スタートの合図とともにトラックに飛び出した。肺が焼けるように熱く、脚は鉛みたいに重たい。腕を振っても、思うように身体が前に出てくれない。
 ────また、タイムが伸びない。

 ゴールした瞬間、ストップウォッチを持つ顧問が渋い顔をした。
 
「虹又、肩に力が入りすぎてるぞ。もっと楽に走れ」
「……はい」
 
 答える声が自分でも驚くほど小さかった。

 その直後、後輩の子が自己ベストを更新して、部員たちが拍手と歓声をあげる。私は笑顔をつくって「すごいじゃんね!」と声をかけた。けれど、胸の奥ではざらりとした何かが広がっていた。
 ────私がエースのはずなのに。追いつかれそうになってる。

 練習を終えて更衣室に入ると、湿った空気の中にシャンプーや制汗スプレーの匂いが混じっていた。部員たちの楽しげな声が耳に飛び込んでくる。
 
「日焼けやだー」
「やっぱ白い方がモテるよね」
 
 笑い声に混じるその言葉に、心臓がぎゅっと縮む。
 鏡に映る自分をちらりと見た。汗で張りついた髪は相変わらずのくせ毛。肌はグラウンドの陽に焼かれて真っ黒。すぐに視線を逸らす。
 (私だって女の子なのに……マドカみたいに色白で、綺麗な髪だったら……)

 笑い声が弾ける更衣室の隅で、私はタオルで汗を拭きながらため息をついた。

 靴を履いて外に出ると、紐が解けていることに気づいた。しゃがみこんで結ぼうとする。指を動かすけど、蝶結びの形がどうしてもつくれない。
 (……小学生のときから変わらない。結べないってわかってたのに。なんで今さら、こんなに情けなくなるんだろう)

 グラウンドからはまだ部員の声が響いてくる。その中に自分の居場所だけがぽっかり抜け落ちているような気がして、胸がひどく痛んだ。
 (エース失格。女の子としても。私、何もちゃんとできない)

 靴紐を解けたままにして立ち上がる。夕暮れの風が頬を撫でても、少しも涼しくなかった。

 ポケットの中でスマホが重たく感じる。取り出して画面を開けば、連絡先の一番上には「露木オミト」。
 (結んで、って言えば……きっと来てくれる。いつだってそうだった)
 人差し指がメッセージ欄に触れた。けれど、そのまま躊躇して消した。

 ────今日は、言えない。
 嫉妬に胸を焦がしている自分を、オミトに見せたくなかった。

 
 *

 
 放課後、私は守矢神社へ向かっていた。
 ────チギリちゃんが快復したと聞いたからだ(失神していたというが……)
 傘ゆらで世話になっている以上、顔くらい出しておきたい。そう思い、手土産代わりに駄菓子屋で買った袋菓子を紙袋に入れて持ってきた。

 梅雨の空は低く垂れ込め、境内の石畳は昼間の雨でまだ濡れていた。そこに映る灰色の空は水墨画みたいに淡く揺らぎ、歩くたびに水たまりがきらきらと光を散らす。
 大欅の葉からは絶え間なく雫が滴り落ち、苔むした灯籠の上に小さな水音を重ねていた。湿った空気の中、紫陽花が群れて咲き、淡い青や紫が境内を染めている。

 祭りの準備で、境内は思った以上に賑やかだった。提灯を吊るす脚立の金具が軋み、トンカチの音が梅雨空に響く。どこからか太鼓の試し打ちが鳴り、湿気を含んだ空気を震わせた。子どもたちが紙飾りを持って走り回り、その笑い声が濡れた木々の間に弾んでいく。
 けれど、私の胸は重くざわついて落ち着かない。ここに来れば、オミトに会うかもしれない────そんな予感のせいだった。

 そして。
 石畳の向こうに目を向けた瞬間、呼吸が止まる。
 ────オミトがいた。
 巫女服姿のオミトが、境内の隅でほうきを動かしていた。白と赤の衣が湿気を含んで肌に張り付き、ふだんの彼とは違う姿に、思わず息を呑む。
 
 そして、その隣には見知った影。マドカだ。
 マドカが肩を寄せて笑っていた。知らぬ間に、2人はあんなにも距離を縮めていたなんて。

「うん、似合ってる。似合ってるよ。あははっ、可愛い」
「ぐうぅ……見られたくなかったなァ……」

 軽口を叩きながら、マドカは自然にオミトの肩へと手を置いた。
 ほんの一瞬、ほんのささやかな仕草。それだけのはずなのに────

 (……っ!)

