「1億枚? 予約だけで?」

 発売元からの連絡に、流石の呂嗚流も驚きを隠せないようだった。『美ロックス』のミュージックビデオ付きデビューCDが驚異の受注を続けていたのだ。椙子作詞、呂嗚流作曲の『愛・平和・未来』という楽曲の素晴らしさに加えて、世界一の美女と世界一のロックスターという組み合わせを全世界のメディアが一斉に報じたところ、音楽に興味のない人まで予約に走るという社会現象になっていた。もちろん、ゲルニカのタペストリーの前で撮影されたジャケット写真も大きな話題になっていた。そのすべてが2人の想像を超える予約枚数に繋がっていたのだ。

「わたしたちに入ってくる印税は全額寄付しない?」

 モルディブのプライベートビーチで心地良い潮風に髪をなびかせていた椙子が呂嗚流に持ちかけた。しかし、彼は思案気な表情を浮かべたあと、「寄付もいいけど、自分たちで慈善財団を作らないか?」と新たな案を提示した。

「自分たちで?」

「そうだ。誰かに委託するのではなくて、自分たちでマネジメントする組織の方がいいと思う。どういう慈善事業をどういう規模でどういう方法でやるのか、それを全部自分たちで決められる組織にするんだ。そして、君が理事長になればいい」

「えっ、わたし? わたしが?」

「そうだ、君だ。〈愛・平和・未来〉というコンセプトを考えた君自身がリードすべきだと思う。俺は副理事長として君を全力で支える」

「まあ~」

 胸がいっぱいになった椙子は呂嗚流の首に抱きつき、思い切り彼を抱きしめた。すると呂嗚流が奇妙な声を出した。

「グゥ~、死ぬ」

 それは1回では終わらなかった。

「死ぬぅ~~!」

 それを喜びの声と勘違いした椙子はなおも強く抱きしめた。すると声が止まった。その瞬間、嫌な予感がした。見ると、呂嗚流は口から泡を吹いて白目を剥いていた。

「えっ、どうしたの?」

 驚いて体を揺すったが、正気に戻る様子はみじんも感じられなかった。

「誰か助けて!」

 絶叫する椙子の腕の中で呂嗚流は口から泡を吹き白目を剝き続けた。
 ハッとした椙子はすぐに病院へ連れて行ったが、ここでは治療は無理だと医師は首を振った。こんな患者は見たことがなく、対処のしようがないと言うのだ。

 椙子は困り果てた。しかしこのままここに居ても埒が明かないので、日本に連れて帰ることを決断し、急いでHONDAジェット・エリートに乗り込んだ。そして、フルフラットにしたシートに呂嗚流を寝かせた。

 飛び立つと、モルディブの海が見えた。しかしそれは来た時の幸せな色ではなかった。どす黒くしか見えなかった。

 呂嗚流様……、

 心が折れそうになって目から涙が落ちた。それが呂嗚流の白目に届いたが、なんの変化も起らなかった。

 誰か助けて……、

 椙子は祈り続けた。しかし、機内でも、日本に着いてからも、呂嗚流の容態に変化はなかった。口に泡を貯め白目を剥いた状態が続いているのだ。それは1分1秒を争う危険な状態を示しているように思えた。だから一刻も早く日本の最新治療を受けさせたかった。椙子は空港に待たせていたプライベート救急車に飛び乗って実家へと急がせた。

 1分が1時間にも感じられるほどの時を経て、プライベート救急車が美家に到着した。椙子は車から飛び降りて、鬼気迫る表情でインターフォンの前に立った。

「お嬢様!」

 モニター画面に映った椙子の顔を見て驚いたのか、軽子が大きな声を出した。

「呂嗚流様!!」

 変わり果てた呂嗚流の姿を見て、軽子は腰を抜かしそうになった。

「どうしちゃったのですか?」

 自分が首を締めすぎてこうなったとは話せない椙子は何も答えず、「日本中の名医を集めなさい。呂嗚流様を復活させることができる名医を!」と命じた。

 命じただけでなく、椙子自身もあらゆる手を尽くして治療を試みた。しかし、呂嗚流の状態に変化はみられなかった。日本中の名医をもってしても呂嗚流は復活しなかった。最新治療を施してもまったく反応しないのだ。相変わらず口に泡を貯めて白目を剥いた状態が続いているのだ。椙子ができることは、プールサイドで彼を日光浴させることだけだった。

 こんな姿になって……、

 何本もの点滴に繋がれた両腕が痛ましかった。

 わたしのせいで……、

 涙の枯れた両目から悔恨がしたたり落ちた。

「神様、もしいらっしゃるなら、わたしを身代わりにしてください。呂嗚流様が助かるのならわたしの命はどうなっても……」

 しかし、椙子がどんなに祈っても、どんなにすがっても、呂嗚流の体に変化は起こらなかった。