眺めながらも、時折僕を見つめては微笑みをくれた。
 僕はというと、胸の音をごまかすようにスプーンを動かし続けるしかなかった。だんだんと削れてゆくかき氷が、まるで露わになってゆく自分の心のようだった。

 やがて茶屋を出る頃には、夕陽が街をオレンジ色に染め始めていた。
「さ、戻ろうか」
 マドカさんに促され、僕は無言でうなずいた。
 胸の奥で「これってやっぱりデートだったんじゃ……」という考えを必死に打ち消しながら。

 僕らは並んで学校へ戻っていった。


 *


「ここに座ればいい?」

 マドカさんが中央の椅子に腰掛ける。背筋をすっと伸ばし、優しい眼差しをこちらに向けてきた。
 美術室の中は、静けさの中に夕陽が差し込み、机や石膏像が赤く染まっていた。
 扉を閉めたいま、ここはもう僕とマドカさんだけの世界だった。

「……は、はい……」
 
 僕は情けないほど声を震わせながら答え、鉛筆を握りしめた。
 (落ち着け……ただ描くだけだ。見えるものを、そのまま……!)

「では……はじめます」
 
 スケッチブックに鉛筆を走らせる。だが線はすぐに迷子になり、消しゴムで消してはまた描き直す。
 鉛筆の先が紙に触れる音が、静まり返った室内にやけに大きく響いた。

 ちらりと目を上げると、マドカさんは堂々と座ったまま、どこか余裕のある表情で微笑んでいた。
 (やっぱり……特別な存在)
 ────彼女は主役だ。僕みたいな“観客“とは違う。
 その思いが余計に肩に重くのしかかり、視線が安定しない。

 ページをめくり、深呼吸を繰り返す。額の汗をぬぐい、もう一度鉛筆を走らせる。
 何度も線を重ねるうちに、少しずつ手が紙に馴染んでいく。
 (そうだ……ただ、見えるものを描くだけ……マドカさんを……)

 震えは次第に収まり、世界が狭まっていく。
 紙と鉛筆と、彼女と。
 他の何も目に入らなくなる。


 *


 鉛筆を走らせる音だけが、美術室に響いていた。
 最初のぎこちなさは、いつの間にか消えていた。
 失敗するかも、上手く描かなきゃ────そんな焦りも溶けて、今はただ目と手が勝手に動いている。

 マドカさんを描いている。描こうとしている……はずだった。
 椅子に腰掛け、静かに僕を見ているその姿を。
 けれど鉛筆の先が生み出す線は、気づけば違う何かをかたどりはじめていた。

 髪の流れ。
 笑うと少しだけはねる、あの癖っ毛。

 口元。
 強がりを隠すように結ばれる、見慣れた形。

 伏し目がちになったときにのぞく、かすかな影。
 ────靴紐を結ぶたびに、いつもすぐ近くで見てきた表情。

 あれ……この面影は……?

 僕は気づかない。
 ただ無我夢中で線を追い、影を重ね、輪郭を閉じていく。
 (なにか違う……でも、これでいい。これしか描けない。これを描くために僕は────)
 心の奥でかすかな戸惑いが揺れたが、鉛筆は止まらなかった。

 最後の線を引き終え、深く息をついた。
 額の汗を拭い、鉛筆を置く。
 我に返ったとき、目の前のスケッチブックには一枚のデッサンが仕上がっていた。

「……できました」

 赤くなった顔を隠すようにうつむきながら、僕はスケッチブックをマドカさんに差し出した。
 胸の奥がどくどくと鳴り、耳の先まで熱い。
 下手でもいい、僕の全力をどうか見てほしい……!

 マドカさんは黙って受け取り、ページをめくった。
 じっと、絵を見つめる。
 眉がわずかに寄り、首が小さくかしげられる。

 沈黙が、やけに長い。
 あぁ……やっぱり……ダメだったのか。変なふうに描いちゃったのかな。
 不安が喉を詰まらせる。

 やがてマドカさんは顔を上げた。
 そこに浮かんでいたのは、いつもの完璧な笑顔ではなく、困惑を含んだ表情。
 僕は息を呑んだ。

「オミトくん……これ」

 マドカさんが手にしているスケッチブックを僕に見せながら言った。

「アメリに似てるよ?」