第一話
あー、ついてねー!
部活のない放課後、たまにはみんなでカラオケに行こうって話になってたのに、日直だからってこの大量の本をひとりで図書室に返却する羽目になるとは。沢渡先生、許すまじ。
新任の、優しそうな顔と喋り方の割に、課題と仕事の押しつけが半端ないと噂(実際そうだ)の現国教師の笑顔を思い出して、俺は大きく息を吐き出した。
両手は、積み重なった十冊の本で塞がっている。古典文学、辞典、現代文学、哲学書と、そのジャンルは様々だ。残念ながら一ミリの興味も惹かれずに、そのまま図書室に向かい、さっさと返却だけを済まそうとする。
「――開けられねえし!」
そう、何故なら、俺の両手は塞がっているからだ。
滅多に来ない図書室の扉は引き戸で、上手く行けば足で開くこともできなくはなさそうだが、失敗したときのリスクはでかい。どうしたもんかと周囲に目を遣るが、こういうときに限って、通り掛かる人もいない。こうなったら中にいる人に気付いてもらうしか――そう思った瞬間、目の前の扉がガラリと開いた。
「うお、」
「大丈夫?」
積み重なった本の向こうから、ひょい、と顔を出したのは、同じクラスの図書委員だ。教室では大人しい方で、あまり記憶にない。ごめん。
「あ、りがと」
心の中で謝りつつ、開けてもらったことに礼を言うと、図書委員は笑った。何も言わずに、俺が持つ本の半分を請け負ってくれる。
「これ、沢渡先生でしょ」
「そうそう、頼まれちゃってさ」
「先生、いつも大量に借りては、こうやって日直に返させるんだよね」
いつ読んでるんだか、と言いながら、図書委員はその本をカウンターへと持って行くから、俺もそれについていく。
放課後の図書室は、暖かかった。
すん、と、嗅ぎ慣れない匂いがして、見ると、中央には石油ストーブが炊かれている。
今はどの教室も冷暖房完備だから、逆に、真新しい。
木目調のテーブルが並んでいるが、今は、誰もそこには座っていなかった。
俺と、図書委員だけ。
窓の向こうには、冬場でも元気に部活に励むサッカー部の姿が見える。
「いつも一人なの?」
「まあね、図書室なんてみんな来ないし」
「寂しくね?」
俺が聞くと、ピッ、と、本のバーコードを読み取っていた図書委員が、驚いた顔で俺を見た。身長は俺と同じぐらいで、黒縁のメガネ越しに見える黒目がちの瞳がまあるくなっている。意外にかわいい顔をしているな、と思った。教室じゃ、目が合うこともなかったけど。
「なに?」
「あ、ごめん」
あまりに見つめられるから首を傾げると、図書委員は慌てて目を逸らした。ピッ、と、二冊目の本の返却作業に入る。
「静かなところが好きで、本も好きだから」
「そうなんだ」
俺と、真逆。
静かなところは落ち着かないし、本なんて教科書以外開かない。
黒だと地味な気がして高校に入ってから茶色く染めた髪も、手が入っていない天然の黒髪を見ると、黒も悪くないかなと思ってくる。
「卒業までに、全部読んでやろうと思って」
「ここの本?」
「そう」
図書室には、数えきれないぐらいの本が並んでいる。
大きな書架と、その中にびっしり詰まった、分類ごとに分けられた様々な本。
なるほど、ここは、本好きには堪らない場所なんだろうな。
「読み終わったら教えて」
「え?」
「このすげー数の本の中でさ、一番面白いやつ」
俺が言うと、図書委員はゆっくりと瞬きをした。
その後、「ふっ」と噴き出して笑う。
「教えてもいいけど、読むの?」
「それはわからんけど」
「まあ、いいよ」
正直に言ったのに、彼は気にした風もない。最後の本のバーコードを読み取って、本を重ねた。
「宣言しちゃったし、浅木くんには見届けてもらおうかな」
あ、名前、知ってたんだ。
俺を見て言う図書委員に内心驚いていると、「南波」と、名字を告げられた。あ、顔に出てましたか。
「俺のことは覚えてなくてもいいけど、本のことは覚えてて」
「なんだそりゃ」
どこかのアイドルみたいな言い分に思わず笑って、地味で大人しい図書委員の南波くんが、意外にノリが良い面白いヤツだということを知った。
「飲食厳禁なんですけど」
「まあまあ、固いこと言うなって」
あの日直の日をきっかけに、俺は、図書室に通うことが多くなった。
