「鏡よ鏡、この世で最も裕福な人を教えておくれ」
鏡は答えた。
「玉留様、この世で最も裕福な人は、あなた様です」
当然よね、
世界一の大富豪、是仁久留玉留がフロリダの広大な別荘でいつものように頷いた。
しかし、退屈だわ~、
毎日同じ答えを聞くことに飽きてもいた。それにちょっと体が重い気がした。
運動しなくっちゃ、
立ち上がって、背伸びをして、つま先立ちをし、垂直に飛び上がるような動作を何度も繰り返した。飛び上がった瞬間の姿勢は手の先から足の先まで一直線になっていた。
完璧だわ!
玉留は独り言ちた。
さあ、今日も最高のジャンプをするわよ、
また独り言ちたあと、レオタードに着替えて、庭に出た。
初夏の爽やかな風が頬を撫でると、開放感に包まれた。しかしそれは長くは続かなかった。トランポリンの上にペルシャ絨毯が乗り、その上に小さな犬が座っていたからだ。
「あなたは誰? ここで何をしているの?」
するとキョトンとして座っていた犬が徐に口を開いた。
「僕は偏西風に乗って日本からやってまいりました。名犬フランソワと申します」
犬語が……、
驚きの余り左手で口を押えると、グ~っという音が聞こえた。しかしそれは自分のお腹からではなかった。
「何か食べ物を……」
言い終わらないうちに犬が白目を剥いた。そして崩れるように絨毯の上に落ちた。
「どうしたの!」
慌てて体を揺さぶったが、反応はなかった。低血糖に違いないと思った玉留は、すぐに抱きかかえて家の中に運び込んだ。
*
「ここはどこだ?」
意識を取り戻したフランソワは思わず身構えた。まったく見覚えのない部屋だった。しかもベッドの上にいるのだ。慌てて起き上がると、まるでそれを待っていたかのようにノックする音が聞こえた。
「お待たせ」
声と共にスーツ姿の若い女を連れた美しい女がこちらに向かってきた。気を失う前に出会った女に違いなかった。
若い女が持つ黄金のトレイには肉が乗っていた。それも生肉だった。極上シャトーブリアンだという。「ゆっくり食べてね」と言われたが、それは無理だった。一気にがっついて、味わう間もなく胃袋に入れてしまった。
「誰も取らないんだからもっとゆっくり食べたらいいのに」
女に笑われたが、大きなゲップが返事になった。それに対しても笑われたが、今度は質問で返した。女の正体を知るためだ。
「玉留様です。是仁久留玉留様。世界一の大富豪でいらっしゃいます」
答えたのは、秘書と名乗った若い女だった。横で玉留は〈知らないなんてもぐり犬ね〉というようなシラ~っとした顔をしていた。
「失礼いたしました。浅学な自分を恥じております」
へりくだったが、そんなことには興味がないようで、なんで偏西風なのか、なんで絨毯なのか、なんでトランポリンの上にいたのか、ということを立て続けに質問された。
それで詳しく説明しようとしたが、「ちょっと待って」と玉留は手で制し、秘書に何やら耳打ちをした。すると、すぐにモニターらしきものが運ばれてきてテーブルに置かれた。
「再生して頂戴」
秘書が再生ボタンを押した。監視カメラの映像だった。絨毯に乗った犬が空から落ちてきたところが映っていた。
「そうなんです。僕は空から落ちてきたのです」
「それがおかしいでしょ。あり得ないわよね、そんなこと。でも、」
秘書に再度そのシーンを再生させた玉留は信じられないと首を振ったが、それでも「どういうこと?」と怪訝そうな声を出した。
「長い話になります」
フランソワは最初から話そうとしたが、口を開きかけたところで秘書に遮られた。「出発のお時間です」と。
「そうだったわね。そうだ、ボルドーへ行くけど、一緒にどう?」
「どう、って……」
フロリダとボルドーが結びつかないので一瞬ポカンとしてしまったが、断る理由もなく、誘われるまま玉留の自家用機に同乗した。