 視界がきゅっと狭まる。
 心臓を鷲づかみにされたみたいに痛くて、喉の奥が焼ける。
 “私だってそんなこと、一度もしたことないのに”
 靴ひもを結んでもらう時だって、触れているのは彼の指先だけ。私とオミトの間には、ちゃんと境界線があった。

 なのにマドカは、いとも簡単にその境界を越えてしまう。
 それをオミトも、拒まない。

 (どうして……)

 笑っている二人の姿が、湿った空気にぼやけて揺れる。
 紫陽花の群れがこんなにも鮮やかなのに、私の世界はどんどん色を失っていった。

 「……あれ? アメリ?」

 オミトがこちらに気づく。
 一瞬、胸が跳ねた。けれど────その隣にマドカの手が、まだ彼の肩に触れているのを見てしまって。

 (オミトだけだったらよかったのに……どうして……!)

 嫉妬が喉までせり上がり、私は紙袋を強く握りしめた。

「ご、ごめん。用事思い出した!」

 振り払うように声を投げ、私は逃げ出した。
 濡れた砂利がざくざくと音を立て、雫が滴る欅の枝が頭上で揺れた。
 背後に、あの二人の笑顔が残像のように焼きついて離れなくて。振り払うようにして、私は体を前に倒して走った。


 *


「遅いなぁ。オミトのやつ」

 今日は一日を通して雨の予報。
 それでも私には関係ない。こうして登校前の朝のルーティンは欠かさないのだから。
 ────オミトに靴ひもを結んでもらう。
 たとえ嫌なことがあっても、この儀式だけは欠かしたくない。
 
 昨日、お父さんと久しぶりに言い合いになった。
原因は、私だ。ここ最近ずっとイライラしていて、どうでもいいことで八つ当たりしてしまった。
「部活で疲れてるんだろうけど、言葉は選べ」って言われて。
そんなこと分かってるのに、「お母さんがいたら違ったのに」なんて……絶対言っちゃいけないことまで口にして。

 胸の奥が、まだちくちく痛む。
 ダメだ、ダメだ。
 もっとしっかりしないと。私はアメリ。元気印のアメリじゃないか。
 お母さんだって、病室で最後に私に言ったんだ。「笑顔で生きていくんだよ」って。なのに私は、笑顔がどんどん下手になってる。

……靴ひもを結べないこの足と一緒だ。
どうしても、うまくいかない。

 家の前でオミトを待ちながら、わざと靴ひもを解いておいた。
 これだけは、昔から変わらない私の甘えだから。せめて、オミトの手に触れて、いつも通りに結んでもらえば、少しは落ち着けると思った。

 玄関が開く音。オミトが出てきた。

「……おはよう」
 
 無愛想な声で、俯きがちに。今日も寝癖をつけていた。そんな彼に、私は安心する。
 そしてここぞとばかりに無理やり口角を上げて靴先を見せた。

「おはよう、オミト。はい、靴ひも。結ばせてあげるっ」
 
 オミトは小さくため息をついて、しゃがみ込む。
 いつもと同じ丁寧な蝶結び。子どもの頃から、ずっとそうやって結んでくれているはずなのに。
 今日のそれは、どこか冷たく感じてしまった。

(どうして……マドカにはあんなに笑ってたのに)

 二人で並んで歩き出す。
 曇天の空の下、通学路の紫陽花は青く膨らんで、雨を待っている。
 私は堪えきれず、口を開いた。

「昨日……神社でさ。マドカと一緒にいたでしょ」
「うん。アメリすぐ帰っちゃうからさ。マドカさん残念がってたよ」
「あぁ……でもさ、楽しそうだったじゃんね」
「んー、まあ。普通だと思うけど」
 
 曖昧にかわされて、余計にモヤモヤが膨らむ。

「ふぅん……あのさ、オミト。いっそマドカにモデルお願いしてみれば?肖像画の課題、まだ決まってないんでしょ?」
 
 わざと軽口を叩いたつもりだった。
 だけど、オミトはきょとんとした顔をして「どういう意味?」なんて返してきて。
 馬鹿みたいだ。私の棘は、彼には届かない。

 結局学校に着くまで、私はほとんど口をきけなかった。

 
 *

 
 夜。
 窓を打つ雨音は止み、街はしんと静まり返っていた。
 カーテンを少し開けると、雲に隠れた月明かりがわずかに差し込み、机の上のノートや教科書の角をぼんやり照らしている。