それは部活の前だったり、部活のない日だったり、昼休みだったりとバラバラだが、いつ来ても、南波がいるのが面白い。南波は本当に本の虫で、どんなジャンルのものでも、本といえば読みたいらしい。
今日も、自販機で買った紙パックのジュースを飲みながら、南波がお勧めだという本を読んでいる。普段あまり本を読まない俺には、「まずこれ」と言って、子ども向けのミステリー小説を勧めてきた。子ども向けだからか、飽きさせない展開と、謎解き要素があり、悔しいけれどハマってしまった。南波ほど早くは読み進められないし、感想をそのまま口に出すことも多いが、南波は笑って付き合ってくれている。
「浅木くんがこんなに常連になるなんてね」
「俺、ストーブ好きなんだよ」
「そんな理由」
ぶは、と南波が噴き出す。
最近わかったことだが、大人しくて地味な図書委員は、実は結構笑い上戸だ。
「南波ひとりのために石油使うのももったいねーだろ? だから来てやってんのー」
我ながらよくわからない理屈を堂々と言って、本のページを捲る。
「浅木くん、」
南波が何か言いかけたときに、ガラリ、と図書室の扉が開いた。
俺と南波以外の来訪者は珍しい。ふたり同時に扉に目を向けると、沢渡先生の姿があった。
「あれ、浅木くんもいるんですか。珍しいですね、……カツアゲ?」
「いやどんなイメージっすか!」
俺と南波を交互に見て、真面目に首を傾げる沢渡先生に思わず勢いよく突っ込む。
「ああ、すみません。浅木くんと図書室が結びつかなくて」
「最近、通ってくれてるんですよ」
「南波くん目当て? それも不純な動機ですね」
「本の楽しさに目覚めただけですー」
沢渡先生、俺に当たり強くないすか。確かに、体育に比べたら国語の成績はよくないどころか悪い方だけれども。俺が顔を逸らすと、ふたりは楽しそうな笑い声を上げた。
「冗談は置いておいて、冬休みに借りる本を見繕いに来ました」
「あ、そろそろですね」
「もう明後日には終業式ですから」
あ、そうなのか。
ふたりの会話を聞いて、カウンターの傍にある、カレンダーに目を向けた。
先生の言う通り、あと二日で終業式が来て、冬休みになる。
教室ではやれクリスマスだ、やれ冬休みには合コンだと大騒ぎしていたはずなのに、ここに来ると一気にそうした日常が吹き飛んでしまう気がする。
そうか、冬休みか。
席を立ち、沢渡先生と書架の前で話し込んでいる南波をちらりと見る。
沢渡先生は平均的な身長だからか、先生を見下ろす仕草に、意外に南波の背が高いことを知る。
俺と南波は、図書室だけの関係だ。教室では、以前と同じように、関わることもない。
気まぐれに図書室に寄ったときだけ、同じ時間を過ごす仲。
改めて連絡先を聞くこともない。
冬休みは、二週間だ。
たった二週間。
別に、今までと同じように過ごすだけだ。
「浅木くん?」
沢渡先生が奥の書架に行くのを見送った南波が、俺の顔を覗き込んできた。
どうやら、ぼーっとしていたらしい。
その声にはっと我を戻す。
「どうしたの?」
「いや、べつに」
「浅木くんが来るようになってから賑やかで、冬休みのこと忘れてた」
顔を逸らす俺を追求しない南波が、ぽつりと呟いた。
その声が優しくて、南波を見る。
「浅木くんは、冬休みどうするの?」
「どうするって」
「図書館とか、行く?」
「は? 行くわけ――」
ねえだろ、と言い掛けて、そう尋ねてきた南波の顔が、少しだけ赤いことに気付く。
どきり、心臓が小さく音を立てた。
「と、図書館って、図書室と違うのかよ」
あ、少し上擦ったかっこわる。
俺が問いかけると、南波の顔がぱっと輝いた。
「全然違うよ! 今の図書館は昔と違ってオシャレだし、カフェとかもあるし。蔵書数だって図書室とは比べ物にならないぐらい多くて、いろんなコーナーも充実してるし、」
一気に早口に捲し立てるのに、思わず笑ってしまう。
それをきっかけに言葉を止めた南波と、目が合った。
「あ、浅木くん、」
――一緒に、行ってみる?
かくして俺は、生涯縁がないと思っていた図書館に、喋ることもないと思っていたクラスメイトと、冬休みに行く約束をしたのであった。
……もちろん、連絡先も交換した。
あー、ついてねー!
部活のない放課後、たまにはみんなでカラオケに行こうって話になってたのに、日直だからってこの大量の本をひとりで図書室に返却する羽目になるとは。沢渡先生、許すまじ。
新任の、優しそうな顔と喋り方の割に、課題と仕事の押しつけが半端ないと噂(実際そうだ)の現国教師の笑顔を思い出して、俺は大きく息を吐き出した。
両手は、積み重なった十冊の本で塞がっている。古典文学、辞典、現代文学、哲学書と、そのジャンルは様々だ。残念ながら一ミリの興味も惹かれずに、そのまま図書室に向かい、さっさと返却だけを済まそうとする。
「――開けられねえし!」
そう、何故なら、俺の両手は塞がっているからだ。
滅多に来ない図書室の扉は引き戸で、上手く行けば足で開くこともできなくはなさそうだが、失敗したときのリスクはでかい。どうしたもんかと周囲に目を遣るが、こういうときに限って、通り掛かる人もいない。こうなったら中にいる人に気付いてもらうしか――そう思った瞬間、目の前の扉がガラリと開いた。
「うお、」
「大丈夫?」
積み重なった本の向こうから、ひょい、と顔を出したのは、同じクラスの図書委員だ。教室では大人しい方で、あまり記憶にない。ごめん。
「あ、りがと」
心の中で謝りつつ、開けてもらったことに礼を言うと、図書委員は笑った。何も言わずに、俺が持つ本の半分を請け負ってくれる。
「これ、沢渡先生でしょ」
「そうそう、頼まれちゃってさ」
「先生、いつも大量に借りては、こうやって日直に返させるんだよね」
いつ読んでるんだか、と言いながら、図書委員はその本をカウンターへと持って行くから、俺もそれについていく。
放課後の図書室は、暖かかった。
すん、と、嗅ぎ慣れない匂いがして、見ると、中央には石油ストーブが炊かれている。
今はどの教室も冷暖房完備だから、逆に、真新しい。
木目調のテーブルが並んでいるが、今は、誰もそこには座っていなかった。
俺と、図書委員だけ。
窓の向こうには、冬場でも元気に部活に励むサッカー部の姿が見える。
「いつも一人なの?」
「まあね、図書室なんてみんな来ないし」
「寂しくね?」
俺が聞くと、ピッ、と、本のバーコードを読み取っていた図書委員が、驚いた顔で俺を見た。身長は俺と同じぐらいで、黒縁のメガネ越しに見える黒目がちの瞳がまあるくなっている。意外にかわいい顔をしているな、と思った。教室じゃ、目が合うこともなかったけど。
「なに?」
「あ、ごめん」
あまりに見つめられるから首を傾げると、図書委員は慌てて目を逸らした。ピッ、と、二冊目の本の返却作業に入る。
「静かなところが好きで、本も好きだから」
「そうなんだ」
俺と、真逆。
静かなところは落ち着かないし、本なんて教科書以外開かない。
黒だと地味な気がして高校に入ってから茶色く染めた髪も、手が入っていない天然の黒髪を見ると、黒も悪くないかなと思ってくる。
「卒業までに、全部読んでやろうと思って」
「ここの本?」
「そう」
図書室には、数えきれないぐらいの本が並んでいる。
大きな書架と、その中にびっしり詰まった、分類ごとに分けられた様々な本。
なるほど、ここは、本好きには堪らない場所なんだろうな。
「読み終わったら教えて」
「え?」
「このすげー数の本の中でさ、一番面白いやつ」
俺が言うと、図書委員はゆっくりと瞬きをした。
その後、「ふっ」と噴き出して笑う。
「教えてもいいけど、読むの?」
「それはわからんけど」
「まあ、いいよ」
正直に言ったのに、彼は気にした風もない。最後の本のバーコードを読み取って、本を重ねた。
「宣言しちゃったし、浅木くんには見届けてもらおうかな」
あ、名前、知ってたんだ。
俺を見て言う図書委員に内心驚いていると、「南波」と、名字を告げられた。あ、顔に出てましたか。
「俺のことは覚えてなくてもいいけど、本のことは覚えてて」
「なんだそりゃ」
どこかのアイドルみたいな言い分に思わず笑って、地味で大人しい図書委員の南波くんが、意外にノリが良い面白いヤツだということを知った。
「飲食厳禁なんですけど」
「まあまあ、固いこと言うなって」
あの日直の日をきっかけに、俺は、図書室に通うことが多くなった。