 部活を終え、シャワーを浴びて髪を乾かしたあと、私はベッドの上に寝転がっていた。
 ヘッドホンから流れる音楽は、気持ちを落ち着けるためのBGMのはずだったけれど、心にはなかなか届かない。それでも、こうしてただ夜に身を沈めていると、ほんの一瞬だけはすべてを忘れられるような気がした。
 (……こうしてれば、大丈夫。私だって平気)
 そう自分に言い聞かせる。
 昼間のモヤモヤも、父に八つ当たりしてしまった後悔も、オミトとマドカの姿を思い出す胸の痛みも、ぜんぶ。今だけは、雨上がりの夜みたいに静かに、何も考えずに。

 ────ブルッ
 
 スマホが震えた。
 画面には淡い通知が光っている。

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.· ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.·
【傘ゆら実行委員会】 和歌を受信しました
┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.· ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.·

 
 ────オミトの贈歌
 私は慌てて傘を手に取り、窓を開けた。
 夜気の冷たさが流れ込む中、傘地を外に差し出す。途端に、雨粒が落ちてきた。途切れていた雨が、まるでこの瞬間を待っていたかのように。
 やがて透明なビニール傘に、赤く光った文字が滲むように浮かび上がった。
 

 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
  幽けきに 夢むすばるる その姿
  絵筆に託す ときのしるしを
 
「夢みたいに淡く浮かぶあなたを、絵に描いて残しておきたい。
 その一瞬を確かな証として」
 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼

 
 歌の意味を理解した瞬間、体の奥を氷で殴られたみたいに固まった。
 (もう決まっていたんだ……肖像画を描くって……ふたりの間で……!)

 胸に、焼けるような熱い針が一斉に突き刺さる。
 (私、なにも聞いてない……オミトからも、マドカからも……どうして……!)

 頭が真っ白になる。
 冷静に考えれば、ただの課題。あくまで肖像画のためのモデル。
 でも、そんな理屈は吹き飛んだ。
 脳裏に浮かぶのは、キャンバスの前で微笑むマドカと、真剣に彼女を見つめるオミト。
 その視線の熱さが、自分には決して向けられないものに思えて────息ができない。

「……いやだ」
 唇が勝手に動いた。
「取られる……取られる……!」

 焦燥で喉が焼ける。心臓が暴れ、手が震える。
 オミトが遠くへ行ってしまう……手の届かないどこかへ……どうすれば、どうすれば止められる?
 止めなきゃ。阻止しなきゃ。方法なんて……いや、ある。
 ────あるじゃない

 気づけば、ペンを握っていた。
 ぞっとするほど冷静に、氷上を滑るようにして傘に筆を走らせた。


 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
 いやなれど 君がしつこく たのむゆゑ
 しぶしぶ受けし 容の絵を

「本当は肖像画のモデルなど嫌でした。けれど、あなたがしつこいから。
 私は不本意ながら渋々受けたのです。
 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼

 
 白く光って────歌は消えた。

「……あ……私……なに、やって……」
 
 喉からかすれた声が漏れる。
 頭が真っ白になった。
 今のは……マドカを装った?私が?オミトの憧れを邪魔するような……?

 胸の奥が冷たくなり、同時にどす黒い塊がこみあげてくる。
 
「違う……違うよ……私は……!」

 まるで数百度に熱せられた物体を触ったかのような勢いでスマホを放り出した。
 耳をふさぎたくてヘッドホンを押し当てる。タブレットでくだらない映画をひたすら垂れ流し、何も聞こえないようにする。でも震えは止まらない。涙が勝手に零れて、視界が滲む。

 ────いつのまにか眠っていた。気を失っていたというべきか。
 目を開けると、スマホの液晶が勝手に点いている。画面にはアプリのバナー通知。

 
┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.· ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.·
 【傘ゆら実行委員会】
 嘘の歌を送りましたね?
 龍神はペナルティとして、当分の間傘ゆらを停止すると言っています。
 あなたを含め全員です。
 以上。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.· ┈┈┈┈┈┈┈┈┈⿻*.·

 
「────ッ!?」

 跳ね起きた私は、脱獄するようにして窓に張り付いてた。外を見れば雨の気配は消え去り、空は不気味なほどの快晴に変わっていた。それはまるで、この世の終わりみたいに……美しく澄み渡った青だった。

 
 *
 

 守矢神社の石段を登る足取りは重かった。
 青い空の下、紫陽花はすでに色を失いかけ、雨粒を恋しげに葉を垂らしている。昨日まであれほど続いていた雨が、嘘のように止んでしまった。これこそが傘ゆらが止まった証拠なのだろう。