それは部活の前だったり、部活のない日だったり、昼休みだったりとバラバラだが、いつ来ても、南波がいるのが面白い。南波は本当に本の虫で、どんなジャンルのものでも、本といえば読みたいらしい。
今日も、自販機で買った紙パックのジュースを飲みながら、南波がお勧めだという本を読んでいる。普段あまり本を読まない俺には、「まずこれ」と言って、子ども向けのミステリー小説を勧めてきた。子ども向けだからか、飽きさせない展開と、謎解き要素があり、悔しいけれどハマってしまった。南波ほど早くは読み進められないし、感想をそのまま口に出すことも多いが、南波は笑って付き合ってくれている。
「浅木くんがこんなに常連になるなんてね」
「俺、ストーブ好きなんだよ」
「そんな理由」
ぶは、と南波が噴き出す。
最近わかったことだが、大人しくて地味な図書委員は、実は結構笑い上戸だ。
「南波ひとりのために石油使うのももったいねーだろ? だから来てやってんのー」
我ながらよくわからない理屈を堂々と言って、本のページを捲る。
「浅木くん、」
南波が何か言いかけたときに、ガラリ、と図書室の扉が開いた。
俺と南波以外の来訪者は珍しい。ふたり同時に扉に目を向けると、沢渡先生の姿があった。
「あれ、浅木くんもいるんですか。珍しいですね、……カツアゲ?」
「いやどんなイメージっすか!」
俺と南波を交互に見て、真面目に首を傾げる沢渡先生に思わず勢いよく突っ込む。
「ああ、すみません。浅木くんと図書室が結びつかなくて」
「最近、通ってくれてるんですよ」
「南波くん目当て? それも不純な動機ですね」
「本の楽しさに目覚めただけですー」
沢渡先生、俺に当たり強くないすか。確かに、体育に比べたら国語の成績はよくないどころか悪い方だけれども。俺が顔を逸らすと、ふたりは楽しそうな笑い声を上げた。
「冗談は置いておいて、冬休みに借りる本を見繕いに来ました」
「あ、そろそろですね」
「もう明後日には終業式ですから」
あ、そうなのか。
ふたりの会話を聞いて、カウンターの傍にある、カレンダーに目を向けた。
先生の言う通り、あと二日で終業式が来て、冬休みになる。
教室ではやれクリスマスだ、やれ冬休みには合コンだと大騒ぎしていたはずなのに、ここに来ると一気にそうした日常が吹き飛んでしまう気がする。
そうか、冬休みか。
席を立ち、沢渡先生と書架の前で話し込んでいる南波をちらりと見る。
沢渡先生は平均的な身長だからか、先生を見下ろす仕草に、意外に南波の背が高いことを知る。
俺と南波は、図書室だけの関係だ。教室では、以前と同じように、関わることもない。
気まぐれに図書室に寄ったときだけ、同じ時間を過ごす仲。
改めて連絡先を聞くこともない。
冬休みは、二週間だ。
たった二週間。
別に、今までと同じように過ごすだけだ。
「浅木くん?」
沢渡先生が奥の書架に行くのを見送った南波が、俺の顔を覗き込んできた。
どうやら、ぼーっとしていたらしい。
その声にはっと我を戻す。
「どうしたの?」
「いや、べつに」
「浅木くんが来るようになってから賑やかで、冬休みのこと忘れてた」
顔を逸らす俺を追求しない南波が、ぽつりと呟いた。
その声が優しくて、南波を見る。
「浅木くんは、冬休みどうするの?」
「どうするって」
「図書館とか、行く?」
「は? 行くわけ――」
ねえだろ、と言い掛けて、そう尋ねてきた南波の顔が、少しだけ赤いことに気付く。
どきり、心臓が小さく音を立てた。
「と、図書館って、図書室と違うのかよ」
あ、少し上擦ったかっこわる。
俺が問いかけると、南波の顔がぱっと輝いた。
「全然違うよ! 今の図書館は昔と違ってオシャレだし、カフェとかもあるし。蔵書数だって図書室とは比べ物にならないぐらい多くて、いろんなコーナーも充実してるし、」
一気に早口に捲し立てるのに、思わず笑ってしまう。
それをきっかけに言葉を止めた南波と、目が合った。
「あ、浅木くん、」
――一緒に、行ってみる?
かくして俺は、生涯縁がないと思っていた図書館に、喋ることもないと思っていたクラスメイトと、冬休みに行く約束をしたのであった。
……もちろん、連絡先も交換した。