「……全部、私のせいだ」
 胸の奥に鉛が詰まったようで、息が苦しい。

 社務所に入ると、巫女服姿のチギリちゃんが湯呑を片手に、肘をつきながら退屈そうにしていた。白い肌に整った顔立ち。どう見ても美少女だけど、口を開けばいつもの調子だ。

「なんや、アメリちゃんやんけ。珍しいな、ひとりで来るなんて」
「……チギリちゃん、あのね」
 
 思わず膝をつき、声が震えた。
 
「嘘の返歌を……書いちゃったの。だから……ペナルティを取り消してください」

 チギリちゃんはぴくりと眉を動かし、湯呑を置いた。

「知っとるで?アホやなぁ、ほんまに」
 
 からかうように笑ってみせるけど、その目は真剣だった。
 
「いうてもルールやさかい。龍神はおもろいくらい厳しいねんで?わてでもどうにもならへん」
「……でも、でも、私────」
「アメリちゃん、そんなもんや。嘘偽りで手に入るもんなんて……痛みだけ。覚えとき」
 
 チギリちゃんの言葉は淡々としていた。そして正論だ。それ以上食い下がっても無駄だと悟り、私は立ち上がった。
 ────いつもの私なら、潔く帰ることだろう。から元気を振り撒いて。
 だが、いまは違う。

「どうして……」

 言ったところでどうにもならないと知りつつも、私はもう別人になっていた。
 いや……これが本当の私なのかもしれない。

「なんで……どうして私を選んだの……なんでオミトなの……マドカ……なの?」

 握りしめた拳に爪がめり込む。血液の感触、避けたのは肉か爪か。ドロっとした思いが具現化したのかのように手のひらに広がってゆく。

「恋とはなんぞや?そもそも恋をしとるんか?自分のもんやと思っとったオモチャが横取りされてムキになっとるだけなのか。なぁ、アメリちゃん」

 チギリちゃんが頬杖をついて言った。大きく見開かれたその目は猫科動物のよう、およそ人ならざる異形に、私の心は縛りつけられた。

「……わたし、私オミトに……恋なんて……」
「ん〜?そいやったら別にええやん。あのアホが誰と(ねんご)ろになろうと。ちゃうんか?」
「違う!オミトは……オミトは私の────」


 *


 ────気づけば走っていた。息が切れるまで。
 いまさっきまで社務所にいたはずなのに、まるで夢を見ていたかのように現実味がない。
 ここはどこだ?
 陽射しがじりじりと頬を焼いた。雨上がりのはずなのに、どこにも雫の匂いはなくて、世界が乾いているみたいだった。

 荒い呼吸で周囲を見ると、見慣れた駄菓子屋があった。
 かつてオミトと雨宿りした、あの小さな軒下。私は吸い寄せられるようにして腰を下ろした。ため息をひとつ、ふたつ。
 「……」
 壁に背を預け、俯いたまま瞼を閉じる。こみあげてくるのは咽せるような罪悪感と後悔、そしてチギリちゃんの「それは恋なのか?」という問い。

「わかんないよ……そんなのわかんないよ……!」

 そのとき、駄菓子屋の入り口から砂利を踏み締める音がした。
「……あれ、虹又さん?」

 はっとして顔を横に向ける。立っていたのはぶっきらぼうな声の主……レンジくんだった。
 シガクの夏服姿。私と同じく授業をサボってきたのだろう。
 彼は怪訝そうに私を見て、何も言わずに棒アイスを差し出してきた。一本数十円くらいの安いアイスだ。
 
「……え?」
「いつかの青汁のお返し。あれと違って美味いけどな」

 レンジくんはそう言うと、アイスを私に放り投げて視線を前に向けた。
 そのまま何事もなかったかのように立ち去ろうとした。

「待って!」
 なぜ呼び止めたのだろう。自分でもわからない……いや、わかっている“本当の私”には。
 
「……レンジくんさ、マドカの気持ちは知ってるよね?」

 背中越しに、彼の肩がぴくりと揺れる。
 しばらく間を置いてから、低く短い返事が返ってきた。

「……まぁ」

 私は身を乗り出し、畳み掛けるように続ける。
「マドカはね、レンジくんが好きってこと。ほんとにわかってる?」

 彼は振り向きもせず、苛立ちを隠さない声を吐き出した。
「しつけーな。何が言いたいんだよ」

 喉の奥が熱くなる。貼り付けた笑顔が、自分の顔じゃないみたいに引きつっていた。
 胸の奥で、何かがぐちゃぐちゃに絡まり合って、どす黒く膨れ上がっていく。

 (オミトが……取られる。マドカに。私の大切なものを奪われてしまう)
 
 ──── それなら私は

 目線の先、百日紅(さるすべり)の花が一輪、赤い滴のように舗道へ落ちた。

「……レンジくん」

 声は震えていた。
 
「私と付き合ってよ」